ターザンの木教習所③
今日だけ私は完璧な音楽家に生まれ変わりました。演奏する会場のホールは空港内の広いターミナルで、ご披露する曲目は私家版『誰も起きてはならぬ』。弾いてみせる楽器はアップル社製の中古マックブックといったところです。
連打するカチャカチャしたキー音が、『オーケストラのためのタイプライターの音楽』さながら、ピカピカした白乳色の床に小石のように転がっていきます。『誰も起きてはならぬ』は『オーケストラのためのタイプライターの音楽』のマック版なのです。
人生の晴れ舞台、ここは教習所のピンクの制服を質に入れてでも華麗なドレスを新調してくればよかったのでしょうけど、生憎、私の衣装は着古したジーンズに長袖のTシャツです。でも会場に集まった国際色豊かな聴衆は、みんな居眠りの真っ最中なので問題はありません。それでこそ完璧な演奏であり、最高の『誰も起きてはならぬ』の証です。パトロール中の大きな警察のシェパードも、どこかで居眠りしながら聞き耳を立てていることでしょう。
これがドッキリカメラでない限り、空港の職員を含めて、ターミナルで起きているのはまず私一人きりなのに違いありません。ほかの乗客たちがみんなで寝たふりをしているのでなければ。これが恒例になっている新人向けの手の込んだイタズラでなければ。他人の人生初成田を、空港関係者や数多くのエキストラがドッキリでお祝いしているのでなければ。
もし正面の自動ドアの扉が開いて、外から入ってきた誰かが私の独奏会を目撃したなら、空港内で良かならぬ大惨事が起きたと勘違いして卒倒するかもしれません。でもここは霧に包まれた海に浮かぶ孤島のようであり、目のいい渡り鳥ですら翼を休めることはないのです。
考えようによっては冒険好きなタンタンよろしく、隅から隅まで空港探検をするのには絶好の機会かもしれません。レストラン街に忍び込んで、スタッフが注文したポテトをこっそり頂戴するのもいいかもしれません。ただ時間がありませんし、私もそんな遊びに興じる歳ではありませんので、やりはしません。
第一、私だって眠くて仕方ないのです。さっきから寝落ちするのを我慢してマックブックのキーを叩いているのか、寝落ちしてしまわないように叩いているのか、その境界線が分からなくなっている有様なのです。それぐらいに私の『誰も起きてはならぬ』は完璧なのです。
私はキーを叩きつづけます。おぼろげな境界線を行ったり来たりしながら。重い瞼がくっついて、マックブックのキーボードから指先が離れなくなってしまったが最後、私は出口の見当たらない夢の迷宮をさ迷うはめになるでしょう。そうしている間に外の霧はいつの間にか晴れて、私と教習所のスタッフを置き去りにして、飛行機はアガサとターザンの木が待つカルフォルニアへと旅立っていくでしょう。飛行機に乗り遅れた私たちスタッフを待っているのは、浦島太郎さながら、廃墟と化した自動車教習所だけです。
そんな惨事にならないように私は書きつづけなければなりません。もはやこのブログは当初の目的から外れてしまいそうです。まるで自動記述機に変身したかのように、私はなにも考えずに、思いついた物事をそのまま記録する夢想記述マシーンと化すのです。
私は夢想します。夢想しつづけます。泳ぎを止める行動がそのまま死を意味する海の魚にも似て、ターザンの木教習所の広報である私にとって、この瞬間に夢想しないのは、ほとんど臨死状態を意味します。一秒の始動の遅れが致命傷となるのです。
ただし心配は御無用です。海の魚が泳ぎが得意なように私は夢想するのが得意中の得意なんです。たった今、それに気づきました。ようやく自己認識しました。マックブックの演奏会が私にそれを教えてくれたのです。なんということでしょう、自動車教習所の受付係は私の天職だったのです!
