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「ア、アリガトウゴザイマシタ」と自動販売機は言った

中野駅西口の交差点で、一人の若き未亡人がじっと信号機を見上げて立っていた。

青信号にかわった横断歩道には、仕事へとむかう朝の勤め人の人波がなだれ込んでいた。女性はその端っこに顎をあげたまま立ち止まっていた。

彼女は三年前に交通事故で夫を亡くしていたけども、べつに信号機に怨みをもっているわけではなかった。同じように、そこで帰らぬ人を待っているわけでも、また、上空に故人の面影によく似た形の雲を発見したわけでもなかった。


女性は三鷹にあるパン工場にむかう途中だった。結婚前からつづけているパートの仕事で、彼女はそこでほぼ毎日葡萄パンを焼いていた。

それはコンビニ向けに出荷する大量品で、味は常にある一定の範囲を超えなかったし、消費者に違いはわからなかったけども、彼女の焼いた葡萄パンは、工場内とお裾分けを頂戴しているご近所では評判がよかった。

遅刻や欠勤はこれまで一度もなかった。しかしその日、毎朝利用している中央線の下り電車はほどなくホームに到着しようとしていた。それでも彼女に動く様子はなかった。

若き未亡人はついさっき耳にしたばかりだったのだ。まるでなにかの啓示のような、さもなくば悪い冗談のような、とある電子的な音声を。それは生前の夫の口調とほとんど同じイントネーションをもっていた。

いつもの信号待ちが終わったときだった。行く人来る人の頭上で、信号機がこんなメッセージを発した。

「ア、青ニナリマシタ」


その青年は車窓に映る遠い富士山のパノラマを眺めながら、いつかあのお山に登ってみるのもいいと、お気に入りのアウトドアジャケットにザックを背負い、登山道をゆく自分の姿を朝の中央線車内で妄想している最中だった。

彼の正式な肩書きは「東京都公文書保安課第四書記」。ただ近頃では、同僚たちから『自販機係』と呼ばれるようになっていた。

それは赤ん坊だったころを除けば、これまで彼が人生の中でつけられた一番まともなアダ名の一つであったのだが、ほかに同僚たちが考案したアダ名には、『バックバッカー君』とか、『自販機回り』『自販機調査員』などがあった。


もっともそれらの名前は彼個人に寄与されたものではなかった。むしろそれは彼らと呼んだほうがよく、彼にのみあたえられたものといえば、「三代目」という称号のみだった。

それというのも、それらの呼び名は彼らにあたえられた、もしくはあたえられていた、とても奇妙で困難な仕事の内容を言い表していたのだ。そしてもしそんな仕事がなかったなら、あえて彼らの名付け親になろうとする者もあらわれなかったに違いない。

平野ミキオ、25歳。黒縁メガネに童顔の、まるで旧館の町役場が似合いそうなこの青年は、またの名を『自販機係』あるいは『三代目バックバッカー君』といい、70リットル容量のザックをスーツに背負いながら、毎朝9時半に都庁のツインタワーをでる。


それは三ヶ月ほど前のある朝のこと。ミキオが普段どおりデスクワークにとりかかっていると、やはりちょうど三ヶ月ほど前に国立大卒のエリートに一人娘を嫁がせたばかりの課長が、まるで新郎にそうするみたいに、どこか複雑な心境のこもった手をその肩へとおいた。

もちろん課長は「娘をよろしく頼む」とは口にせず、ただ可愛い部下の将来を憂うようにこう言った。

「すまないな。私の力が足りないばっかりに」

この時、ミキオはなんのことを言われているのかまだ分からずにいたが、当然イヤな予感だけは持った。

「平野君、キミに決まったよ」

課長の口調は、それだけ言えばすべての事情が相手に伝わるかのような感じだった。けれど、ミキオはまだ話が呑み込めず、椅子の上でキョトンとするばかりだった。

その無言の反応をふだんの課長ならば優柔不断とみてとるところなのだろうが、この時ばかりは謙虚な受諾とうけとめたようだった。そして自分よりもはるかに有能かつ有望な娘婿よりよほど好感を持ったらしかった。ただ当のミキオ本人にしてみれば、ここで見当違いのことを喋っても自分にとってなにやら都合の悪い状況がさらに悪い方向にかたむくだけと、経験的に判断した結果にすぎなかった。

それはそれとして、課長の言動はミキオを除いたまわりの職員たちには、その狙いどおりにちゃんと伝わっていた。

それは彼の同僚たちが前もってある噂を耳にしていたからだったのだが、それがミキオのもとにまで届いていなかったのは、彼が職場にこれといった敵も味方も持ちあわせていなかったということ以上に、その噂話の主人公が他ならぬミキオ本人であったということなのだ。


その男性職員は課長に指示された階段下の狭い喫煙コーナーでミキオを待っていた。古ぼけた長椅子の隅に腰掛け、中央には目印と言われてきた小型冷蔵庫ぐらいならスッポリ収まりそうな赤いザックが、主人よりもよほど存在感を示してそこにあった。

