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父の森⑰

姉からのメール②

『果たして、若者が声をかけたから私が目覚めたのか、それとも私が目覚めたから若者が声をかけてきたのか、いまとなっては定かではありません。どちらにしても、夢から目覚めたとき、私はまだ夢の中にいるような心持ちでした。そしてそれは決して悪い感じではありませんでした。

「ようこそ、ゲストさん」

私を上から覗き込んでいる若い男性が言いました。

「あなたは、誰?」

「僕は夢の森の管理人です。またあるときは夢の森の給仕とも呼ばれています」

「あら、そう。こんにちは、管理人さん、または給仕さん」

「こんにちは、ゲストさん。ご気分はいかがですか?」

「悪くはなさそうね」

「そう、それはよかった。起きあがれますか?起きますか?」

「もちろん起きます」

私がそう答えると、仕事前のコックさんが着ているような染み一つない真っ白な長袖のシャツを着て、黒いズボンに、見るからにスマートそうな細身の黒くて長いエプロンを腰に巻いた若い給仕さんは、腕を引いて手を貸してくれました。私は上半身を起こしてスカートの裾をなおしました。給仕さんは中腰のまま話しをつづけます。

「お仕事中だったんですか?」

彼がそう尋ねたのは、私がまだ銀行員めいた会社の制服を着ていたからです。

だいぶ以前に時子にも写真を見せたことがあったと思いますけど、お姉ちゃんが勤めていたのは、昭和の戦前の時代から代々つづいている古い伝統のある代理店なんです。社長室の壁の頭より高い場所から、額に入った社訓と、代々の社長の肖像写真とが、見下ろしているようなタイプの。

お父さんからの緊急のメールをうけとった私は、制服姿のままタクシーに飛び乗ったわけです。


「あなたもお仕事中なのかしら?」

若い男性に私は尋ねました。

「どうぞ僕のことは給仕さんと呼んで下さい。ええ、僕は確かに仕事中です。ここでは僕は常に仕事中なんです。白ウサギみたいに忙しいんです。猫の手も借りたいぐらいなんです。ただ、それ以外の時間にはたいてい寝ています。眠たくてしょうがないんです。でも必要なときはなんなりお申し付けください。なんといっても、あなたはゲストなんですから」

「どうして私はゲストなのかしら。それにここはいったいどこ?」

「どちらも難しい質問です。ここをはじめて訪れた女性たちはみなさん同じ質問をします。そして僕たちは途方に暮れるんです。ところで喉は乾いていませんか?」

「ええ少し」

給仕さんはどこともなく手を上に向けて指をパチンと鳴らします。指一つでこの世を動かせる魔術師であるのを証明するみたいに。そして言います。

「こちらのゲストさんに飲み物をお持ちして」


若い給仕さんと同じくらいに背が高くて、同じくらいに若い給仕さんが、やはり腰に黒いエプロンを巻き付けて、指が鳴ったのとほぼ同時にどこからともなくあらわれました。指を鳴らして呼んだ方の最初の給仕さんはサラサラした長髪の茶髪で、呼ばれた方の給仕さんは黒髪のクールカットです。面倒なので最初の給仕さんを茶髪さん、あとの給仕さんを黒髪さんと呼ぶルールにします。

髪の色は違いますけど、二人とも背が高くてハンサムなのは似ています。ただ私が恋をしたのは彼らではありません。

私はこの歳になるまで恋をした経験がありません。おかげでその日一つ分かったのは、恋には見た目はそれほど重要ではない、少なくとも一番上にくるような絶対条件ではない、という発見です。

黒髪さんはクリーム色した陶器の紅茶セットが載った銀の丸いトレーを両手に持っていました。茶髪さんが急須からカップに湯気のたった紅茶を注いで、黒髪さんがトレーを私に差しだします。私は「ありがとう」と言ってカップをうけとります。黒髪さんはトレーを芝生の上に置いてどこともなく立ち去っていきました。


私は短く刈り込んだ芝生の上で眠っていたようでした。さっきまではたしかに銀座のホテルの部屋にいたはずなのに。これではますます時の流れに無頓着になってしまいそうです。

