父の森⑳
私が〈ある父親たちの災難〉の事実上の後見人となった冬の夜、父が我が家の庭先で語った言葉の中でとくに意外だったのは、「スカウト」という単語でした。
もっとも、その単語は里中さんと広瀬さんが訪問した際にも、お二人の口からでていたのですし、その夜はなにからなにまで意外な出来事の連続だったわけです。ただ父からその言葉を実際に聞かされてみると、父という存在と「スカウト」という言葉が持っている響きとのギャップが際立って、変な言い方になりますけど、不思議さがより現実化されたように感じられたのです。
実の娘が言うのもなんですが、私の父ほど「スカウトされた」という言葉が不似合いな人もいなさそうでした。物心ついた頃から間近で見つづけてきた家族が言うのですから間違いありません。
つまりそれは父が木になる確率と、どんな理由があるにせよ、どこかの誰かによって父がスカウトされるという確率は、等しくゼロであり等価だったのです。
クスノキを父の木に持つ倉持さんのお父さんの実家は鹿児島県の温泉地で、なだらかな山々が街を囲んでいたのだそうです。家族でお盆に帰省すると、お父さんと散歩がてら近くの山道をお姉さんと三人で歩くのが、小学生だった当時の習慣になっていたそうです。
温泉地なので山道には観光客の姿もやはりありました。ただ倉持さんのお父さんは、観光客が近づかない山奥のケモノミチまで、あとにつづく二人の娘には説明もないまま入っていくのが常だったようで、その周囲に人の姿はなく、しだいに辺りは薄暗くなっていきます。
それでもお父さんは幼い娘を引き連れて山の奥へとズンズン入っていきます。倉持さんはしだいに怖くなって、お姉さんの手を離さないようにずっと握りしめていました。
なにが怖かったのかというと、遭難するという普通に考えられる最悪の事態ではなく、お父さんにさらわれるのが怖かったらしいです。その理由が彼女らしく奮っています。倉持さんは言います。
「私はお父さんがじつは宇宙人に違いないと子供心に感じていたんです。人間の姿は日常の仮の姿で、本当は実家の山奥の盆地になった場所に密かにUFOが隠されてあるんです。上空から見つからないようにUFOには木の枝をたくさん被せて。お父さんはお盆休みを利用して、私たち幼い姉妹をUFOに乗せ、遠く離れた故郷の惑星に連れ去ろうとしてるわけです。それもこれも姉が全宇宙的に美人だからです。お父さんは、故郷の星の親戚に我が子である長女を見せびらかしたくてしょうがないんです。妹の私はあくまでオマケとして連れていかれます」
倉持さんのお父さんは宇宙人ではなく、後年になってクスノキに変身をとげます。
「宇宙人よりはクスノキの方がずっとよかったです」
倉持さんは言います。
それでも彼女の子供時代の妄想はまったくの的外れというわけではありませんでした。倉持さんが遥か宇宙の彼方まで危うく旅するはめになりそうだった理由と、お父さんがクスノキに変身した理由とは、お姉さんが美人だからという一点でほぼ一致しているからです。
我が家はどうだったでしょう。私の父は根っからの根無し草で、お盆休みになっても家族で帰省した経験など一度としてありませんでした。
それどころか、父の口から故郷の話しを聞いた記憶すらありません。知っているのは、地元の工業高校を卒業したあと、東京の郊外にある工業地区に集団就職した最後の世代らしいという寂しい情報のみです。
若かった父は、地元の同級生たちと一緒に就職したその会社も直ぐに辞めてしまい、都内の工場地区を転々としたあと、母と出会い、ようやく根無し草的な生き方をやめて、めでたく大地に根を張れたようでした。
「時子はビリー・ピルグリムを覚えてるだろ?」
夜の縁側で父の口から懐かしい名前が聞かれました。全人類的、あるいは全宇宙的な根無し草である登場人物の名前でした。