「ウ、ウツるんだよ。で、できれば断ったほうが、い、いいよ」

ミキオが簡単な自己紹介をしたあと、その男性職員は言った。なにか前のめりになりながら必死に言葉を探しているような話し方だった。しかしその熱心さとは裏腹に、彼はミキオと微妙な距離間にある巨大なザックはどけようとはしなかった。まるでもう半分キミのものとでもいうように。男の名は木村といった。

彼こそ、都庁総務部に勤務する『二代目自販機係』その人であり、ミキオはこの場所に引き継ぎのために呼び出されたのだった。そのことをミキオ自身もすでに承知はしていたが、なぜ自分が三代目に抜擢されたのかは知らなかったし、課長からもなんの説明もなかった。彼はデスクのパソコン画面もそのままに、ただ急ぎ約束の場所におもむくよう指示されてきたのだ。


先代・木村は銀縁メガネ姿のずいぶん痩せた男で、ミキオはてっきり公務で枯れ果てた先輩職員だとばかり思っていたのだが、聞けば同期であることがわかった。煙草は吸わないらしい。ミキオも吸わない。なのにどうしてわざわざ都庁内の喫煙コーナーが二人の待ち合わせ場所に選ばれたのか。ミキオは一瞬そのことを尋ねてみようかと思ったけども、今はそんな場合でもなかろうと、もう少しマシな質問を考えた。

「でも、僕がこの職務を引き継がないと、あなたも辞められないんじゃないですか?」

「き、きっと、そ、そうなるね」

「なんで僕があなたの後継者に選ばれたんでしょう」

「し、知らない。だ、だって、どして僕が選ばれたのかさえ、い、未だにわからないんだからさ」

この男には何を尋ねても無駄なのかもしれない、ミキオの脳裏にそんな邪念がかすめはじめると、先代はやっと先輩らしい知識と経験を銀縁メガネの奥から披露した。

「た、たぶん噂だよ。つ、次はキミだって噂が都庁の中で流れはじめたんだ。そ、それが一番の理由だよ。だ、だって、ほかに『自販機係』を選ぶ基準が、ど、ど、どこにある?」

あ、あ、あなたは....ミキオはすでにその口調がウツりそうだった。

「辞めたら、もとの部署にもどれるの?」

 男は大きくうなずいた。

「で、でも、そ、その前に、リ、リ、リハビリだ」


木村と会ったのはそれが最初で最後だった。今、彼がどこでどんなリハビリをおこなっているのか知る由もないが、もしも再会することがあったとしても、こちらから声をかけるのはやめておこうと、ミキオは固く心に決めていた。

というのも、自らリハビリをし、キミにもウツると警告していたあの喋り方が、すでに三代目を襲名して三ヶ月がたとうとしているのに、ミキオにはその兆候すらあらわれていないのだ。

たしか前任者・木村が『自販機係』をしていた期間は半年弱。その半分以上を後任者の男がなんの問題もなくクリアしたと知ったなら、彼の心境もおだやかではないだろう。リハビリで改善してきた口調が悪化して、ふたたびスクラッチしだすかもしれない。たとえ一度切りの出会いであったとしても、そうなるのはミキオの本意ではなかった。本人にバッタリ再会し、同情心からその口調を真似て喋るようなこともまた然り。


しかし言葉に関することを除いてなら、木村が言っていたことのおおよそが、ミキオにもあてはまっていたことは事実であった。

例えばその一つ。『自販機係』になると体力がつく云々。

それこそ小型冷蔵庫並みの重量をもったザックを毎日のように背負い、何キロと歩きつづけるのだから、当たり前といえば当たり前の話だけども、もう何年も運動らしい運動をせず、それに輪をかけてデスクワーク三昧の日々を送り、駅の上り階段では時に息を切らすことすらあったミキオが、今では無数の新宿駅利用者の中でも指折りの階段アスリートへと変身している次第。

そうして彼は車窓の富士パノラマを見つめながら、クライマーたる己の姿を夢想している最中だったのだ。


西の空を染めた夕暮れ模様がしだいに輝きを失い、夜の帳がその幕を下ろし切るころ、ミキオは新宿駅の西口を歩いている。

帰宅の足を急ぐそこかしこのビジネスマンたちと無言のままに擦れ違いながら、彼は明かりの消えはじめたビルの群れへとむかう。

都庁の建物に入ると、下りエレベーターから降りてくる、すでに私人の顔つきと入れ替わった同僚たちとは正反対に、彼はそれに一人乗り込み、上階のボタンを押すのだった。

人気のないフロアを横切り、彼は薄暗い会計課のデスクに今日一日分のA4サイズからなる支出記録をおいて部屋をでた。そしてふたたびエレベーターに乗り込むと、今度は地下階のボタンを押した。


まるで裸電球然とした貧しい蛍光灯の明かりの下を、ミキオは体育館ほどの広さもある地下倉庫の奥へと迷わずに進んでいった。両脇にはスチール製の棚に引き詰められたダンボール箱がくたびれた顔色をのぞかせている。ミキオはその中でも比較的新しい顔の前で足を止めてから、職場にもどってはじめてザックを下においた。鈍い金属音が鳴る。