私は熱い紅茶を冷ましながら喉を潤して辺りを見回します。お日さまは見えませんでしたけど、周囲の明るさからしてたぶん昼頃のようでした。春だった季節は、そこではより少し暖かでした。私は制服の上にカーディガンを羽織っていましたけど、シャツ一枚でもよさそうでした。


広い芝生に何本生えているのかは定かではありません。森なのか林なのか、自然や植物に詳しくないので、どういうふうに呼んでいいのかも分かりません。ただ大小様々な樹木がある程度の間隔を置いて芝を囲んでいました。背の高い木や大きな木もたくさん見えます。樹木が距離を置いているおかげで、周囲は日陰にならずに、暖かな日差しが辺り一面をたっぷり包み込んでいました。


私のようなゲストさんなのでしょうか、芝生には三組の若い男女のカップルが、ぽつりぽつりとたたずんでいました。

「あの人たちもゲストさんなのかしら?」

私が尋ねると、隣の芝に腰を下ろした茶髪の給仕さんが答えます。

「いえいえ、あの方たちは常連さんたちです。女性が一人でいらっしゃるときもありますし、ああしてカップルでやってくる日もあります」

「常連さん?ここは有名な観光地なの?」

「そういうわけではありません。夢の森を訪れられる人たちは多くありません。限られた人たちだけが、ここを訪れるのを許されているんです。正確に言うと、これまでにこの森を訪れたゲストさんは三十九人で、あなたがちょうど四十人目です。ところで、ここの紅茶はお気に召しました?」

「ええ。とっても美味しいです。まるでホテルで呑む紅茶みたい」

「それはよかった。もしも一人でもゲストさんの舌に合わない場合は、最悪お茶の葉を考え直さないといけないので」

私はそのとき一つ思いだした件がありました。森にくる前に私は銀座のホテルの一室で、里中さんと広瀬さんとソファに向かい合って紅茶を呑んでいたのです。それがだんだん眠くなって、目が覚めたときには、見知らぬ森の中にいたのです。


「いまあなたの心の中を満たしている疑問に僕がお答えしましょう。あなたは、なぜ自分が四十人目のゲストさんに選ばれたのか、不思議に思っているのではありませんか?」

「御明算です。答えを教えてちょうだいな、給仕さん」

「それでは僭越ながらお教えしましょう。失礼な言い方になりますけど、もしかしたらあなたのお近くに、最近になって樹木になりたがっている、世間一般的に見て、頭のネジが少々緩みがちな方はいらっしゃいませんか?」

私が答えに詰まっていると、茶髪さんは先回りして言います。

「どうやらおいでのようですね」

私は首を縦にも横にもふらずに黙って紅茶を口にあてます。

「さらに失礼ですけど、その世間一般的に頭のネジが緩んだ方は、あなたのお父さんではありませんか?」

私はふたたび紅茶を口にあてます。

「どうやらお父さんらしいですね」


茶髪さんは腰を上げて、エプロンとお尻についた芝を叩きながら話しをつづけます。

「いいんです。なにも問題はありません。だって、だからこそあなたはゲストとして招待されたのですし、その手助けをするために僕がいるわけですから。ここは夢の森です。そして目の前に見えている木々はすべて夢の木です。じつを言いますと、僕は夢の森の管理人兼給仕であり、さらにはゲストのお父さん方を夢の木に変身させる名人でもあるんです」

「あなたは魔法使いなの?」

茶髪さんは首を横にふって言います。

「簡単です。あなたはたった今から恋をするんです。魔法じゃありません。恋が魔法なのは、歌の世界だけのお話しです。現実的に、科学的に、恋だけがお父さんを夢の木に変身させる唯一の方法なんです」

「恋って?」

「恋は恋です。でも、あなたのお相手は、茶髪さんでも黒髪さんでもありません。どうぞご安心を」

「私の心を読まないで」

「言いましたよね、ここは夢の森だと。そして僕は夢の森の管理人だと。あの木をごらんになってください」

茶髪さんは森の中で一番大きな木を指さして言います。

「よーく見ててください。なにか見えてきませんか?」

私は手に持ったカップをトレーに置いて、じっと目を凝らします。こんなにまじまじと一本の木を見つめるなんて、生まれてはじめてです。とても正気の沙汰とは思えません。それに私はこれまで生まれて一度だって恋をした経験すらないんです』


つづく

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