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ターザンの木教習所⑬

「ウッドストックさん、招待状はお持ちですか?」

リュックを背負った登山者みたいにバスのタラップを昇ってきては、休憩場で一息吐くような様子の氏に、ネイチャーX社の女性運転手は尋ねました。彼女は眼鏡を掛けた大柄な黒髪の中年女性で、白人男性にしては小柄なウッドストック氏と並ぶと、まるで大人と子供のよう、社用バスの車内は一瞬スクールバスに変身します。

運転手の女性は緑色したCEOの招待状の文面を、宿題を採点する学校の教師よろしく黒縁のレンズ越しに目を通したあと、それをズボンのポケットに仕舞おうとする年長の生徒に再び尋ねます。

「本はお持ちですか?図書館で借りた本です」

ウッドストック氏は頷いて背中のリュックを降ろし、その口からハードカバーの電話帳めいた、間違って落とそうものならつま先に激痛が走りそうな、扉を覗かせます。運転手が頷いてみせると、彼はリュックを背負い直しながら、目の前の女性がどうもただのドライバーでも、バス運転手の身なりをしたCEOの代理人というだけでもなく、摩訶不思議な旅の、マジカルミステリーな旅行代理店の、案内人でもありはしないかと妄想しはじめます。氏は尋ねます。彼女が生まれながらに持つ言葉の響きの中に、秘密を解くヒントが隠されているのを期待するかのように。

「あなたのお名前は?」

「キャサリンです。どうぞよろしく、ウッドストックさん」


バス中央の座席にリュックを置いて窓際の席に腰を下ろしたウッドストック氏は、図書館で働くようになってからその日はじめてバスの車窓を通してニューヨーク公共図書館の開館前の朝の勇姿を眺め、少し不思議な心持ちになりました。その歴史ある図書館には利用者のほかにも毎日大勢の観光客が訪れるそうですけど、まるで自分が観光バスに揺られて訪れた、その中の一員になったかのような錯覚がしたのです。

図書館職員でありながら観光客の視線も得た氏の瞳に、目の前の建物はまるで無数の書物の文字によって上書きされたホワイトハウスを夢想させるほど立派に映り、トイレの内側の便器から建物全体に仄かな白い輝きを放っているかのようでした。


バスのエンジンを掛けて出発する前、キャサリン運転手は大きな体の向きを変えて運転席から振り返り、ウッドストック氏にガイド役としての旅の心得を話して聞かせました。

「私がCEOから特に注意された事項は二つあります。一つ目はあなたを予定の時間通り無事に目的地まで送り届けることです。二つ目はあなたの読書と睡眠の邪魔をしないことです、ウッドストックさん」

氏は一つ目の注意点には素直に頷きましたが、二つ目のそれには驚きを隠せないようでした。そもそも読書好きとは呼べない性格でしたし、二泊三日の旅の間にはストリーミングサービスによるシリーズ物の長編ドラマを鑑賞するつもで楽しみにしていたからです。氏の頭の中には、さっき仕舞ったばっかりの、漬物石みたいに重たい書影がチラつきはじめます。

「読書なら向こうに着いてからすればいいんじゃないかな。そのための読書会なんだしね」

ウッドストック氏によるささやかな抵抗がはじまります。ただそれはキャサリン運転手の言葉と彼女が着た黄色いベストの光沢によっていとも容易く弾き返されてしまうのです。

「いいえ、それではダメです、ウッドストックさん。本は必ずバス移動の間に一度読み終えてもらうように言われています。もしお気に召さないようでしたら、残念ですけど今すぐバスから降りてもらうことになります。そうなったら私たちは、直ちに八人目の図書館職員を迎えにいくでしょう。そのためのリストもすでに手元にあるんです」


朝の賑やかなマンハッタンの通りにいながら、大小な二人は風変わりなデザスター映画の只中にいる人々のようでした。ウッドストック氏はバスの窓際の席から通路側に身を乗りだし、キャサリン運転手もやはり運転席からその巨体を傾け、まるでなんらかの事情によって変な体勢のまま身動きができなくなってしまい、どうにかその体勢で車内の読書に関するお互いの合意点を発見しようと会話を試みているかのようでした。それでも二人の座席の間は遠すぎず近すぎず、見えすぎず見えなさすぎず、これから二人切り閉じた空間で旅をするのには適当な距離感ではあったみたいです。

「どうして私が七人のうちの一人に選ばれたんだろう。図書館司書でもなければ、読書好きでもない、ただの清掃人なのに」

「でも奥様は図書館の館長でらっしゃいます」

「うん。私より妻が選ばれるべきだった。私の妻は夫なんかと違ってなにより本が好きでね」

「それでは、もしここでバスをお降りになったら、奥様はきっと悲しまれますね、ウッドストックさん」

「ふむふむ」

氏は再びリュックからゴソゴソとおもむろに漬物石を取りだし、今度はそれを両膝の上に置きます。そして表紙に並んだタイトルをしげしげと眺め、やはり何度見てもどうしてこんなに厚い、分不相応な、本を自分が選んだのか理由がさっぱり分からず途方に暮れながら、時間もないのでどうにかこうにか自分自身を無理に説得して扉のページを開きます。

それが出発の合図です。キャサリン運転手はバックミラー越しにたった一人の乗客が静かになったのを見届けたのち、エンジンを始動させます。バスが宇宙艇のような未来の音を立てるのはそのときです。


