父の森⑤
父の木が自分たちの手や腕とも呼べそうな枝葉を、モスラよろしく激しく揺らしながらも花粉一つ飛ばさないのは、父の森の存在を考えるうえで一つの重要なポイントになるような気がします。
どういうことかといいますと、父の森は、やはり自然界の植物とは似て非なるものではないのかしらんと思うからです。決して自然界を再生するために誕生したものではないのです。
もっとも象徴的なのが日曜コンサートです。あの場所にあらわれる父の木と、人としての父の姿は、まるで私たち家族の夢と欲望が現実化されたもののようなのです。
おかしな話しですけど、もちろん私がするお話しは隅から隅まで全部おかしな話しばかりですけど、〈ある父親たちの災難〉に見舞われた私たちコインランドリークラブの家族には、不思議と共通する事情があります。
その一つが、私たちの父には地方出身者たちが多く、私たちの母には東京出身の人たちが多い、という家系図めいた実情です。東京女子コインランドリークラブという名前の由来や、県木という存在の中にその由来が見え隠れしています。
少し言葉は悪いのですが、言い換えれば、父の森は地方出身の田舎出の男たちと、東京出身のウブな女たちとの物語であるのかもしれません。父の森には、田舎者の父親たちと世間知らずの母親たちが、もう一度最初から家族をやり直すための実験場めいた感があるのです。
そう考えると、もしかしたなら、私たち〈ある父親たちの災難〉に見舞われた家族は、ある意味ではとても幸福だったのかもしれません。だって家族をもう一度最初からやり直すなんて、普通にはそうできるものではないでしょうから。べつの言い方をすると、やり直しのきかない、逆回転ができない、それが普遍的な家族の物語であるわけです。家族とは人の物語の原点なのかもしれません。
「なにを見ても驚かないでくださいね」
日曜の朝に待ち合わせたとき、いの一番に倉持さんは私に言いました。初対面と同じ植物園内のガラスハウスでした。
その日も天気は快晴で、夏の日のように暑くなりそうな五月の一日でした。ほのかにエアコンのきいた園内には熱心なお客さんたちが芝生の縁を囲むように大きな半円をつくって日曜コンサートの幕開けを待ちわびていました。広瀬さんの一際大きなクスノキの樹冠が、彼や彼女たちのお越しを五月の鮮やかな日差しと一緒にキラキラと歓迎していました。
コインランドリークラブ内での会話には、ごくごく普通の日常的な会話であっても、それが非日常的なジョークになってしまうケースが多々あります。
それは密かにランドリークラブ内で「父の森ジョーク」とか、あるいは「父の森コンプライアンス」と呼ばれているものです。
父の森ジョークの片鱗は、はやくも倉持さんとの二度目の会話の席であらわれはじめました。思わず私が、倉持さんの発言にクスッと笑ってしまったときです。私のリアクションはまったくの無意識なもので、本人すら気がつかないレベルでしたけど、父の森ジョークに慣れている倉持さんはそれを目ざとく発見して、やんわりと助言するように指摘してくれたのです。
「なにを見ても驚かないでくださいね」と言ったあとに、倉持さんは私のクスッを聞いて、謝罪するように言いました。「いまの私の発言は父の森ジョークでしたね」と。
自分の父親が木になってしまったあとで、いったい私たちはなにをどう驚けばいいのでしょう。それはコペルニクス的な難問ではあります。
私が約束の時間より早めにガラスハウスのカフェに入ると、すでに店内のテーブルは老若男女のお客さんでほぼ満席でした。ただ倉持さんが予約しておいてくれた一番奥の席が空いていて、彼女自身は私より少し遅れてやってきました。日曜日は日曜コンサートがあるので、いろいろと準備があったようです。
黒いエプロンを腰に巻き付けた背の高い給仕たちの間を真っ直ぐにぬけて、いつものように三つ編みに白いYシャツとベージュのロングスカート姿の彼女はあらわれました。トートバッグの色もいつもの深緑です。たぶんボロボロになった魔法使いの入門書が忍ばせてあるはずです。私が作家Tシャツを何枚も持っているように、お気に入りの白Yシャツを何枚もそろえてもいるでしょう。
倉持さんが入店すると、席のお客さんだけでなく、忙しそうな黒エプロンの給仕たちの視線もそこへ一斉に集まります。もしかしたら倉持さんは、「不幸にも、美麗で派手な容姿をした女性を姉に持つ、哀れな次女たちのみ限定」という東京女子コインランドリークラブの会員規定の上限ギリギリのライン上にいる女性なのかもしれません。だとしたら、彼女が口にする「とても美しい姉」とは、いったいどれくらい美しい女性なのでしょうか。私はその美しさを羨ましく思うよりは、その美しさによって彼女が被るかもしれない、ひどく長い不憫さに、同じように美しい姉を持った世の一人の妹として心が痛む次第です。
東京女子コインランドリークラブから派遣された、良きアドバイザーである倉持さんの「驚かないでください」には、コンプライアンスよりさらに重要である、隠れた真実が含まれていました。美しい姉を持った一人の妹として、私はそれを理解できました。彼女は向かいの席で言いました。
「コインランドリークラブに入会なさる女性たちはみんな驚きのスペシャリストたちです。もちろん私もそれは理解しています。私と睦さんが、いま同じテーブルで向かい合っているのはそのためです。私たちはともに苦い経験をしてきました」
そこで倉持さんは言葉を切り、彼女の言葉を私が理解しているか確認するよにこちらをじっと見つめます。私はコックリとうなずいてみせます。
「私たちコインランドリークラブの女性たちは、みんな驚きのスペシャリストです。それと同時に嫉妬のスペシャリストでもあります。私たちにはみんな一人ずつとても美しい姉がいます」
私は倉持さんの言葉に植物園のカフェでふたたびうなずいてみせます。彼女はそれ自体になにか言語に関する特別な成分が含まれているかのようにコーヒーを一口含んでから、慎重に言葉を選びつつ話しをつづけます。
「それでも私たちは驚きと嫉妬の感情に包まれて、かなりネガティヴな気持ちになります。最初はみんなそうなります。私もはじめて日曜コンサートを経験したときはそうなりました。でもあとになって、そのネガティヴな感情の大切さに気がつくことになるんです。その逆回転めいた後ろ向きさがなかったなら、そもそも父の森だって存在しなかったはずだと気づかされるのです」
つづく