「おかえり、兄弟」

冷えたセメントをこするシューズの足音と共に、低い男の声が背後に響いた。倉庫の番人をしている契約社員の男なのだが、なぜかミキオのことを会ったときから兄弟と呼ぶ。そうして倉庫内の通路をトラックに見立て、暇さえあれば作業ズボンにTシャツ姿でジョギングしているのだ。

「ただいま、兄弟」

ミキオは遠ざかってゆくシューズに声をかけた。


棚からダンボールを引き出すと、それも鈍い金属音を立てた。まるでジャック・スパローの子分たちが船の積み荷からおろした宝箱みたいに。

しかし、都庁の地下倉庫に七つの海にまたがる金銀財宝が眠っているはずはなく、中には煙草のばらのケースと、缶類の飲み物とがそれぞれ定規で計ったように綺麗半々収まっていた。ミキオが開けたザックにもやはり同じ品物が、こちらはもっと乱雑に、フタから溢れんばかりに顔をのぞかせている。

彼はそれを一つ一つ手にとって積み木を重ねるようにダンボール箱に並べてゆくのだった。どれもこれも大切な都民の税金によってまかなわれたものなのだ。一つとして粗末にはできない。

もっとも半日かけてこうして集めた品々が、この先どうなってゆくのか、ミキオにはまったく知らされてはいなかった。

ザックが空になると、彼は静かに倉庫をでた。間際、地下室アスリートの声が四方の壁に反響して木霊した。

「おやすみー、兄弟」


『音声機能付き街頭機器における音声機能障害についての調査報告VOL.1』....去年のある日の午後にミキオのもとにまわってきた書類の表紙には、彼の正式な肩書きを凌駕するそんな長ったらしいお題目が並んでいた。

それから一年間、VOL.2、VOL.3と、どこからか提出されつづけるその報告書を、公文書書記官であるミキオは定期的にデータファイル化することになったのだったが、虫の知らせだろうか、ちょうど課長に肩をたたかれた朝にもデスクのパソコンキーに指をおきながら彼はその長い題目のついた文書とニラメッコしている最中であった。

そんな事情もあって決して自ら望んだわけではないけども、こと『音声機能付き街頭機器における音声機能障害』に関しては、どこへ出されても恥ずかしくない知識と教養をミキオは身につけていた。もっとも、そんなものが実際に役に立つ日がくるとは夢にも思ってはいなかった。


ミキオがデータファイル化した報告書によれば、中野駅西口の交差点で若き未亡人によって確認された音声機能付き信号機の「どもり」の一件が『音声機能障害』の最も古い記録として書き残されている。

報告書はその事例を『第一音声遭遇』と呼んでいるけども、その翌日、西荻窪の交差点で通学途中の男子児童が耳にした同様の事例に関しては、特に『第二音声遭遇』とは名付けてはいない。

そう呼ばれているのは『第一遭遇』から一月後、高円寺のアーケード通りで缶コーヒーを買おうとした仕事帰りのサラリーマンが耳にしたあるワンフレーズで、そのページには取り出し口から飲み物を取りだそうとした際、自動販売機がこう喋ったと記されている。

「ア、ア、アリガトウゴザイマシタ」


「どういたしまして」

ミキオは自動販売機にこたえ、ザックを道端に下ろした。

そして取り出し口からミネラルウォーターを引き抜くと、ボトルを中に入れた。それからザックのサイドポケットにまるめて突っ込んだファイルを開いた。そこにはコピーされた住所録が一覧表になっており、同じような〇×記号がいくつも横に並んでいた。

どもれば〇。どもらなければ×。住所は販売機か信号機のそれ。いたって簡単な決まりだが、同じ機械でもなぜだかどもる日と、どもらない日があるのだ。それを毎日記録に残すのが「自販機係」の仕事だった。

これは一つの統計学であり、都議会で決定された調査法ではあるのだが、この結果がいったいどこでどんなふうに活用されるのか、やはりミキオには知らされていなかった。

彼は今、ページに新しい〇印を書き込んだ。そしてファイルをしまってザックを背負うと、また歩きはじめた。さらなる自動販売機をめざして。彼らの声に耳をかたむけるために....。


木村と引き継ぎをした日以来、課長に肩を叩かれた日以来、万事がこの繰り返しだった。自動販売機から信号機へ、信号機から自動販売機へ、と。

まともな勤め人であれば、なにかしらのストレスなり不安なりを感じてよさそうな環境だった。しかしミキオは単調極まりないこの『自販機係』の仕事が気に入っていた。たしかに人とのコミュニケーションといった点に関してはいささかの問題があるけども、そのかわり上司の顔色はうかがわないですむし、職場のつまらない人間関係に気をもむような必要もない。

