ターザンの木教習所⑯
みなさんは世界最古の読書会が、いつどこで、どんな書物をテーマにして開かれたか、ご存知でしょうか?慌ててウィキペディアで調べようとしてもダメです。そんな好事家でも見当がつかない無理難題な項目は、現代の電子的な百科事典にだって載ってはいません。もちろん私だって知りません。
世界最古の読書会がどんなものだったか、それはどなたかエベレストの高みのごとく博識で、太平洋のように広い心の持ち主が、ウィキペディアのページに記事を書き加えてくれる、その日がくるまで想像するしかありませんけど、世界で一番不思議な読書会ならば私もヒゲ越しに聞いたことがあります。
ただ、私が耳にした、あるいはヒゲにした、世界一不思議な読書会は、じつはこの世に二つ存在します。それは「アガサが暮らすアパートの屋上で開かれた読書会」と、「アガサが暮らすアパートの屋上で開かれた夢の中の読書会」の二つです。もちろんどちらもまだウィキペディアには載っていません。
世界で最も不思議な二つの読書会である「アガサが暮らすアパートの屋上で開かれた読書会」と、「アガサが暮らすアパートの屋上で開かれた夢の中の読書会」とは、文字通り読書界の双子のように良く似ています。
二つの会は参加者も、そこで読まれる本も、まったく同じです。金網のフェンスで囲まれた屋上に並ぶ参加者の、その並び方から、服装、読書会日和のいい天気まで、瓜二つです。これではどちらが夢の中の読書会で、どちらがリアルな読書会なのか、迷ってしまいそうです。まして夢を見ているときに、人はそもそも自分が脳内のかりそめの世界にいるとは気がつかないものです。「鶏と卵はどちらが先?」と考える以前に、そもそもどっちが鶏で、どっちが卵なのか、見分けがつかないのです。私たちが夜に夢を見ているとき、それがうたかたの物語だったと悟るのは、いつもきまって枕の上で目を覚ましたあとではないでしょうか?
夢バージョンの読書会は、言ってみれば本番の日のための予行練習みたいなものです。それは式当日の何日も前から行われる、学校の卒業式の予行練習に似ています。
ちなみに私は、わざわざ大切な授業をつぶしてまで在校生と卒業生を体育館に集合させて執り行われる、あの卒業式の予行練習が大好きでした。まるで自分たちのお葬式に立ち会っているかのような、ちょっとだけ未来の別れを先取りしてるみたいな、奇妙な感じがしたからです。
学園生活の中で、文化祭や体育祭が祝祭的な喜びの行事としてあるのなら、卒業式は最も社会的で、それ故に感傷的にならざるを得ない行事として存在しているのかもしれません。小学校、中学校と、私が通っていた学校には必ずその予行練習がありました。ただ高校に入ってからはなくなり、大学でもなかったような気がします。大人に近づくにしたがってお別れの予行練習には特別な価値がなくなっていったようです。あるいはそれは社会にでたあとの、別れが日常化していく生活に慣れさせるための、それ自体が消極的な予行練習であったのかもしれません。
読書会の予行練習を見たとき、人はそれを「まるでマトリックスのよう」とつぶやくでしょう。そこでは書物が公衆電話であり、ヒゲが電極の役目をした、ポートランド髭の可視化された世界です。
私なら「天国に一番近い読書会」と呼びたいところです。でもそれはアパート屋上の空の下で開催されるからという意味ではありません。ただ単にその読書会の予行練習のためには幽霊たちの影ながらの参加が欠かせないからという意味です。
さて、ここでみなさん、「図書館職員の頭の中には書物が眠っている」という私の言葉を憶えていらっしゃるでしょうか。油断大敵です。私はあなたに話しかけています。これはアガサとターザンの木の物語であると同時に、あなたの記憶力の物語でもあるのです。
そうです、図書館に永年勤めている彼らの脳味噌の底には、知らず知らずのうちに降り積もった物語の粒子が、それこそ樹木の年輪のように幾重にも重なっているという、あのお話です。
