表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
166/184

父の森⑲

長年ともに一つ屋根の下で暮らしてきた犬や猫などのペットが、ある日突然、自分に向かって人間の言葉で話しかけてくる日が訪れたとしたなら、果たして飼い主たちは、その体験をどんなふうにうけとめるでしょうか。

我が家ではペットを飼った経験はなくて、狭いながらも庭がある関係上、いつもノラ猫たちの通り道になっているだけの家でしたけど、たぶん心ある飼い主たちなら、いきなり自分たちの飼っているペットが言葉をしゃべりはじめても、頭ごなしに拒絶反応をしめすような行動はとらない気がします。たとえ相手に尻尾があったとしても、なにしろ何年も苦楽をともにしてきた相棒ですから、言葉を交わした経験はなくとも、心の中ではいく度となく気持ちを通じ合わせていたはずです。尻尾ある相方の嬉し恥ずかし日本語を耳にしたなら、我が子がはじめてしゃべったときと同じような驚きと喜びが押し寄せてきてもおかしくはありません。

あるいは、例えばもしもペットたちが、彼らの人生の最期の日にだけ、人間の言葉を話せるようになる世界があったとしらどうでしょう。飼い主とペットはどんな会話を最後の最後に交わすのでしょう。人によってはきっと、「なんだお前、人間の言葉を話せたんだ。なんで今の今まで黙ってたんだよ。水くさいな」ぐらいは冗談半分に言って、体の弱ったその頭を優しく撫でてやるかもしれません。そのとき猫ならば、「さようなら、いままで魚をありがとう」と答えるかもしれません。


〈ある父親たちの災難〉を見送るのは次女たちの役割なのだそうです。東京女子コインランドリークラブの会員たちは、みんなそうしてきたらしいのです。言ってみたなら、私たち東京女子コインランドリークラブは、〈ある父親たちの災難〉の後見人である女性たちによって構成された組織です。

私たち〈ある父親たちの災難〉の後見人である会員たちは、みんな心の中に、手持ちのスケジュール帳の一ページだけが空白になった、ある一夜を抱えています。それは単にスケジュールが書かれていないという意味ではなく、その日だけが完全な透明で、そもそも最初から存在していないかのような完全な空白なのです。


〈ある父親たちの災難〉の最期の夜は、まさにそんな触れようとしても指の隙間からスルリと抜けてしまう一日です。世界中の猫たちが、庭先で父親たちのモノマネ合戦を競い合っているかのように非現実的な夜です。

私たち東京女子コインランドリークラブの会員は、〈ある父親たちの災難〉の最期の夜について、お互いにことさら言葉を交わそうとはしません。父の森については頻繁に語っても、最期の夜に父と話した会話については一切語らない、といったふうに。私たちは空白になってしまったままのスケジュール帳の一日を埋めるために、一人でただ物語を書きつづけるのです。


「手のひらで片方のまぶたを閉じて見てごらん」

吐く息も白くなる夜、トチノキになった父は、庭先から私に向かってそう言いました。あるいは、そう言っているように感じました。どちらでも同じです。

トチノキは落葉樹なので、父の木は自然界の樹木とは異なった成り立ちをしていますけど、それでもやっぱり葉は落ちて、裸になった枝が夜空に向かってUの字を刺すかのようにきれいに伸びていました。狭い庭にそびえる父の故郷の県木は、動物園で間近に見上げるキリンのごとくでした。

私は寒さも忘れ、縁側に腰をおろして右目にそっと手をそえてみました。すると目の前の巨木がスッと消えて、見慣れた父の姿がそこに立ちあらわれました。父には悪いのですけど、トチノキから一人の小さな初老男性に姿を変えた彼は、ひどく貧弱そうに見えました。父が木になりたがるのも満更分からないでもないと、そのときは正直思ったりもしました。


父はその夜、仕事にでかけるときと似た地味で平凡な服装をしていました。そして「どっこらしょ」と言って、娘の横の縁側に腰をおろしました。宇宙空間からなにかの手違いで地味この上ない仕事着を着せられて地球に帰還した宇宙飛行士が、急に押し寄せた重力にひどく難儀しているような様でした。

「お父さん、いまトチノキのDNAをクラウドからダウンロードしてるところなんだ。自分のDNAを上書きしてるんだよ。それでちょうど半分が人、半分がトチノキになってるかのように見えたりするんだ。もう手を離しても大丈夫だよ」

私は言われたように片手をおろしました。父がまた木にもどってしまうような展開にはならずに、横にいる父はいつもの父のままでした。それから私の顔をじっと見つめて言いました。

「じつはお父さんね、時子にさよならを言うためにもどってきたんだ」


つづく

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