それに今でこそ『自販機係』は、さまよえる公務員めいた存在になってはいるが、かつては人々の注目をあつめたことだってあったのだ。  

たしかにそれは、いささか心苦しい注目のされ方ではあったけども....。


遥か初代『自販機係』の時代。まだ、どもる自動販売機が珍しかった頃のこと。人々は中央線沿線の街へと、正確にいえば中野駅西口から三鷹寺駅東口の区間へと、まるで上野の森にパンダとモナリザがいっぺんに現れたみたいにこぞって集まったものだった。

もちろん大衆の目的はどもる自動販売機や信号機を一目見ようとはるばるやってきたのだったが、なにしろその奇跡的な現象は中央線沿線の一定地域でしかみられないものだったのだ。

おかげで付近の道路は毎日が帰省渋滞のようで、電車は電車で一日中が通勤ラッシュ。世界各地からはマスコミだけでなく観光客も押し寄せ、中央線の街は一時期、人種のルツボとなった感もあった。

とくに頻繁にどもると噂されている信号機や自動販売機の周辺は、もしも日本のサッカー代表チームがワールドカップで優勝したりすることがあったならこんな騒ぎになるだろうと思われるような光景で、群集の頭上にはヘリコプターが飛び交い、渋滞に巻き込まれて立ち往生する救急車がもはや風物詩となり、ほんとうに来ないのは戦車だけといった状況であった。

そして人々はまるでなにかに取り憑かれたように、信号機にむかっていっせいに携帯電話をかざしているのだ。


そんな中、車両の列を掻き分け、野次馬を立ち退かせ、例外的に優先されている、いわゆる関係者と呼ばれている者たちがいた。

その筆頭は飲料メーカーの配送車だ。なにしろ世界中から客が集まってくるのだ。それこそ販売機はすぐに空になってしまう。そんなわけで配送車がパトカーの先導付きでお目見えすると、群集は拍手喝采して出迎えたものだった。

『自販機係』もその関係者の一員には入っていた。ただザックを背負ったスーツ姿の公務員があらわれても、そこに拍手がおこったためしはなかった。場違いな場所で、見当違いの特権を乱用している有名人みたいに、販売機の前に列をなした人々から冷たい視線を浴びるのがオチだった。

しかし初代『自販機係』としても、なにも好んで列に割り込みをしていたわけではなかった。ひとつの販売機を調査するたびに列の最後尾に並んでいては、ザックのフタを二三回開けただけで日が暮れてしまうだろうし、割り込み行為は、あらかじめ上司から厳命されていたものだったのだ。


三代目であるミキオはもちろん誰からの喝采もうけていないが、冷たい視線も浴びてはいない。彼はただふつうに販売機でものを買っている。祭りはとうに終わっていた。

もちろん、どうして路上の機械たちが突然どもりはじめたのか、その原因解明は製造元のメーカーをはじめ、あらゆる機関で調査され、今もきっとされていることだろう。しかしはっきりとした理由は誰にもわからないようだった。機械にはどこにも異常はみられないし、音声機器を取り替えても結果は同じ。結局どこかしらのなにかしらの電波が影響しているのでは、という範囲をこえる意見はいまだにあらわれてはこない。

しかも「答え」を求めていたはずの大衆はすでにどこにも見当たらないのだ。


それはUFOや超能力にくらべれば確実に手がとどく身近な奇跡ではあったかもしれない。ただ、必ずしも大衆が望むようなかたちでの奇跡ではなかった。彼らの熱が冷めるのは、真冬のホットコーヒーが冷めるように早かった。

最初に引き揚げていったのは外国の観光客とそのメディアたちだった。そもそも東洋の島国の言語など理解しない彼らにとって、そこの自動販売機がどもろうが、どもるまいが、それは大差のない非エキゾチックで非ファンタジックな出来事だった。むしろ彼らは日本の自動販売機と道路標識の多さのほうに驚いていたぐらいだった。

はるばる地方からやってきていた物好きたちも、お盆過ぎの海水浴場のようにパタリと姿をみせなくなっていった。

彼らは飽きてしまったのだ。たしかにお目当ての機械はどもることはある。しかし、それ以上のこと起こりはしない。自動販売機や信号機が勝手に喋りだすようなことはないのだ。

そして誰もいなくなった。『自販機係』をのぞいては。


「ア、青ニナリマシタ」

「そうだね」

ミキオは環状道路沿いの信号機を見上げて言った。それからファイルに〇印をして横断歩道をわたり、西荻窪方面にむかって歩いていった。

彼は先代たちと同じように荷物にならない分、自動販売機よりも信号機のほうが好きだった。そしてこれも同じように、いつからかあたり前のように機械たちと会話をするようになっていた。

しかし、これはなにも『自販機係』だけに限ったことではなかった。相当数の人々が口にすることはなくとも、似たような傾向を感じていたはずだった。

そしてこれが音声機能の付いた「どもり機械たち」を、その機能の付いていない新しい機械へと交換することなくそのまま保持するという、現在の環境をつくりだした最大の理由となったのだ。


