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ターザンの木教習所⑩

それは警備員だけでなく、あなた自身にとっても思ってもみなかった展開です。会社の管理職の地位にいる勤め人を図書館へ連れていくなんて。まるで馬の耳に念仏か豚に真珠的な愚かで浅はかな行為ではないでしょうか。

こんな例はこれまでに一度だってありはしませんでした。そのために図書館は、丸の内の企業で働く平社員たちの避難所だとばかり思い込んでいたのです。

でもそうではなかったようです。ついに管理職の逆襲がはじまったのでしょうか。下克上のそのまた下克上の季節が到来したのでしょうか。

たとえそうであったとしても、あるいはそれは仕方のない流れなのかもしれません。部長の鼻の下に薄っすらとした、吹けば飛ぶようようなカイゼル髭が生えはじめているのは事実なのですから。馬や豚にはハタ迷惑な話ではありますけど、いいえむしろ馬や豚にハタ迷惑な話であるからこそ、私たちは、新しい仲間が誕生した現実を歓迎すべきなのかもしれません。


そのときのあなたの驚きようといったらありませんでした。あなたは社員たちが腰掛けた会議室の机のまわりを何周もしたのです。なにしろあなたのカイゼル髭が、この部屋にあらたな仲間の存在がいるのを告げているのに、それがいっこうに見つからない状況だったのですから。いつもなら真冬の一番星を見つけるほどに容易な作業であるはずなのに。

そんな事態はこれまでになかったわけです。緊急事態発生です。丸の内図書館ただ一人の図書館職員の肩書きが台無しです。終いにあなたは、平社員一人一人の顎をグイッと持ち上げては、念入りに彼らの鼻の下を覗き込む始末です。それでもカイゼル髭の持ち主は見つからないのです。


もしかしたら焼きが回ったのかもしれません。図書館職員を引退するときがやってきたのかもしれません。

椅子に座った平社員たちの視線があなたに集中します。事態を理解できていない彼らは、まだ自分があなたに選ばれると信じて疑わずにいるようです。たとえその目にポートランド髭が映らなくとも、彼らも知識として知っているのです。「どうぞ私の可愛い髭を見てください」というわけです。

その光景は、会議室がひとときのまぼろし髭の展覧会場へと変身したとでも表現したらいいでしょうか。彼らの目にはクリスマスプレゼントを待っている子供のような、特別な日だけに宿る高純度な輝きが宿っています。想像できますか、社員たちの瞳のキラキラで満ちた会議室というものを。丸の内の七人の賢者たちがかつて夢見たのはこんな情景だったのかもしれません。しかし、ああ、なんということでしょう。胸にエンブレムを付けたブレザー姿のサンタは、肝心のプレゼントを忘れてきてしまったのです。


プレゼントを忘れたサンタというものが存在するとしたら、それは赤い服を着た、ただの自虐気味のおじさんです。自虐気味のおじさんは、キラキラした視線が眩し過ぎて耐えられません。そのためにあなたの瞳は、自然と光沢のない暗いものを探し求めます。そこに一旦視線を置いて、ひととき眼を休憩させる必要があるのです。

会議室に乱入された上に、勝手に会議を中断させられた部長の顔は、完璧な負のオーラを放っています。しかしあなたの疲れた眼を休める場所として、そこは最適です。あなたの眼精疲労もまた多分に精神的なものだからです。

自虐気味のサンタクロースに訪れた安らぎの時間。ただつぎの瞬間あなたは、負のオーラとはべつの、もっと大切なものをそこに見つけて、眼精疲労もあっという間に吹き飛んでしまうのです。

