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父の森⑫

東京女子コインランドリークラブがまだ発足したばかりの頃、その事務所はリーダーの実家がある荻窪のコインランドリーの二階にあったそうです。でもすぐに会員数が増えて手詰まりになってしまい、中野の土地に引っ越したのだそうです。

東京女子コインランドリークラブは店名の長さだけでなく、その広さにおいても関東随一です。ランドリーや乾燥機の台数が多いだけでなく、店内には、図書館にあるような大きくて頑丈そうなスチール製の本棚まであります。マンガや雑誌が置いてあるコインランドリーは珍しくないかもしれませんけど、古典文学や分厚い哲学書までが所狭しと並んだ本棚のある啓蒙的なコインランドリーは、世界的にみても珍しいのではないかと思います。


ランドリーの一階店内の床には、公園のテラスみたいに厚めの木製の板が敷き詰められていて、壁は淡いクリーム色、洗濯機の色調は鮮やかなオレンジ色で、テーブルは白、椅子は黒でそれぞれ統一されています。

ちなみに棚の本はすべて東京女子コインランドリークラブ会員からの寄贈によるものです。洗濯中の暇つぶしに、ペットボトルのコーヒー片手に読んでもらってもいいですし(そのために店内には多めの椅子とテーブルが置かれています)、気に入ったら持ち帰って読み耽ってもらってもかまいません。東京女子コインランドリークラブは洗濯のできる図書館でもあります。

返却期日はとくに設けてはいません。返せるときに自由に棚に戻してもらえれば結構です。倉持さん曰く、コインランドリーの利用者の多くは「経済的には決して豊かではありませんが、強い規則性を持っています」みたいで、本が戻ってこない例はほとんどないようです。


一階のコインランドリーの面積が広い理由は、二階に広めの事務所が欲しかったからと言われています。東京女子コインランドリークラブの会員は現在四十名なので、そうなると最低でも学校の教室と同じぐらいの広さが必要になってきます。

二階にも壁はなく、木の板が敷き詰められた床に広い作業机と一台の黒ピアノが離れて並んでいます。そこかしこに置かれたソファと椅子の上にはアコースティックギターとウクレレが横たわっています。

そこで私たちは会報の編集作業をおこない、昼食を食べ、コーラスの練習をして、三時のおやつを歌い歌い食べ、ヘッドセットの組み立て作業をします。出社時間と退社時間は、それぞれの会員自身が決定します。


中野のブロードウェイとサンプラザのちょうど中間あたりにある東京女子コインランドリークラブの事務所が、三鷹の植物園と同じぐらいに私のお気に入りの場所です。

我が家のほかにも、私には大切な場所が、中央線沿線上に二つも存在しているのです。しかもその一つは自分が働く職場にもなっています。

これは私の人生においてとても驚くべき予想外の出来事でした。なにしろ二十歳になるまで、こんな未来が自分を待ち受けているなんて思いもしなかったですし、そもそもが自分がなにをしたいのか、どんな職業に就きたいのか、とくに深く考えもしない十代を送っていたのです。たぶん普通に就職活動をして、大学を卒業して普通の会社で働くものだとばかり漠然と考えていたと思います。

木になってしまったお父さんには本当に申し訳ないんですけど、ある意味で〈ある父親たちの災難〉は、私の人生に起きた数少ない幸多き出来事だったかもしれません。


〈ある父親たちの災難〉が起きた当初は、予定どおりのスッタモンダもありましたけど、いまになって振り返ってみれば、悪いことより良いことの方がずっと多かったような気がします。

ランドリークラブの会員の先輩たちに尋ねても、似たような答えが返ってきます。「私は本当にラッキーだった」と。「まるで宝クジが当たったみたい」だと。もっともそのあとには必ず「お父さんには悪いんだけど」の一言が付随します。

倉持さんがかつて言っていたように、「お母さんと一緒に裏口入学の面接を受けた」ような気分です。しかも私たち母と娘の二人は、その面接試験に父を残して見事に合格してしまったのです。

それによって母は植物園と契約を交わし、私は私で東京女子コインランドリークラブと契約を交わし、それぞれの団体からそれぞれの契約規定によって収入を得る権利を得たのです。


東京女子コインランドリークラブの三階は物置き部屋とリーダーと副リーダーたちの部屋の二つに分かれています。私はその部屋で広瀬さんと倉持さん立ち会いのもと、会員として契約書にサインをしました。季節は夏に近づいていました。そのとき広瀬さんは私に「おめでとう、あなたは第二世代よ」言って、握手を求めてきました。

契約書を交わしたのはお昼時だったので、私は倉持さんと一緒に父の森植物園によく似た、芝生のある広い公園のレストランで昼食を共にしました。以前の五月の日曜日みたいに逃げだしたりはしませんでした。

客やウエイターと料理人たちの会話やお皿の物音がほどよく飛び交う広い店内のテーブル席で向かい合いながら、注文したメニューがとどく間に倉持さんに「第二世代とはどういう意味なんですか?」と尋ねると、彼女は「ニュータイプという意味です」と答えました。

「ニュータイプ?私が?」

「そうです。リーダーと副リーダーの広瀬さんたちが第一世代で、それ以外の私たちが第二世代と呼ばれています。第二世代の会員たちは全員が小説家になっているんです」

レストランの店内にはエアコンが効いてました。テラス席に面した窓はすべて外に向かって解き放されていて、広い芝生と、平日であったのでその日陰でくつろぐ勤め人たちの姿がちらほらと見えました。公園の蝉たちはまだ鳴きはじめていないようでした。


つづく

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