父の森⑮
これは父と姉の二人だけのために書かれた物語です。そんなわけで基本非公開です。書きはじめたころはネットか雑誌で公開するつもりでいたのですけど、その計画はすぐに頓挫になりました。東京女子コインランドリークラブのリーダーたちから口を酸っぱくして注意されたからです。
理由は簡単です。クラブには未婚の母になった会員の女性が大勢います。父の森は世間一般的に幸福なカップルたちにとっての象徴的な場所と考えられているので、次女たちがこぞって未婚の母ばかりとなると、なにかと都合が悪いのです。
じつは世間に公表されていないだけで、東京女子コインランドリークラブの会員たちは、みんな父の森誕生の物語を書いています。作家となった初期の段階で、あるいは遅かれ早かれ、必ず書いています。一人の例外もなく。クラブにはリーダーたちを除くと全員で三十六人いるので、三十六通りの『父の森物語』が存在するわけです。
私たちは語るべき物語を持った作家たちではなく、語られざるべき物語を持った三十六人の女たちになります。あるいは逆説的ですけど、人は語るべき物語を持ったときではなく、語られざるべき物語を持ったときに、書き手になるのかもしれません。その三十六番目の生き証人が私です。
家族の中で一人、母だけが読者として除外されていますけど、お母さんには普通に街中の書店や電子書籍で扱われている娘が書いた小説を読んでもらえればと思います。
物語はかつて荻窪にあったコインランドリーからはじまります。当時は一階が店舗で二階が住居だったそうですが、のちに店舗部分だけが名前を変え、一階がコインランドリー、二階が事務所になった、広い中野の物件へと引越しをしました。
土地と建物の規模が変わっても、くるくる回るコインランドリー仕立ての、染み一つない(でもよくよく見ると跡が残っているときもある)精神は不変です。そこではあいかわらず、あらゆる物語が、あらゆる場所で、ほとんど同時に起きるのです。
以前、東京女子コインランドリークラブでは、創作活動の際に〈魔法と呪い〉の二つの言葉の使用が禁じられていました。あるいは限定されていました。創作上の〈魔法と呪い〉という言葉の乱用が、現実の世界で物語の力を弱め、不必要な災いを呼ぶ可能性があるのを危惧されたからです。
その禁句扱いはあとになって解除されましたけど、決して世界の片隅に存在する小さな小さな一組織のささやかな決断が、人類に影を落としたという道理はないはずです。けれどもその後の世界でロクな話しを耳にしないのも事実のようです。
「私はときどき思うんです。すべては父の森をこの世に送りだすために作られた物語ではないのかしらんって」
夜になった東京女子コインランドリークラブの事務所で、かつて倉持さんは言いました。
東京女子コインランドリークラブの店舗の営業時間は夜の九時までです。そのために、閉店時間まで一組の会員が常に事務所に残っていなければいけません。
「分厚い紙の本のページに、言葉によって描かれ父の森の設計図は、来るべき時がやってくるまで、末永く土の下で眠りつづけていました。そして来たるべき時が訪れた際に、紙の上に書かれた文字はバラバラに解き放たれ、土の中に一斉に溶け流れだして、水蒸気みたいになって地上へと昇っていったのです。父の森だけでなく、東京女子コインランドリークラブも、私や睦さんも、その設計図に描かれたものの一部なんです」
私と一緒に居残りで父の森のヘッドセットをこしらえながら、事務所にある一番大きなテーブルの向かいで倉持さんが言いました。
「新説です」
今度は私が言いました。倉持さんのお株を奪うみたいに。
二階の事務所は防音構造になっていて、分厚いセメントの壁に負けないぐらいに分厚く大きな窓が、会員たちの帰ったあとに、芝生の公園のレストランよろしく外に向かって開かれます。時間はまだ夜の九時前なので、ブローウェイ通りに面した開いた窓からは、通行人たちのざわめきが立ちのぼってきて、私たちはにぎやかな夜の繁華街の音をよく残業仕事のBGM代わりにしていました。
当時の私はまだ会員になったばかりだったので覚えなければならない仕事や作業がたくさんありました。ホグワーツに入学したばかりの魔法学校の新入生たちに、覚えなければならない呪文がたくさん待ち構えているように。
よく倉持さんと事務所に残っては、毎晩のように二人でヘッドセットをこしらえました。彼女は嫌な顔一つせず、残業に付き合ってくれました。彼女には当時もいまも本当にお世話になりっぱなしの私です。
「新説です」
「新説のつづきは睦さんが考えてください」
私の感想に、倉持さんは笑って注文します。そこで私は手袋した手で、熱した銀の半球体に父の森の枝をあてて、カーブ状になるように曲げながら考えます。自分で考えた物語のつづきをクイズ形式にして発注するのが、その頃の二人の間で流行っていた遊びの一つでした。おかげで私は、倉持先生の温かな指導のもとで、物語を考える力を身に付けていったわけなのです。
『お姉さんを救って、世界を救え!』
私の姉のように美しい女性から、中央線の車内でうけとったメッセージには、そう書かれていました。クシャクシャになった一枚の紙を綺麗に四角に折ってダウンジャケットのポケットに仕舞い、その日も私は次の次の駅で電車を降りました。
「姉を救う」って、どういう意味なのでしょう。まるで文学的な禅問答のようでした。はたまた文学的な連想ゲームのようでした。
姉は誘拐でもされたのでしょうか。もしそうだったなら、妹である私は、すぐにでも交番に駆け込んで、助けを求めなければいけないはずでした。でもそのとき、妹である私が実際にとった進路は、交番に立ち寄るコースではなくて、最寄りの駅から真っ直ぐ最短距離で家へとたどり着くコースでした。姉には悪いんですけど、バイト帰りで疲れていましたし、外は寒かったですし、熱いシャワーを浴びてすぐにでもベッドの中に逃げ込みたい心境だったのです。
その晩になって、メールの着信音で目を覚ましました。いつもなら着信音ぐらいで起きたりしないのですけど、なにしろその週は我が家ではメール要注意週間にあたっていたのです。「落ちる」という言葉に必要以上に過敏になっている受験シーズンを迎えた浪人生よろしく、私の耳はスマホの着信音をめざとくキャッチし、モソモソとベッドから腕を伸ばしてスマホ画面を覗き込みました。
私たち家族の不安は、行方知らずの、所在不明の、姉からのメールという形となって現実のものとなりました。リーダーの里中さんと広瀬さんが訪れた日に、「お姉さんからメールが届いたら、それが〈ある父親たちの災難〉のはじまりの合図になります」と聞かされていたのです。
「恋をしました。生まれてはじめての恋です」
スマホの通知画面には、姉のアドレスと短なメール案件が表示されていました。私はベッドから飛び起きて寝巻きのまま部屋をでて階段を降りていきました。
つづく