あなたの埋もれた才能見つけます㉗完
ドンドンと、重たい扉を海賊ルフィがゴムの拳で威勢よくダブルノックしているみたいな、ひどく現実離れした物音で目を覚ましました。瞼をゆっくり開けると仄暗い空間に横たわっていて、気が付かないうちにテントの中で眠っていたようでした。
寝袋のまどろみの中にいる間にも、ダブルノックの響きは黄色いテントの布地を通して必要に聞こえてきました。置いてきぼりにして忘れてしまった約束を思い起こさせているように。わざわざそれを知らせに遠く離れた場所からやってきたみたいに。
たしか物語の世界では、ダブルノックは真実の証しのはずでした。どんなならず者でも決して嘘はつけない神聖な儀式です。『奥様は魔女』なら「魔王に誓って」のセリフが飛びだすシーンです。私は急いで寝袋からでなければなりません。
しだいに頭の中の焦点が合いはじめたのにつれて、私も置き去りにした約束に心当たりがある気がして、マットの上を這うように、開いたテントの扉から身をのりだしました。
ザクザクと、今度はグラウンドの土を踏む足音が乾いた地面から浮かんでくるように近づいてきました。キャシーさんの姿はすでに外には見当たりませんでしたけど、焚火はまだ少し燃えていて、地面をオレンジ色に照らしていました。
迷彩柄のパーカーを目深にかぶった田中さんが、リュックを胸にあてた格好で、無言で頭上を通りすぎていきました。地面から見上げるゲームキングは本当に大魔神さながらで、それが私の目に焼き付いた水晶掘りとしての田中さんの姿でした。その日に到着したときには平らだったはずのリュックの扉は、すでにパンパンに膨れていて、どうやら一晩の仕事を無事に終えたようでした。
テントからでると、私たちの水晶掘りは足音だけを残してグランドを横切り、閉じた校門を来たときと同じようにあっという間によじ登って通りに消えました。
校庭の上には満点の星々が瞬いていました。私はずいぶん昔にそれと似たような星空を見上げた経験があったような気がします。
テントから離れて、グランドに濃い影をつくりながら、その土を踏んでいきました。長方形をした広い校庭の一角に大きなバックネットが建っていて、ダブルノックはその壁の部分を鈍く鳴らしていました。まるで約束の壁のようです。
片手に茶色いグローブをした白いユニフォーム姿の男の子がマウンドに一人立っていました。ゴムの拳を送りだすみたいに、白いボールをバックネットに向かって二回つづけるように投げ込んでいました。
男の子は跳ね返ってグランドに転がるボールをグローブでキャッチして振り返り、こちらを見てニッコリ微笑みました。それから照れ臭そうに、まだ声変わりする前の青い声で話しかけてきました。
「キャッチボールしない?」
私がうなずくと、彼はマウンドから歩いてきて自分のグローブをポンと手渡しして貸してくれました。
男の子は後ずさりして距離をつくり、白いボールを山なりで投げてきました。夜なのに星影のせいでボールの模様までよく見えました。
もしかしたら男の子は、私がまだ小学生の女の子だと勘違いしていたのかもしれません。自分よりも背が高く、体も大きい、小学生の女の子だと。
白い球体が教室を飛ぶ白墨みたいに星空をくっきり横切り、私はそれを上手くキャッチして、やはり山なりで返しました。私たちは言葉をキャッチボールする代わりにもっぱら白い軟式ボールのやり取りだけを何度も繰り返しました。球体が古い柱時計の振り子のごとくいく度となく左右を行き来して、私と男の子は無語のままに協力し合って、二人の記憶を呼びもどしていくかのようでした。
その夜は星空だけでなく澄んだ空気までが、いつかの日と酷似していました。
私はずっと以前に一度だけ男の子とキャチボールをした経験がありました。その夜から十年以上が経った計算で、私はすっかり成長して大人になりましたけど、男の子は時が止まったかのようになに一つ変わらずに、ユニフォームの微妙な土の汚れでさえ、ずっと洗濯してないような感じでした。男の子はいつまでも微妙な汚れ方をした同じユニフォームを着つづける、永遠の野球少年であるかのようでした。
