ターザンの木教習所⑱
ぼんやりと黒く浮かんだトウモロコシ畑の上を、三姉妹の魔女たちが箒に跨って飛んでいそうな夕暮れどきでした。丸三日間に及んだバス旅行の最終日、さらにオレンジ色の濃くなったバスの車内で、ウッドストック氏とキャサリン運転手は座席の背もたれを挟さみつつ、お互いに見えない相手に向かってこんな会話を交わしたそうです。
「もしもニューヨークにくることがあったら、そのときには公共図書館にも立ち寄ってくれたら嬉しいな。職員一同、あなたを歓迎しますよ」
「ええ、いつかできたら嬉しいですね」
「一つだけ約束して欲しいことがあってね。そのときには、ぜひ私の証人になって欲しいんだ。この不思議な旅行話しを私が一人で語ったところで誰も信じてはくれないだろうからね」
「奇跡も語る者がいなければ、ですね?」
「そういうことなんだ。ところで、あなたの仲間たちはみんな、あのおかしな木を見たことがあるの?」
「その質問にはお答えしづらいんです。私が勤めている会社では、そんな木は公には存在していないことになってるので」
「なるほどね。分からないでもないな」
「読書会でお読みになった本はどうでした?」
「うん。それがなかなか良かったんだ。たしかに長いがね、いつもよりスラスラ読めたよ。帰ったら読書家になりそうだ」
「奥様、ビックリされるんじゃないですか?」
「ハハハ、そうだね」
ウッドストック氏のキャサリン運転手へのお願いには、それ相応の訳がありました。バス旅行の間には、ゲストである七人の図書館職員に、急遽一切の写真動画撮影禁止の御達しが告げられていたのです。読書会の話はほどほどに、氏はバス旅行の話題へともどります。
「旅行中には写真を沢山撮ろうと思ってたんだけどね。せめて帰りの道中では土地土地の風景をゆっくり眺めさせてもらおうかな」
「生憎ですけど、それは難しいですよ、ウッドストックさん。帰りは飛行機になりますから」
「ああ、そうなんだ。それは重ね重ね残念。でもその分、我が家に早く帰れるのは悪くはないかな」
「ファーストクラスですし」
「いいね。あなたの歌のサービスが付いてないのは少し寂しいけど」
「なにかリクエストはありますか?」
「いいのかい?もうだいぶ歌ったよ」
「大丈夫です。これも仕事ですから」
二つの笑い声が背もたれを挟んで聞こえ、それがバスの天井にぶつかって混ざり合って消えると、キャサリン運転手はこの日何度目かの、すでにお馴染みになった曲を、歌いはじめます。その歌は永い間、ウッドストック氏の母上のお気に入りだったとか。
まるで子守唄を聴いてるかのように、またうとうと眠りに落ちてしまうウッドストック氏です。でもそれはキャサリン運転手の歌に特別な催眠効果があるからという意味ではありません。日中に眠りながら否応なしに脳味噌をフル回転させられた七人の図書館職員は、誰もみな、目を覚ましたあとも眠くて仕方がないのです。
夜になると彼らはネイチャーX社が用意した五つ星ホテルのスイートルームに宿泊する手筈になっていたのですが、そのせっかくのセレブなサービスを享受できた図書館職員は誰もいませんでした。ホテルの部屋にたどり着くなり、一人残らず泥のように眠り込んでしまうからです。彼らにしてみれば、そこでようやく本当の眠りにつけるというわけです。
ネイチャーX社の特別なゲストたちは、シャワーも浴びず、歯も磨かず、服を着たまま大きなベッドに倒れこむようにして横たわります。まるでそのままベッドに吸い込まれていって、〈世界一不潔な公衆トイレ〉よろしく下の階までめり込んでいきそうな勢いです。
三夜連続で夢も見ない眠りに落ち、モーニングコールが鳴るまでの間、図書館職員たちはスプリングの良く効いたベッドの底にひたすら張り付いています。
七人の眠る賢者と同じぐらいに疲れ果てているのは、四十九人のヒゲ幽霊たちです。夕方になって一日の仕事を終えた彼らは、途中の墓地で一斉にバスから降ろされます。そこに並んでいる墓石は彼らにとっての〈どこでもドア〉なので、その気になりさえすれば、慣れ親しんだ地元の墓地に帰ることもできるのですが、彼らの中にも、もう誰一人そんな余力が残っている者はいません。
とくにウッドストック氏のバスで飲めや歌えのフリーコンサートを繰り広げていたヒゲヒッピーたちの疲労の影は色濃く、もはやバスから降りる気力さえ残ってはいないほどで、まさにウッドストック・フェスティバルが終わったあとの焦燥とした若い男女たちそのものです。でも彼らの祭りは終わってはいません。まだ明日の仕事があるのです。
そこで登場するのがその日のためにわざわざ開発され、バスの後部座席に備え付けられた特製クリークです。クリークとは小川の意味です。後部座席からヒゲ幽霊だけを押し流す水流が発生するのです。ある者は座席にパンツを置き忘れたまま、ある者は補助席にブラジャーを置き忘れたまま、ヒゲヒッピーたちは通路を流されていき、プールのすべり台よろしく水しぶきを上げながら扉の開いた昇降口から一斉に車外に放りだされます。