これでもう大丈夫です。安心です。教習所のスタッフがダークサイドに落ちる心配はありません。なにしろ私は夢想についてはプロなんです。ほとんどジェダイ並みなんです。すべて心得ています。もう何年も朝と昼と午後の眠気と戦いながら受付の椅子に鎮座してきたのです。
ある意味、受付係という職業は、眠気と戦うアスリートと呼べるのではないでしょうか。私たち受付係は起きていながら夢を見ることができる生き物なのです。
もちろん同じ受付係でも私たちのように倒産寸前のB組とはまるで違う、秋葉原のヨドバシカメラ本店で働く受付係みたいな、猫の手も借りたくなるぐらいに毎日が忙しいA組の方々もいらっしゃいます。営業時間内の彼女たちに夢想する余地などありません。
逆に私たち受付係B組は夢想する生き物です。ダーウィンもマルクスも思いつかなかった、欲深いバクがついつい食べ過ぎてしまって常に不足がちな世間の夢を、コンクリート製の建物の座り心地の悪い椅子から、世界に向かって供給するのが私たちのもう一つの仕事です。
市役所の受付係も、デパートの受付嬢も、映画館の受付係も、着ている制服の色は違っていても、貰っているお給料の額は違っていても、私たちが背負っている使命はみんな同じなのです。迷える人々に世界の成り立ちを教え導きながら、世界中に「いいね!」の種になる夢を供給しているのが私たち受付係B組なのです。
受付係A組にずっと抱いていた劣等感がまさかこんなところで昇華されるとは夢にも思いませんでした。私たちB組だって少しは世のため人のためになっていたのです。
これは妄想でしょうか。いいえ、そんなはずはありません。むしろ正夢です。なぜなら私の夢想は、上手くいけば少なくとも教習所のスタッフを救うことになるからです。
ただ一つ心配なのは、ターミナルの黒いソファーの座り心地が、教習所のパイプ椅子にくらべて、お尻が微笑してしまうほどに良いことです。これは受付係B組の中でもパイプ椅子班にはもってのほかです。
「さあ、お眠りなさい。あなたのために特別なソファーを用意しました。お仲間もさっきからお待ちです。安らかにいい夢をみてくださいね」
悪魔の憐れみの声が聞こえてきます。お尻の方から。
全国の受付係B組のみなさん、どうか力を貸してください。みなさんの夢想を成田空港のターミナルに向けて送ってください。
〈私はアガサ。あなたと同じ受付係〉
たぶん四、五分の間だったと思います。まったく夢想のプロが呆れて笑ってしまいます。恥ずかしながら、教習所のジェダイはついに覚醒しなかったのです。
私の演奏会に集まった人たちはまだ全員寝入っているようです。急いで腕のG-SHOCKの画面を確認しました。マックブックのキーを叩く音がやんだターミナルは、時間が静止したようであり、冗談抜きで世界の終わりみたいな感じでした。
ただ一箇所だけ五分前の世界と違っていたのは、私のマックブックの画面です。そこには時間の流れが文字となって残されていました。私はキーボードの上で勝手に動きはじめた自分の指の感触で、ようやくうたた寝から目を覚ますことができたのです。
ブラインドタッチなんて習ったことなんてないのに、おかしな話です。人々を寝かしつけたはずのマックブックが、今度はご主人様を起こすなんて、おかしな話です。
一年前のとってもスクエアな私だったら、そんなふうに考えたかもしれません。でも少しもおかしくなんかないですし、ちっとも不思議でもありません。今の私だったら魔王に誓って決めのポーズをしてみせます。
私はもう一度、今度は宇宙人と人魚と雪男を引き連れて、膝にのせたマックブックの画面を覗き込みます。そこには私がうたた寝している間に自ら打ち込んだ短い文章が、それまで書いた文章とは間隔を空けた場所に、章のタイトルめいて浮かんでいます。
その横書きのわずかな数の文字は、空港のシェパードが見ている夢にきっとETとリトルマーメイドとチューバッカを登場させ、一方で孤独だった一人の受付係をついに覚醒させるのです。
つづく