今となっては遠いその日は、ちょうど私の小学校の卒業式だった日で、日中に式に出席した母は遅番出勤で、帰りは深夜になる予定だったので、私は一人家でお留守番をしていました。
なかなか寝付けずにいて、工場地帯のネオンとお話しようと思って、布団からでて部屋の窓を開けたのを覚えています。
時間はまだ九時前でしたけど、日が落ちると寒く、もう明日からは授業で着ることのない小学校のジャージを上に羽織っていました。
私が眠れなかったのは、小学校を卒業したのが嬉しかったり悲しかったりしたからではなくて、ただはじめて経験する人生の門出というものに戸惑っていただけだったと、今では思います。
その戸惑いとは、これまで毎日のように顔を合わせていたクラスメイトと、日付が変わった途端にもう二度と会わなくなるという、考え方によってはひどく理不尽な決まりです。少なくとも当時小学六年生だった私には、それが暴力的なまでに唐突な社会的決まり事のように感じたのです。
幼い頃の私の精神安定剤とも呼ぶべき、工場群の明かりを眺めて気持ちを鎮めようと、窓を開けて夜風を部屋に招き入れました。
それはいつでも私を癒してくれる、心の故郷のようなものです。常に夜風とセットです。海辺で生まれた人が、波の音を耳にすると懐かしく感じるように、夜間飛行士が遠い街の灯りに人々の生活を見いだすように、工場地帯の街を出身地に持つ私は、人工的で化学的なネオンの群れに、働く人々の姿を見つけるのです。夜の間ずっと働く彼らは、私に安心しても大丈夫だと教えてくれます。
普段だったら私は窓辺で遠いネオンを眺めながら母の帰りを待つはずでした。でもその夜はどこか変でした。『三体』の夜さながら、私の工場地帯はどこへやら、かわいそうにネオンの群れは東京の蛍みたいにかき消されていました。
それまで見た経験のなかった夜空が頭上一面に広がっていました。まるでかの街の土に埋まった水晶よろしく、ずっとかくれんぼしていた名前を持たない星たちが、次々に姿をあらわしたのです。季節に例えて言ったなら、前線の桜に似て、星々のきらめく花びらが一斉に開きだした様相です。
そんな夜はあとにも先にもこれ一度きりで、それだけでも十分に摩訶不思議な光景でしたけど、さらに解せないのは、ウインクするみたいに何度も流れ星を見せてくれる夜空を、学校の生徒たちがみんな同時に見上げていて、全員がわれ先にと家をあとにして校庭に集まってくるという妄想を私が抱き、それにすっかり囚われてしまった顛末です。
私はクラスメイトに再会できるのは、その夜が最後だと信じて疑いませんでした。成人式の同窓会なんて頭に浮かびもしません。子供にとっては瞬時が万事です。いつかの神童が拾い上げて投げた道端の四角い石ころよろしく、流れ星はすべて学校の校庭に向かって落ちているというのが、私なりの妄想の根拠でした。
本当なら母の帰りを待つべきでした。ただ私の妄想はすごいスピードで広がっていって、それまで待っているのが不可能なのは分かっていました。すぐに外出着に着替え、夜の通学路を一人急ぐ頃には、妄想は「流星が校庭に落ちるのはUFOからのサイン」というところまで拡大していて、「異星人の母星へと向かう巨大な母船にクラスメイトの数名が招待されて」いて、「自分もその中に含まれている」のだけど、「母親を地球に一人残すわけにはいかない」ので、「母船には乗り込まずに、校庭からクラスメイトを見送る」というストーリーまですでにできあがっていました。
それこそが、これまで毎日顔を合わせていたクラスメイトとのお別れにふさわしいエンディングでした。卒業式に出席してそれっきりというわけにはいかなかったのです。
小学校に向かう通学路の途中で、同級生の誰とも出会わなかった時点で気がつくべきでした。私たちの『未知との遭遇』は終わる前にはじまってもいなかったのだと。拍子抜けもいいところだと。
でもそれは懐かしい物語の個人的な再開シーンではあったのです。到着した校庭はもぬけの殻で、クラスメイトの姿はどこにもなく、星々の照明がなければそこは真っ暗闇の状態でしたけど、私はその夜の輝きの下で、かつて何度も耳にした響きを聞いて、一人の人影をふたたび見つけたのでした。