それまで眼中になかった存在が、急に新鮮な意味を持ちはじめます。お目当てのものが見つかったようです。

それは絶対にあるはずのない場所にあったのです。完璧な負のオーラの中に。その中心に。吹けば飛ぶようなカイゼル髭の赤ん坊が、部長の鼻の下に。


丸の内図書館は公共の図書館ではありますが、その場所が分かるのはカイゼル髭を含めたポートランド髭の持ち主だけです。その髭はまた図書館の会員証でもあります。

それは毎日どこかのオフィスへと、蔵書ごと場所を変えてしまう移動図書館です。昨日は総合商社の本社ビルの中にあったはずが、今日は巨大広告代理店のオフィスビルの中に、明日は......といったふうに。

そのためにベテランの図書館会員(一般の勤め人たちからはリスペクトを込めて『ヒゲ社員』と呼ばれています)でさえ、図書館の場所を探し求めているうちに自分がどこにいるのか分からなくなって、もう何年も通勤しているはずのオフィス街で迷子になるケースもでたりします。長いシーズン途中のアスリートよろしく、カイゼル髭にも調子の良し悪しがあるのです。そんな迷子のヒゲ社員を街中で見つけたなら優しく保護してやるのもあなたの仕事です。

そんなわけですから、最初の貸し出しともなれば、どうしても丸の内図書館のただ一人の図書館員であるあなたの案内が必要になってくるのです。


新人のヒゲ社員の手を引いて、あなたは某有名ホテルのロビーめいた大きな油絵の掛かった広々とした大企業の玄関を、今度は透明になることなく、警備員の傍を通って正々堂々とくぐっていきます。どこかよその社員の手を引いているあなたには会議をブチ壊しにされる心配はなく、もう神出鬼没の怪盗ではないからです。部長たちも安心して会議を開ける、誰からも愛される図書館の使いというわけです。


あなたと新人ヒゲ社員はほかの誰も降りない階で会社のエレベーターを降ります。図書館は本来そのビルには存在しない階に存在しているので、エレベーターに階数は表示されません。

前方と左右のT字型に無人の白い廊下が伸びています。できたての病院みたいに真っ白ですが、どういったわけだか、どれも途中で行き止まりになっています。ただ行き止まりの壁の正面には、それぞれ三つの白いドアが中央に取り付けられていて、その三つのうちのどれか一つが、丸の内図書館へと繋がっているわけです。残りの二つを選ぶと、もとの会議室に自動的に逆戻りするはめになります。

それは特別な図書館に入館するためのテストのようなものです。言ってみれば、ヒゲテストです。三つのドアから正解の一つのドアを選ぶわけですけど、もしハズれた場合、その日の入館や本の貸し出しはナシになります。丸の内図書館で本を借りるためには、もう少し時間が必要という判断です。そんなケースも稀に発生します。なにしろ人間とそのヒゲが成せる技ですので。


丸の内図書館は変わった図書館です。一般的な図書館とはかなり違います。ただその蔵書は普通の街の図書館となんら変わりません。

それではどうしてわざわざヒゲ社員がそこを望んで訪れるのかといいますと、丸の内図書館は彼らのための公共施設であり、そこには独特なサービスがあるからです。それが人気の秘密です。

新人ヒゲ社員が廊下を進み、ドアノブに手を掛けると、上手くいけばつぎの瞬間そこには静寂につつまれた書物の世界が広がっています。失敗したら〈どこでもドア〉よろしくもとの会議室へと直帰です。なんの戦利品もなく手ぶらで帰る結果となった部長は、鉢合わせた部下たちから冷たい視線を浴びてしまうかもしれません。警備員は部長の口から不思議な図書館の体験談を聞けないかもしれません。


丸の内図書館には窓がありません。外から日光は入らず、灯りもランプのような壁の電灯だけです。広すぎず狭すぎない室内は、日中にも関わらず仄暗く、まるでホテルに改造されたヨーロッパの古城の蔵書室を思わせます。

その中世的な暗がりは、本の背表紙に印刷された題名さえ読み取るのに苦労するほどで、読書するのにこれほど不向きな図書館もありません。ただそれにはもっともな二つの理由が付属します。