とはいっても、べつに撤去反対の署名運動などがおきたわけではなかった。そこまで彼らを愛していた者は、いたとしてもまだ少数派のはずだった。

そうではなく、保持の根拠とは、信号機や販売機がどもるようになってからというもの、その地域一帯にある好ましい傾向があらわれはじめたからだったのだ。

それはおそらく犯罪心理学や文化人類学畑の人間が指摘しているように、人々が彼らのことを、そうまさしく彼らのことを、「人格を持ったモノ」として捉えはじめたからだと推測される。

つまりこういうことなのだ。まず交差点での交通事故が減った。そして自動販売機にたいする破損ならびに盗難事件が減少した。

他人の目のあるところ人も車も信号無視はしづらいものだろう。あるいはそれが自販機荒らしともなればなおさらのこと。

おかしな話だが、路上の機械たちはその本来の機能を損なうことによって、まるで心を持ったロボットのように扱われはじめたのだ。

そしておそらく、その出来損ないのアトムの末裔たちと一日のうちでもっとも多く会話している人間の一人がミキオだった。いや、より正確に彼の近況を述べたなら、出来損ないの末裔とだけ、会話している一人だった。


「ウツるのよ。絶対、断んなきゃダメよ」

ボーイフレンドの行く末を案じたミキオの彼女も二代目木村と同じセリフをかつて吐いていたことがあった。仕事帰りの待ち合わせ場所によく使っていた中央線沿線にある小さなブックカフェでのことだった。

その彼女はミキオより一つ年上の、やはり都庁で働いている女性職員であったのだが、自分の彼氏が自動販売機のようになってしまうのをひどく気にしているようだった。

しかし彼女の言葉をそのまま受けとめたなら、その心配は取り越し苦労で終わったと考えてよさそうな状況ではあった。それなのにこの三カ月というもの彼女からは音信不通で、ミキオの電話は着信拒否。

どうやら彼女はミキオの口調が自動販売機化してしまうことよりも、年下のパートナーが『自販機係』という役職に付いていること自体に抵抗を感じているようだった。職場の中の「外様大名」といったイメージ漂うその境遇に。


そんなわけで仕事でもプライベートでもきわめて無口な生活を送っているミキオではあったが、そのことを当の本人が気にかけているかといったら、そういうことはまったくないと言ってよかった。

せいぜい『自販機係』の仕事に慣れてきたせいか、少しばかり手持ち無沙汰を覚えるぐらい。そして歩きながらこんなことを感じたりしていた....そういえば、このところ自分の声を耳にしてないな、などと。

ミキオはザックを下ろし、小銭のつまった財布からコインを取りだしてスポーツドリンクを買った。仕事ではなく、自分のために。

自動販売機はウンともスンとも言わなかった。もとから音声機能の付いていない機種だったから当然なのだが、販売機がどもりもせず、喋りもしないと、逆に不自然さを感じてしまう。

これ以上荷物を増やさぬよう彼はその場で飲み干し、缶をゴミ箱に放り入れた。どうなるかと思って試すように眺めていたが、もちろんゴミ箱が喋りだすようなことはなく、ゴミ箱はゴミ箱らしく、ただゴソッと物音を立てただけだった。

ミキオはそれを聞きとると、意味もなく「ウン」とうなずいて、また歩きはじめた。


ミキオは先代から受け継いだ職務用の詳細な地図も持ち合わせていたが、チェックポイントはすでに頭の中にすべてインプットされていたし、体でも覚えていた。だから彼が休憩以外に足を止めることはそうはなかった。

そのミキオが疲れる間もなく歩みを止めたのは、ブロック塀に挟まれた西荻窪周辺の路上でだった。

もう少したてば下校してくる児童たちの黄色い声が聞こえてきそうな時刻だった。家々の屋根屋根はまだひとときの午後の眠りにその瞼を閉じているようだった。

ミキオが立つ左手は路地につながっていた。だが、そこはどいうわけか、すぐに三方をブロック塀に取り囲まれた袋小路になっていた。そしてその奥の塀を背に、見覚えのない黒い自動販売機がポツンとおかれ、閑静な住宅地には不釣り合いなネオンを燦然と瞬かせていた。

それは付近の住民が見てもオヤッと思える光景だったろうが、『自販機係』のミキオにしてみれば、散歩途中に野良猫を見つけた柴犬みたいに決して放っておけるものではなかった。

彼はザックから地図を取りだして、駆け出しの頃のように今一度確認作業を試みた。

やはり地図には記されていない。とすると、まったく新しい販売機なのだろうか。それを調査すべく、ミキオは路地に足を踏み入れた。


ふだん煙草や缶コーヒーなど安価な日用品ばかりに慣れ親しんでいるミキオにとって、そこはまったくの別世界であった。販売機のショーウインドの向こうに並んでいるのは、外国ブランドのバックや香水だったのだ。しかも円形のステージに乗っかって踊り子のようにスポットライトを浴びながらクルクルと回転している。

