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尖りサラリーマン⑫

ユーザーのみなさんには、ここで少しだけ国語のお勉強をしてもらいと思います。そんなことを言うと、さっそく「ブログを読むのにどうして勉強なんかをしなければいけないのか」というクレームの声が聞こえてきそうです。「これだからこのブログはユーザーが増えないわけだ」とか、半ば呆れ顔で心配してくれる読者まででてきそうです。

つくづく仰るとおりだと思います。以前でしたら、私もユーザーの反応を心配して、突飛な発言は控えていたでしょう。読者あってのブログ運営ですから。

ただ、近頃の私はいささか前向きであり、それゆえに大胆でもあるのです。「矢でも鉄砲でも持ってこい」とまではいかなくても、ちょっとやそっとのクレームぐらいで怯むチキンではありません。

もちろんいい歳をした大人の心境の変化には、それなりにちゃんとした理由があるものです。無軌道な若者らしく決して勢いだけで言ってるわけではありません。ただその理由を説明する前に、まずは国語の勉強です。それでは早速はじめましょう。


『魔法の国に魔法使いはいない』という言い方にはたしかに一つの反語的な真実があるようです。もしも本当に魔法の国があったとしたなら、そこでは魔法使いは通勤サラリーマンみたいなごく当たり前の存在となり、誰も彼らを、あるいは自分でさえ、魔法使いとは呼ばなくなるからです。魔法があくまで奇跡として崇められるためには、それとは対称的な一粒一粒の米粒を毎日毎晩切磋琢磨するかのような私たちの科学の世界の存在が必要になってきます。優れた詩人でさえ誰も自らを「詩人です」とは自己紹介しないものです。

同じように、誰が呼びはじめたかは今では定かではありませんが、『魔法の靴のための広告』という言い方にはわざとらしい矛盾が一つのユーモアとして込められているようです。もしも本当にそれが魔法の靴であったなら、そもそも広告など必要ないでしょう。最初から魔法VS資本主義的な「偽物」の匂いを漂わせることによって、逆に本物らしさを醸しだしているかのようです。

以上で国語のお勉強はおしまいです。いかがでしたでしょうか。


それでは世にも珍しい、とある一人のオッサンがブログ運営の果てにようやくたどり着いた自称我が世の春的な環境について、ご説明したいと思います。「勉強のあとは自慢話かよ」という声をスルーしつつ。

その心境の変化は唐突にやってきました。これまで私にブログ管理者としての取り柄があったとしたなら、それは〈シン尖りサラリーマン〉という新語を世間に広く定着させたことだとずっと自負してきました。いまではフォロワー十万人を誇るメトロ広告機構の〈中の人〉でさえ普通にこの呼び名を使っているほどです。

ただ、この新語がはじめて使われたのが当ブログであるという事実の認知度は、世間では相当低いようです。そればかりか近頃では、「我こそは〈シン尖りサラリーマン〉なる呼び名の発明者」を名乗るブロガーが春のツクシのようにでてきていて開いた口がふさがりません。


でもいいんです。そもそも〈シン尖りサラリーマン〉自体が『シン・ゴジラ』のパクリなんですから。それぐらいの羞恥心は、元ミスターノーバディの親衛隊である地下鉄の住人だって持ちあわせています。

ですから私はここで〈シン尖りサラリーマン〉の著作権についてあえて声高に上から目線でもって主張したいわけではありません。

そうではなく、じつのところ私にはブログ上でもっと自慢したい事情を発見したのです。それは新語一つどころの話ではありません。


二つの先例にならい、ここはあえて後者を選んで、私は当ブログに『魔法の靴のための広告のための広告』という少々長ったらしい冠を謙虚に授けたいと思います。

『シン・魔法の靴のための広告」でも、『魔法の靴のための広告シーズン2』でもいいのですが、なぜいまごろになってバラバラな文章を統括するようなメインタイトルを定めようと思い立ったのには、一つにそんな機能がこのブログのアプリにあるのをこれまで知らなかったからで、あと一つには、私の書いている反魔法的ともとれる当ブログが、じつのところ魔法原理主義者を、それを信じる人々を、かえって爆誕させているという事実にようやく気がついたといった経過があります。

どうりで私のブログにはアンチしかやってこないわけです。理由がようやく飲み込めた次第です。そんな気持ちはさらさらないのに、ミイラ取りを自らの手で知らず知らずのうちにミイラにしていたみたいなのです。


