魔法の靴のための広告⑤
いつも右手に釣り竿を持ち歩いているスリーフィシャーメンの左手には、必ず小道具箱がありました。それは赤くペイントされた、取っ手の付いた三段式の鉄製の硬い箱で、普通の釣り人であれば中には魚を獲るために必要な秘密の小道具が一切合財忍ばせてあるのでしょうけど、エアーフィッシング専門のスリーフィシャーメンにそれは必要ないわけで、いったいなにを入れて持ち歩いているのか、それまで謎とされ、様々な噂が透明な魚よろしく街角を飛び交っていました。
中でも有力だった噂話は、彼らスリーフィシャーメンの歩く姿をよく目撃していた人々による、「きっと来る途中にコンビニで買っておいたスニッカーズか、調味料としての携帯用のマヨネーズでも入れているのでは?」という説でした。私もその珍説を推していたのですが、ヒョンなことからそれが思い違いであったのが分かった次第です。それはスリーフィシャーメンの友人である小学生たちが学校帰りに給食の残りを持ち寄って、例の中央分離帯に集まりはじめた珍事によって判明しました。
子供たちは腹を空かせたヒッピー集団であるスリーフィシャーメンたちの胃袋を満たすために、給食の残りを持ち寄ったという話ではありません。本当のところスリーフィシャーメンには、スニッカーズもマヨネーズも必要ないようでした。
子供たちもまたそこまで物好きでも世間知らずでもないようで、彼ら小学生はいかに友達とはいえ、いかにそれがエアーフィッシングであったとはいえ、さすがにスリーフィシャーメンたちの釣れなさ過ぎに飽きはじめていたらしいのです。それで「エサがあれば違うのでは?」という思いつき、あるいは図書館の隅での秘密の話し合いによって、そのような事態に発展したというのが事の真相のようです。どうも彼ら小学生たちにとっては、そこが街中の車の往来が激しい大通りのど真ん中であるという事情は、「魚が釣れない条件」としては二の次に当たるらしいのです。
そこは東京を代表するビジネス街であり、その通りは日本経済を支えるための大動脈のはずでした。でも広々とした中央分離帯は、夕方近くになると、下校時の黄色い子供たちによって埋め尽くされ、大の大人たちが横断歩道を一度で渡るのが困難になるほどでした。
子供たちは服のポケットから、ランドセルの奥から、筆入れの隅っこから、それぞれが給食時に机の奥に隠しておいたパンの切れ端を取りだします。横断歩道をわたる勤め人たちの何人かはそのとき見たはずです。噂話の真実の解答を。
それはなんのことはない、三段式道具箱の赤い引き出しの中には、有り体の釣り人と同じように、ありきたりな釣り糸と針が忍ばせてあるだけでした。スリーフィシャーメンはフード下に展開された、子供たちがさしだすパーの字の上の三時のネズミのおやつに対処すべく、そもそも必要のない開かずの道具箱の引き出しをついに開けたのです。
しかし子供たちはまだしも、大人たちである私たちはもう一度冷静になって思いだしてみる必要があります。その場所が都会の大通りのど真ん中であるのを。むしろ普通の釣り人と同じように、スリーフィシャーメンたちが糸と針を持ち歩いていること自体が異常であるのを。
子供たちはすでにスリーフィシャーメンの魔法もどきに掛かってしまっていたのかもしれません。そのもどきとは、集団催眠に近いものなのかもしれません。客観的な立場を維持するため、私は安易に魔法という言葉は使わない主義ですが、
学校帰りの子供たちはすでにみんながみんなパンの欠けらを片手に、糸と針一式が取り付けられた竿の先を一心に見つめているのでした。
ついに都心の通りから国道産のサンマや国道産のマグロが釣り上げられる瞬間がきたのでしょうか。スリーフィシャーメンは子供たちのために自分たちの方針を変え、重たい腰を上げたのでしょうか。そのとき果たして国道の水しぶきは飛ぶのでしょうか。