ミキオの黒縁メガネのレンズには、その様子がさながら万華鏡のごとく華麗に映しだされていた。

はたしてこれは自動販売機なのかしらん。ミキオは半信半疑、機械まわりに目をくばった。間違いなく自動販売機だった。おまけに音声機能付きと思われるスピーカーの穴まであいている。

ただ、やはりふつうの販売機ではなかった。これはいわゆる『ガチャガチャ』なのだ。機械の右手には「一回3000円」の銀ステッカーが貼られてある。缶コーヒーにくらべればずいぶんと高い。しかもそれでショーウインドに飾られた豪華な商品が必ず手には入るともかぎらない。100円ショップで売られていそうなエコバックという場合だって考えられる。いいや、まずそうなる。

3000円だして100円のエコバックでは割に合わない。しかもミキオが使う金は都民の税金なのだ。しかし音声機能付きとわかれば見過ごすわけにもいかない。コストは二の次の問題だ。たとえ販売機の中の品物がフェラーリであったとしても。

彼は財布を取りだし、大枚を機械に挿入した。


西荻窪から新宿へとむかう帰りの電車の中で、ミキオはひどく落ち込んでいた。窓の外はすでに暗く、家々の明かりが点々としていた。

音声機能付きの販売機ではなかった。スピーカーだと思っていた穴は機械を冷却するための空気孔だったのだ。

商品を取り出し口に落とした黒い販売機はウンともスンとも言わず、ただゴミ箱と同じようにゴソッと物音を立てただけだった。

こうなってしまうと『自販機係』の管轄外だ。缶コーヒー一本だろうと、フェラーリだろうと、調査対象外の販売機には一円の税金だってあてるわけにはいかない。つまりミキオは自腹で商品を買ったことになる。


その商品なのだが、バックや香水でなかったことは彼にとってかえって好都合ではあるらしかった。いいやむしろ販売機がなにも言葉を発しなかったにもかかわらず、取り出し口からその透明の小箱を掴んだとき、ミキオは喜びさえしたのだ。

ただその歓喜は長くはつづかなかった。ミキオが手にしていたものは一見iPodめいてはいた。iPodが3000円ならたしかに安い買い物だ。しかしよく見れば、箱にはiPodではなく、iPodoとプリントされている。つまり彼は偽物を掴まされたのだ。

そんなわけで、ミキオは中央線の車内で憤懣やるかたない思いでいたのだった。もっとも彼としてもべつに3000円がそんなに惜しかったわけではない。問題は金ではないのだ。

ミキオは裏切られたような気持ちがしていた。自動販売機に。まるで親しい友人にそうされたみたいに。


さて、都庁の建物にもどったミキオは、ザックを背負ったまま地下室の倉庫へとおりていった。

いつもの挨拶が彼を出迎えた。だが、その声は昨夜までの倉庫番のそれではなかった。 

「お、お、おかえり兄弟」

作業服に身を包んだ木村が、受付用の古い机にいた。

ミキオは入り口に突っ立ったままこたえず、呆然と彼の顔を見ていた。椅子の上で組んだ脚に、木村はなぜだかウクレレをのせ、両手に抱え持っていた。

それはたしかにウクレレだった。けれど、ミキオの目には倉庫から引っ張りだしてきたなにかの古道具としか映らなかった。木村がそれにあてた右手を動かした。乾いた弦の音が薄暗い倉庫内に響いた。

「ぼ、僕たちの先代は、た、旅にでたよ」

「....先代?」

ミキオは課長に肩を叩かれたときのように、相手がなにを言わんとしてるのかさっぱりわからなかった。今度は木村のほうが不思議そうな顔をして言った。

「き、聞いてなかったのかい。か、彼が初代の『自販機係』だったんだよ」

それで兄弟と呼んでいたのか....ミキオは小さな謎が一つ解けたような気がした。だが、なぜ彼が最後まで正体を明かさなかったのか、その疑問はのこった。ただ単に話したくなかったのかもしれないが。


「彼はいつも倉庫の中を走ってたよ」

ミキオは言った。もっとも木村の関心はもうべつのところに移っていたようだ。

「そ、それが、彼流のリハビリだったんだ。い、今ごろ、き、きっと夜の香港の街を歩いてるよ。お、お、大きなザックを背負ってね」

木村はミキオの背後をアゴでさした。

「そ、それ、に、似合ってるじゃないか」

ミキオは木村の作業服を見て同じことを言ってやろうかとも思ったがやめにした。

「君にはリハビリの効果がまだでてないようだけど」

「で、でてるさ。む、昔よりずっと上手くなってる」

木村はそう言ってウクレレの弦を華麗にピッキングしてみせた。


ミキオは普段どおりの作業をつづけた。ダンボール箱にiPodoをのぞく今日一日分の収穫を詰めてゆくのだ。

ただ、いつもと調子がちがうのは耳に入ってくるのが床にこすれるシューズの音ではなく、木村の奏でるハワイアンミュージックだということだった。

ミキオは木村の素性もやはりよくは知らないけども、知るかぎりでは、彼とハワイアンはどうしても結び付かない。この薄暗い倉庫と南国の風景もまた然り。

ミキオの手はいつもよりはやく動きだした。自然、商品の並べ方は雑になっていった。ここから抜けだしたいという気持ちが、彼の頭を占めはじめていたのだ。とにかくまともな世界にもどらねば、と。

