ケーキのマーチ
そのケーキ屋がトモ子にとって最後のケーキ屋となるはずだった。
中央線の車窓に映った街灯りに、イヤホーンから聞こえる馴染みのメロディーをかさねながら、彼女はそう誓い、阿佐ヶ谷駅のプラットホームへと降りたはずだった。
しかし、実際にはその夜から、先がギザギザになったトモ子のケーキ専用の銀スプーンは、いっそう頻度を増して使われはじめたのだ。それもごく限定的に。まるで最後のスイーツと乙女の契りでも交わしたかのごとく。
『大黒屋』。トモ子が愛したケーキ屋の額に飾られた漆看板には、だいぶクスみはじめてはいるが、あきらかに墨の筆文字でそう書かれていた。
洋菓子店としてはおよそあり得ない名前に外見だった。トモ子はずっとあとになって、その名付け親が店主の実の父であったことを知る。もっとも、父親の代には、そこは駄菓子屋であったらしい。売り物は変えても、店の看板は変えないというのが、跡取りへの条件だったのだ。
元駄菓子屋は、街のクレープ屋と見間違えそうなぐらいに小さな店だった。それは『グーグルアース』の高解像度でもとても確認できないぐらいだが、トモ子にとって運が悪かったのは、人工衛星からは確認できない『大黒屋』が、地上から見れば、彼女の下宿先となる岩手出身の女子大生専用の県営寮と阿佐ヶ谷駅との、ちょうど中間地点にあったということだった。
いつもなら、どんな天気予報士よりも春のおとずれをはやく知る花粉症患者のごとく、目には見えないケーキ屋の存在を鼻先で感じることのできるトモ子であったが、さすがに衛星写真や県職員からもらった簡単な地図からは、それを感知することはできなかった。
彼女は毎日、回り道をして駅まで通っていた。トモ子は世にも哀れな、あるいはまた、ダイエット中のご婦人方にしてみれば羨ましい限りの、『ケーキアレルギー』を患った、まったく希有な女子大生であったのだ。
つい最近まで。
小学校の給食でだされたショートケーキを食べて以来、およそ十年、ケーキと名の付くものは一切口に入れないばかりか、鬼門のようにそれに近づくことすらなかったトモ子のもとに、天の啓示か、あるいは小悪魔の囁きがとどけられたのは、大学二年になったばかりの、ある夜の出来事が発端だった。
いいや、厳密に言ったなら、はたしてそれが諸々の発端であったかどうかについては、それこそ過去から未来まで見通せる天使か悪魔にでもたずねてみなければわからないところではあるのだが、その夜、サークル帰りの中央線の車窓から、悪夢の形をした二つのシルエットを、彼女が目撃したのはたしかな事実だった。
まったりとした晩春の夜霧が沿線の街並みを深く包み込んでいた。家々の窓明かりが精霊流しの提灯のように、ぼんやりといくつも浮かんで流れてゆくのが見えた。べつに週遅れの花見帰りでもないのに、トモ子はまるで甘酒に酔って夢をみているようなノボせた気分でいた。
唐突に電車の扉が開いた。霧の中に駅のホームが突然造りだされたみたいにそこにあった。
「あ、もう吉祥寺。次の次の次ががいよいよ私の阿佐ヶ谷です、先輩」
トモ子は現実と虚構の入り混じったセリフを妄想の舞台で吐いていた。現実の車内では一人吊革を握っているのだが、妄想上の車中では、憧れの三年生部員と肩を並べ、来るべき夜にそなえてシュミレーションをおこなっている真っ最中であったのだ。
「でも、どうしよう。私のマンション、女子大生専用なんです。あ、先輩、もしかして、女装得意ですか?」
たとえそれが妄想ではあっても、トモ子のセリフにはそれなりの根拠があった。先輩は変態ではなかった。二人は大学内の演劇サークルに所属していたのだ。彼女が先輩と呼んでいる男子学生は、野崎といい、サークルの部長を務めていた。トモ子の妄想の中で、二人はサークル活動の帰りに演劇論で盛り上がり、急遽その延長活動を彼女の住んでいる女子寮でおこなおうと話が決まった、という設定であった。
その日、実際のサークルのミーティングでは、秋の学園祭で発表する予定の演目が話し合われた。入部したての新入生もまじえ、総勢四十名ほどの部員たちが狭いゼミ室に一同に集まり、まるで政変騒ぎに駆けつけた新聞記者のように、蛍光灯の明かりがこぼれる暗い廊下にまでいくつもその影帽子をのばしていた。
彼ら血気盛んな芸術家たちは、それぞれ一つずつ、自分が上演したいと思う劇名を好き勝手にあげていった。その様はおよそ若き夢想家たちの名に恥じないもので、チョークでいちいち黒板に書きだされていった演目には、チェーホフの高名な現代劇のすぐ横に、『ヤッターマン』の名が正々堂々と肩を並べているような有り様だった。
それからスッタモンダの議論が二時間ほどあって、中庭の芝生を春の夜霧が濡らしはじめたころ、どうにか多数決によって四つの最終候補にまでしぼられた。
その候補の中に自分の案がのこったにもかかわらず、そしてまた、お気に入りの部長がその場を仕切っていたにもかかわらず、ゼミ室の壁に背をつけたトモ子は、一連のことの推移をずっと不機嫌なドロンジョみたいに眺めていたのだった。(話しかけるんじゃないよ、このスカポンタン)。
演目の最終的な決定は来週に持ち越され、お開きとなったサークルはそのまま飲み会へと流れてゆき、仲間たちが夜の繁華街へと消えたあとにも、トモ子は構内の中庭にのこって覚えたての煙草を一人口にくわえていた。
本当なら先陣を切って居酒屋へとなだれこんでいきたいところなのだが、今夜それを実行するのは得策でないように思われた。芝生の上を漂う夜霧よろしく、彼女は己のテンションは低くたもつように努めていた。
ある意味、その夜のトモ子は勝ち組ではあった。しかし、だからこそ、喜んではいられなかった。調子に乗っているとロクなことはない。「おだてられたブタは木から落ちる」。それが、まだランドセルを背負った頃から身についている彼女のモットーだった。さすがに当時は煙草は口にしてはいなかったけども。
トモ子は二本目に火を点けた。これを吸っているうちに居酒屋に顔をだすか、それともこのまま駅へいってしまうか、決めることにしよう。彼女は思った。
青い煙りが霧に混じって消えてゆくのが見えた。遠くからつたないトランペットの音が聞こえた。音楽サークルの新入生が居残り練習しているのに違いない。
「へたくそ」
トモ子はだしぬけに声にだして言った。ふと、それを誰かに聞かれたような気がして辺りを見渡した。もしかしたら、心配した仲間の誰かが様子を見に戻ってきたのかも。
でも、誰もいはしなかった。校内に居ついている一匹の野良猫が、警戒するように茂みの陰から目を光らせているだけだった。
それはトモ子に、昔、実家に住みついていた一匹の野良猫を思いださせた。彼女はますます自分が子供に舞い戻っていくような気がした。ある朝、家の縁側から庭先にでていったきりもどってこなかった雄猫のブチ。もしかしたら、どこかで車にぶつかってしまったのか、それとも、もっと住み心地の良い床暖房の家でもみつけたか。
トモ子はザックのポケットから携帯灰皿をとりだして煙草の火をもみ消した。このまま駅にむかうことを選択して、すっかり冷たくなったジーンズの尻をベンチから持ちあげた。
野良猫はいつの間にか霧の中に消えていた。
その時、男子部員たちは「オー」と唸り声をあげ、女子部員たちは「キャーッ」と悲鳴に近い黄色い声をあげた。
黒板にその演目が書きだされると、どこそこの監督がドラフト会議で一番クジを引いたようなどよめきが湧いた。
それらがすべてミーティングでトモ子が発言した際におきた周囲の反応だった。彼女の放った小さな振動は、その日、学内の教室で一番大きな化学反応を引き起こしたようだった。
賛同の手をあげたのはほとんどが女子部員たちだった。迎えにはきてくれなかったけども、トモ子の当座の味方はやはり同性たちであったのだ。
もっとも、賛同してくれたとはいえ、彼女たちが発案者の腹の奥底まで理解していたとはとうてい考えにくい。いいや、むしろ、それら女子部員たち一人一人が、トモ子と似たような目論みを抱いて清き一票を投じたのかも。
ミーティングも半ばを過ぎた頃、トモ子は赤い顔をしてこう言い放ったのだった。
「『花とアリス』がいいと思います」
それはある意味、学園祭の演目に『ヤッターマン』を推すことより、よほどに恥ずかしい行為であったかもしれない。『花とアリス』は、そんな一面のある作品だった。一人の男子高生を二人の女子高生が取り合うのだ。ただ、そうは言っても、そこはやはりタイトルどおり、あくまで少女コミック的に可憐に可愛いらしく。
そんなわけで、サークル帰りの中央線の車中、トモ子は彼女の可愛い野心を可憐に実現すべく、予行練習をおこなっていたのだった。
もちろん、トモ子の考える芝居の配役は、彼女自身が部長の野崎演じるところの男子高生と結ばれるヒロインその人であり、さらに言えば、劇中のカップルを演じる二人は、それが縁となって、嘘のように現実の世界でも結ばれるという筋書きであった。
それがトモ子の考えたシナリオなのだ。そして、それはトモ子の妄想の中で、演劇論の延長の末、野崎が彼女の下宿先を訪れるというシーンにまで発展していた。だが、そこは男子禁制の女子大生専用マンションだ。トモ子は、女装に代わるもっとよいアイデアはないものかしらん、と考えはじめた。
西荻窪駅のホームに人影は見えなかった。夜霧が開いたドアから乗客の代わりに入ってきた。まるで温泉郷に到着した夜行列車のような風情だった。霧は人々から視界を奪うのと同時に、それ自体が目新しい風景として、乗客たちの注目を集めていた。
女装にかわるアイデアが浮かんでこないトモ子は、ついにクローゼットに入れてある自分のワンピースを野崎に貸してやることにした。ついでに化粧道具とカツラも用意した。(やっぱり、胸パットも入れたほうがいいかしらん)。
トモ子の妄想モニターには、ニューハーフ風野崎部長の姿が、モンタージュ写真のように着々と写しだされつつあったが、その予想外のセクシーさに思わず腰が引けると、自分より女っぽくならないように、とっさに彼の口まわりに浅いヒゲあとを付け足すのだった。
すると、それに腹を立てたか、モンタージュ野崎はトモ子の頭の中を抜けだし、一人勝手に歩きだすのだった。駅のプラットホームを、霧の幕に映しだされた動画のように、ぼんやりとした野崎の姿がスウーッと彼女の目の前を横切ってゆく。
トモ子の頭は霧に包まれたように白くなった。だが、それもつぎの瞬間には真っ暗闇に。どこかで誰かが彼女のモットーを聞いていて、わざとイジワルをしているかのようだ。
調子に乗ってるとロクなことにならない。おだてられたブタは木から滑り落ちる。ブチだって二度と帰ってはこない。
もちろん、ホームを歩いていたのはモンタージュでも妄想でもなく、正真正銘の野崎本人だった。ただ、トモ子がそれに気がついたのは、野崎の胸にパットが入っていなかったからではなく、彼の横を、華奢そうな女の影が寄り添うようにして一緒に歩いていたからだ。
それは同じ演劇サークルの紗英子だった。学年も学部もトモ子と同じの。どうして二人が西荻窪にいるのか。二人は居酒屋の飲み会にでているはずなのに。(それに、部長が乗る電車は逆方向のはずでしょ。もしかして、引っ越した?私に内緒で)。
電車の扉が閉じた。二つの影は一つになってホームの階段に吸い込まれて消えた。
トモ子の一人芝居はほとんど暴力的にその幕を下ろされた。ただ、冷静に考えてみれば、それは当然の結果ではあった。サークルのリーダーとサークル内で一番の美人がカップルになるのは。妄想癖のある田舎娘の出番など、ハナからどこにもなかったわけだ。
にもかかわらず、想像の舞台で野崎とカップルを演じていたトモ子のショックは大きかった。つぎのセリフどころか、どこをどうほっつき歩いたのかも思いだせないまま、気がついた時には下宿先のある阿佐ヶ谷の通りにたどり着いていた。
なにか懐かしい匂いが鼻先をくすぐった。それがトモ子を正気にもどらせた。だが、それはもう一つの危険なサインのはずだった。
深い影からその歴史を垣間見せる古城のように、『大黒屋』の漆看板が霧の中からその姿をあらわした。日頃あんなに気をつけていたのに、知らぬ間にケーキ屋の前に立っていたのだ。しかも、時刻はすでに夜の10時を回っているはずなのに、『大黒屋』はまだ営業をやめていない。つまり、トモ子の気付け薬となったのは、店越しに漂ってくる、十年来の宿敵であるスイーツの香りであったのだ。
