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父の森⑱

私の姉には、お母さんに似てるところがちょっとありました。東京生まれの、世間知らずな箱入り娘として育てられた母に。どこの馬の骨だか分かりもしない、田舎育ちの流れ者だった男と恋に落ちた母に。

まったくバカげたお話しです。都市伝説として広く言いつづけたい逸話です。都内の一戸建てという、都会人が小耳に挟んだなら羨むような環境を、まんまと田舎出の馬の骨にタダ同然で差しだしてしまったのです。まぁ、おかげで流れ者の血を継いだ不逞の娘である私が生まれたわけではあるのですけど。

野生の自然児である次女から見たら、箱入り娘めいた性格がよく似た母と姉が、一つ大きく異なっていたのは、姉がひどく美しい娘としてこの世に生を受けたところでしょうか。姉には悪いですけど、そしてかなり乱暴な言い方ですけど、二人の違いはまさにその一点に尽きると思います。トンビが鷹を産んでしまったのです。


まだ江戸の名残りが色濃く残る、明治時代のごく平凡な東京の商人の家に生まれた夏目漱石は、家族からよく、「金ちゃんは変わってる、金ちゃんは変わってる」と言われて育ったそうです。そのエピソードを昼休みに学校の図書室で読んだとき、私はすぐに三つ上の姉の存在を思い浮かべました。凡庸な家族の中での特異な存在としての姉を。

あるいは同じ学校の図書室で、『愛のゆくえ』というアメリカの小説を読んだときには、その物語に登場する美しくも哀しい女性であるヴァイダの生き様に、学生だった当時の姉の姿が重なりもしました。

俗世間からかけ離れた存在であるという意味では、夏目漱石とヴァイダとは、時代と国籍を超えて共通しています。二人の人物の性格が大きく異なる点は、一方が歴史上の実在の人物であり、かたや一方が物語上の架空の登場人物であるという点でしょうか。そしてまた同じように、一方が男性であり、もう一方が女性であるという点でしょうか。そうすると、漱石は男性であったぶん、たとえ近代知識人の苦悩を抱えていたとしても、まだ運がいい方だったのかもしれません。


姉からのメール③

『昔の外国の歌に「恋とは何でしょう」という曲があったような気がします。「恋とはどんなものかしら」という曲もあったような気がします。みんな、あれやこれやと「恋とはいったいなんぞや」と、いにしえの頃から悩んでいたようです。

幸いにもお姉ちゃんはそんな悩みごとからはずっと無縁に生きてきました。時子はどうかしら?

私にとって恋とは、遠く離れた外国の海岸線に見える真夜中の戦火のごときでした。あるいは一億光年離れた彼方の宇宙空間で爆発する超新星の一瞬の閃光でした。

それでも茶髪さんは、私に「恋をしなさい」と言うのです。まるで命令するみたいに。忘れられた昔の流行歌みたいに。古代の遺跡から発見された、象形文字の古文書みたいに。

どこの世界に、若い給仕から「恋せよ、乙女」と命令される森があるのでしょう。それはたしかに美味しい紅茶はご馳走にはなりましたけど。

でもね、お姉ちゃんはまだ会社の制服を着たままなの。制服姿でする恋なんて、社内恋愛ぐらいなものでしょう。


「あの木をよーく見てください」と茶髪さんは言いました。森の中の一番大きそうな、緑豊かな樹木を指さして。あれはクスノキかしら?

「もうすぐあそこから、若い男性が一人姿をあらわします。その男性に、あなたは恋をします。約束します」

「夢の森の管理人さんは私に約束すると言います。森のクマさんは、山男には気をつけなと言います。きっと茶髪さんは、私にイケない催眠術をかけるつもりなのね、そうでしょ?」

茶髪さんは咳払いを一つして、森の空気を真剣モードに入れ換えようとします。

「あそこをごらんになって」

茶髪さんはもう一度、クスノキを指さします。

「夢の森には三十五本の夢の木があります。そしてそれぞれの木に一人ずつ、〈ある父親たちの災難〉が住んでいます。〈ある父親たちの災難〉はご存知ですか?」

「ええ。聞いたことがあります」


「〈ある父親たちの災難〉は一冊ずつ本を持って、一日に一人だけあらわれます。あなたにぜひその本を読んでほしいんです。彼らの前で朗読してほしんです」

「それはいいんですけど、三十五人だと三十五冊にもなりませんか?」

「大丈夫です。時間はあります。たっぷりあります。夢の森では人ではなく、樹木に合わせて時間が流れるようになってるんです。少しずつ少しずつ読んでいただければけっこうです」