ようやく勤め先の図書館に別れを告げ、走りだしたバスの車内で本の扉を開いたウッドストック氏です。ただ自分の置かれた状況について、まだ完全には納得していなかったようです。

特に合点がいかなかったのは、「読書と睡眠」という相反する二つの行為が並んでいるところです。誰が考えても直ぐに分かりそうなものです。寝ながらの読書は不可能です。寝ながらできるのは、読書する夢を見ることだけです。マーロン・カール氏からのキャサリン運転手への伝令は明らかに矛盾しているのです。まるでキャッチ=22です。

二泊三日のバス旅行中に電話帳並みに分厚い本を読破するのが至上命令であるなら、ウッドストック氏の座席方向から、おびただしい音量の、バスのエンジン音より大きな、いびきが聞こえてきた場合、運転手は直ちに然るべき安全なスペースにバスを止め、氏を叩き起こすのが筋というものです。あらかじめ眠気防止対策を設けておくのもいいかもしれません。

それなのに、ロサンゼルス行きのマジカルミステリーなバスの車内ではむしろ眠る行為が推奨される始末なのです。これはどういうことなのでしょうか。


大きな河に架かった大きな橋を渡り、バスが次第にマンハッタン島を離れて、摩天楼が黒い小さな山脈のように見えはじめる頃には、本のページを捲るウッドストック氏の指先の動きは早くも滞りがちになっていました。座席でコックリコックリしたあとに、いけないいけないと頭を振って、それでもまたしだいにコックリコックリしてしまうのです。

もともとが細かな字を読んでいると眠くなりやすい体質ではあったようですけど、なにぶん最近ではそこに年齢的な条件も加わっていたのです。こんな有様では二泊三日のバス旅行の間に、氏が電話帳めいた本を読破するのが不可能であるのは誰が見てもあきらかです。


ウッドストック氏が目を覚ましたとき、銀色のバスは走るのを止めて、朝はじめて見たのと同じように、ふたたび歩道につけて停車していました。

きっとキャサリン運転手が運転席で休憩をとっているのだろうとウッドストック氏は思い、どの辺まできたのだろうと窓の外を見やると、視界にぼんやり映ったのは、広場を囲った鉄製の網の柵で、目を細めてさらに奥に視点を合わせると、そこは陽光が降りそそぐ芝生の緑に白い墓石が整然と並んだ、牧場のように広い共同墓地でした。

ウッドストック氏は急に落ち着かない気分がしてきました。ついさっきまでの眠気もどこかに消えていってしまったようです。休憩時間を返上して、直ぐにキャサリン運転手にバスを発車させてもらいたいぐらいです。というのも、氏にとって墓地は長らく鬼門の場所だったのです。


べつに宗教的な理由があるわけではありません。お墓に嫌な思い出があるわけでも、お墓が怖いというような子供じみた理由でもありません。

強いて言うなら、それはウッドストック氏の個人的な決まり事に関係しています。奥様ですら知らない、ある日を境に誕生した氏のおかしな生活スタイルです。ウッドストック氏はいつの日からか、はじめての場所に訪れたときには、無意識にその場所の清掃人になった自分の姿を必ず想像するようになったのです。その行為は、大切な御守りのような精神的な効果を氏に与えます。

ウッドストック氏の考えでは、清掃人は日の出に似ています。清掃人は世界を日々更新します。それがなにかしらの文明に属する場所や建造物である以上、そこには必ず清掃人がいて、そこにあるものたちと世界とを結びつけているのです。それがウッドストック氏の自らの職業に対する基本的な考え方です。文明のあるところには必ずモップと箒を持った番人がいるというわけです。

ところが墓地だけは少し勝手が違うようです。なにしろそこは死の世界の入り口です。死の世界の入り口と、こちらの世界とをどう結びつけるのか、それはなかなかの難問です。ウッドストック氏はいまだに一度も墓地の清掃人となった自分の姿を想像できずにいます。白い墓石の並んだ緑豊かな土地は、その長閑な風景とは逆に、氏をひどく不安にさせます。


休憩を終えたキャサリン運転手が再びバスのエンジンを掛けるまで、座席に低くうずくまり、両目を固く閉じる体勢に入ったウッドストック氏です。読書する余裕はこの状況ではありません。本は隣の座席にうっちゃりです。動かぬこと山のごとし、氏の意志に反してさっきからゆらゆらと動いているのは長いポートランド髭だけです。

バスの空調でしょうか、それともなにかがウッドストック氏の長いポートランド髭に触れたのでしょうか。でもそれはおかしな話です。ポートランド髭は誰の瞳にも映らず、誰も触れられないはずだからです。空気でさえもです。ポートランド髭が揺れるのは、髭の持ち主が動いたときだけです。


髭はたしかに揺れています。誰かがウッドストック氏の髭に触れているのでしょうか。まるで抱っこされた赤ん坊が、面白がって父親の髭を引っ張ってるみたいに。遊びながら、まだ名前も分からない父親に大事なメッセージを送りつづけているみたいに。

ウッドストック氏の耳に聞こえてきたのは姿の見えない赤ん坊からのメッセージではなく、キャサリン運転手の鼻歌でした。もしかしたら彼女はそのとき、心配性で妄想癖を持ったゲストの神経を少しでも和らげようとしていたのかもしれません。気持ち良さそうに運転席でママス&パパスの『マンデーマンデー』を歌っているのです。しかもそれはコーラス付きなのです。


つづく



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