阿佐ヶ谷の夜の路上で、トモ子はとっさに鼻と口を両手で覆い立ちつくした。事情のわからない通行人が見たなら、きっとうら若い乙女の酔っ払いとでも思っただろう。
しかし、彼女が堪えていたのはアルコールによる吐き気ではなく、もっとべつの種類によるものだった。たしかに、人々を喜ばせ、祝福の席を飾るという点では、アルコールと似通ったところがあったけども。
トモ子は一方で鼻をつまみながら、もう一方で自分の唇をたしかめた。それがまだ原型をとどめ、人間らしくあるかどうか。
幸い唇はまだ無事だった。しかし、ここはとにかく、一刻もはやくこの場から離れることが先決だ。上唇と下唇が二つのタラコと化してしまう前に。小学校の給食のあとに、クラスメートの男子から「タコ女」とアダ名をつけられる前に。
しかし、トモ子はその場に立ち尽くしたまま動こうとはしなかった。低く足元に立ち込めた霧が、なにやら今宵の彼女をアニメのヒロインのようにとても凛々しくみせていた。
その凛々しい足を動かす代わりに、なにを思ったか、トモ子は命綱の両手をダランとおろした。まるで、女子大生版『あしたのジョー』みたいに。
急所ともいうべき唇がそのまま外気に触れていた。それでもトモ子は、『大黒屋』の看板を見上げると、意を決したように一歩一歩、その明かりのもとへと近づいていった。あたかも、悪党がたむろする酒場に、丸腰で一人乗り込もうとする女保安官のごとく。
それは運命にたいする、あるいは過去の自分にたいする、ささやかな反抗だったのだろうか。見事に失恋したあげく、今度は臆病者のようにオメオメと逃げだすなんて、今夜のトモ子にはとうてい我慢ならない仕打ちだったのかもしれない。(だいたい、私がなにをしたっていうの)。
まるでそこは、幽霊による幽霊のためのケーキ屋みたいだった。『大黒屋』には店の外にも中にも人影がなかった。狭いレジはもぬけの殻だった。
トモ子の鼻を指パッチンした、焼きたてのシュークリームみたいな甘く柔らかなケーキ屋特有の香りは、開いたレジ越しの小窓からとどいていた。けれども、その真下のショーケースに飾られている商品は、普通の店にあるどんなケーキとも違って見えた。
ガラスの中に、ボーリング玉みたいな球体が並んでいた。¥995と、ケーキの値段にしてはずいぶん中途半端な値段がついている。
トモ子が連想したのはアニメの『ドラゴンボール』にでてくる、テカテカしたあのドラゴンボールだった。数もちょうど上下の棚にわかれて七つある。ただ、色はオレンジじゃなくて、どれも水晶玉みたいな無色透明だ。たぶんゼリーでできているのだろう、閉じ込められた空気の小さな粒が、店の照明に反射して、中で星のようにキラキラ瞬いている。
そして、普通のサイズよりも一まわりほど小さなショートケーキやモンブランが、ワインボトルに収まった船のミニチュア模型みたいに、それぞれ一つずつ、星々に囲まれながらまるいゼリーの真ん中に、まるで宇宙に誕生した小さな家のように浮かんでいた。
トモ子がケーキを見て、いいやケーキに限らずとも、食べ物を見て可愛いと思ったのは、これがはじめての経験だった。
彼女は子供みたいに球体の中をのぞきこんだ。だが、そこに彼女が見たのは、生まれたばかりの小さなケーキの赤ちゃんではなくて、歪んだ自分の唇だった。
彼女は傷口に触れるよう慎重に指を口元にあてた。しかし、今さら慌てフタめいてもしかたがない。こうなったらアレルギーが引くまでしばらくマスク姿でやり過ごすしかない。経験上、それは分かっていた。
けれど、そこにタラコはなかったのだ。彼女の指先がとらえた感触は、大袈裟に例えても、縦に切り身を入れたウィンナーソーセージのその切り身ぐらいのものだった。つまりそれは、彼女の唇に、スイーツの香りによるアレルギーがなんら発症していないことを意味している。球体のゼリーに映っていた「タコ女」は、その曲面によって作りだされたトリックだったのだ。
トモ子は俄然立ちあがった。そして、開いた小窓に顔をむけると、そこから店中の空気を占有すべく、限界のかぎり両鼻を開いておよそ十年振りとなる香りを吸い込んだ。
カラーリングが気に入ってバイト代から購入したニューバランスのスニーカーは、ほどよいフィット感とクッションが効いていて、夜の通りを走るのにもうってつけだった。そのデザインに一目惚れして即買いしたノースフェイスのトレイラー用ザックもまた然り。
学校帰りではあったが、偶然にも、トモ子は街中を走るのに適した格好をしていた。そして実際、彼女は夜の街を走っていた。
いいや、もしかしたら、それは偶然の産物ではなかったのかもしれない。フラれたその夜にアレルギーが治って、こうして息を切らせ疾走しているのは。もしや、天使か悪魔か、闇の奥から瞳を光らせたブチにならそれがわかるのかも。
ただ、トモ子自身には、どうして自分が走っているのか、あるいは走りだしたのか、ケーキ屋の甘い香りを嗅いでもアレルギーがあらわれなかったのと同様、その理由がわからないでいた。
それはある種の感情の高ぶりがなせる結果ではあった。哀しみと歓喜が一緒になって押しよせてきたような。しかしおそらくは、それだけではなかったはずだ。
トモ子は時間と競争しているかのようだった。霧の向こうの月の満ち欠けと。やがて日の昇る地平線と。日付変更線と。これまで無駄にしてきた十年という歳月をとり戻し(やっぱり、あの医者はヤブ医者だったんだわ!)、さらには、ライバルとなった紗英子に追いつくべく。これはそのための助走にすぎないのだ。
そうして彼女は、女子寮までつづく阿佐ヶ谷の夜霧を、その身でもって切り裂いていった。
トモ子の失われた十年をとり戻す作業は翌日からさっそく開始された。彼女の通っている大学は国立市にあって、その文学部にトモ子は在籍していたけども、一限目の授業前から、教室の最後部座席を確保すると、机の上で、あるリスト作りにとりかかった。
そのリストは文学的な、あまりに文学的なものとは一切関係がなく、およそ国立から阿佐ヶ谷までのめぼしいケーキ屋を網羅した一覧表であった。
まるで、ある夜、唐突に若返ってしまった老婆のように、トモ子は人生をやり直す計画を、枕もとで一晩のうちに立てたのだ。いつまたもとの姿に舞い戻ってしまうかもしれないという不安を抱きつつ。
思えば、これまでのトモ子の人生は実に味気ないものだった。クリスマスや誕生日はいうにおよばず、謝恩会のような華やかな席上でさえ、マスクをしたマネキンのように振る舞わなければならなかったのだから。(きっと、私はマスク姿でウエディングケーキを入刀するはめになるんだわ。マスク姿の花嫁になるんだわ)。
おそらくは、そうした体験が彼女を演劇の舞台へと上がらせることになった要因にもなっていて、たしかにその場所でなら、彼女はマスクなしで数々の衣装も着飾れるのだ。
しかし、そのような意味合いでなら、もはやトモ子には他人を演じる必要はまったくなくなったわけだった。さらに言えば、お手製のケーキ屋リストも。というのは、トモ子の頭の中には、同じようなリストがすでに完成されていて、もっともそれは味覚や食欲を満たすためのもではなくて、地雷を踏まないための防御策であった。
そんなわけだから、早朝からの比較文学論と引き換えに作成されたリストは、あっという間に一応の完成をみた。しかし、肝心なのはここからだ。ただの店名の羅列だけでは、これまでの防御策としての凡庸なリストアップとなんら変わりがない。
光あれ。今回はそこにあらたなスポットライトがあてられる。星もあれ。グルメガイドよろしく、差別化され、評価が与えられる。
トモ子はそのために、ザックの中に教科書の代わり、できる限りの情報誌を詰め込んできたのだった。それを携帯電話と共に両手で駆使しながら、客員教授による講義を右から左へ拝聴しつつ、つい昨日までならば呪われたリストであったはずのものに、プリクラめいた星やカラフルなハート模様を飾っていったのだ。
そうして、トモ子のお気に入りストは、午後の講義の途中には見事完成をみたのであった。
まるで高校の文化祭ではじめて舞台に立った時のような気分だった。数年前のその日、トモ子はクマの着ぐるみを身につけ、袖口で自分の出番がくるのを待っていたのだったが、その落ち着きのなさは、むしろ森のクマより、檻の中のチンパンジーを思わせるところが多々あった。
それから数年後、彼女は吉祥寺のケーキ屋の前でふたたび類人猿よろしく通りをせわしく行ったり来たりしていた。背中のザックのポケットに、マスクという名の用心棒を忍ばせながら。
トモ子が目をつけたのは、情報誌でも常連になりつつある、『カフェ・ボフェミア』という名の新しいスイーツの店だった。リストの評価は、星とハートマークがそれぞれ満点の5つ。ちなみに星は世間一般の、ハートはトモ子自身の個人的な評価を意味していた。
まるで最先端のブティックみたいな大きなウインドの中に、ウエディングめいた白いインテリアがならんでいた。その奥のガラスケースには、スイーツたちが、ちりばめた宝石のように輝いているのが見える。
トモ子のお目当ては『チョコレートバナナモンブラン』だった。グラビアページの写真を見た瞬間に一目惚れしてしまったのだ。そのために、彼女は授業終わりのあと、サークルの部室に顔をだすこともなく、できたてホヤホヤのお気に入りリスト片手に、いざ鎌倉へと快速電車に飛び乗って、この場所に駆け参じたのであった。
ただ、そうまでしたあとに、トモ子は店のドア前で怖じ気づいているのだった。彼女の目に、ガラス張りのおしゃれな店の外観は、今はむしろ冷たい要塞のように映り、入ってゆく客たちは、生まれも育ちもちがうセレブのように思え、自分はといえば、身も心もさらに檻の中の猿へと近づいてゆくような感覚をおぼえる始末。
時間は刻々と過ぎていった。吉祥寺駅に着いたときにはまだ西の空に残っていた日差しも今は絶え、通りの街灯が、めっきり増してきた帰宅途中の人々の影帽子を様々な建物に映しだしていた。
トモ子の観察では、ほとんどの通行人が真新しいスイーツの店を珍しそうに眺めてゆくような感じだった。そして、その内の数パーセントの人間が、必ずと言ってよいほど、店内へと吸い込まれてゆく。そうこうしている間にも、トモ子の情報元ともなった雑誌を小脇にはさんだ女子大生と思わしき集団が、やいのやいの言いながら店になだれこんでいった。
やっぱり、『大黒屋』にしとけばよかったかしらん。
けっして華やかな外観ばかりに惹かれたわけではなかったけれど、やはりある意味、情報誌に踊らされた感もある自分の行動を、トモ子は後悔しはじめていた。しかし、このまま路上で行く当てのない猿を演じていても、目的のバナナが、いや『チョコレートバナナモンブラン』が売り切れてしまうのは目に見えているし、もしそうなったら、それはそれでやはり面白くない。
いよいよ混雑の極みに達した店内では、入ってくる客とでてゆく客、席を待つ客とテイクアウトの商品を選ぶ客、そのそれぞれが入り乱れ、まるでバーゲン会場のような様相をみせはじめていた。
それを眺めながら、たしかにオープンしたてということはあるだろうけど、あの店にはなにか根本的なところで、客の流れをスムーズに保つことに、どこか構造的、あるいは人為的な欠陥があるのじゃないかしらん、とトモ子は思ったりもした。
しかし、これ幸い。どさくさに紛れるよう、人混みの店内に彼女は突入した。もはやバーゲン会場と化した店に、猿もセレブも関係なかろうと。
萬寿えり子、41歳。子供のころから小太り気味の彼女が、名前はいいとして、自分の名字を変えたいと思ったのは、これまでの人生の中で一度や二度のことではなかった。
そして、結婚という手段をのぞいても、彼女にはそうするチャンスがかつて実際に存在しえた。というのは、たとえ世間にはその存在を認知されていなくとも、彼女は女優業を営んでおり、この業界には芸名という慣習がある。文字通り、彼女は好きな名字を自分に授けることができたはずだった。
だが、えり子が敢えてそれを実行にうつさなかったのは、生まれながらの腐れ縁というよりは、当時の劇団仲間たちから同じような忠告をいくつもうけていたためだった。
