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父の森㉑

子供だったころの倉持さんは、田舎の山に登るたびに、お父さんへの存在的な不信感を募らせていたようですけど、大人になった私たち東京女子コインランドリークラブの会員たちが、夏目家の金之助氏よろしく、家族の中で一番不思議に思っていた存在は、おおむね母親の方と決まっていました。なぜなら私たちの母は、一人の例外もなく、木になった男と恋に落ちた女たちであったからです。そんな女性はめったにいるものではありません。

もちろんそれは結果論ではあります。現実的には順番は逆に起きているのですから。ただそのエクスキューズを差し引いたとしても、全宇宙的な美女を我が子に産み、やがて木になろうとする男と結ばれるというのは、ありていな人生ではありません。


あるいはこういうふうにも言えるかもしれません。私たちの母はトラルファマドール星人も羨むような美女を産み、果ては結ばれた男どもを木に変えてしまう、東の都に棲む魔女的な存在だったと。そうすると、私の母はちょうど四十人目の東の魔女めいた存在になります。

さながら私の父は、美しい娘の恋の代償として、嫉妬深い魔女の呪文によって森の木に変えられてしまう花嫁の父のようです。恋に落ちた若い男性と娘が口づけをかわすたびに、少しずつ一本の木と化していくのです。一つの口づけが父の手を葉々に変え、もう一つの口づけが腕を枝に変え、さらにもう一つの口づけが足を根に変えていくのです。そうして魔女が暮らしている森の奥には、私の父のごとく、呪いの呪文の餌食にかかってしまった父親たちの木が、1ダースほど植えらています。


かつて若き父親であった父の方も、やがて訪れる自らの運命を予期していたかのようです。一際美しい娘として成長していく我が子の顔を見るたびに、彼の心模様の鏡に、予感が確信へと変化していく様を読みとるのは難しくはありません。彼は哀しくて仕方ありません。木漏れ日射す日曜日の、東の都で手に入れた庭先で、抱き上げたひどく整った幼子の目鼻に視線をおとすたびに。

いまになって思えば、父がせっせと娘たちに本や映画の物語を贈りつづけたのも納得がいきます。それは来たるべきXデーに向けての予行練習だったのです。私はついに発見します。父の好きな小説の主人公であるビリー・ピルグリムの名前の中に、ドイツ各地に散らばった童話を収集した世界的に有名な兄弟の名前が隠されているのを。あれは来たるべきXデーの到来を娘に知らせるサインでした。

私の着た作家Tシャツを、植物園のカフェではじめて目の当たりにしたとき、会員の中でもとくに読書好きな倉持さんは、それをどんな心持ちで見ていたでしょう。


一時期の東京女子コインランドリークラブが、〈魔法〉や〈呪い〉という二つのキーワードを遠ざけようとした理由があらためてよく分かったような気がします。私たちのまわりには、魔法もどきの、あるいは呪いに近い現象が、多すぎるのです。私たちは常に洗濯して身を清め、あらぬ禍いを遠ざけなければなりません。

東京女子コインランドリークラブの四人のリーダーたちが、彼女たち自身では物語を書かないのは当然です。リーダーたちの存在は、クラブが物語と適度な距離をキープするための命綱なのです。


「時子さんには、ぜひお父さんの後見人になってもらいたいんです」

実家を訪れた東京女子コインランドリークラブのリーダーである里中さんは、我が家の居間で冬のコートを脱いで母と私に向かって言いました。

本来なら物語を統括する主人公になってもおかしくない、東の都に棲む四十人目の魔女を横に差し置いて、私は〈ある父親たちの災難〉の後見人に指名されたわけです。

もっともそれは東京女子コインランドリークラブの会員たちの宿命でもあります。音速の壁を破るのに失敗した夫の死の知らせを、死神めいた黒服姿の空軍関係者から告げられる、パイロットの妻たちにも似た。

