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父の森㉒

話しを聞いてるうち、私はだんだんお父さんが不憫に思えてきました。悲しいほど滑稽に思えてきました。娘のために、自らすすんで一本のトチノキになろうとしている男なんて、ナンセンスそのものです。故郷を捨てた男が、故郷の木になろうとしているんです。まるで郷土の名士たちのバチが当たったみたいです。きっと田舎者たちのしっぺ返しをくらったんです。

それで娘として考え直すように説得しようと思ったのですけど、咄嗟の私に、父の考えをあらためさせるような画期的な理由など見つけられそうにありませんでした。お父さんが、お姉ちゃんのために何一つできなかったと懺悔しているのと同じです。なんと無力な父と娘でしょう。

やるせなく夜空を仰ぐと、丸いお月様が目に入って、私はお父さんが甘党だったのを思いだして言いました。

「お父さん、あんまん食べない?冷蔵庫にあんまんが二つあるの」

「いいね。最後の晩餐みたいだね。貰おうかな」

私はキッチンに立って、急いでレンジであんまんをチンしました。自分で自分のしている行動の意味が上手く飲み込めませんでした。全部が全部、一切合切、すべてお姉ちゃん一人が悪いんだと、もう少しで呪いそうな気持ちになりました。彼女の幼かった正夢が、時を経て実現したのだと、これこそ悪夢に違いないと、よりによって最後の最後に一番大きな悪夢を残していたなんて、と。

そして悶々とした気持ちのまま熱々のあんまんを抱えつつ、健気な娘の顔だけをとりもどし、縁側へともどっていったのです。


月明かりの下で、お父さんが一人、庭の真ん中で優雅にワルツを踊っていました。架空の踊り手を両手に抱いて、ゆっくりと庭の土に円を描くようにしながら。

あれはたしかにワルツだったと思うのです。父の踊るそれは、父が口にした「スカウト」の言葉と同じぐらいに意外でした。まるで故郷を捨てた彼が、街頭を埋めた郷土の人たちに向かって両手を大きく振りながら、故郷の街に錦を飾って帰るかのような意外さでした。それで、芽生えかけた私の姉への呪いの言葉も、すっかりどこかに飛んでいってしまったのです。

「こっちにおいで」

父は縁側に突っ立っている私に声をかけました。あくまで自分はさも気持ちよさそうに踊りつづけながら。「どうか私のご機嫌な気持ちを台無しにしないでおくれ」とでも言いたげに。

私は抱えたあんまんを縁側の床板に置いて、踏み石のサンダルを引っかけて庭におりていきました。


「お父さんのラストワルツだ。踊ってくれるかい?今夜のために日比谷公園でちょっと練習してきたんだよ」

「いいけど、音楽はなし?」

「そうだな。なにか音楽があった方がいいな」

「ちょっと待って」

私はそう言って、とっておきの魔法を披露しました。具体的には、ズボンのポケットからアイフォンをとりだして、スピーカーから音楽を流したのです。

「この曲はムーンリバーだね?」

「そうよ」

私たちはお互いの腕をとりあって、アパートの窓辺でギターを奏でるヘップバーンの歌声にあわせ、月の庭で親子のワルツを踊りました。踊りながらも、二人の会話をつづけました。

「お父さん、タクシーに乗って、里中さんと広瀬さんと一緒に三鷹にある父の森植物園という施設にいったんだ。父の森植物園は知ってるかい?」

「さっきインターネットで見た」

「いい場所だよ。森っていうくらいだから、お父さんの仲間も大勢いるしね。お父さんはなにも一人で木になろうとしてるわけじゃないんだ。きっと時子とお母さんも気に入ってくれると思うな」

「その話しだけど、どうしてもそうしなきゃならないの?」

「驚いたことにね、お父さんもいくらか未来が読めるんだよ。それによると、このままだとお姉ちゃんはずっと一人で生きるはめになりそうなんだ」

「一人で生きていく自由だってあると思うんだけど」

「それはそうさ。ただお父さん、お姉ちゃんには本当に自由な、子供のような心をとりもどしてほしいんだ。『ティファニーで朝食を』のホリーみたいにね。誰もあなたからあなた自身を奪ったり、損なったりできはしないとね。でもそれを言葉だけで伝えるのはとても難しいんだ。とくに心のまわりに万里の長城めいた高い城壁が築かれてしまっている場合にはね」

「それで魂の光合成のお出ましというわけね」

「そうなんだ」


音楽がやんで魔法が消えても、私たちは無伴奏でゆっくりと踊りつづけました。家の庭先は私たち親子だけの土のダンスフロアのようでした。夜もふけて、住宅街からは時折車の走る音だけが遠くに聞こえていました。寝付かれないのか、近所のノラ猫がニャーニャーと父のハミングに合わせて加勢してくれました。

「もう一つだけ、お父さんの願い事を聞いてくれるかい?」

私が頷くと、父は言いました。

「時子とお姉ちゃんは物語が好きだろ?」

「遺伝だからね」

「ついにお父さんの英才教育が日の目を見るときがきたみたいだね。時子には長年培った私の英才教育の、あるいは単純に推しの、成果を、お父さんとお姉ちゃんに見せてほしいところだよ」

「それはどういう意味?」

「つまり物語を書いてほしいんだよ。お姉ちゃんとお父さんの、二人の物語をね」

近所のノラ猫がふたたびニャーと鳴いたようでした。さては人のような木のような、おかしな生きものの気配に勘づいたのでしょうか。


父と姉の話しから、話題はトンだ文学論へとズレていくようでした。私たちの親子会議はワルツを踊りながらつづけられました。

「私、べつに小説家になるために文学部に入ったわけじゃないよ」

「大切なのは文学部云々ではなくて、時子が持ってる妄想癖の方かな。お姉ちゃんに正夢を見る才能があるように、時子には妄想癖の才能があると思うんだ」

「それって才能なの?とてつもなく怪しいんだけど」

「必ず読むよ、時子が書いた物語をね。読む行為によって、お姉ちゃんとお父さんは解放されるんだから」

「なんだか責任重大。二人はなにから解放されるの?なにから解放されたいの?」

「それはね、お姉ちゃんとお父さんの物語それ自身からだよ」

私は父のハミングにあわせ、ムーンリバーの歌詞を真似してつぶやきます。

「虹のたもとを探して世界中を旅する二人の根無し草」

「その意気だ。物語の内容は自由、長さも自由、締め切りもない。ただし物語のタイトルはすでに決まっているんだ。それは......」

「あっ......」

悲鳴に近い言葉をあげて、私はワルツを踊るのをやめました。白い月光によって一瞬石になって固まってしまったかのように。それというのも目の前の私の踊り相手が突然フッと消えてしまったからです。トチノキの影も見当たりません。

タイムアップがきたようでした。たぶん父の体は、本人が言っていたように、日比谷公園に飛ばされてしまったのでしょう。行き当たりばったりに時空を飛び越えるビリー・ピルグリムのごとく。それでもその気になればタクシーで追いかけて、公園で会話のつづきもできたかもしれません。でも私はなんだか力が抜けてしまって、なにもする気にはなれないのでした。

縁側にフラフラと座り込んでは、丸いお月様をぼんやりと見上げ、すっかり冷めてしまったあんまんをぱくつくのが精一杯でした。もぐもぐもぐもぐと。

父の口から物語のタイトルは聞き逃してしまいましたけど、いまとなっては、それははっきりと分かります。そのタイトルは、『父の森』というんです。

ああ、お父さん。あなたはついに私にその物語を書かせたんです。


つづく

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