仲間たちは口をそろえてこう言った。「芸名?もとのままの方がいいでしょ。だってインパクトあるじゃない」
えり子はその忠告に従ったわけだが、これまでのところ、というのは大学を卒業して20年あまり、インパクトある彼女の名字はめぼしい成果をまだあげていない。
学生時代からの演劇仲間で、いまも芝居をつづけている人間はもういない。えり子は自分の劇団を主宰しているけれど、台所事情はつねに火の車で、いい歳をしながら、親の援助をうけ、どうにかやり繰りしている始末。
そんな彼女が、あらたな収入源として目をつけたのが執筆業であり、簡単なエッセイのほか、編集者と目下打ち合わせを重ねているあらたな企画が、その名も『女優ダイエット』という流行のダイエット本であった。
それは複式呼吸による発声法によって、お腹と顔のたるみを改善するという本になる予定で、ダイエットをおこないながら演技の勉強も可能という、世間に溢れるようにいる女優志望の乙女たちの、そのバイブルとも成りえる内容ではあるのだが、執筆者であるえり子の女優としての知名度にくわえ、さらに問題なのが、彼女自身まったく痩せていないということだった。
そんなわけで、自前の『女優ダイエット』はそっちのけに、えり子は「蒟蒻ダイエット」や「バナナダイエット」など、巷で話題のダイエット法を日々これ実践している毎日であった。
劇団の次期公演にむけ、あらたな芝居の台本を自宅で執筆している時だった。蒟蒻にも飽き、バナナにも飽き、なにか腹にたまる脂っこいものが食べたいと、店屋モンをとろうかどうするか真剣に悩んでいる時だった。一通のメールが携帯電話に着信した。
それは、えり子が顧問をつとめ、彼女自身そのOGでもある、大学の演劇サークルからのものだった。発信者名は部長の野崎になっている。
リーダーシップがあり、性格も素直で、なおかつ男前でもあるこの男子学生を、えり子は密かに自分の劇団の花形として引き抜きたいと思っていた。けれど、本人はあくまで芝居は学生生活の一環と考え、将来はマスコミ関連の就職を希望しているようだ。
まあそれも致し方ない。なにしろ、座長本人がやっと生活できるぐらいの収入しかない状況なのだから。将来有望な若者がわざわざ進んで貧乏クジを引くわけがない。
しかし、それでも、えり子はまだあきらめたというわけではなかった。もし、『女優ダイエット』がベストセラーになれば、この悪しき環境もきっと変えられる、そんなふうに考えていたのだ。
メールは秋の学園祭に公演される演目に関するもので、「部員たちの話し合いによって『花とアリス』の舞台化に決まりましたが、いかがでしょうか?」といった内容だった。
はて、『花とアリス』?どんな作品だったか。観たような、観てないような....。
えり子はパソコンを使って調べ、ようやく内容を思いだした。それでも、細かなシーンまでは思い浮かんでこない。印象にのこっているのは落語のシーンだ。高校の落研に入っている男子に恋する女の子の映画だった。じゅげむじゅげむ....。
それから、バレエのシーン。学校では落研、プライベートではバレリーナ。面白い組み合わせだ。映画だけじゃなく、舞台でも意外とあうかもしれない。
でも、落語はいいとして、バレエはどうしよう。私に演出できるものかしらん。このデブのオバサンに....フム....バレエ....バレリーナ.....デブ....あら、ひょっとして、これって使えるかも。やっぱ天才だわ、私って。
その時、えり子の頭に浮かんだアイデアは、およそ舞台の演出とはかけ離れたものだった。いわんや、『花とアリス』とも。しかし、確実に彼女の肉体的、精神的負担は軽減できそうだった。
えり子はやっと思いついたのだ。なにも、自分がダイエットする必要はどこにもない。もっと若い、言わば『女優ダイエット』の購買層と重なる女の子にそれを実践してもらったほうがずっと効果的であるはずだ、と。そして、えり子には、それを実際にお願いできる若い女の子たちがいる。サークルの女子大生たちに頼めばいいのだ。
急に視界が開けてゆくような思いがした。まるで長い闘病生活を終え、やっと退院の日をむかえたような。
えり子はさっそく携帯電話をつかむと、野崎に返信メールを打つよりも早く、近所の定食屋に電話をかけた。そして、カツ丼定食をセットで注文した。
サークルの顧問が久しぶりの肉の味に舌鼓をうちながら、若干のうしろめたさを感じていたその日、岩手出身の女子大生専用マンションの一室では、トモ子が、実家から届けられた荷物のヒモをほどいていた。
ダンボールの扉の中で、田舎の特産物と箱を二つに分けていたのは、細長い黒いハードケースで、特産物の方は親心だが、そちらの方はわざわざトモ子から言って送ってもらった品だった。
高校の入学祝いに祖父が買ってくれた黄金色したトランペット。ブラスバンド部の高校生が鳴らすには、少々値の張る贅沢品だったが、祖父にとって、可愛い孫にはそれぐらいの価値が十分あったわけだ。
しかし、実際のところ、その可愛い孫はブラスバンド部を半年で辞めてしまったのだった。飽きたわけでも、練習についていけなかったわけでもなく、ただ単に顧問の教師との相性の悪さから。
早朝の職員室の机に退部届を置いたトモ子は、昼休みには、第二志望であった演劇部の入部手続きをすませていた次第。
そんなトモ子が、ふたたびトランペットをその手にしようというのには、べつに居残り練習をしているキャンパスの新入生に、お手本をみせてやるつもりでは毛頭なく、この際、金目の物は売り払ってしまおうという、祖父が聞いたら寝込んでしまいそうな悪魔的な魂胆からだった。
しかも、彼女はその金を、巷のあらゆるケーキ屋の人気メニューを制覇するための軍資金にあてようというのだ。
そんなこととはつゆ知らず、たぶん田舎の祖父は、古きニューオーリンズ音楽の良さを、孫が再発見してくれたものと勘違いして喜んでいるのに違いなく、トモ子にしてもそれはわかっていることではあるのだが、それでは彼女に孫としての罪悪感があったかと問われれば、それはまったくないというのが、率直な答えであった。
それというのも、ケーキを食べられないトモ子を誰よりも不憫がっていたのは、ずっと昔から祖父自身であったのだし、だから孫の立場になってみれば、今度の休みに帰省した際に、トランペットを吹くかわりにケーキを食べている姿を見せてあげればOK、という理屈になるのだ。(それに、実家の押し入れを開ければ、まだポケットトランペットとコルネットだってあるんだし)。
遥かニューオーリンズの音楽にとってかわろうとしているのは、失われた淡い恋にとってかわろうとしているのは、懐かしい濃厚なスイーツの味だった。
吉祥寺のセレブなバーゲン以来、ケーキが、クリームが、タルトが、トモ子の生活の最優先事項になっていた。
バイトは休み、サークル活動にも顔もださず、なけなしの貯金を切り崩して、ついには失恋の痛手さえ忘れ、夕飯を抜いては高カロリー食品を頬ばりつづけた。中央線沿線のめぼしい店を制覇し、休日ともなればホテルのケーキバイキングの列に嬉々として駆けつける。ケーキアレルギーを脱したトモ子は、あたかも真逆のケーキマニアになりつつあるようだった。
マニアと呼ぶからには、世間の常識などにとらわれてはいられない。金に糸目はつけず、色恋などはもってのほか。すべての神経が一つのカタルシスへと集中されなければならない。
しかし、そんな、ある意味、世捨て人のケーキ仙人化していたトモ子の生活は、幸いなことに長くはつづかなかった。トモ子自身も気がついていなかっただろう、その精神的、さらには肉体的な危機的状況。偶然にも、そこから彼女を救いだしてしてくれたのは、誰であろう、いわば目下の状況をつくりだした元凶の一人と言っても過言ではない、紗英子であった。
「トモ子?」
「紗英子?」
二人は大学内の図書館で顔をあわせた。同じ学部で学び、同じサークルに属し、同じ男に惚れながら、彼女たちはお互いの鼻先にクエッションマークを投げかけずにはいられなかった。紗英子にとっては、しばらくぶりに見た級友の変貌した容姿ゆえに。トモ子にとっては、彼女自身の世捨て人的な生活のために。
サークル仲間の風変わりなアレルギーを記憶していた紗英子は、図書館の机に見開き状態で積み重ねられた情報誌の写真に目をおとし、それを不思議にも思ったが、あえてふれず、サークル活動の近況をトモ子に伝えただけだった。
もっとも、紗英子の話には、個人的な部外活動の情報は盛りこまれてはいなかった。本当のところ、トモ子にはそれが一番知りたいところではあったのだけど。
ライバル本人を目の前にしていたということもあろうが、紗英子の助言に、消えかけていたトモ子の恋の野望はふたたび霧の奥からその姿をあらわしたようだった。学園祭の演目が決まり、この日、顧問の萬寿えり子が来校することを聞くと、情報誌の山を閉じたトモ子は、紗英子が図書館をでていくのを見計らって、ある戦略を練りはじめた。
もちろん、それは学園祭のヒロイン役を手に入れるためのものだった。演目の発案者はトモ子自身なのだから、自分にはそのヒロインを演じる資格が充分にあるはずだと、信じて疑わなかったのだ。
「トモちゃん、あなた最近太ったんじゃない?」
えり子はサークルの学生たちを、男女問わず「ちゃん」付けで呼ぶ。それは、顧問と部員たちとの距離感を狭めるのに役立つ以上に、メディアに取り上げられることの滅多にないえり子が、確かに業界の人間であることを、あらためて学生たちに印象づけるのに役に立っていた。
もっとも、トモ子が萬寿から「トモちゃん」と呼ばれるたびに思いだすのは、業界とは縁もゆかりもない、親戚のおばさんたちの丸っこい体型ではあった。しかしこの日、顧問の中年太りの身体には、それとはべつの説得力があった。なにしろ、そのデブのおばさんの口から、致命的なダメだしを宣告されてしまったのだから。
二人は学園紛争の時代から大学内にある、山小屋を彷彿とさせる古い喫茶店の席いた。そこは新築工事をかさねる構内の中で、えり子が学生時代にもどれる数少ない思い出の場所であったのだが、サークルがはじまるまでのしばらくの時間、顧問がそこで過ごすのを習慣としていることを心得ていたトモ子は、他の部員たちの目を盗んであえて潜入してきたのだった。
えり子はアニエスbの黒いバッグから、A4サイズの用紙の束をとりだし、テーブルに置いた。
トモ子はてっきり学園祭用の芝居の台本だとばかり思った。ちょうど萬寿に、自分を次の芝居のヒロイン役に抜擢してくれませんかと、頼み込んだばかりだったのだ。
しかし、用紙の表を見れば、そこには『花とアリス』ではなく、なぜだか『女優ダイエット』というふうに印刷されてある。
「トモちゃん、『花とアリス』には、たしかバレエシーンがあったわよね」
「は、はい。あります」
「あなた、その体で、バレエ衣装着るつもり?ダメよ。だって、それでバレリーナやったら、まるっきりコントになっちゃうもん」
「コント?」
「そうよ。コントよ。そのお腹じゃ、ね」
「じゃ、どうすれば....」
「だからさ、コレよ。コレ」
そう言って、えり子は謎のタイトルを指さしたのだった。
【ああ、ロミオ、ロミオ、どうしてあなたはロミオなの?
どうか家名をお捨てになって。
それができないのなら、どうか私を愛すると誓ってちょうだい。
そうすれば私は今宵かぎりキャピュレットの家名を捨ててみせますわ
....(略)....
でも、いったい名前がなんだというの。
私たちが薔薇と呼んでいる花、その名前が変わっても、薫りにちがいはないはず………】
16世紀のイギリスの劇作家シェイクスピアが書いた『ロミオとジュリエット』から。映画やドラマばかりでなく、テレビのCMなどでもたびたび引用される有名なバルコニーのシーンです。はじめはお腹に手をあてて、ゆっくりと一語一語、歌うように発声しましょう。複式呼吸がまだ上手にできない方は、仰向けになって、お腹の上にタウンページなど厚手の本のせて発声してみるのもいいでしょう。ところで皆さんは、この有名な『ロミオとジュリエット』に原典があるのをご存知ですか?そう、『ロミオとジュリエット』はシェイクスピアの純粋なオリジナル作品ではないのです。つまり今風に言うところのパクリ....