そんな心の動きが伝わったのか、木村は遠く離れた机からも話しつづけた。もっとも声を張り上げる必要も、耳をすます必要もなかった。たとえウクレレの伴奏付きではあっても、その声は倉庫中に反響して、どの場所にいても聞きとれたからだ。


「と、都庁の中で、き、君がなんと呼ばれてるか知ってるかい?み、みんな、き、き、『奇跡の自販機係』と呼んでるよ。君が三カ月たっても、まだ、少しも、ど、どもらないものだから」

どうやら留守の間に出世していたらしい。けど、誰とも会話してないのにどうしてわかったのかしらん。ひきつづき手を動かしながらミキオは不思議に思った。

「で、でもね、いずれなんらかの変化があるはずさ。今と同じままじゃいられない。『自販機係』になった以上はね。こ、この仕事は、そんなに甘いもんじゃないんだ。変化は必ずやってくる。い、いや、も、もうきてるかもしれない。た、例えば、こ、この倉庫の机の上にもね」

それで、ミキオは机の上だけは目もくれまいと、固く心に誓ったのだった。

すべての調査品をダンボール箱に詰め終え、空になったザックをふたたび背負い、ミキオはなにも聞かなかったように出口へとむかった。

しかし寸前のところで、彼の心境に変化がおきたのだ。


なぜ木村の言うことを気にかける必要があるのか。ミキオの脳裏にそんな考えがとつぜん浮かびあがった。『自販機係』を引き継ぐとき奴は君にもウツると言った。しかし実際にはそうはならなかった。なら、今回だってそうかもしれない。いや、そうなろうがなるまいがどうだっていい、と。

新しい倉庫番の前までくると、ミキオはほとんどわざと視線をおろした。そして後悔した。

机の上に一枚のCDがのっていた。

てっきりハワイアンのそれなのかと思ったが、ジャケット写真には見覚えのあるヒゲとパーマの外国人が二人並んで写っていた。

いつだったか彼女にプレゼントしたものと同じCDだ。サイモン&ガーファンクルのベスト盤。それがどうしてここにあるのか。

一度は目もくれず素通りしようと思っていたのに、ミキオの足と視線はピタリと静止したままだった。


「ある女性がだ、き、君に返してくれって。た、退庁前にここにきて、おいってった」 

木村はそう言って、よせばいいのに『サウンド・オブ・サイレンス』をウクレレで奏ではじめた。ミキオは思いだしたくもない映画のラストシーンを思いだしてしまった。

それは彼女のお気に入りだった。彼女はキャサリン・ロスみたいな長い髪をしていた。

「か、彼女のことは忘れるんだな。向こうはもう気がついてるんだよ。や、やっぱり、女性のほうが勘がいいからね」

「なにを聞いたんだよ」

「な、なにも。ただわかるんだよ。ぼ、僕のときも同じだったから」

木村はやっと弦の指をとめた。

「や、やっぱり、ウクレレに『サウンド・オブ・サイレンス』は、む、無理があるな。も、もっていけよ、兄弟。お、おいていかれても困るから」

ミキオは引ったくるように机の上から二人の外国人を取り去った。ほかにもいろんな物をプレゼントしたはずなのに、どうしてCDだけなんだろうと思いながら。


ウクレレに『サウンド・オブ・サイレンス』は似合わなかったが、『自販機係』の仕事にもやはりそれは不向きだった。それでも『ミセス・ロビンソン』や『コンドルは飛んでゆく』あたりはなかなかよかった。

ミキオは昨晩、さっそく彼女の置き土産を3000円のiPodoにインストールしたばかりだった。ほかにも手持ちのCDは何枚かあったけども、あらためて聴きたいと思うほどのものはなかった。それよりもiPodoを手に入れたその日に、なんの因果か、自分のもとへとまいもどってきたCDをインストールするほうを彼は選んだのだ。

恋人は彼を見捨てたが、自動販売機は彼を裏切らなかった。iPodoは問題なく動作した。ミキオはいつもの販売機から信号機への道のりを今日は白いイヤホーンをして歩いていた。なじみのメロディーに口笛を吹きながら。


「ア、青ニマリマシタ」

「そうだね」

「ア、アリガトウゴザイマシタ」

「どういたしまして」

ミキオは快調に飛ばした。『自販機係』の最長歩行記録を更新しそうな勢いだった。

イヤホーンはしていたが、もう音楽は耳に入らなかった。口笛も忘れた。彼は自分の足が向かうままに、ただ黙々と歩きつづけた。

いつしか街は森になり、信号機は葉を揺らす樹木になった。自動販売機はお喋りな熊に。下水道は小川のせせらぎとなり、電線のカラスはカッコウのように鳴いた。スニーカーは登山靴へと、歩くアスファルトは二泊三日のトレッキングロードへとつづいていた。