ちなみに特製クリークの水はノーデットには見えず、まったくの無害で、濡れる心配もありません。もしかしたらそれはダイソン社製の特製クリークなのかもしれません。
堪らないのは、ヒゲヒッピーたちです。彼らは肩を組み、腰に手をまわしながら、薄暮の道をトボトボと墓地に向かって帰っていくのでした。
共にゲストのはずなのに、踏んだり蹴ったりな彼らではあります。人使いの荒いネイチャーX社です。
ウッドストック・フェスティバルの開催期間はほぼ三日間でしたけど、ヒゲヒッピーたちのフリーコンサートも、日中だけとはいえ、三日間つづけられます。夢の中の読書会とまったく同じ日程だからです。
初日に飛ばし過ぎ、体力を使い果たしてしまったヒゲヒッピーたちですが、彼らもまたほかのヒゲ幽霊同様に驚異的な回復をみせます。やはり私たちとは体の構造がどこか違うのかもしれません。
驚異的な回復をみせるのはヒゲ幽霊たちだけではありません。図書館職員たちもまたホテルのモーニングコールを耳にするころには脳のリセットを完了させています。
期せずしてウッドストック氏のための子守唄となったキャサリン運転手が歌う『サークルゲーム』は、六人の図書館職員もアパートの屋上で何度か耳にしたでしょう。
彼女の歌声を聴き分けられたのは本来ならウッドストック氏だけですが、もしかしたらターザンの木も聴いて、さらにはその歌声を聴き分けていた可能性があります。
というのは、七人の賢者たちが『ピュンピュン丸』のヒゲ所長よろしく屋上で結んで作りあげたヒゲのサークルは、ウッドストック氏を中心に七本の人間の柱を間々に置いた直径五メートルほどの半円となって、ニョロニョロ伸びたその二つの先端が、最後にはターザンの木が植えられた屋上菜園の土の上に垂れ、その土塊に触れていたからです。すべてのコードが正しく繋がれ、無事に回線が開通したというわけです。
屋上の図書館職員はまるでターザンの木を師と仰ぐ七人の使徒たちか、あるいは読書会のためにアパートの屋上に集まった七人の人々が、土に立っている木の形によく似たモノリスを偶然発見したかのような様子でした。彼らは唐突に旅の本当の目的を知らされ、さらにそれを即座に理解し、その場で黒いモノリスに向かって自分たちの言葉を教えはじめるのです。
朗読は反時計回りに行なわれました。図書館職員たちは自分の番がめぐってくると、それぞれ切りのいいところまで物語をターザンの木に語って聞かせます。七つの物語が、さらにその一語一語に関連付けられた無限の物語と連なって、言葉のゲリラ豪雨のごとく、五本指の形をした木の先端へと次々に降りそそぎます。
観葉植物にクラシック音楽を聴かせるといいみたいな話は、実際の効果の程は別にして、時折耳にするところです。ただ、木に本を朗読してあげるといいみたいな話はこれまで聞いた経験がありません。音楽と物語にはかなりの隔たりがあります。たとえそれが品種改良によって造りだされた未知のプラントであったとしてもです。「もしかしたら私たちはみんな、アメリカのベンチャー企業にまんまと騙されて、ロサンゼルスに着いた途端に身ぐるみ全部剥がされてしまうのでは?」といった疑心暗鬼が心の中からフツフツと湧きだしてきます。
それでも私は森の樹木たちがなんらかの方法でコミニュケーションをしているという話はどこかで読んだ記憶があります。しかもそれは植物だけでなく、森で暮らす鳥や昆虫までも含んだ大きな生態系でのお話でした。私たちが暮らしている世界には、人間たち限定の社会とはべつの、でもどこかで繋がっている、社会が存在している可能性がありそうです。大きく括ったなら、地球は様々な姿形をしたコミュニケーションに溢れた惑星であり、ターザンの木は、そこにあらたに加わった一員なのかもしれません。
映画『ウッドストック』には悪天候でフェスティバルが途中中断するシーンがあります。朗読と音楽とヒゲのフェスティバルと化した感のある夢の中の読書会にも、大詰めとなった三日目の午後に一度だけの中断がありました。
とはいっても、マトリックスの街に言葉は降っても本当の雨は降りませんし、フェスティバルを中断するような嵐なんて起きやしません。ただ広い視野でとらえたなら、あるいはそれも一つの気象的な変化ではあったかもしれません。
その広い意味での気象的変化は、ちょうどウッドストック氏の長い長い朗読の間に起きました。ただその間、手にした本に視線を落としつづけていた氏はまったく気がつかず、自分の番が終わって、ようやく次の図書館職員にバトンを渡すかのように横を見上げたときに、隣の背が高い女性の職員が、まるで朗読なんて忘れているみたいに、そして実際に忘れていて、一心にターザンの木の方向を見つめている姿を目撃したのです。
それでウッドストック氏はつられて顎を上げると、やはり朗読のことなどどこかに忘れてしまいました。本を読み上げている間に、ターザンの木がその姿を変えていたのです。いつの間にか丸いロールパンめいた形をした白い雲を、帽子みたいに頭にかぶっているのです。
つづく