これは立派な詐欺じゃないのかしらん。
帰りの中央線の車中で、女性ゴシップ誌の中吊り広告を見上げながら、トモ子はそれ以上の胡散臭さを、両手に開いた『女優ダイエット』のページから感じとっていた。
その紙面には、芸能人の離婚スクープのかわりに、シェイクスピアから『タイタニック』まで、これはこれで女性ウケしそうな舞台や映画のヒロインのセリフが並んでいた。そしてその横には、これ自体が巷の諸解説のパクリであるところの著者自身による解説が。
こんなんでダイエットなんてできるの?トモ子の疑惑は確信へと急速に傾いていった。彼女は思った。だって、これぐらいのセリフを連呼して痩せるぐらいなら、世の中には、おデブちゃんを演じる役者はとっくにいなくなってるし、長台詞がお得意な名優たちなんて、それこそガリガリの骸骨になっちゃってるはず。実家のお爺ちゃんが楽しみにしてる『裸の大将』だってとっくに打ち切り。
そしてまた、トモ子がさらに眉をひそめるのは、ページのドサクサに紛れるように、世界的、歴史的な諸作品の中に、萬寿自身の戯曲までがちゃっかり挿入してあることだった。もちろんこれも本人による解説つきで。
この恥知らず。トモ子は舌打ちしながら、顧問からあずかった原稿をザックのポケットにしまい込んだ。
ああ、『カフェ・ボフェミア』のおいしいモンブランが食べたい。
トモ子には中央線沿線に見える店々の灯りが、すべて有名なケーキ店のそれに見えてくるのだった。(あれは『サンジェルマン・デ・プレ』、それからあっちのは『ミントンハウス』)。そして、本来ならば、きっと今ごろその灯りの一つから彼女自身がでてくる時間なのだ。満面の笑みをたたえて。
そう考えると、トモ子は当然の権利を剥奪されたような理不尽さにたいする怒りが、あるいはただ単に食い物の恨みが、こみあげてくるのだった。
久し振りに顔をだしたサークルでは、肝心の演目については何も話し合われず、ほとんど無益な雑談で終わった。おまけに部長の野崎と紗英子の二人は妙に他人行儀で、デレデレされるより、むしろそっちのほうが余計に腹が立つぐらいだ。
しかも、顧問の萬寿には、帰り際に呼びつけられ、「ケーキ禁止令」を耳打ちされるしまつ。いったい、どこの誰が、よりによって中年太りのおばさんからダイエットを強制されなければいけないのか。
しかし、そうは思っても、萬寿の言うことにも一理あるのはおそらく事実であった。
トモ子は電車の窓に映しだされたおのれの姿をとくと眺めた。
唇ばかりに気をとられ、体型のことなど頭になかった。ケーキ代のやり繰りは考えても、カロリー計算は思い浮かばなかった。そのしわ寄せが、如実に脂肪となってあらわれている。あるいは、唇がアレルギー反応を示すかわりに、今度は体全体が異常に反応しているのかもしれない。
どちらにしても、これではコメディになってしまう。トモ子自身もそれを認めるのにやぶさかでなかった。確かにダイエットが必要かもしれない。顧問の目は正しい。いいや、正しいばかりではない。なにしろ、もしもトモ子がそのダイエットに成功したあかつきには、萬寿は学園祭のヒロインの座を彼女に進呈しようと約束したのだから。
この優しさを、心づかいを、詐欺と形容するのもあんまりだ。せめて「大人の取引」ぐらいにとどめておくべきかもしれない。
学園祭までにはあと半年ちかくあった。それまで、毎月3キロ相当の減量がトモ子に与えられたノルマだった。もちろん、それは『女優ダイエット』によって。
しかし、いくらチャンスを与えてくれた顧問ではあっても、はい分かりましたと、早速「一人女優ごっこ」に毎日いそしむほどトモ子もお目出たくはなかったし、萬寿を信頼してもいなかった。(だいたい、あの人の演出は、いっつもどこかピントがズレてるし)。
はっきり効果のある、そして三日坊主で終わることのないダイエット法が必要だった。それでノルマが達成できたら、萬寿には『女優ダイエット』の成果だと嘘の報告をすればいい。きっと、自分のことのように喜ぶはずだ。だって、本当にそうなのだから。
けれども、ドラえもんがポケットからだすような、そんな便利なダイエット法がトモ子にはまったく思いつかなかった。元来、運動は嫌いなほうだし、ジョギングなんてもってのほか。毎日のカロリー計算は面倒くさいし、ケーキを御法度にされたうえ、さらに食事制限なんてできる自信もない。インターネットで調べてみても、『女優ダイエット』といい勝負の情報しか得られなかった。
こうなったら、腹をくくって、『女優ダイエット』を実践してみようかしらん。少しは演技力の足しになってくれるかもしれないし。
まるで、悪徳商法の誘惑にでも引き寄せられるように、トモ子の思考がネガとポジの逆転現象をみせはじめたころ、彼女は学びやの中庭で救いの調べを耳にした。
ニューオーリンズ、ニューオーリンズ。
それは、萬寿と大人の取引をした翌日のこと。午後の講義にむかう最中のことだった。
メロディーだけなら誰でも一度や二度は聞いたことがあるけれど、曲名はまったく知られていないアメリカの伝統音楽。けれども、トモ子は曲名どころか、そのコード進行まで言い当てることができた。彼女にとってまさに運命の夜、煙草のけむりをくゆらせながら耳にした、トランペットの音色だった。
それは校舎裏の、音楽サークルが集まった部室の方から鳴っていた。建物という建物に反響し、昼休みのキャンパスのにぎわいを物ともせず、全大学関係者にそのつたなさを御披露していた。たぶん、あの夜と同じ新入生が吹いているのだろう、息のつまずくところのフレーズまでそっくりだ。
悪いけど、ちっとも上達してないんじゃない?トモ子は思った。それぐらいなら、私のほうがずっと上手いわよ、と。
じつはその時、トモ子は彼女自身に重大なヒントを与えていたのだった。祖父が買ってくれたトランペットの、楽器店に売り払うよりも、もっと別の使い道を。
そのヒントから導きだされたトモ子の方程式は、彼女が午後の講義を早々に抜けだし、中央線経由で下宿先に直行するという行為によって体現された。トモ子は方程式の答えを手にすると、赤いジャージの上下に着替え、すっかり日の暮れた街にふたたび一人でていった。
数年振りの演奏がまさかこんな場所になろうとは夢にも思わなかった。しかし、都会の街中ではほかに適当な場所が思い浮かばない。それに、そもそもニューオーリンズの音楽にしても、その始まりは葬式パレードだとも言うし、そう考えるならば、トモ子が立っている場所も、あながち見当違いなものではないはずだった。
ただ、彼女の身の回りには、いろんな意味での緊張がはびこっているのは事実であった。トモ子は何度か深呼吸してみた。しかし、そうするたび、鼻穴から線香と菊の匂いが胸一杯に広がるのだ。
そこは阿佐ヶ谷付近で一番大きな寺だった。墓地だけでも都内の小学校のグランドぐらいの広さがある。トモ子はマウンド上の幽霊ピッチャーみたいに、スポットライトを浴びることなく、その中央部分に一人で立っていた。
顧問の萬寿に対抗して考えだしたトモ子のダイエット法、しかしそれは、結果として『女優ダイエット』によく似た構造をもつものになった。いいや、ほとんど一緒だと言ってもいい。要はどちらも複式呼吸ということなのだ。
つまり、仏様やご先祖様の力を借りようというわけでも、座禅を組んで修行をはじめようというわけでもなく、トモ子はただ単に近所迷惑という点を考慮して墓地という場所を選んだのだった。
ただ、同じ欲に目のくらんだ間柄ではあっても、トモ子のそれが萬寿のそれと決定的に違っていたのは、そこに「女優」という二文字が付かないことで、そのかわりに付くのが、ミュート呼ばれる金属製の消音器。それは主役の楽器に寄りそうようにハードケースの中に収まっているのだが、トモ子はまるでワイン瓶にコルクでもはめるみたいに、それをトラペットの先端に押し込んだ。(さあ、いくわよ、ブチ)。
iPodのイヤホーンを耳にすると、墓場で懐かしいメロディーがよみがえった。大学から寮に帰ったあと、いらないJポップを消去して、大急ぎでダウンロードしたマーチング風のニューオーリンズジャズだ。
トモ子はそのメロディーにあわせて、黄金色のマウスピースから春の息吹を吹き込んだ。消音器の付いたトランペットは大きな音はたてずに、ちょうど庭先で小猫が鳴いてるような声で歌った。昔、まだ中学生だったトモ子が、やはり体育のジャージ姿で、夕飯前に縁側に座って練習していたときと同じように。
近所の野良猫だったブチは、鼻がつまったようなこの金属音がなぜか好きだった。トモ子が縁側で吹いていると、どこからかあらわれて、暗い垣根から小さな顔をだすのだ。
もしかしたら、犬が救急車のサイレンに反応するように、猫は管楽器のある種の金属音に反応をしめすのかもしれない。そうでなければ、単に夕飯の匂いに惹かれてやってきていたのかも。どちらにしても、野良猫に似合わず、ブチは練習が終わるまで行儀良くトモ子のことを待っていた。まるで、猫語を操る不思議な女の子を、三日月の瞳で見上げるみたいに。
二時間ぶっ通しで吹きつづけたあと、ジャージ下のTシャツは汗だくで、ほっぺたは絞りきった雑巾みたいに疲労していた。けれど、あくまでそれは心地よい疲労感だった。イヤホーンを耳にしながら楽器片手にパレードに参加していたみたいな。
でも、もしかしたら『女優ダイエット』でも似たような効果はあったのかもしれない。なにしろ、トモ子がネットで調べたところでは、世間には『カラオケ・ダイエット』なるものすら存在していて、日々それを実践している人々がいるらしいのだから。
しかしどちらにしても、カラオケはお金がかかるし、『女優ダイエット』を墓地で二時間つづけていたら、自転車を押したパトロール中の若い警官から職務質問されていたかもしれない。いいや、きっとされていたことだろう。そしてその時には、トモ子はためらうことなく顧問の萬寿の名前を密告していたはずだ。(全部、あの女のせいなんです、お巡りさん!)。
そんな情景を思い浮かべながらトランペットをケースに仕舞っていると、なにやら背中に鋭い視線を感じてトモ子はうしろを振りかえった。
夜の墓地という場所柄ではあったが、彼女の背筋にラブコールを送っていたのは幽霊の類いではなく、裏切りという名の丸い顧問の影だった。萬寿が、強迫概念に苛まれた中年女が、はたしてサークルの生徒が言われたとおりに事を実行しているかどうか、夜の墓場まで偵察にきたのに違いない。
トモ子は思わず大声をあげた。ただそれは乙女の悲鳴ではなく、有名な戯曲の一説だった。彼女は萬寿の影を見るや、遅すぎる自己流『女優ダイエット』をはじめたのだ。
「おお、ロミオ、ロミオ!どうしてあなたはロミオなの?」
丸い影はなんの反応もしめさなかった。それもそのはず、影の正体は萬寿でなく、饅頭顔に穏やかな微笑をたたえた地蔵さんだったのだ。
「チュッ」
トモ子は舌打ちしながらケースの扉をバタンと閉めた。そして、こんなことで動揺している自分に腹が立ち、そのはらいせに、どこかに密告すべきパトロール中の警官は本当にいないものかと、バッヂのついた制服姿を墓地の周辺にキョロキョロ探しはじめるのだった。
トモ子と紗英子は同じ学年の同じ学部で学んでいた。けれども、二人がサークルの時間外に学内で顔をあわせ言葉を交わすのは、家庭内離婚寸前の夫婦がお茶の間で笑顔を交わす確率のごとく、一年に数回あるかないかの珍事であり、その珍事がひと月のうちにつづけて起こったのは、それ自体が春の珍事であると言っても過言ではなかった。
「トモ子?」
「紗英子?」
二人はデジャブのように一週間前とまるで同じセリフを吐いた。ただ、場所は図書館ではなく、それぞれのクエッションマークの意味も前回とは違ったものだった。
つまり、紗英子のそれは、先週までとは別人のようにスリムに引き締まったトモ子の顔つきに驚いてでたものであり、対するトモ子は、どうして紗英子がそんな不思議そうに自分の顔を見つめているのか分からない、という意味でのそれであった。
二人は始業ベル前の、コンサートができそうなぐらい広い講堂の席にいた。
疑惑の人差し指がトモ子の鼻先をさしていた。
その指は、ダイエットに成功しつつある彼女の、心と体の両方にむけられていた。紗英子はトモ子の目の奥をのぞきこむようにして言った。
「トモ子、それまさか、あなたも『女優ダイエット』?」
乙女の霹靂。どうしてその恥ずかしい言葉を紗英子が知っているのか。それは萬寿とトモ子だけの内輪の話であったはずなのに。しかも、「あなたも」とは?トモ子はどう言い返してよいかわからなかった。そもそも、実際には『女優ダイエット』はやっていないわけだし。
紗英子は広い教室で、女刑事みたいにトモ子の沈黙から真相を読みとろうとしているかのようだった。しかし、それが難しいと分かると、今度は容疑者の知らない裏事情を暴露して揺さぶりにかかるのだった。
「みんな、やってるのよ。ううん、やらされてるの、その嘘のダイエット法。私以外のサークルの女子部員たちが、学園祭の演目をエサに、萬寿先生にそそのかされてね」
トモ子はもう驚かなかった。たしかにサークルのほかの女子部員が関わっていたことは知らなかったけども、それぐらいはいかにも萬寿が考えだしそうなことだからだ。それよりむしろ気になったのは、ダイエット・キャンプの輪から紗英子だけが除外された理由のほうだ。
トモ子は目の前の女刑事に黙秘権を行使しつつ、クールな知能犯か優等生をよそおい、ザックから教科書とノートをとりだした。そして授業の準備にとりかかるフリをしながら思考をめぐらせはじめた。彼女は思った。たしかに、もとからモデル体質の紗英子にダイエットなんて必要ないかも。でも、それだけが彼女が外された理由なのかしらん。もしかしたら、あの萬寿、紗英子と野崎先輩がつき合ってること知ってるのかも。だから、紗英子にだけ声をかけなかった。部長である野崎に話が伝わることを恐れて....。
「もしかして本当になにも知らないの?」
刑事役に疲れたらしい紗英子が切りだした。トモ子は内心、自分の推理と演技力の確かさに自惚れながら小さくうなずいた。