「約束では、私はその〈ある父親たちの災難〉に恋をするはずです。そして〈ある父親たちの災難〉は三十五人いるそうです。そいうのは人間の世界では恋と呼ばずに浮気というのではないかしら。それもかなり大胆不埒な」

「平気です。なにも心配いりません。なぜならそれは本当の恋ではないからです。夢の森はあくまでも恋の練習場なのです。言葉は悪いですけど、二軍キャンプです。大胆不埒大いに結構です。大いに練習してください。練習ですから、〈ある父親たちの災難〉が持っているテキストにはすべて同じタイトルが付けられています。〈父の森〉といいます」

そうこうしているうちに、クスノキの幹が、ぼんやりとした緑色の光を放ちはじめるのに私は気がつきました』


〈三鷹父の森植物園〉のホームページより

『父の森へようこそ!こちらは東京は三鷹にあります父の森植物園のホームページです。当園は世界的にも珍しい、恋人たちのための植物園です。父の木を植林している植物園は、世界中探しても、ここ三鷹父の森植物園だけです。

父の森が恋人たちの聖地と呼ばれる所以は、父の木がかつては一人の男性であり、ある家族の父親であったという、家族史的な物語に端を発しています。そこには父親が木になっても、自分たちの恋を遂げようとする若々しい恋と、木になってもなお、夫婦間の愛を持続させようとする深い大人の慈愛の、二重の意味が込められています。


それでも父の木がかつて一人の人間であったと聞くと、ほとんどの人が眉をひそめたり、舌打ちしたり、冷笑を浴びせようとします。

世の中には、「父の森はインチキだ」と主張する人たちがいます。「父の森は大掛かりなイリュージョンにすぎない、だまされるな」と助言しようとする人たちもいます。

私たちはそういう人々が社会に大勢いるのを知っています。またインターネットの世界では、父の森をめぐる無数の陰謀論が飛び交っている実情も認知しています。

私たちはそれをあえて強く否定するつもりはありません。なぜなら、否定であろうと、陰謀論であろうと、それは人々が作りあげた物語に違いないからです。私たち父の森植物園は、なによりも物語を大切にします。どんな物語であっても、すべて一から十まで間違ったものというのはこの世に存在しないと考えています。逆にもしも完全無欠の物語があったとしたなら、それ自体が大きな過ちでしょう。

父の森の物語はときにコインの表と裏のようであり、光と影のようなものでもあります。私たち父の森植物園は、聖も俗も一切合切一緒くたにして未来に向かって歩んでいく所存です』


その夜、私ははじめてインターネットで父の森植物園のホームページを見ました。その夜というのは、我が家に里中さんと広瀬さんが訪れた冬の日を指しています。

私と母はずいぶん遅くまでお父さんの帰りを待っていました。でも父はなかなか帰っては来ず、連絡もとれず、疲れ果てた母は自室に入って先に寝てしまいました。

私は一人居間で父の帰りを待ちながら、答えのないインターネットのホームページの旅を渡り歩きつづけました。

そのうち縁側のガラス戸を叩く音がして、「ただいま、時子」という父の声が聞こえたような気がしまた。気がしたというのは、夜中に父が縁側から帰ってきた例などそれまでだって一度もありませんでしたし、わざわざそうする理由も見当たらなかったからです。中から「お父さん?」と声をかけてもそれっきり外からの返事はありません。


もしかしたら近所のノラ猫の悪戯だったのかもしれません。猫が悪戯で父の声をモノマネして庭先で鳴いただけなのかもしれません。それでも昼に里中さんと広瀬さんの訪問の件があったわけですから、確認しないという選択肢はありません。私はすぐに居間の襖を開いて縁側のガラス戸も開けてみました。

そこにお父さんの姿はありませんでした。ただ、代わりに私が狭い庭の真ん中に見たのは、モノマネするノラ猫と同じぐらいに非現実的なものでした。底冷えする冬の白い月明かりに照らされて、二階建ての我が家よりも背の高そうなトチノキが、真っ直ぐそびえるように一本立っていました。


つづく

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