「Tシャツ持ってるよ。お父さんのお気に入りでしょ。ヴォネガットの『スローターハウス5』に登場する哀れな主人公」
「いまのお父さんは、例えるなら自然界のビリー・ピルグリムみたいなもんなんだ。さすがに時間までは飛び越えないけどね。とにかく存在的に落ち着かないんだよ。急に木になったり人間にもどったりするんだ。DNAの上書きが完全に終了するまでは自分でコントロールができないみたいなんだ。その代わりにこうして時子にもまた会えたんだけどね。ただお父さん、今後はもう家にはもどらないことに決めたんだ。迷惑がかかるといけないからね」
「でも仕事は?会社はどうするの?」
「じつはね、お父さん、会社にはもうずいぶん以前から出勤してないんだ。とっくに退職したんだよ」
「そんなことして、家はどうなるの?私まだ大学二年生よ。卒業するまであと二年もあるんだけど」
「里中さんと広瀬さんという二人の女性が家を訪ねてきただろ?今後のことは全部あの人たちに相談しなさい。お父さん、お二人のお姉さんである方々にスカウトされたんだよ」
「その話し、昼間あの人たちから聞かされた。本当なんだ」
「いまその証拠をもう一度見せるよ。ごらん」
そう言うと、縁側に腰をおろした父の姿が、月明かりの白い光に透けて、家の向こう側の柱が見えはじめました。それと同時に、庭先のさっきの場所に一本の木の影が縦状にあらわれだします。最初は白く透けていた影はしだいに色を増していって、やがて月明かりの下にふたび一本のトチノキとして立ちあらわれました。
「私、どうすればいいいんだろ。卒倒して縁側に倒れればいいわけ?」
ふたたびトチノキにもどったお父さんを前にして、私は言葉をつづけました。
「そうだ、お母さん起こしてくる。お母さんにも見せなきゃ」
「いや、いいんだ。寝かしておきなさい。この状況を見たら、お母さんこそ卒倒しかねないからね。お母さんにはあとでべつの方法で会うことになると思う。それよりもいまは時間がないんだ。お父さん、ビリー・ピルグリムみたいに空間的に飛んでいっしまって、いつ公園に舞いもどるのか分からないからね。お父さん、いま日比谷公園に身を寄せているんだよ。木を隠すには森の中って言うじゃないか」
「それは正解かも」
「時子に約束してほしい頼みごとが二つあるんだ。一つ目はお姉ちゃんの件だ。お父さんが木になっても、決してお姉ちゃんを恨まないでほしいんだ」
私は急に黙り込みました。痛いところを突かれたみたいに。お父さんが時間がないと言ってる矢先なのに。それで探りを入れるように私は話しはじめました。
「二人の女性は、お姉ちゃんが恋をすると、お父さんが木になるような話しをしてたけど。一生に一度の恋だって」
「お姉ちゃんが恋をするのと、お父さんが木になるのとは、じつは繋がってるんだね。連続した案件なんだ。お父さんはただ木になるんじゃなくて、父の木になるんだよ。父の木と自然界の木の違いは光合成の仕方にある。光合成については前に学校で教わった経験があるだろ?」
私は庭のトチノキに向かってうなずいてみせます。トチノキは私に一風変わった光合成について教えてくれます。
「自然の木は光合成をするとき、二酸化炭素を吸って酸素を放出する。でも父の木は違うんだ。父の木の光合成はもっと特別な、人間的とも呼べそうな作業をおこなうんだよ。父の木は人間界にはびこる、世の中の悪い欲望を吸収して、それをいい欲望に変換してから、ふたたび世界に向かって放出するんだ。言ってみれば、それは魂の光合成みたいなものなんだ」
「少し前にバイト帰りの電車の中で、若くてきれいな女性からメッセージの書かれてた紙切れを手渡された経験があるの」
私がポツリとそうつぶやくと、父が尋ねました。
「そこにはなんて書かれてた?」
「お姉さんを救って世界を救えって」
つづく