すると、紗英子はサークル顧問の悪行の数々を熱っぽく語りはじめるのだった。誰かに話したくてウズウズしていた様子だった。もちろんトモ子はここでもなにも知らない素振りで、事件の容疑者からよき理解者へと華麗に演じ分けてみせるのだった。
講義の担当教授は始業ベルが鳴ってもなかなかあらわれそうになかった。
「その『女優ダイエット』、いくらやっても効果がでないの。それで、このままじゃなにも役がもらえないんじゃないかって心配した部員の一人が、私に相談しにきたってわけ」
紗英子は得意そうに語った。効果なんてでるわけないじゃん、トモ子も負けずに内心得意げにそう思った。
「ゴメンね、最初疑って。この間会ったときよりずいぶん痩せて見えたから、早合点しちゃった。でも考えたら、本当に『女優ダイエット』なんかやってたら、逆に痩せるはずないもんね。なにか、運動とかはじめた?」
「べつに。ただ、甘いもの控えてるだけ」
「そう。でもさ、トモ子もこれってヒドい話だと思うでしょ?自分の本を売る目的で、部員である私たちを利用してるんだから。役をエサに、自分だけブクブク太って。断固抗議するべきよ。場合によってはさ、みんなで力を合わせてクビにしてやりましょうよ、あんなブタ女」
紗英子の鼻息は女闘士のように荒かった。しかし、目の前でその鼻息を感じているトモ子は、それとはまったくべつの解決法を考えていた。ダイエット中の知能犯はただ冷静に口を開いた。
「紗英子、部長の野崎先輩とつき合ってるでしょ。そっちはどうなるの?たしか、サークル内の恋愛は禁止されてなかったっけ?」
女闘士の鼻息はいっぺんにおさまった。
べつにトモ子としても、今さらカビが生えたような大昔のサークルの決まり事を持ちだす気は毛頭なかった。でも、どんなにアコギであろうが、萬寿が顧問をクビになってしまってはこれまでの苦労がすべて水の泡となってしまうし、もしそうなれば、どんな演目になったとしても、美人で人気者の紗英子がヒロインの座をつかむのは目に見えている。
それに、いかに正論ではあっても、紗英子の正義感が、リーダーシップが、やはりトモ子には鼻についた。多分にそれは野崎から感化されたものだろうし、その後ろ盾があってのものだろうから。彼女には最初から勝利を確信してものを言っているフシがあるのだ。
そんなわけで、トモ子としては、その鼻先を折ることまではしなくとも、せめて指パッチンしてやろうぐらいの気持ちはあった。そうして、野崎云々の件が口にでたのだ。
「萬寿先生もきっといろいろ大変なのよ。悪気なんてないんじゃない?だからさ、今回だけは穏便にすませてあげようよ」
もはやトモ子には恥も外聞もなかった。ピノキオだったら鼻が伸びすぎて折れ曲がってしまいそうなことを平気で言ってのけた。
ただ、それでもまだ紗英子は納得してないようだった。で、トモ子はとっておきのダメだしをした。
「二人のために、ね?」
「お手柄、大手柄だわよ、トモちゃん」
萬寿のはしゃぐ声が携帯電話を揺らしていた。
「ここだけの話、あたしも前々から、あの紗英ちゃんにはひとこと言ってやりたかったのよ。そりゃ、たしかにちょっとは可愛いわよ。でもね、舞台で必要なのは個性。それに人柄。ワガママなお人形さんじゃないのよ。偉そうなこと言って、舞台に私情を持ち込んじゃダメよ。とくに男女関係はダメ。そりゃ、ほかの女の子たちにはちょっと悪いことしちゃったかもしれないけど、バレエ衣装着るんだったらダイエットはぜったい必要でしょ?ぜんぜん、あたし悪くないわよ、ね、トモちゃん」
「あ、はい」
「でさ、トモちゃん、何キロ痩せたの?」
「5キロぐらいです」
「二週間で5キロ!最高よ、トモちゃん、最高。やっぱり『女優ダイエット』の成果よね?」
「学校から帰って、毎日近所のお寺でやってます」
「だからさ、ちゃんとやれば結果がでるのよ。それをあのお人形ちゃん、インチキとか言ってんの。本当、どっちがインチキなのよ。もうぜったい役なんてあげないわよ。トモちゃんはその調子でバンバン痩せてよ。もうヒロインはあなたに決まりだから」
いったい何人ヒロインがいるんだか。あなたも少しは痩せなさいよ。トモ子はあまりに楽天的で節操がない顧問に半ば呆れ、半ば感心しながら携帯を切った。
夜の墓地にいた。『女優ダイエット』の代わりに日課となったトランペットを吹いている途中で携帯電話のバイブ機能が作動した。本当はもう少し吹いていくつもりだったけども、自分のモットーと相反する調子に乗り過ぎた顧問の声を聞いて気持ちがかわった。それに、今夜のトモ子には、墓参りのほかにも行くべき場所があったのだ。
トランペットケースを抱えて墓石の間を通り過ぎ、白い砂利がひきつめられた寺の境内にでると、墓地の暗がりから猫の鳴き声が聞こえた。(ブチ?)。その猫にこたえるように、すぐにべつの場所でもう一匹が。(ブチなの?)。そして、さらにまた一匹。(帰ってきたの?)。
仄かな春の月夜に誘われて集まってきたのか、ゲームのモグラみたいに、暗い所から次々と猫たちの声のノロシがあがった。いつの間にか墓地は猫たちの夜の合唱の場となって、おごそかな境内は、まるでカエルたちが暮らす池の畔のように、姿の見えない賑やかさにつつまれた。
もしかしたら、この寺は阿佐ヶ谷周辺の野良猫たちの社交場になっていたのかもしれない。そして、トモ子が演奏している間にも、ああして鳴いていたのかも。トモ子はずっとイヤホーンをしていて気づかなかった。
あるいは東京にも、かつてのブチのように、管楽器の好きな猫たちがいて、彼女にもっと吹いてくれとせがんでいるのだろうか。カエルだったら気持ち悪いけど、猫だったら何匹いても平気だ。
また明日ね。トモ子は彼らに約束して寺の門をくぐった。
それは自分へのささやかなプレゼントであり、同時に再検証でもあったのかもしれない。墓地を去ったあと、トモ子はふたたび夜の『大黒屋』の前に立っていた。
ダイエットは効果がでている。紗英子はなにやら不気味な沈黙をつづけているけども、サークル内のゴタゴタもなんとかクリアできそうだ。ここらでずっと我慢してきたスイーツを口にしてもいい頃ではある。ただし、今夜を最後に。
美味しいケーキ屋ならいくらでもあるけども、やはり最後となればここをおいてほかにない。トモ子はそう思っていた。すべてはこの場所からはじまったと彼女は考えている。だからこそ、どんなにケーキ屋詣でつづけても、この店だけはあえて避けてきたのだ。
もしかしたら、おとぎ話の林檎のように、あの球体ゼリーの中に閉じ込められた小さなケーキを食べたら、魔法がとけて、すべてが霧の中に吸い込まれ消えてしまうのかもしれない。他人には馬鹿げていても、トモ子には切実な可能性を、彼女は思い描いた。唇は医者が忠告していたどおりにアレルギーを起こすかもしれない。その姿を見た萬寿は「ダメよ、トモちゃん。それじゃコメディになっちゃう」と見捨てるように言うだろう。それで、ヒロインの座はあっさり紗英子のもとへと転がりこむ。おまけに、ついに書店に並んだ『女優ダイエット』の表紙には、ニッコリ微笑でポーズをとる、もとからダイエットの必要ないスリムな紗英子の姿が。
ま、表紙の席は喜んで進呈してあげる。人生の汚点になりかねないから。トモ子はそこだけはなんなく了解することができた。
もしも、前に来た時みたいに店がもぬけの殻だったら、なにもなかったことにして、手ぶらで帰ろう。トモ子はそう決めていた。これは試練でなく、一つの運だめしのようなもの。確実な答えは得られなくとも、そこからなにかしらのヒントが導かれればそれでいい。
でも、答えはちゃんとでた。ただし、より大きな謎とセットになって。しかもそれは、まったく予定外のニューオーリンズ風に音楽的で、おしゃべりな謎であった。
「あれ、キミ、お寺の子?」
トモ子と同じ年ぐらいの青年は言った。さっそく球体ケーキを注文しようとしていたトモ子はびっくりして頭を左右に振った。
「でもさ、キミ、毎日お寺でラッパ吹いてるよね?『ユースクリーム・アイスクリーム』とか、誰も知らない古いジャズの曲ばっかりさ」
トモ子の驚きは頂点に達したが、今度は頭を上下に振った。
「ああ、そうか。ほかに練習場所がないんだね。僕もたまに大学で吹いてるんだ。あそこだったら、誰も文句言ってこないからね。もっとも今は僕、休学中の身なんだけど。夏休みのツーリングで事故っちゃってさ。それこそ、ボブ・ディランみたいに派手にやっちゃったんだ」
この青年こそ、トモ子にとってニューオーリンズ風に音楽的で、おしゃべりなクエッションマークとなる存在だった。でも、彼にしてみれば、トモ子の存在の方こそ一つの答えであったのかもしれない。それぐらい、彼は一方的に話しかけ、話しつづけた。まるで、めったに人が来ることのない森の奥で営業しているケーキ屋みたいに。
白いパティシエの制服を身にまとった青年は『大黒屋』のカウンターに、トモ子は通りに、それぞれ立っていた。
この謎のケーキ屋青年に尋ねたいことは山ほどあったけども(大学?それって、どこの?吹いてるって、なにを?トランペット?それとも、口笛?なんでわざわざ大学まで出向いて口笛吹くの?休学しながらケーキ作ってるのっておかしくない?ボブ・ディランって誰?ていうか、あなた誰?)、トモ子はただ、最初の予定どおりに苺のショートケーキが浮かんだ球体ゼリーを指さして、「これ、ください」と言っただけだった。すると、パティシエ青年は言うのだ。
「キミ、本当にうちのケーキ買うの?よしたほうがいいよ。うちの商品はよその店のとは違うんだ。ちょっと変わってるんだよ。作ってる本人が言うんだから間違いない」
なら、なんで売ってるのよ。トモ子はそう聞き返したかったけども、確かに変わってるということは頷けた。そもそも、なんであんな形をしているのか。お菓子というより、一種の芸術作品のつもりなのだろうか。それを客であるトモ子に勧めようとしないのは、つまり、彼女には芸術的センスがないということを、暗に指摘しているのだろうか。それは、トモ子がお寺で、赤いジャージの上下で、誰も知らない古臭い曲ばかりをラッパで吹いているためだろうか。その姿を、この青年パティシエはお寺のどこからか眺めていて、こっそり笑っていたのかもしれない。
トモ子はすっかり頭にきて、乱暴に言い放った。
「いいから、さっさと売ってよ」
その夜、原風景とも呼ぶべき『大黒屋』の球体ケーキを食べても、トモ子の唇にはなんの変化も起きなかった。そもそも、彼女はそんな不安はすでに忘れてしまってもいた。彼女のかつての心のさざ波は、突然の津波にすっかり呑みこまれてしまっていたのだ。
そんなわけか、部屋にもどったトモ子は、船酔いしたみたいにケーキが入った白い箱をポンとテーブルの上に無造作に落としたのだった。
でも、それは実験の一つだった。与えた衝撃によって、ケーキの球体が、芸術作品が、どう変形したか見定めるための。まるで、岩に叩きつけた壺の、その割れ方によって作物の収穫を占った古代人のように、トモ子はその実験から、いよいよ口に入れる寸前に謎の球体ケーキの正体を、あるいは成分を、探ろうとしたのだ。
しかし、銀スプーンとフォークを皿において箱の扉を開いてみると、ケーキはもとの丸い形をたもったままだった。心臓を取りだすみたいに直接両手で持って皿に置き、よくよく眺めてみても、やっぱり小さな亀裂一つ入っていない。
すっごい歯ごたえのあるゼリーなのかも。トモ子は一瞬そう思いもしたが、途端にべつの考えが思い浮かんだ。
ううん。もしかしたら、ゼリーに見えるのは匂いのでる樹脂で、中のショートケーキはデパートのレストランにあるみたいなフィギュアなのかも。甘いもの好きな人のための置物。それをあの男、気取っちゃって、変わってるとか言ったんだ。とすると、パティシエの格好もケーキ屋の看板も、全部シャレってわけ?ほんと、顧問といい、あのパティシエといい、自称芸術家って変人の集まり。なにを考えだすか想像もつかない。子供が間違って口に入れたりしたらどう責任とるつもりなんだろう。
しかし、散々トランペットを吹いたあとで、無分別な子供よりよっぽど食い意地のはっていたトモ子は、分かってはいても念のため、メロンのように丸々と皿にのった球体のてっぺんにスプーンのギザギザを立てずにはいられなかった。そして、スプーンはトモ子の予想とは裏腹に、手術のメスみたいにたやすく球体の内部に滑りこんでいったのだ。
トモ子はおっかなびっくり、すくった透明の物体を鼻で嗅いでみた。完熟した果物みたいな濃厚な甘い香りがした。口に入れてみた。美味しかった。
ほどなく、スプーンは、球体と彼女の口の間を止まることなく行き来しはじめた。
翌日、まだ校門の警備員が眠い目をこすっているような時間から、トモ子は大学の中庭で、煙草のけむりを一人くゆらせていた。昨晩は一睡もできなかった。でも、眠くはない。ただ、煙草の味だけがひどく苦かった。
空にのこった薄いすじ状の夜の雲が、ほんのり白く染まりながら、早起きな小鳥たちのさえずりを耳にしているかのような、そんな穏やかな朝だった。ただ、あいにくトモ子が聞きたいのは小鳥たちの歌ではなかった。
彼女はトランペットのファンファーレが鳴りだすのを待っているのだ。下手クソな、いつはじまるのか分かりもしないファンファーレを。あるいはそれは、一日中待っていたとしても、ウンともスンともいわないかもしれない。なにしろ、吹き手の男は下手クソなくせに、神出鬼没ときている。本来なら一女子大生などではなく、しかるべき国家機関か、シンジケートがマークしなければいけないような男なのだ。
けれども、トモ子の準備も万端だ。ザックには半日分の水に食料。それに、あらゆる授業をサボる覚悟だってできている。おまけに、直接的にはなんの関係もないが、腕にしたG−SHOCKには、世界の七つの海の代表的なダイビングスポットの時刻まで表示されるのだ。
しかし、晩春のキャンパスにファンファーレはついに響かなかったし、G−SHOCKの高機能は暇つぶしにもならなかった。代わりにトモ子は夜の墓場で、自らくすんだ音色のファンファーレを響かせることになった。もっとも、これもかの男をおびき寄せるための彼女流の罠の一つではあった。
