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ターザンの木教習所⑨

あなたは不思議に思うでしょう。どうして丸の内の勤め人にポートランド髭を生やした人たちがいるのかしらん、と。物語の粒子は海の向こうの大陸にしか存在しないという話ではなかったかしらん、と。

なかなかいい記憶力です。ご褒美にスミソニアン博物館が所蔵する記念切手を一枚差し上げたいほどです。スミソニアン博物館が記念切手を所蔵してるかどうかは知りませんけど。

ただ、あなたは一つ大切な条件をお忘れです。いまあなたは物語の中にいるのです。そこでならポートランド髭を生やした熊が、スナフキンよろしくパイプを咥えながら獲物の鮭を狙って、釣り堀で釣り糸を垂れていたっておかしくはありません。釣り堀に鮭が昇ってきたっておかしくはありません。


カイゼル髭が導くところ、あなたはどこにでも向かっていきます。鮭が昇る川を憶えているように、あなたのカイゼル髭は行き先を知っています。怖がることはありません。パイプを咥えた熊は存在しません。丸の内のビジネス街をまるで自分の庭のように自由に泳ぎまわります。揺れるスカートのチェック柄を鮮やかな残像として街角に残しつつ、コインローファーの踵をスマートな打楽器のように、アスファルトに、ピカピカしたビルのフロアーに、響かせていきます。

でも雨が降りだしたらリクルート活動は中止です。そんな時あなたはさっさと銀座に映画を観にでかけてしまいます。


ニューヨーク公共図書館のライオン像よろしく、オフィスビルの前で目を光らせる警備員にとって、あなたは神出鬼没の怪盗のようであり、丸の内のオフィスに勤務する部長たちにしてみたら、ようやく手にした権威を台無しにしてくれる、目の上のタンコブに等しい憎たらしい存在です。なぜなら憎たらしい図書館の使者は、部長たちの晴れ舞台である会議の途中をわざわざ狙って侵入してくるからです。

重要なのは、なによりあなたを会社のビルの中に侵入させないことです。そのために部長たちは毎朝必ず警備員を叱咤激励します。自分の部下たちよりも叱咤激励します。ときに競馬と競艇という公共ギャンブル的な共通した趣味が、二人の絆をさらに強いものにしたりすることもあります。

その二人の儀式は会社ビルの外で執り行われるので、ほかの社員たちにとっては朝の風物詩になっているようです。

ただ部長たちのミッションを達成するのは、どんなベテランの警備員であってもひどく困難です。あなたに比べたら、警備員などライオン像を前にした仔猫同然であり、すでに勝敗は戦う前からついてしまっているのです。なにしろあなたには、丸の内企業の老舗団体である丸の内商工会議所という強力な後ろ盾がついているだけでなく、ハリー・ポッター級の、あるいはそれ以上の、武器さえ持っているのですから。


よく映画や小説では人が透明になるために特別なマントを羽織ったりしますけど、あなたにそんなものは必要ありません。ブレザーの胸のエンブレムに手をあてながら上半身を屈めるだけでOKです。

それは丸の内商工会議所の顧問を務める大企業の社長七人が、あなたに与えた機能の一つです。戦後間もない高度経済成長期の夜明け前に立ち上げられたその老舗団体は、当ブログに負けず劣らず大きなお世話が好きなようです。きっと私たちは、他人からの大きなお世話が大嫌いなところまでそっくりです。


オフィスビルの玄関までやってきたあなたは、警備員の目の前で、その微笑とともに忽然と姿を消してしまいます。丸の内商工会議所の七人の賢者たちに敬意を表して、高度経済成長期の比喩を使うなら、まるで星飛雄馬の大リーグボール二号のようにです。

今度こそ部長たちの期待に応えるべく生簀の鯉でも捕まえるみたいに広げられた警備員の両腕は、凡庸なバッターのバットよろしく虚しく空を切るのみです。猫背姿で透明になったあなたは、下手な鉄砲をかわしながら、それをくぐり抜けていきます。

次にあなたの最強ブレザーが目撃されるのは、きっと社員たちに混じって涼しい顔をして一階フロアのエレベーターに乗り込もうとしているときでしょう。


易々とビルの侵入に成功したあなたは、まるで野に放たれた百獣の王のように我が物顔でビルの廊下を闊歩します。行き先はカイゼル髭が知っています。そのビルのどこかに、カイゼル髭ちょんちょこりんを生やかした社員がいるのをすでに感じとっているのです。

警備員の壁を突破したあなたの侵入を防ぐ手段は、もう会議室の扉のセキュリティーをあらかじめ強化しておくぐらいしかないでしょう。ただそれがどんなに完璧な最新のセキュリティーであったとしても、ドアの存在理由が内部と外部を繋げるものであるかぎり、あなたの侵入を防ぐのは不可能です。ふたたび高度経済成長期の例えを使うなら、あなたがドアをノックする音は、会議に参加している社員たちにしてみれば、風大左衛門にとっての民謡と同じ効果があるのです。その軽やかな旋律を耳にした風大左衛門が踊りださずにはいられないように、あなたのノックを聞いてしまった社員たちは、会議を中断してでもドアを開かずにはいられないのです。それがどんなに重要な、会社の存続を左右するような、会議であってもです。


