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ターザンの木教習所⑭

『マンデーマンデー』は60年代にヒットしたアメリカのポップソングです。キャサリン運転手がどうしてそんな古い歌を唐突に口ずさみはじめたのか、ウッドストック氏には知る由もないですけど、やはり60年代にロックミュージックの洗礼を受けた大勢の若者たちの一員である両親に育てられた氏にしてみれば、それは子守唄とも呼べそうなぐらいに馴染み深く懐かしいものではありました。コーラスだって一糸乱れずハモれるぐらいです。

ただそのときの氏は、たとえ子煩悩なメリー・ポピンズに一緒に歌うように催促されたとしても、迷子になった子供みたいにそんな気持ちにはさらさらなれないようでした。墓地という、あちらとこちらの境界線上に存在する土地が彼に与える混乱に、雪山のテントで凍える登山家よろしく、あるいはエクソシストを前にして聖書の言葉を唱える神父よろしく、バスの窓際の席でじっと耐えつづけている真っ最中だったからです。


キャサリン運転手の鼻歌コンサートは、『マンデーマンデー』を歌い終わっても幕が下りません。さらに数曲が歌い継がれ、バス車内は、さながら〈キャサリンの鼻歌オンステージ〉的な様相を見せはじめます。

七人の賢者の一人であるウッドストック氏ならば、途中でこのバス旅行の本来の目的を思いだし、案内役ともいうべきキャサリン運転手に逆に注意すべきだったのかもしれません。「こんなに休憩ばかりしていたらマズイことになるのではないかな?」とか。「時間通りに教会へならぬ、私たちは時間通りに読書会へ」とか。

しかしそのウッドストック氏自身が緊急事態にあったわけで、とても誰かに注意を促すような芸当はできそうにありませんでした。しかもバス車内に人は当然ウッドストック氏とキャサリン運転手の二人だけなので、〈キャサリンの鼻歌オンステージ〉はここにいたって、かの有名な〈ジャイアンコンサート〉とよく似た構造を見せはじめる始末です。


幸いだったのは、キャサリン運転手が決して音痴ではなかったことです。彼女の歌声は、機嫌のいい、ちょっとハスキーなジュークボックスめいていて、むしろウッドストック氏の気持ちを少しずつ落ち着かせるのに役立ちました。陽気なキャサリンが歌う曲は、J・ミッチェル、B・ディラン、モンキーズ、ビートルズと、氏にはとりわけ懐かしい、子供の頃にいつもどこかで流れていた60年代のヒット曲ばかりで、都会にあらわれた緑のオアシスよろしく、彼に深呼吸を思いださせたのです。

ウッドストック氏はバスの窓を開けて、ときどきまだ涼しい五月の若々しい微風を車内に招き入れます。キャサリン運転手が『ターン!ターン!ターン!』を歌いはじめると、ついにサビの歌詞を一緒になって口ずさむまでにその精神は回復をみせます。

それが出発の合図です。キャサリン運転手は背後の座席からたしかに聞こえてくるゲストの歌声に、楽しそうに首をリズミカルに振りながら、バスの扉を閉めるボタンを押して、遅れをとり戻すべく、ロサンゼルスに向かう銀色の宇宙艇を発車させます。


こうして『大きなお世話ブログ』の第一回目(!)を書きつづけていると、そのときのウッドストック氏と、今の私が置かれている状況にはいろいろと似ている部分があるのが分かってきました。

ウッドストック氏は私の先輩です。ついさっきまで、そしてまさにこれから、私が経験し、経験しようとしている数々の出来事を、氏はすでに数年前に身をもって体験しているようなのです。

ただ、その仕方が私とウッドストック氏では少々違っています。中には光と影のごとく対照的だったりします。私はここでその例をいくつか書きだし、ウッドストック氏の旅の様子をみなさんに伝えることによって、七人の賢者たちが行った旅の様子の一端をみなさんに伝えたいと思うのです。


例えば、私とウッドストック氏は共にロサンゼルスを目指します。私はこれがはじめてのフライトですけど、ウッドストック氏にとっては60年代のヒット曲みたいに懐かしい旅路です。

もっとも彼はなにも憶えてはいないかもしれません。読書会に向かうバス旅行は、遥か半世紀も前に若かりし日の氏の両親が、まだ赤ん坊だった彼を中古のHONDA車に乗せて、西から東へとニューヨーク郊外の牧場目指してひた走ったロードムービーをちょうど逆回転させているかのようなのです。そのとき銀色のバスは東から西へと向かう路上で、ハイウェイを疾走するUFOのごとく、光るタイムマシンと化すでしょう。ウッドストック氏の記憶は、巻き戻される時計の針めいて、現在から赤ん坊へと還っていくかもしれません。


例えば、ウッドストック氏の相棒がキャサリン運転手であるなら、私の相棒は、空港内の安全を司る警察犬のシェパードくんです。

マックブックから流れる音楽が就寝中のご自慢のお耳に届いたのでしょうか。そのメロディと歌声から、眠らずにどこかで目を開いている人間の存在に気がついたのでしょうか。それはついさっき、首輪に繋がった重たそうな手綱を音を立てて引きずりながら、停止したエスカレーターの階段を一頭だけで昇ってきたところです。