演奏よりも辺りの気配に、トモ子は重きを置いた。ラッパ吹きというより、クラシックコンサートの指揮者のごとく、目と耳のとどく限り、神経の網を張り巡らせるのだ。もしかしたら、墓石の影から男が、地蔵様のようにこちらを盗み見しているかもしれない。男はいたるところに身を潜めているはずだ。変装の名人なのだ。もちろん、地蔵様にだって化けられるだろう。若い警官のフリをして、パトロールを装いつつこちらをずっと観察しているかもしれない。あるいは、胸パットを入れた女子大生になりすまし、流暢な東北弁と色気を操っては見事に管理人を丸め込み、今ごろトモ子の部屋で番茶をすすっているかもしれない。あるいはまたこれが可能性としては一番高いのだが、パティシエの格好をして、いかにもケーキ屋然としながらも、実はパンドラの箱を売りつけようか、売りつけまいか、しているのかもしれない。
結局のところ、キャンパス同様、夜の墓地にも男は姿をあらわさなかった。もしかしたらどこかに隠れていたのかもしれないが、トモ子にはその気配を感じることができなかった。それというのも、寺に集まった尻尾のついた聴衆たちの、その視線がずっと邪魔になって仕方なかったのだ。
墓石の陰に、茂みの暗がりに、猫たちが身を潜めているのがトモ子には分かった。敵意はない。ただ、異国の街で暮らしはじめた移民の家族のように身を寄せあっている。
彼らは一様に行儀よく、静かにしていたけども、まるで甲斐性のない夫よりペットへの愛情を選んだご婦人のように、トモ子にはその光る三日月の瞳が気になるのだった。
猫たちはパレードに参加する権利を持っている。ニューオリンズ行きの夜行列車の、その乗車券を持っている。トモ子が彼らと交わした約束はそういうものだ。だから無下に追い払うことはできない。
トモ子は思う。これまで私の演奏に耳をかたむけてくれたのは、お爺ちゃんと猫だけだったし、たぶんこれかもそうなんだ、と。だから彼女は、男とパンドラの箱のことはひとまず忘れ、ダイエットも棚上げし、ブチのあごを撫でてやるように、できるだけ優しくメロディーを紡いでいったのだ。
トモ子は最後の砦にたどり着いた。昨晩、球体ケーキを買ったときとほぼ同じ時刻に。『大黒屋』の店先に客の姿はなかったが、店内からこぼれる明かりに、ときに人影が映しだされるのが見てとれた。間違いなく男がいるのだ。
振り出しにもどったみたいにトモ子の胸は高鳴った。吉祥寺の『カフェ・ボフェミア』の前で、さんざん通りを行ったり来たりした最初の夜のように。
けれど今夜、トモ子はケーキを買いにきたわけではない。昨日とは違うけれど、彼女はやはり答えを求めてやってきたのだ。彼女自身ではなく、純粋に商品に関しての。昨晩のふざけたケーキ、あれはいったいなんなのか、と。
もっともそれは、トモ子が一夜のうちに、今度は執念深く、おせっかいなクレイマーに豹変してしまったというわけでは決してなく、彼女が冷蔵庫の中に隠し持ったパンドラの箱、それはあり大抵の品質や安全性といった食に関するレベルを超越したところにあったのだ。だからこそ、国家機関やシンジケートのお出ましとなる。
ただ、トモ子が頼りにできる最大の国家権力は、岩手の町役場で働く親戚の叔母さんであり、シンジケートに関しては、はっきりとしたその言葉の意味も分からない有り様だった。
そんなわけで、彼女はふたたび『大黒屋』に単身のりこむとにあいなった。
「いらっしゃいませ」
変なオジさんが言った。いいや、じつは全然変ではないのだが、てっきり同じパティシエが店のカウンターに立っているものと思いこんでいたトモ子にとって、その太く沈んだ声と、厚みのある顔はかなりインパクトのある違和感だった。
もしかしたら、これこそ変装がなせるワザなのだろうか。昨日は謎の学生、今日は変なオジさん。でも、どんなにオジさんパティシエのぜい肉を切り取ったとしても、そこからおしゃべりパティシエがでてくるようには見えなかった。
それに、ガラスケースに目を落としてみれば、そこには球体ケーキの姿は跡形もなく、コンビニでも買えそうなシュークリームやプリンのような、あり大抵のお菓子ばかりがすき間なくならんでいる。しかも、その売れ残り状態から推測して、この店の経営が萬寿の運営する劇団とかなりいい勝負であることは、数字に弱いトモ子でも容易に察しがついた。
でも、もしかしたら、これこそ一種のカモフラージュなのかもしれない。昨晩とはまったく違う店を装っているのだ。お客様、どこそこのお店と勘違いなさってませんか?などと。
しかし、そもそもなぜそんなことをしなければいけないのか。
「丸い透明のゼリーの中に、小さいショートケーキが入ってるんです」
「ふーん。そうですか」
「昨日、ここで買ったんです」
「なるほど」
夜の街角で繰り広げられるパティシエと客の会話は、被害者のいない幻の怪事件をめぐる探偵と目撃者のそれのようにチグハグだった。
長年ケーキ屋稼業を営んできたせいか、あるいは最初からそれを売りにしているのか、どこかサンタクロースを彷彿とさせる穏やかな顔つきのオジさんパティシエは、しかし少々疲れ気味の声で、つぎにはお決まりのセリフを吐くだろう、トモ子はそう確信していた。曰わく、「どこかよそのお店と………」。
「でも、あいにく、昨日は休みでしてね」
「は?」
「お休み。ウチは毎週火曜が定休日なんです」
「え?」
季節はずれのサンタは不思議そうにトモ子の赤いジャージに目をやった。まるで、その色は私の色なんだよ、お嬢ちゃん。しかるべき季節がやってくればね、とでもいうように。でも、本当のところ、オジさんが見ていたのは、彼女が抱えたトランペットケースだった。トモ子はそのことにはまったく気がつかなかった。ただ、シーズンオフのサンタが、お忍びで流行らないケーキ屋のパティシエをしているというアイデアは、そう悪くはないと、あとになってから思うのだった。
火曜日。そう言われてみれば、はじめて『大黒屋』を訪れた夜も火曜日だったような気がする。いいや、サークル活動があった日だから間違いなくそうだ。そしてあの夜、『大黒屋』はもぬけの殻だった。おしゃべりパティシエもオジさんパティシエもいなかった。幽霊による幽霊のためのケーキ屋みたいに。最初から誰もいなかったみたいに。
トモ子はトボトボと暗い夜道を寮にむかって帰っていった。今日一日の努力がすべて徒労となって彼女の足にまとわりつく。良かったことといったら、お寺の猫たちにトランペットを聴かせてあげられたことぐらいだ。猫たちは喜んでくれはず。たぶん。
寮にもどると、明かりもつけぬまま、トモ子は冷蔵庫の扉を開いた。潜水艇めいた光が、彼女のワンルームを深海のように仄かに映しだした。
トモ子は水槽の生き物を見つめるがごとく冷蔵庫を覗き見た。中には皿にのった球体ケーキがあるだけ。それは、まるで実験室に保管された物体のような透明の円を描いていた。
世の中に完璧な球体は存在しないという。球体ケーキはその定説を過去のものとすべく、自ら完璧な曲線を作り上げようとしていた。トモ子が差し入れたスプーン跡はきれいに消えていた。口に入れたはずのゼリーはすでに補充が済まされていた。
白い冷気が霧のように頬をつたう。トモ子は冷蔵庫の前にペタンとしゃがみ込んで、子供が雨空を恨めしそうに眺めるみたいに、小さなショートケーキを包み込んだ厚いゼリーの層を見つめるのだった。
昨夜はとうとうショートケーキまでたどり着けなかった。すくってもすくっても、あとからゼリーが、夏の雨雲みたいにニョキニョキせり上がってくるのだ。
そうとは知らず、トモ子は無邪気に食べつづけた。真夏の青空に不気味な黒い雨雲が近づく中、ゴム飛びに夢中になっている女の子みたいに。気がついた時にはもう辺りは真っ暗。トモ子はお腹がいっぱい。スプーンを投げ捨てた彼女は、ついにゼリーが増殖し、最後のパズルの駒を埋めるかのごとく、ギザギザスプーンの凸凹跡をピタリと埋めて、見事な球体にもどる瞬間をその目で見た。
おしゃべりパティシエが「変わってる」と言っていたのはこのことだったのだ。どう考えてもこれ以上変わっていることなどあろうはずがない。
トモ子がとっさに思ったのは、窓から球体ケーキを放り投げることだった。もしかしたら、ゼリーがブクブクとさらに膨張をつづけて部屋を埋め尽くし、やがてモスラみたいになって寮の建物ごと破壊してしまうかもしれない。いいや、それ以前に、トモ子の胃袋の中でそれが起きないともかぎらない。
気分が悪く、なおかつ不安だった。でも、窓は開けなかった。あともう少し、ゼリーの曲面がピクリとでも動いたらそうするつもりだった。そうして、球体ケーキとにらめっこしながら、トモ子はマジマジと眠れぬ夜をすごしたのだ。
ケーキはモスラにならなかった。トモ子のお腹もボディースナッチャーに変身しなかった。白々と明けてゆく窓を充血気味の眼で彼女は見上げた。とりあえず、テーブルの球体ケーキを冷蔵庫に入れることにした。そうすると、大掃除したあとみたいに気分がせいせいした。でも、割り切れない感情はまだ部屋の壁に張りついていた。やり場のない怒りにも似た。
経済的な面から見れば、たしかにトモ子の財布は一円の損もだしていないわけだ。いいやむしろ、胃袋的には得をしたと言ってもいい。なにしろ美味しいゼリーをたらふく食べられたのだから。そのままベッドにもぐり込んでいたら、ゼリーの雲に乗った楽しい旅の夢だってみれたかもしれない。
もっとも、それが逆にトモ子をイラつかせる理由にもなっていて、彼女としては、なんとしてもあの『大黒屋』のおしゃべりパティシエに一言いってやりたいところなのだが、これではどうも根拠が希薄すぎる感じなのだ。おしゃべりパティシエは言うだろう。
「それでさ、いったい君はなにをそんなに怒ってるわけ?」
かつては幸福の使いであり、今では宿敵と化したパティシエ、しかしその顔すら見るこのできぬまま、徒労の一日が終わろうとしていた。ただ、時間の経過にともなって、球体ケーキをめぐるトモ子の心情にも変化らしきものが訪れた。
べつに冷蔵庫の冷気が彼女の頭を冷やしたわけではないだろうが、早朝のとんがった感情は不思議と消えていた。かわりに頭をもたげてきたのは旺盛な食欲だった。変わることのないケーキへの愛情であり、独占欲だった。それが、丸い対象を見つめるたびに湧いてくるのだ。ゼリーもいいが、なんとしても中に閉じこめられたショートケーキが食べてみたい。食べられないからこそ余計に食べたい。食べなければ気がすまない。
トモ子は銀スプーンを持ちだしてくると、球体ケーキがのった皿をテーブルにおいた。冷蔵庫の光がゼリーの気泡を星のように瞬かせる。苺をのせたショートケーキは丸い宇宙に浮かんだ小さなお家のように。
こんな綺麗なケーキ見たことない。トモ子はあらためて思った。でも、食べるのがもったいないとは思わなかった。これはケーキと胃袋との真剣勝負なのだ。勝つか負けるか。昨夜は経験がない分、トモ子に不利だった。でも、今夜は違う。それなりの情報を彼女の方も掴んでいる。勝算はわずかだが、ある。
トモ子は一つ深呼吸を吐くと、一気呵成に食べはじめた。
壮絶な戦は一週間にもわたった。しかし、トモ子はまだ一勝もできていない。連戦連敗の影が彼女の肉体に色濃くあらわれはじめていた。ジーンズのボタンは閉まらなくなり、ラフなTシャツはピチTになりつつある。このままいけば、お盆休みに帰省した際、「あのー、どちら様でしょうか?」と両親にたずねられてしまう可能性はかなり高い。
それでも、トモ子は食べるのをやめようとはしなかった。もちろん、当初の目的であるショートケーキへの飽くなき執着心がその原動力となっているのに今もかわりはない。ただ、食の修行僧と化したトモ子は、逆にそうなることによって食欲とはまたべつの、ある確信に近い予感を抱くようになったのだった。
中庭にファンファーレは響かない。『大黒屋』に球体ケーキがならぶこともない。猫たちには悪いけど、トランペットダイエットはやめてしまった。トモ子は学校から真っ直ぐ寮に帰ると、すぐにスプーンをとりだす。そして冷蔵庫の扉を開く。完璧な球体が光に照らされあらわれる。美しい、とトモ子は思う。でも、この世に完璧な球体は存在しない。それを人間の目で見ることはできないと言う人もいる。だとしたら、今、自分が見ているものは、完璧な球体ではないのか、幻覚か、そのどちらかだ。
トモ子は思う。球体ケーキなんて存在しない。それから、あのおしゃべりパティシエも。最初からいなかった。そう考えればなにもかも説明がつく。たぶん、構内でトランペットを耳にした学生だっていない。火曜の夜に『大黒屋』でケーキを買った客も。自分以外には。
あの青年は幽霊みたいな存在なんだ。彼女は想像する。きっと、若すぎるか、血気盛んすぎて成仏できてない。原因はバイク事故。でも、恥ずかしくて、死んじゃいました、なんて彼は口にできないんだろう。まるで、オネショしちゃいました、みたいだから。
『大黒屋』のオジさんが彼のお父さん。お父さんは死んでない。ただ、店同様、少し元気がないみたい。見るに見かねた孝行息子は、ちょっと店を手伝うことにした。定休日の夜だけこっそりと。
トモ子はじっと瞼を閉じた。もしもこれまで自分が目にし、耳にし、口にしたものがすべて幻であったなら、ふたたび瞼を開けたとき、きっと皿の上の球体ケーキは忽然と消えてなくなっているはずだ、と。
それでも、彼女は受験の合格発表を見るときみたいに、どうかそれがありますようにと、心の中で強く念じた。
すると、瞼の奥に針の先ほどの小さな光の点が見えた。やがてその点は、長いトンネルの先に見える光の出口のように、しだいに大きくなっていって、しまいにそれが光の点ではなく、白い長方形の掲示板であることがわかった。掲示板はさらに大きくなって、トモ子の瞼一杯に広がった。暗闇が一転、眩しいくらいに白い世界に変わった。でも、その奥にはもうすでに小さな黒点が見えている。黒点は白いコンベアーで運ばれているみたいに迫ってきた。
それは四桁の数字だった。誰かの受験番号かしらん。トモ子は思った。掲示板にのってるってことは合格ね。おめでとう!
