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父の森㉔

姉からのメール⑤

『夢の森に雨は降りません。お姉ちゃんは一カ月と少しばかりその場所を毎日訪問しましたけど、森の上空にはいつも青空がひろがっていて、辺りには柔らかい日差しが射し込んで、頭上にはたまに孤島を思わせる小さな雲が一つ、プカプカと気持ちよさそうに浮いているだけでした。

夢の森の朗読会がはじまって二日目の出来事です。どここらともなく私のために紅茶を運んできてくれた森の給仕である茶髪さんにお姉ちゃんは言いました。

「一つ困ったことが起こりました」

「なんでしょう。なんなりと、ゲストさん」

茶髪さんは私がいる横の芝生に座り、丈の長い黒エプロンの片膝を立てて優しく尋ねます。サラサラした彼の髪からは女の子みたいなとてもいい香りがしてきます。

「私、まったく恋の予感がしないんです。茶髪さんはご存知ないかもしれないけど、大きな変化があるとき、私はよく予知能力めいた夢をみます。正夢というやつです。子供のころからずっとそうでした。でも今回に限っては、いまのところ、これまでなんの夢もみないんです」

「なるほど、そうですか。でもゲストさん、それのどこがいけないのですか?」


夢の森の芝生で、私は茶髪さんと二人だけで自分の正夢の話しのつづきをします。

「正直にお話しすると、私にしてみたら、恋をするという体験はきっと大きな出来事に違いないと思うんです。でも私の正夢は作動しません。する気配さえありません。これはどういうことなんでしょう。これもテストなんでしょうか。私は思うんです。私の未来には、きっと恋の二文字は存在しないんじゃないかしらって」

「なるほど」

「でもそうなったら困った事態になります。茶髪さんは、父が木になるためには、私が恋をしなければならないと言ったはずです。父もかつて同じ要件を話していました。娘の恋は父の精神的、肉体的、発火点になるはずなんです」

「たしかに。僕こそ、お父さんを木に変身させる名人です。その言葉に二言はありません。朗読会はまだはじまったばかりです。すべて順調にいっています」

「茶髪さんは、私を茶化してらっしゃるの?」

「いい欲望があり悪い欲望があります。いい欲望とはいい夢であり、別名希望とも呼ばれます。希望に正夢は存在しません。希望こそが形を持った正夢なのですから。ですのでゲストさんが正夢をみなくなったのは、いたってあの場所では、あの街では、正常な傾向なんです」

「なんだか禅問答みたい」

「僕を信じてください」

そうして朗読会の二日目がはじまりました。夢の森の朗読会は残すところあと三十三日間です。


読み終わったテキストを茶髪さんの手にもどし、「それではまた明日」という彼の声とともに、その鳴らした指パッチンと一緒に夢の森の朗読会の一日は終了します。そうすると、それまで目の前にひろがっていた夢の森の一切合切が一瞬で消えてなくなります。

初日に目が覚めたとき、私は普通に考えたなら銀座のホテルの一室にもどるはずでした。そこには美しいモデルみたいな里中さんと広瀬さんがいて、応接室タイプのソファに座って、私と向かい合っているはずでした。

でも目が覚めるとそこに二人の姿はなく、応接室タイプのソファもありません。そこで私が枕から見上げたのは、見慣れた昭和風の木造天井であり、明かりの消えたショボい二本の蛍光灯であり、使い込まれた窓カーテンの隙間から射し込でいる朝日でした。


最初に銀座のホテルに着いたときから一日が経っていました。いつの間にか夢の森の朗読会に参加している間に夜が明けて、目が覚めたら杉並にある実家の自分の部屋にいました。おまけに布団の中にいて、会社の制服もまだ身につけたままでした。

私はすぐに時子の部屋をノックしてみましたけど、そこにあなたの姿はありませんでした。下の両親の部屋にも、お父さんとお母さんはいませんでした。朝日の射し込んだ、雨戸の戸締りがされてないままの明るい居間の卓に、里中さんの名前でレポート用紙一枚分の書き置きがありました。

「これは栄子さんへの一つのテストになります。期間は三十五日間です。どうか上手く対処してください。

栄子さんがいるのは欲望の街です。そこでは上手くすれば大抵の夢が叶えられます。お金の心配はいりません。

そこでどんなふうに過ごしても自由ですが、夜の九時前には必ず自分のベッドにもどってください。それが約束です。それではいい夢を。里中より」

夜九時までには必ずベッドにもどるように......なんだか時計の針が三時間ぐらい狂ったシンデレラみたいなお話しです。それもこれも、全部お父さんのわがままのおかげです。レポート用紙の文面を読みながら、お姉ちゃんは思いました。』


つづく

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