『シン・ゴジラ』が持つ物語的構造は前にも書きました。映画に登場する嫌われ者の官僚は私そっくりです。似た者同士で気が合うわけですが、それだけでなく、物語の世界と現実の世界で、担った役割までが似ているんです。それは嫌われ者だからこそできる役割です。役得と言ってもいいかもしれません。

『シン・ゴジラ』においてスクリーンを見上げる観客は、謎の巨大生物の存在を官僚が否定するたびに、それを逆に信じなければならない構造の中にいます。その効果はほとんど全弾命中の荒技です。

それと同じような構造が私のブログにもあり、ユーザーは画面上の文章で魔法の存在が否定されるたびに、まるで自分の大切な思い出を汚されたみたいに、かの存在を擁護するようになるようです。


あの頃から(というのは、つまり尖りサラリーマンの一番長い日から)、時おり私はどうでもいいことを考え込むようになりました。一円の得にもならない、誰に向かっても自慢のしようがない、昔の人に言わせたなら「犬だって食べやしない」、煩悩のなりゆきを。過去の出来事を書く行為によって、あるいは語る行為によって、私には懺悔にも似た気持ちが一つ残るようになったのです。

それは、数々の奇跡にも似た情景をこの眼で目撃し、体験し、手にも触れながら、それでも私は、あるいは私だけは、ずっと魔法の存在を受け入れられずにいたという後ろめたい感情です。

しかもただ受け入れられなかったというだけでなく、呆れたことにこうしてネット上で反魔法キャンペーンもどきまではじめてしまう始末です。まったく困り果てたオッサンです。頭が固いのを通り越して、腐りはじめているのかもしれません。自分で言うのもなんですが、SNS上でユーザーから老害扱いされてしまうのも致し方ないところだと思います。


私は自分の行為をごく当然のことのように考えていました。いい歳をした大人が、うだつの上がらない通勤サラリーマンが、「魔法だなんて、チャンチャラおかしい」と。「尖り革靴なんて、歩きづらいだけ」と。ウォーキングシューズをいい言い訳に。

でも違うのです。私は歩く矛盾なのです。ウォーキングシューズを履いた健康志向の歩く矛盾なのです。ときに私は否定と肯定の二種類のスーツを使い分けます。

魔法の靴によって幸福を手に入れたQ部長は、毎朝のように足元のお気に入りを特製ワックスでツルツルに磨き上げながら取引先の営業マンに忠告します。「気をつけてたまえ!私たちは誰も魔法も魔法使いも思いだせないものだから。だから諸君、気をつけたまえ!もしも嗅いだことのないような薬草の香りが漂っていたなら、それはさっきまで魔法使いがそこにいた証拠なのさ」と。


シンクタンクの研究者に、あるいは生命保険の営業マンに、それともNBAの頭脳コーチに言わせれば、魔法の靴が作りだす幸福感は個別型の加算式であり、総合型の減算式ではないようです。減算式において人々が持続的な幸福感を得るためには、常に経験した幸福の総数が不幸のそれを上回らなければならず、それは現実的にはとてもとても難易度の高い作業です。

でも加算式では幸福と不幸が個別に存在するので、必ずしも幸福の総数が不幸のそれを上回る必要はありません。そこで人々は暗闇を照らす一筋遠い灯台の灯りを見るでしょう。それはどんなに暗く遠くとも決して絶えることのない希望です。ただしその灯台は哀しいことに、いつでも、どこでも、誰にでも、見つけられるわけではないようです。とくに月曜日の朝などに発生する濃い霧の中では、その姿は隠れがちになってしまうようです。


魔法の靴のための広告のための広告は、必然的に魔法の靴のための広告を否定するところからはじまります。否定からはじまるのがミソです。この際、「否定からはなにも生まれない」という苔の生えたセオリーは忘れてください。否定の否定は強い肯定であり、物事の暗い側面を推し測ることにおいては私たちはプロ中のプロだからです。

ガラスの靴は世界にただ一足であり、そのサイズが合うのも世界にただ一人であると、信じられる力が必要です。否定の否定が強い肯定感に変わるそのとき、自衛隊の砲弾は全弾命中し、モンスターの巨大でご太い尻尾は住宅の群れをなぎ倒し、地下鉄の車両ドアにはグーグルの広告にも似た一列のコピーの文字が浮かび上がります。「アイム・フィーリング・ラッキーな方は次の駅でお降りください」と。


つづく

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