裁判官が開廷を宣言する木槌のように、あなたのドアノックは、会議中のオフィスの空気を一変させます。時間を静止させ、部長は一瞬息ができなくなります。ノックの音それ自体が彼らにとっては全面敗訴の判決に等しいのです。

ただし部長以外の社員にしてみれば、それは嬉しい知らせです。丸の内の平社員は誰もみな、ブレザーとチェック柄のスカートの使者が、丸の内商工会議所の庇護のもとにあるのを知っています。サンタクロースはわざわざ煙突から入ってきますけど、彼らにとってのサンタクロースである図書館の使者は、正々堂々とドアをノックして登場するのです。

その音は橇につけた鈴のように、「私たちの会社にも図書館の使者がやってきた!」と告げています。平社員たちは母親の声を聞き分ける赤ん坊よろしく、はじめて耳にする図書館からの使者のドアノックを聞き分けます。会議を頓挫して席を立ちドアノブを回すのは、大抵の場合、社員の中のナンバーツーの、あるいは将来の部長候補の、役目です。


会議室に足を踏み入れたあなたは、挨拶もないまま、首を振って室内を素早く見渡し、そのあと今度はゆっくりと、椅子に腰掛けている社員たちの背後を回りはじめます。そうです、コックリさんの要領です。

部長以外の誰もが期待に胸を膨らませます。あなたはお固く退屈なものの代名詞でありそうな会社の会議室に真新しい春の息吹を誘い入れたようです。ほどなくお目当ての平社員を見つけては、その椅子の横で立ち止まり、あらたなカイゼル髭の持ち主に向かって手を差し伸べるでしょう。


その日、警備員は信じられない光景を目にします。じつは一度あなたを捕り逃がしても、警備員はまだあきらめてはいなかったのです。今度こそあなたがビルの中からでてくるところを取り押さえようと、本来の警備の仕事もど忘れして、建物の影に隠れて待ち構えていたのです。

警備員には彼なりの勝算がありました。それは、社員の手を引いて外にでてくるあなたは、決して透明人間ではないだろうという予想です。というのも、丸の内図書館は車輪の付いていない移動図書館であり、それがどこにあるのか誰も知らないのです。図書館の使いであるあなたは、きっと社員をその場所まで導いていくはずです。でも透明人間では人を導いていくことはできません。


ウッドストック氏のポーカー好きよろしく、公共ギャンブルでいつもハズしまくっている警備員の予想は、今回は見事に的中します。透明人間でない生身のあなたが、猫背ではない背筋をしっかりと伸ばした図書館の使いが、社員の手を引いて、玄関からでてくるのです。それはあなたがビルの中に消えてから、まだ三十分と経っていない出来事です。

しかしそんな予想どおりの、絶好のチャンスをよそに、警備員はビルの影で一歩も足を踏みだせずにいるのです。下手な鉄砲を撃つことさえできないのです。彼にできるのは、ただ、あなたに手を引かれながらオフィス街の通りに消えていく部長の姿を見送る静かな行動だけです。その哀れな影にようやく気がついた部長が、遠くですまなそうに小さく手を振ります。

そうして警備員はあらためて知るのです。いつもハズれている予想が、たとえ的中しても、ときにどうにもできない現実というものが存在するのを。


一人玄関に取り残された格好の警備員は、何事もなかったかのように、何も見なかったかのように、所定の場所に戻っていきます。それからビルの玄関前で直立不動の姿勢をとり、建ち並んだビルの群れを見上げ、いつか朝の叱咤激励の最中に部長から聞かされた、都市伝説めいた話を思いだします。

それは彼らが生まれる以前からこの丸の内に存在しているという、丸の内商工会議所と呼ばれる団体の逸話です。丸の内勤務一筋の部長によれば、その団体は全丸の内企業の唯一の意思決定機関として君臨していると考えられてるけども、じつはさらにその上にもう一つ別の機関が存在していて、それが丸の内図書館だというのです。


利益を追求するオフィス街で、どうして一円にもならない公共の図書館が、ピラミッドの最上位に置かれているのかというと、いつになく神妙な赴きで、競馬や競艇の話をするときにはついに聞いたことがないような声のトーンで部長が話すには、私たちがふたたび無一文になったときに、私たちの両手に残されているのが、自由と英知であるのを願って、設立時の七人の顧問たちが決定したそうなのです。

警備員はつぎの叱咤激励の最中に、部長の口からその不思議な図書館での体験談をぜひ聞いてみたいと思うのです。


つづく



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