卒業式の日にUFOの母船は空から降りてはきませんでしたけど、代わりに記憶の中の少年が私を校庭で待っていてくれました。
「起きなさい、窓開けたまま寝ちゃって、風邪引くわよ」という母の声が聞こえました。あるいはそれは「起きてピンキー、寝坊よ」というキャシーさんの声だったかも知れません。いずれにしても私は、遠く時を隔てた夜と朝に、二人の年上の女性によって注意されるようにして起こされ、同じグローブを手にしたキャッチボールの夢から目を覚ましたのでした。
「テントを仕舞うの手伝うから。そしたらすぐに出発よ」
キャシーさんは寝袋に包まった私をテントの入り口から覗き込んで言いました。
いつもならキャシーさんは日の出とともにテントの中で目を覚まして、校庭キャンプコーヒーを焚火の残り火にあたりながらゆっくり味わったあと、姿の見えない子供たちにさよならをして小学校をあとにする習慣だったらしいのですが、その日は私が一緒にいて調子が狂ってしまったらしく、目を覚ましたときにはすでに山の手線の発車時刻が近づいていて、直ぐさま寝坊魔の私の体を揺り起こしたのだそうです。
私とキャシーさんは急いで小学校の校門を飛び越えて、息を切らしながらもときた道を駅へと、重たいリュックを背負いながら、「一二、一二」と声を合わせて早足で向かいました。途中、デッドエンドなコンビニの前で、白墨の木にさよならを言うのを忘れずに。
駅が見えてくると、山の手線の車両がプラットホームに停車していて、遠くから「おそーい!」と、田中さんの怒鳴り声が聞こえてきました。
私とキャシーさんは販売機で新宿駅乗り換えの切符を買って、自動改札を通りました。
山の手線はかの駅の出発時刻七時ピッタリに、昔ながらの発車ベルをプラットホームに鳴り響かせたあと、私たち三人を乗せて、運転士も車掌も乗り合わせていない無人電車として静かにホームから滑りだしました。天気はやはり快晴で、朝日が眩しかったです。
私とキャシーさんは真ん中の車両の向かい合った座席に座り、田中さんは一人だけ先頭車両に乗り込んだようでした。
キャシーさんと田中さんがかの街を訪れるのは今回の採掘が最後になります。キャシーさんは座席に横を向いて腰掛けて、いつまでも名残惜しそうに窓の外に流れていくかの街の風景を眺めていました。
車両の窓には、いつしかかの街周辺のかなり寂しい街並みは消えていき、電柱も家も建っていない一面の青い野原になって、それが果てしなくどこまでもつづくようになりました。携帯の電波はまだ届いてなさそうでした。
そんな殺風景な景色をキャシーさんはずっと眺めていました。田中さんは先頭車両で卵を温める母鳥よろしく、掘り当てた水晶の入ったリュックを大切に胸に抱え込んでいたのに違いありません。
窓の外を心ゆくまで見とどけたのか、キャシーさんは座席で体の向きを直して私に話しかけてきました。
「ピンキー、昨晩、男の子と校庭でキャッチボールしてなかった?」
私は図書室から借りた本の一冊をさっそく読みはじめていたのですけど、そのページから顔を上げて彼女の顔をまじまじと見つめました。あれはやっぱり夢ではなかったのだと。でもそうすると、ずっと前の卒業式の夜の出来事もやはり......。
それから私は本の扉を閉じて、代わりに自分の口を開きました。
「彼は亡くなった少年時代の私の父みたいなんです。たまに私に会いにくるんです」
「昨晩はなにかお話しできた?」
「僕はもういかなくちゃって言ってました。そのあとスウっと消えちゃったんです」
「もしかしたら、さよならを言いにきたのかもしれないわね」
キャシーさんは少し間を置いてつづけました。
「水晶に乗った子供たちはユーザーに再会したあと、しばらくしてからもとのユーザーの体の中にもどっていくの。それができなくても、やがていつかは消えてしまう。私たちみんなと同じように」
私はキャシーさんの言葉に頷いて、それから手元の本をリュックの中に仕舞いました。
山の手線の車両は鉄橋のレールの上を走って、大きな川を渡っていきました。私はキラキラした波光を眺めているうちに、またうとうとと眠くなってくるのでした。電車は警笛を鳴らし、スピードを上げたようでした。
おしまい