ミキオは一人、都庁所属のワンダーフォーゲル部員になっていた。


日が暮れ、人々が帰宅の道を急いでるころ、ミキオは中野通りをトボトボと歩いていた。

今日だけでどれくらい歩いたことか。『自販機係』としての自身の最長歩行距離は見事に更新したけども、おかげで脚はパンパンに腫れ、ザックが食い込んだ肩はキリキリと痛んだ。

本当はこのまま徒歩で新宿都庁にゴールするつもりでいたのだが、そうなれば明日の仕事にさしつかえるのは目に見えていた。彼はあっさり自身のワンダーフォーゲル部を解散し、文明の力を借りるべく、中野駅へとむかっている最中であった。

中野サンプラザを過ぎると、目的の駅が見えた。ガードレールの上を高架橋が走っている。と、その下の交差点に信号機が立っていた。ミキオはそれを今日最後の仕事にしようと心に決めた。


しかし交差点に近づくにつれ、ミキオの視界にはいってきたのは信号機ではなく、ガード下のトンネルにへばりつくようにして立っているある人影だった。そのシルエットはミキオが会いたいとは思わない人物のいでたちによく似ていた。

作業服に胸に抱えた小さな楽器。高架橋下の街灯が男の姿をオレンジ色に映し出していた。もう少し近づけば銀縁メガネも見えることだろう。

ミキオの頭にとっさに思い浮かんだのは、一か八か電柱のかげにでも身を隠そうか、というものだった。けれど実際にそうしなかったのは、隠れなければいけないのは、むしろアチラさんではないかと、考え直したからだ。


あれはたしかに木村だった。魔がさしたのか、よせばいいのにガード下でウクレレの演奏をしているのだ。音はここまでは聞こえてはこないが、まず間違いなくお得意のハワイアンだろう。

奴が言っていた変化とはああいうことだったのか、ミキオは『自販機係』になったことをはじめて後悔しはじめた。キャサリン・ロス似の彼女が予期した変化とやらも、もしやあんなだったのかしらん。だとしたら彼女が別れたいと思った気持ちも満更わからないではない....。

木村はこちらの存在にはまったく気がついていないようだった。うつむき加減に一心不乱、楽器を弾いている。

その姿はハタから眺めていてもかなり哀れだ。作業着にハワイアン。通行人たちは皆、彼の前を素通りしていった。まるで道化役の疫病神を見るかのごとく。

いや一人、たった一人だが、足を止めて聴き入っている通行人がいる....。


それは淡色のコートを着た女性だった。仕事帰りなのか、腕には網目のバッグをぶら下げている。ちょうど木村の影になって見えなかったのだ。

あの人はフラダンスでも習っているのかしらん、ミキオがある意味感心して眺めていると、木村がやっと顔をあげ、かわりに楽器をおろした。演奏がおわったのだ。唯一の聴衆に頭をさげる我らが二代目。するとつぎの瞬間、ミキオは信じがたい光景を目の当たりにした。

拍手している。女性が。しかも笑顔をむけて。

それは単に同僚の別の一面を垣間見たというより、これまで木村のことを「外様大名のその代表」のように考えていたミキオにとって、都庁を中心点とした彼の半径40キロからなる価値観を揺るがすような出来事だった。

なにしろ黄昏の冥王星よろしく、円周の一番端を漂流しているに違いないと考えていた男が、じつは誰より世界の中心に近い場所にいたのかもしれないという予感を抱かせたのだ。


こうなったら同じザックを背負った身、一言声をかけて労をねぎらうべきかとも思ったのだが、同時にこのまま路上のカップルを二人切りにして立ち去るのもまた一考のように思え、どちらにするか、ミキオは悩みはじめた。

それでしばらく様子をうかがっていたのだが、女性がこちら側に立ち去ってくるのを見てとると、やおら歩きだし、先代にむかって約束の言葉をかけた。

「やあ、兄弟」

木村は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに彼を出迎えた。これまで見たことのなかった満足そうな生き生きとした笑顔をうかべていた。都庁の職員たちが見たらなんと言うだろうか。彼らはまたしても『自販機係』にたいする新しいアダ名を考えださなくてはならないだろう。

「や、やあ、兄弟」

「似合ってるじゃないか、それ」

胸の小楽器をアゴでさしてミキオは言った。ちょっとは気の利いた冗談のつもりであったのだが、木村の視線はそれを帳消しにするようにあらぬ方向にむかっていった。

振り返ると、さきほどの女性が白い包みを手にしてミキオの背後に立っていた。

「よかったら、これどうぞ」

そう言って女性は包みを木村に手渡した。

ミキオの目にそれはパンのように映った。包の内側からその生地がかすかに透けて見えていたからだ。

でも、どうしてパンなんだろう。ミキオは不思議でならなかった。もっとも頂戴した木村のほうは素直に彼女にむかい、こうこたえたのだ。

「あ、あ、あ、ありがとう」


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