子供たちだけではなく、横断歩道を渡るスーツ姿の勤め人たちまでがゆっくりと足を止めて見つめていました。集団催眠の余波が大の大人たちにまで影響しはじめていたのかもしれません。ただしもしもそれが本当に魔法もどきであったとしても、スリーフィシャーメンたちのその効用はひどくテンポが遅そうです。魔法のステッキをサッと一振りというわけにはいかないようです。私はようやく彼らスリーフィシャーメンたちが長い時間をかけて練り歩いていた都内のルートが、じつは都心の地下鉄路線図と重なっていた可能性に思い当たるのです。
そのとき取引先から本社にもどる途中だった私は、横断歩道の中央分離帯にできた三本のか細い柱に群がる黄色いカラスたちを見つけ、いつもだったなら「ああ、またやてる」とばかり、子供たちの喧騒を、あるいは塾へいく途中の課外活動を横目に、なにも見なかったように通り過ぎるのが関の山でした。でもその日、私の耳にはおよそテレビの外では聞いたことのない子供たちの歓声が一斉に届いたのです。「ギョギョギョ!」と。
子供たちが嬉々として発していた言葉は魔法とはそもそも最初から縁もゆかりもないものであり、巷で(とくに子供たちの間で)流行っているギャグの一つであるのは知っていました。しかしその時点で、それは周囲の大人たちに向かってことの次第があらたな段階に入ったのを知らせる合図になってもいました。私もその合図の号令に従った大勢の大人たちの一人です。私はそこでオレンジ色のフードの下にパンの欠けらをうけとり、いつもだったなら見たはずのない竿の先端に結ばれた糸と、繋がった針へと突き刺し、それを車道へ向かって宙に放り入れるスリーフィシャーメンを見たのです。
「危ないな」
きっとその場に居合わせた大人たちの誰もが心の中で一斉に声を上げたでしょう。実際にあとでドライバーたちのクラクションが鳴らされるのを何度か耳にもしました。ただそのときにはすでに、私たちにとってその機械的な警笛は少々微妙なトーンへと変化していました。というのは、スリーフィシャーメンが投げかけた竿の糸が、車道に届く前に消えていたからです。まるでハサミでプツンと糸を切ったみたいに、本来なら宙で揺れていていいはずのパンの欠けらはどこへやら、その影は跡形もなく。
世の中には自由の女神を消したり、エッフェル塔を消したり、はたまた東京タワーを跡形もなく消し去ったりするマジシャンがいたりするわけで、それに比べればパンをどこかにやったり竿に付けた針や糸を消し去るなんて、大した手数ではないはずです。もとから順序よく正していけば、そこには驚くには値しないマジックの種が隠されているのを承知できるでしょう。
それでもそこは放課後の下校時のガード下なのです。不思議な現象が起きるにはうってつけの場所です。スリーフィシャーメンが竿を引き寄せたとき、そこにまだ糸と針は残されていましたけど、パンの欠けらは見事に消えていました。
それはうだつの上がらないヘンテコな三人一組の釣り人たちが、子供たちのヒーローに、東京の街角の聖者に、変身する瞬間でした。子供たちは「ギョギョギョ!」とばかり、彼ら三人の姿を感嘆とともに仰ぎ、車道の風圧に揺れる三本の旗に誓いを立て、学校から塾までのほんの短な時間までが永遠と思えるほどのそれへと変化します。大人たちだけが釣りマジックの種を明かすのに頭を悩ませます。
スリーフィシャーメンは子供たちの手からパンの欠けらをうけとり針に刺しては、竿の一振りで国道へと放り込みます。エサのパンはトラックの風圧に吹き飛ばされる前に針と糸と一緒に空間のどこかへと吸い込まれて消えてしまい、スリーフィシャーメンが糸を引いて当たりを確かめたのち、竿を引くとあら不思議、糸と針が中央分離帯へと戻ってきて、針に刺したパンの欠けらだけが異空間の魚に食われてしまったかのように、まるでテーブルの上のトランプやコインのように、跡形もなく消えてなくなっているのです。
子供たちはそのたびに「ギョギョギョ!」と声を上げます。彼らはエラを持った幻の獲物の出現にではなく、見えていた、自分たちが確かにその手で学校から運んできた、欠けらの不在に驚き、ガード下での魔法の存在を確信するのです。
つづく