私たちは誰もみな、どこかの馬の骨である根無し草の遺伝子を半分ずつ受け継いだ娘たちです。なんだか私たち睦家の家族は、右を見ても左を見ても、なにからなにまで、宿命めいています。


「お父さんは仕事帰りにスカウトされたんだ。勤め先である工場の正門前でね」

モンスターさえも真の姿をさらけだす白い月明かりの下で、お父さんはもとの初老の男性の姿にもどって私に言いました。瞬きの瞬間に次々に顔のお面を変えていく中国の曲芸師めいた驚くべきDNA的早業で。

「昔、お姉ちゃんと一緒に銀座の名画座で観た炭鉱町を舞台にした映画みたいに、就業時間の終わりを知らせるベルが鳴ると、工場の正門からは作業を終えた労働者たちが一斉に吐きだされてくる。中には工場近くの定食屋や居酒屋に立ち寄る者もいるけど、たいていは行列をつくって真っ直ぐに駅へと向かう。なにしろそこら一帯は鉄と油とその排気でできた工場地帯であって、人々が日々の営みをつづける街ではないからね」


縁側に腰かけたお父さんは、私の横で事の成りゆきのつづきを語って聞かせます。

「就業終わりのベルが鳴って、毎日繰り返される工場前の帰宅風景だけど、その日の夕方はちょっと違ってた。ある事件が起きたんだ。ベージュとカーキ色したトレンチコート姿の美女たちが、黒タクシーを待たせながら、門向かいの街灯の下に立ってたんだよ。その日も冬だったから、二人はコートの襟を立ててた。こうしてね」

父はそう言って、両手で襟を立てる真似をしてみせます。

「仕事帰りの労働者たちは、みんなビックリして二人を見てたよ。一体全体何事だってね。大騒ぎさ。『カサブランカ』のイングリッド・バーグマンと『脱出』のローレン・バコールが並んで工場の前に二人して立っているようなもんだからね。それにしたって映画やドラマの撮影にしては、周囲にはそれらしいスタッフの姿はどこにもないしね。労働者たちはみんなキツネに摘まれたような顔をしてた。ただね、お父さんだけは分かったんだ。直感で気がついたんだよ。『あの二人は、きっと私に会いにきたんだ』ってね。そんな日がいつかやってくるだろうって、心のどこかでずっと思ってたのかもしれない。そしてその日が実際にやってきたわけさ。ロンドンタクシータイプの黒タクシーに乗ってね」

「魔法学校の森の番人がハーレーに乗って入学式の迎えにくるかのごとく」

私は言いました。


「バーグマンとバコールの二人は、あらかじめお父さんの顔を知ってはいただろうけど、たとえ知らなかったとしても、労働者たちの群れから直ぐに私の姿を見つけだしたと思う。そのときお父さんがとった行動は工場のみんなと真逆だったから。みんなは驚いたような呆れたような表情をそろって顔に浮かべながらも、駅へと向かう帰宅の足を止めようとはしなかった。一つの事件ではあれ、自分たちに無関係な出来事であるのには変わりないからね。でもお父さんは違った。お父さんは足を止めて、眉一つ動かさずに、最初から知っていたような顔をして二人を歩道から見つめて立っていたんだ」

「いつもお姉ちゃんを見てるから、どんな美人に会ってもビックリしない。私も同じ。でもいつかその日がくるってどうして知ってたの?」

「タクシーの後部座席で里中さんと広瀬さんの二人が、お父さんの顔を左右から見て言うんだ。『私たちなら、あなたの長女をこの世界から救いだせる』ってね」

私はいつの間にか縁側の踏み石にのせた足に頬杖をついて父の話しに耳をかたむけていました。

「じつはお父さんね、ずっと前からお姉ちゃんをある禍いから救いたいって思ってたんだ。家族の一員としてね。でもなにもできなかった。なに一つね。だからお父さん、そのときタクシーの車内で二人の女性に向かって言ったんだ。『あなた方みたいな人たちがあらわれてくれるのをずっと待ってた』とね」


つづく

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