墓地に等しく静寂に包まれたターミナル内に、突然重たい金具を打ちつけるような不気味な音が響きわたり、ついにダークサイドからの使者が私を連れもどすため、地獄から這い上がってきたのかと勘違いして、心臓が止まりそうでした。ホラー映画みたいに、鎖のついた首輪を手にしたガイコツの死神がガイコツの馬から降りて、エスカレーターの階段を一段一段昇ってきたと思ったのです。


これまで見たシェパードの中で文句なく一番立派な尻尾を持ったそれは、犬というより、ほとんど犬の化身のように見えました。まるで私の存在や、眠る人々の集落など気にも留めていないかのように目前のフロアーをノシノシと横切っては、ターミナルの正面玄関ドアに向かってこちらに背を向ける格好でのそっと鎮座したのです。

つまるところそれは、空港の警察の人たちが、いまだに霧の魔の手の中にあるのを意味してもいます。ターミナル内のどこかのフロアーで乗客の人々と同じように倒れ込むようにして眠り込んでいるのでしょう。シェパードくんは空港にただ一頭だけ残された警察関係者であるわけです。今や空港の安全は彼の肩にかかっています。

そのあとシェパードくんはこちらを一度も振り返ることなく、自動ドアの向こうに映しだされた濃い霧のカーテンをずっと見つめています。まるでその中に仕事帰りのご主人様の影が映しだされるのを今か今かと待ち侘びている大きな忠犬みたいです。キツネのそれを思わせる立派な尻尾だけが、さっきからこちらに向かって車のワイパーみたいに規則的に揺れています。


犬と私は子供の頃からの友達です。シェパードくんが本当に待っているのは、じつは仕事帰りのご主人様でないのを私は知っています。もしかしたらシェパードくんは、私のマックブックから流れる音楽を、その高性能なお耳で聞きとったのではなく、どこからか漂ってくる大好きな骨の匂いに思わず引き寄せられて、地上へと繋がる上のフロアーまで昇ってきたのかもしれません。

それでこそ私の心の友です。友情よりも、食欲優先なのです。骨好きのシェパードくんは、もちろん死神ガイコツの骨だって大好物です。


例えば、ウッドストック氏と私は眠気と戦いながら、一方は読みつづけ、一方は永遠に書きつづけます。そしてその中の言葉たちは、どちらも墓地の住人を呼び寄せます。

死神ガイコツは犬が大の苦手です。大きなシェパードなんてもってのほかです。小さなチワワにでさえ震るえあがるぐらいなのです。

死神ガイコツをその背に乗せ、空港前のアスファルトの道をコツコツと骨の蹄で叩き、凍てつく地獄の孤独を音によって表現しながらやってきたガイコツ馬は、霧の中に姿をあらわしたターミナルのドアの奥に、なにやらじっと鎮座している犬の形をした守護神の影が視界に入るやいなや、ご主人様を払い落とし、まさに五里霧中を無我夢中に逃げだしたのかもしれません。

アスファルトに投げだされて腰を強打した死神はしばらく立てそうにありません。肺なんて最初からないのに咳き込んで苦しそうです。それでも散らばった自分の骨を一つ一つ集めなければなりません。これでは元受付係の広報担当一人ですらダークサイドへ落とすのは無理でしょう。


例えば、いまだに呪われたままの私の言葉が呼び寄せるのは、死神ガイコツみたいに陰気で縁起の悪いものですけど、ウッドストック氏のそれは私とは正反対にひどくご陽気で、なおかつ縁起さえいいものだったようです。年の功なのでしょうか。氏はなにものかによって祝福された存在なのでしょうか。まるで私とは真逆です。

その日、墓地の前は朝日よりも穏やかな、そこから天使が姿をあらわしそうな、光に包まれていたそうです。彼らご陽気者たちは、その場所で朝の通勤客みたいに列を作り、バスがやって来るのを待っていました。ただ、彼らの身なりは普通の通勤客とはかなり違っていたようです。ある者は古いアコースティックギターを肩から吊し、またある者はタンバリンを首に掛け、みんながみんながすでに栓の開いた茶色いビール瓶を手にしていました。


彼らはみな若く、陽気な笑みをたたえ、男も女もビーナスのように長い髪をバンダナやカチューシャや色とりどりの花飾りで留めています。時代遅れのベルボトムのジーンズやパンタロンを好んで履き、顎と鼻の下には、髪と同じぐらいに長いヒゲを、男も女も生やしています。時計を持たない音楽旅団のようにも見え、手にしたビール瓶は神話にでてくる杯のごとく、呑んでも呑んでも決して尽きることのない、魔法のバドワイザーです。

やがて銀色のバスがやったきて、彼らの前で止まります。その扉がエンジン音よりも大きな音を立てて開くと、カチューシャと花飾りの若い女たちが『マンデーマンデー』のコーラスを合唱しはじめます。


つづく



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