図書館の誕生以来、あるいは恒常的な図書館職員の誕生以来、これまで一度も注目されることのなかった、彼らの頭の中に眠る幾億幾千万の物語が、ついに活かされる日がきたのです。そのためにヒゲ幽霊たちは、はるばる墓の下から日中の睡眠を覚まされた次第です。
ヒゲ幽霊たちにとって皮肉だったのは、眠りから起こされて対面したのが、バスの車内で眠るアンデッドならぬノーデッドたち、つまり生きた人間たちだったことです。彼らにしてみれば、どうして死んでいる我々が真っ昼間に働いて、生きてる人間が寝ているのか、というところです。でもそこは寝てはいてもかつて知った面影のあるノーデッドたちでもあります。ヒゲ幽霊たちにとっては百年もつかの間の瞬きです。彼らは誰もみな気さくに、口元のものたちを海底に住むタコの脚のごとく、ビルの群れに絡みつく摩天楼を襲った超巨大タコの脚のごとく、ニョロニョロと伸ばしては、それを繋げ、最後にその二つの先端を本を膝にして眠っているノーデッドの二つの先端と結んで、バスの車内に長い長いカイゼル髭のサークルを出現させるのです。
それはヒゲによるスーパーコンピューターのごとくです。アメリカ中にある一般家庭のパソコンをネットワーク化して巨大な一台のスーパーコンピューターを創造するのです。あるいはアメリカ中の樹木の根を地中の菌で繋げて、葉という葉をすべて揺らし、天国に向かって声を届けるのです。それは地上で一番大きな自然の楽器となるでしょう。
七人のヒゲ幽霊たちが作り出した七つのサークルは、それぞれのバスの車内で空の星雲を型どった思い思いの歪な円を描きます。というのは、彼らもまた図書館職員たちと同じように、それぞれ自由に好きな座席に腰掛ける権利があるからです。
疲労は重力に似ています。あの光でさえ重力には逆らえません。それと同じように、霊たちもまた疲労とは無縁ではいられないようです。しかも彼らはゲストであり、そもそも銀色バスの車内はガラガラなのです。
ただそれだと、特に歌い踊る移動祝祭日と化したウッドストック氏の乗ったバスなどでは、ヒゲ幽霊たちが車内を動くたびに、彼らに繋がった長いものが絡んでしまいそうで困ります。でも心配はご無用です。なぜならカイゼル髭のネットワークはそのネットワークもくぐり抜けてしまうからです。ここでは星雲と星雲が衝突しても、新たな星々は誕生しないというわけです。
ヒゲ幽霊たちの仕事は、図書館職員の頭の中で眠っている膨大な量の物語を、彼らの膝の上に置かれている七つの書物の言葉に関連付けることです。
それはとても時間と根気のいる作業です。ヒゲピープルといえども、それが務まるのはヒゲ幽霊ぐらいなものです。そしてそのヒゲ幽霊をもってしても、すべての言葉を関連付けるのに、七人がかりで三日はかかります。つまりそれはバス旅行のほとんど全ての時間ということです。
図書館職員たちはその間、車内で眠りつづけています。ウッドストック氏に至っては、お気に入りの連続配信ドラマだけでなく、バス旅行でもう一つ愉しみにしていた、アメリカの風景を好きなだけ眺めるという願いもお預けです。
バスに乗っていた時間の中で、ウッドストック氏が唯一眺めることができたのは、どこか見晴らしのいいトウモロコシ畑の大地に、赤々とした夕陽が沈んでいく光景だけでした。
それは旅の終盤、仕事をやりとげたヒゲ幽霊たちがバスを降りていったあとの出来事です。田舎の道端にバスを停めたキャサリン運転手が運転席を離れて氏の肩を叩き、その永い眠りから起こしました。そして窓の外を指差し、オレンジ色に染まった車内でまだ眠気眼でいる氏の耳元にこうささやいたのです。
「ほらご覧になって、ウッドストックさん。綺麗な夕焼け」
想像することと、夢を見ることは似ています。人間が想像できることは、人間が必ず実現できるとも言います。
もしもそれが本当なら、人間が実現してきた物事というのは、それ以前に人間が想像してきた出来事の、最古の図書館の、ヒッピーのヒゲ幽霊の、地上で一番大きな自然の楽器の、集大成なのかもしれません。私たちは子供の頃からずっと夜になって布団の中で夢を見ながら、人知れず想像の訓練をしてきたのかもしれません。
つづく