しかし、よくよく見ると、その数字には小数点がついている。3.141。なんだったけ?あ、そうだ、円周率。
トモ子がそれを思いだした瞬間が合図になった。数字はいきなり暴走をはじめた。彼女の頭のなかを、無限の円周率がグルグル駆けめぐりだした。
3.14159265358979323846………
数学の苦手なトモ子は小さい悲鳴をあげて目を開けた。
透明な球体の内部で、数字の残像が魚の群れのように泳いで見えた。
「トモちゃん、なによ、どうしちゃったのよ」
顧問の声がいつかの喫茶店に響いた。この日、季節のトレンドか、はたまた人目を忍ぶ身なのか、黒縁のサングラスをかけた萬寿は、それをオデコまで持ち上げてトモ子を見た。
トモ子は約束の時間に遅れてやってきた。もちろん、萬寿が驚いたのはそのことではなかった。彼女は若い頃の自分に瓜二つの、青春の息吹きを吸いつくして健康的に膨れあがった揚げパンのような顔を目の当たりにし、うろたえていたのだ。それは予想外のデジャブ体験であるとともに、出版を間近にひかえたダイエット本の契約白紙撤回の危険性を意味していた。
カギを握る人物は萬寿の横の席にいた。グレーのスーツに尖った黒縁メガネをかけた特許局書記長のような女性。萬寿とトモ子に挟まれて少し痩せ気味にも見える彼女こそ、『女優ダイエット』の出版元となる雑誌社の女編集長であり、結果的に萬寿の劇団運営をも左右しうる人物だった。
萬寿は黒縁メガネのレンズ奥に隠された表情を横目で気にしながら、変わり果てた、裏切り者の、揚げパン顔を、編集長女史に紹介すべきかどうか悩んでいる様子だった。結果、喫茶店のテーブルの上を、いま一方の古株の揚げパン顔が、行ったり来たりするはめとなった。
そんなやりとりに終止符をうつべく、トモ子が口を開いた。
「先生、私、リバウンドしちゃいました」
たしかにトモ子はリバウンドした。それもごく短期間のうちに。しかし、萬寿としてはそれを言葉どおりに受けとめるわけにはいかなかった。
追いつめられた舞台女優は、トモ子の殺し文句に対抗すべく、サングラスをもどして、今はまだ世間には秘伝の『女優ダイエット』演技法を開始した。
「あらそう。ところでさトモミちゃん、トモちゃん見かけなかった。今日ここで会う約束してるんだけど、遅れてるみたいなのよ」
トモ子は返す言葉がなかった。開いた口がふさがらない。彼女には萬寿の魂胆がすぐに呑みこめた。
「時間がないのよね。今度会った時にきつーくお説教してやんなきゃ。きつーくね。約束を守れないような子に舞台のヒロインは無理だって」
「それじゃ、それ私がやりますよ」
トモ子は平然とチャチャを入れた。サングラスの影からでも、睨みつける萬寿の眼光が見てとれた。
「悪いけど、あなたじゃダメなのよ、トモミちゃん。コメディになっちゃうから。でも、トモちゃんにだけはもう一度チャンスをあげるわ。それ彼女に伝えといてね、トモミちゃん。今度、会うときまでに身も心も改めておけば、今日のことは大目に見てあげるって。ダメなら、紗英ちゃんを代役にたてるからって」
喫茶店に入ってからまだなにも口にしてないのに、トモ子の開いた口は閉じるヒマがなかった。でもそれは、萬寿の悪知恵に呆れたわけでも、ましてや、その忠告が身に染みていたからでも決してなく、『大黒屋』を再訪したときに抱いた不安がすべて現実のものとなろうとしていることへの、すべての物事が悪い方向へリンクし合っていることへの、驚きだった。
一方、萬寿の方は女優としての誤ったプライドをさらに肥大化しつつあるようだった。てっきりトモ子が、自分の言葉に感銘をうけているものと思い込んでいたのだ。(やっぱりプロのセリフは説得力が違うわね)。
顧問はさらなる方向違いの高みに登るべく、女編集長に言った。
「いきましょうか。今度もっといい子紹介しますから。その子、紗英子ちゃんていうんですけど、そりゃ美人で性格もいいの。彼女なら『女優ダイエット』にピッタリ」
二人の黒縁は席を立った。萬寿はテーブルの明細をトモ子に押しつけるのを忘れなかった。
「これ、サークルの経費で落としといてね、トモミちゃん。それぐらいなら、あなたにもできるでしょ?」
喫茶店を一人でたトモ子は、立て替えたコーヒー代の釣り銭をにぎりしめながら、人生を呪い、世界にむかって悪態をついていた。校門への道すがら、すれ違う学生たちが自分の容姿を見て心の中で笑っているように思えてならない。
まるで最終幕のジュリエットのような気分。すべての歯車が狂い、若い夢が挫折してゆく。愛した人はすでにこの世のものではない。
でも、ジュリエットはまだマシ。トモ子は思う。だって、相思相愛だったし、美人だし、おまけにセレブ。それにくらべて、私はさ。
ここでトモ子は昨夜の出来事を蒸し返す。ううん、やっぱり私の方が少しはマシかも。だって、ロミオは死んじゃったけど、ケーキ屋の彼はそうじゃない。まん丸ケーキはちゃんとテーブルにのこってたし。
そうかと思うと、彼女はすぐにその考えを根底からひっくり返す。ううん、そもそも私は彼のことなんてどうでもいい。ただ文句を言ってやりたいだけ。だって、一度しか会ってない人を好きになるなんておかしいし、幽霊の存在以上にあり得ない。それに、こんなふうになっちゃったのも、すべてはあのまん丸ケーキのせい。あれを口に入れるまでは全部計画通りにいってたんだから。
一連の自己肯定の作業が済むと、しかしそこからなにかがこぼれ落ちるように、トモ子の指先から一枚の五円玉が滑り落ちた。後ろむきにコロコロ転がってゆく褐色のコイン。そのゆくえを目で追ってゆくと、人なつこい子犬みたいにベージュ色のパンプスを履いたミニのワンピースの手前でペタンと止まった。
トモ子が男で、尚かつ赤の他人であったなら、さぞかし喜んでいたかもしれない。地面の五円玉を拾い上げたのは、麻のトートバッグを肩にかけた夏服姿の紗英子だった。
「ありがとう」
トモ子はなぜか恐縮しながら彼女から落とし物をうけとった。
紗英子の方はなにもしゃべらない。その立ち姿には、どこか毅然とした様子があった。まるで、その五円玉がもともと紗英子の持ち物であり、そのことを彼女自身が知っているような。
無論、トモ子には紗英子の財布からクスねたような覚えはない。しかしそうかといって、これまでの事情を考慮すれば、頭から爪先まで、まったくの無実であるとも宣言できない。
それで、本心ではそれが学校に着てくる服?と思いながらも、ここは一つ紗英子のミニのワンピースを誉めておき、頃合いを見計らって「さよなら」しようとトモ子は考えたのだが、ちょうどその時、南方の突風のようなファンファーレが、遠く校舎裏から建物を飛び越え、吹き下ろしてきたのだ。ずっと待ちつづけた黄金色の旋律が。
今にもダービーレースの旗が振りおろされそうなその高らかな一瞬の響きは、浅はかなトモ子の処世術をきれいさっぱり吹き飛ばした。
「今の聞こえた?」
トモ子は興奮気味に、あるいは逆にそれをどうにか隠そうとしながら、紗英子にたずねた。しかし、紗英子にはトモ子の言っている「聞こえた」が、いったいなにを指しているのかが分からない。それに、たとえ理解し、聞こえていたとしても、彼女にしてみればただのトランペットの音色にすぎない。
紗英子は黙ったまま首を横に振った。それは質問の意味が理解できないというゼスチャーであり、答えではなかった。すると、トモ子はなにを勘違いしたか、すっかり仲直りして親友同士になったみたいに微笑み返すのだった。確かに、紗英子の首が横に振れても縦に振れても、トモ子にとってそれは「YES」のサインにはなるのだが。
「さよなら。そのワンピース可愛いね」
そう言って、トモ子は校門前で紗英子と別れた。べつにオベッカを言ったつもりではなく、自然と言葉が口からでたのだ。
投げかけられた質問の意味をまだ考えているのか、そのあともトモ子はその背中に紗英子からの視線を感じつづけた。
校舎裏にはいかなかった。あんなに待っていたファンファーレがやっと聞こえたにもかかわらず、トモ子はもはやレースには参加しようとしなかった。
はじめて『大黒屋』の店前に立った日にもトランペットが鳴った。それをヒントに墓地でトランペットを吹きはじめたら、おしゃべりパティシエに出会った。きっとあれは何かのサイン。あの場所にいっても彼はいない。トモ子はそんなふうに感じていた。
そうして、もう落とさないように、五円玉を強く握りしめながら歩いていった。今日は一週間ぶりの火曜日。もしかしたら、この五円玉が役に立つことだってあるかもしれないと胸踊らせながら。
しかし、ふたたびコインは彼女の手から滑り落ちる。今度は紗英子の助けもない。コインは二度と見つからない。でも、それは決して悪い前兆ではない。トモ子が考えていたよりもずっと早く、コインはその役割を終えただけなのだ。
指紋よりも深く硬貨の円い形だけが、タトゥーみたいにクッキリと跡になっていた。最初に感じたのは失われてゆく平行感覚。あるべき重さが消え失せ、その質感のみが残されている。
トモ子が手のひらをまじまじと見たのは、駅の改札に着いたときだった。落とした記憶はまったくなかった。血の気がスーッと引けていく。それは感染が広がるように自分の体が透明になっていく感じ。改札を行き交う人々の姿も焦点の合ってないメガネで覗いたみたいに歪んで見えた。
周囲の風景はぼやけ、手のひらにできた小さなミステリーサークルだけに焦点が合った。すると、麦畑で燃える炎の輪のようにそれが浮かび上がった。円がしだいに球になっていく。どこかで見た形。色は無色透明。毎晩トモ子が貪っている球体ケーキ。そのミニチュア版。
さらにその中、砂時計の一粒めいたミクロの像があらわれた。ショートケーキ?トモ子はじっと覗きこんだ。でも、そこに苺の赤いクラウンはのっていない。何かがこちらに向かって微笑んでいる。実際には目では確認できないが、彼女はそれを感じとることができた。やはりどこかで見たはずの微笑。トモ子はやっとそれを思いだした。
お地蔵さん?