その一つ目の理由は、丸の内図書館の設立には、そもそも読書をするための施設という考えが最初から取り入れられてはいないというものです。なにしろ新人ヒゲ社員たちときたら、みんな会議を抜けて来館していますから、駆け足で戻る必要があるわけです。

けれど、もしもそれだけが理由だとしたら、公共の図書館のサービスとしてはちょっとイジワル過ぎます。そこでもう一つべつの、それこそがこの風変わりな図書館の人気の秘密となっている、二つ目の理由があるのです。ただしその理由は一つ目よりはちょっと複雑です。


見事に三つのドアから正解を選んだら、もうそのときから新人ヒゲ社員は丸の内図書館の正式な会員になります。同時にあなたの物語もそろそろ終わりへと近づいているようです。

あなたがカイゼル髭に導かれて図書館が入ったビルまで到着したように、今度は新人ヒゲ社員が自らの髭に導かれながら館内へと足を踏み入れます。あなたはついに一言も言葉を交わすことなく、ドア越しに立ってそれを見守ることになるでしょう。まるで上京する我が子を駅のプラットホームから見送る親の心境です。

館内はトラック型をしていて、中央には二本の丸い柱が縦に並んで立って天井と繋がっています。新人ヒゲ社員はその柱を中心に反時計回りにゆっくり進みながら、壁に描かれた騙し絵みたいにノッペリとした本の背表紙の列を目を細めて眺めていきます。


はじめて館内に足を踏み入れた新人ヒゲ社員は、最低でも本棚に囲まれたトラックをゆっくりと三周する必要があります。

それは図書館に内臓されたコンピューターか、あるいは図書館そのものが、新人ヒゲ社員の頭の中をスキャンしているかのような特殊な光景です。そうでなければ新人ヒゲ社員と図書館が交信の設定を完了させているかのような。

古城の蔵書室でのスキャンが、あるいは交信の設定が、終了する頃、あなたは暗がりの中に遠いおぼろ月のごとく浮かぶ、ぼんやりとした小さな白い羽を見つけます。よく見ると、その羽は新人ヒゲ社員のカイゼル髭の形によく似ているようです。


図書館の館内は物語の粒子の密度がどこよりも高い場所だという話を憶えていますか?ついに新人ヒゲ社員のカイゼル髭が覚醒したようです。

さてここからがあなたの本当の腕の見せどころです。往年の海外ドラマの中で魔法使いが鼻をピクピクさせるのを見習って、ドア越しから鼻の下を器用にピクピク動かしてみせるのです。強過ぎず、弱過ぎず、わざとらしくならないように、ごく自然にです。

それは新人ヒゲ社員の赤ちゃんカイゼルをさらに覚醒させるための裏技です。慣れれば自然と一人でできるようになりますけど、最初はお手本を見せてやる必要があるのです。

興奮した赤ちゃんカイゼルはあなたのカイゼル髭を真似してプルプルと震えはじめるでしょう。さらにテンションが上がって白く発光しだすと、ついに自ら創造したエネルギーを保持し切れなくなり、自分の分身めいた光の羽を館内の暗い空間へと放出します。羽はヒラヒラと浮かび上がり、宙を漂う発光体となって、やがて棚に並んでいる一冊の本へと引き寄せられるみたいにヒラヒラ近づいていき、その背表紙の角の上に降りるでしょう。


それは水の循環によく似た運動です。かつて本に付着していた物語の粒子が、ふたたび本へと舞い戻ったわけです。

羽が付着した本は、装丁全体がしばし光に包まれて、本棚の蔵書に並んだ唯一の発光する書物として存在感をあらわにします。その光は新人ヒゲ社員がまだ読んだことのない、新人ヒゲ社員にピッタリの、あるいは新人ヒゲ社員が今まさに読むべき、一冊の本の印として、彼らをそのもとへと導いていくでしょう。


つづく



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