まるで、トモ子の手のひらにできたミステリーサークルが、そのまま空へと浮かびあがり、半月を包みこんだ白い靄に月光の輪となって映しだされたかのような夜だった。
ただ、空に月はあっても、寺の境内にいつもの三日月は見当たらなかった。墓地に猫たちの気配はなかった。
どこにいっちゃったの?過去の猫体験からか、トモ子は彼らのゆくえを案じずにはいられなかった。彼女は思案した。もしか、雨の気配を感じて本堂の床下に身を潜めているのかしらん。それとも、しばらく吹きにこなかったうちに、集団でべつの場所に引っ越してしちゃった?三食昼寝付きの恩義を忘れたブチみたいに、もっといい寝床を見つけた?もしそうだったら、それはそれでいいけどさ。
しかしそうは思っても、あるいは、たとえ尻尾の生えた聴衆ではあっても、ギャラリーのない演奏にはやはりハリがでない。さすがにお地蔵さん相手ではジャンルが違うような気がする。トモ子の予感では、千客万来、猫たちが合唱しながら出迎えてくれるものと期待していたのだが。
ある意味、トモ子は自分の都合にあわせ、猫たちの存在を理想化し過ぎていたのかもしれない。まるで最後の砦みたいに。ブチだって夕飯の匂いに誘われてきていただけなのかもしれない。
しかし、そうなってくると、キャンパスで耳にしたファンファーレもなんだか怪しいような気になってきた。てっきり、天からの啓示のように受けとめていたけれど、あれもただ単に、音楽部の誰かが練習していただけなのではないだろうか。たぶんそう考えるのが普通なのだ。サインなどではなしに。
ならば、『大黒屋』の閉じたシャッターには「本日定休日」の札がかかっていることだろう。いったいどんな文句を言ってやろうかと、トランペットを吹きながらあれこれ考えていた時間はまったくの無駄足だったことになる。
トモ子はふたたび、おだてられたあげく木から滑り落ちていった一頭のブタにまいもどったような気分だった。晴れてリバウンドもしたことだし丁度いい。誰彼に文句を言えるような柄ではもとからなかったのだ。
もはや、ほっぺたを膨らませトランペットを吹く気になど毛頭なれず、トモ子は自己否定の泥沼に足を踏み入れようとしていた。ちょうどそのときだった。さらにその背中を押さんとする声が、複式呼吸マスターの雄叫びが、墓石の間を夜の落雷のように駆けめぐった。
「ちょっと、トモちゃん、あんたさっきから何やってんの!」
トモ子は一瞬、お地蔵さんが喋ったのかと思った。地蔵裏から萬寿の黒い影があらわれても、怒れる大魔神のように数々の悪行を懲らしめんがため、ついに地蔵様が動きだしたのかと勘違いしてビックリしていた。
「最初からずっと見てたわよ!それのどこが『女優ダイエット』なのよ!」
巨大な影を揺らし迫ってくるのは大魔神でなく萬寿だった。なにより、たなびくアニエスbの黒いスカートがそれを証明している。
この危機に直面して、かつてのトモ子だったら、すぐに平謝りするか、逃げだすか、していたはずだ。しかし、堕ちるところまで堕ちた今のトモ子はこれぐらいのことではもはや怯んだりはしなかった。手にしたトランペットを刀のようにたずさえ、なんならご乱心の顧問と刺し違えるつもりになっていた。
すると、教え子のただならぬ殺気を感じとったか、大魔神の動きはピタリと止まった。境内の砂利が鈍い音を立てる。萬寿はやや震え気味の指先でトモ子をさして言った。
「あたしの『女優ダイエット』ダメになったわよ!出版契約白紙撤回よ!ぜーんぶ、あなたの所為だからね、トモちゃん。あんたクビ。紗英ちゃんをヒロインにする。いいわね、わかったわね!」
「お断りします」
トモ子が答える前に、突然、第三の声が響いた。それは聞き覚えのある女闘士めいた。トモ子が声の方向に振りかえると、茂みの陰から夏服の紗英子が姿をあらわした。そして、彼女につきそうように部長の野崎まで。
猫たちの社交場だった夜の墓地は、醜い人間たちの修羅場の様相をみせはじめていた。睨み合っているのは紗英子と萬寿。トモ子と野崎の二人はむしろこの状況に戸惑っているような感じ。
「今日、この女が大学にくるって聞いたから、絶対なにかあると思って、一日中あなたのあとつけてたの。おかげで、やっと証拠をつかんだわ」
紗英子に「あの女」呼ばわりされたのは萬寿。トモ子はまだ「あなた」で済んでいたけども、つい最近まで「先生」と敬われていた顧問の心境を考えると、それは決して穏やかではないことは、容易に察しがついた。
「小娘ちゃんが、笑わせるじゃないわよ。証拠をつかんだのはこっちの方よ」
萬寿が反撃にでた。
「あなたたち、なんで一緒にいるのよ。どうせ茂みの中でイチャついてたんでしょ。まさかサークルの規約また忘れたわけじゃないわよね。サークル内の男女交際は御法度でしょ!それとも紗英ちゃん、あなた、お芝居辞めたいの?それなら責めたりしないけど」
窮地に立たされた中年女は見境がなかった。萬寿は勝ち誇ったようにトモ子に目をやった。まるでなにかの同志みたいに。もちろんトモ子の方はすぐに目をそらした。
「先生、今すぐ紗英子に謝ってくだい」
野崎がやっと口を開いた。しかしそこに男らしい勢いはない。むしろガールフレンドの手前、言わざるをえない感じ。
「やーよ。それよりね、野崎君。あなた、こんなしょーもないワガママ娘とは潔く別れて、今すぐ私の劇団にきなさい。私の力で看板役者にしてあげるから」
「え、本当ですか?」
あろうことか、野崎の顔に動揺が走った。これには紗英子ばかりでなく、トモ子も驚いた。いいや、呆れ返った。
「変なこと言わないで!野崎先輩はテレビ局に入社するんです。フジテレビか日テレの社員になるんです。劇団員なんて人生を棒に振るようなもんでしょ!」
「バカね、紗英ちゃん。テレビ局の倍率がどれくらい高いか知ってる?人生棒に振るのはそっちよ。運良く下請けの制作会社に滑り込んで、十年後に居酒屋で仕事のグチ言ってるのがパターンでしょ。それよりね、あたしだったら、テレビ局にも知り合いがいるからさ、紹介してあげてもいいんだけど」
「だから、それが下請けなんでしょ。自分の本の出版を断られた女がなに偉そうにホザいてるのよ」
「なんだって!もう一度言ってごらん、この世間知らずの小娘が!」
その昔、多くの学生たちがヘルメットをかぶり、国家権力と戦っていた時代があったという。それがいかに若さゆえの未熟さをともなった行動ではあったとしても、今の自分たちと比較すると、私たちはいったいここでなにをしているんだろう。トモ子はぼんやりそんなことを思い浮かべながら、なるべく泥沼化した女二人の舌合戦を見ないように努めていた。
でもよくよく考えてみたなら、当時のシュプレヒコールも、目下の舌合戦も、見た目ほどの差はないのではないかしらん?トモ子はそんな気にもなってきた。結局のところ、それぞれみんなが、自分こそ、自分たちこそ正しいと信じ込んで行動してるだけ。違うのは、その頭数のみ。
すると、彼女は墓地のある異変に気がついた。これまで闇の幕に包まれていた茂み。そこにホタルの群れのような小さな無数の光源が瞬いている。
いいや、それは壁に張り付いたようにじっとして動かない。そして、茂みの壁だけではなくいたるところに、墓石の陰に、木々の枝に、境内の砂利に、遠く本堂の瓦屋根の上にまで光っている。
なにかに取り囲まれてる。大魔神化した萬寿には怯まなかったトモ子でも、これにははじめて鳥肌が立った。もっとも、その感覚はすぐにおさまった。三日月。その光は、トモ子がよく知った形をしていたことがわかったのだ。
「ニャー」
最初に聞こえたのは、瓦屋根のてっぺんにのぼっている一匹だった。それは見張り役の狼のように夜空の月にむかって鳴いたみたいだった。そして、それを合図に地上の猫たちがいっせいに鳴きはじめた。目だけを光らせ。いつかトモ子が遭遇した猫たちの大合唱がはじまったのだ。
「なにコレ?」
「やだ。私、猫嫌い!」
言い争っていた女たちは、ホラー映画のキャラクターよろしくたじろいで、彼女たちの論題を忘れた。
トモ子は瓦屋根まで音がとどくようにトランペットの先端からミュートをはずした。そして高らかにファンファーレを吹き上げた。「ブチ、本当に帰ってきたんだね!」と心の中で歌いながら。
はたして、それがブチなのかどうかは知らないが、瓦屋根のてっぺんに陣取った小さな影は、トモ子のラッパ信号に答えるようにもういっぺん長めに「ニャー」と鳴いた。すると、地上の猫たちもそれにあわせるように長く鳴きはじめた。合唱はお芝居の大円団を迎えつつあるかのようだった。
「トモちゃん、あんた、なにやってんの!」
「やだ。私、猫嫌い!」
萬寿の問いに答えるつもりは毛頭なかったけども、もし仮にあったとしても、トモ子には答えようがなかった。彼女自身、なにが起きているのかさっぱりわからなかったから。
ただ、三人の人間どもが墓地に隠れているのを知って、猫たちもまたその身を潜めていたのであろうことは、トモ子にも想像できた。そして、彼女が心得ているこの混乱状況を鎮める唯一の方法、それはさらにもっと大きな混乱を招きよせることだった。
トモ子はその可能性を実行にうつした。片手を高くかがげ、猫たちにあらたな合図を指し示した。
「みんな、でておいで!」
トモ子は手を振りおろした。茂みから、墓石の陰から、猫たちがいっせいに飛びだした。それは毛も模様もない、ただ黒くて形の定まらない塊だ。それとともに、墓地には聞くに堪えない三つどもえの人間たちの絶叫が木霊した。黒猫の怒涛の群れは、彼らめがけ、アニメのオームみたいに押しよせてきたのだ。
尻尾の生えた黒い影が弧を描き、宙を飛ぶ。あっという間の出来事だった。先陣の三匹がジャンプしたのだ。三本の黒い放物線は、三人の人間の脳天をロックした。すると、そのたもとが吸い込まれるように人体の中にスッポリ消えてなくなった。
六つの丸い眼は催眠術にかかったみたいにいったん瞼を閉じた。そしてつぎの瞬間には三日月形の瞳に入れかわっていた。
「ニャー」と萬寿が鳴いた。「ニャー」と紗英子が鳴いた。「ニャー」と野崎も鳴いた。
三人は頭が空っぽのマネキン人形みたいになって突っ立っていた。
残った猫たちはトモ子の足元に集まって、つぎの指示をせがむかのように「ニャーニャー」鳴いている。
それで、トモ子は預言者モーゼの杖のごとく、トランペットを寺の外へと指し示した。
「さあ、みんな出発よ!」
それがパレードのはじまりの合図だった。トモ子は先頭に立って、高らかにマーチを吹き鳴らした。その足元を猫の合唱隊がついてゆく。それから三人の猫人間もゾロゾロと。
パレードは寺をぬけ、駅へとむかった。そこは光にあふれ、電車を降りた人々が次々と改札口からはきだされている。ギャラリーとしては申し分ない。ただ、彼ら仕事帰りの勤め人たちが、パレードを歓迎している様子はまったく見うけられなかった。むしろ、その表情は凍りついている。サラリーマンにOL、交番に立った警官までが、むかってくる異様な一団を目に耳にしたとたん、催眠術にかかったみたいに動けなくなってしまう。
黒猫たちはこの機を逃さなかった。ロケット花火みたいになって飛んでいっては、黒い放物線を駅ロータリーのそこかしこに描き、彼らの脳天にアメアラレのごとく降りそそいでいった。
バスを待っている万年課長、コンビニ袋をさげた独身ビジネスマン、携帯電話をかけている営業マン、待ち合わせ中のOL、その瞳が見る見るうちに三日月へと変わってゆく。トモ子はお気に入りのマーチを奏でながら、ゆっくりとロータリーを一周した。
パレードから黒猫たちの姿は消えた。代わりにその列に加わったのはスーツ姿の猫人間たち。彼らは小学生の遠足みたいにトモ子のあとについていった。取引先の部長の顔を忘れ、待ち人を忘れ、ゴールデンタイムのテレビを忘れ、ついでにあらゆる種類のストレスまで忘れて、慣れないマーチのリズムにあわせ楽しげに「ニャーニャー」と鳴きながら。
パレードは駅からの並木通りを『大黒屋』にむかって進んでいった。先頭のトモ子は、これまでの練習の成果を思う存分発揮しながら、おだてられて木に登った子ブタみたいな気分でいた。子ブタは思った。きっと今夜の『大黒屋』は開店はじまって以来の大忙し。おしゃべりパティシエもさすがにテンテコ舞い。でも大丈夫。彼なら、それに見合った魔法を必ず思いつくはずだから。