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魔法の靴のための広告④

最初に街へ姿をあらわしたのは靴磨き職人たちだったと云われています。

それは東京紳士靴商会が近郊の倉庫に本来なら負債となるべき大量のダンボール箱を抱える前の、すなわち尖りサラリーマンたちがまだシン尖りサラリーマンを名乗る遥か以前、彼らが東京紳士靴商会製なる魔法の靴を鼻で笑って相手にしなかったころの旧世紀然としたお話です。


のちにシン尖りサラリーマンたちによって一変することになる東京の街の風景は、すでにその変化を靴磨き職人の登場から予告されていたのかもしれません。ある意味で、彼らは試合開始のホイッスルが鳴る前の地ならしのような役割りを担っていたのかもしれません。

ただその姿をはじめて見たとき、私たちの誰もが、彼らを靴磨き職人だとは思いませんでした。なぜなら彼らは三人一組で行動するのが常で、三人が三人ともいつもオレンジ色したウインドブレーカーを着ては、頭からすっぽりとフードを被っていたからです。そんなあらかじめ自らの仕事を放棄したような職人たちがどこの世界にいるでしょう。しかも彼ら自身が履いているのは普段勤め人たちが足もとを固めている革靴ではなく、モスグリーン色のゴム長靴なのです。それだけではありません。極め付けは、彼らがみんな長い釣り竿を片手に、それを肩にかけて持ち歩いていたことです。しかもまったく同じ格好をした三人一組のオレンジ色男たちが東京の街中に何組もいて、都内の鉄道路線を乗りつぎながら『アビーロード』のビートルズよろしく、あるいはバックバックを背負ったポンチョマンのごとく、通りを並んで練り歩いているのです。ほとんど釣りバカのカルト集団か、釣りバカのヒッピー集団です。ただ雨の日だけは、オレンジ色したゴアテックスのフードを被った彼らが、少しだけマトモに見えたものでした。


槍を担いだ騎士団めく、釣り竿を肩にのせて三人一組で歩く彼らを見かけては、不吉な呪文を口にするかのように、「スリーフィッシャーメン、スリーフィッシャーメン、スリーフィッシャーメン」と、街角の噂話よろしく、私たちはヒソヒソ声で三回ささやいたものでした。誰も彼もが口約束をしたわけでもないのに、一様にそうせずにはいられないのです。まるでそう唱えれば、街の厄介な男衆が今度は街の守護神に変身してくれるものと信じているかのように。あるいは地底の奥深くからオレンジ男たちを呼び覚ます呪文であるかのように。

もしも私たちの唱えた言葉がマンガのふきだしみたいに目に見える形で飛びだしたなら、あちらこちに「スリーフィシャーメン、スリーフィシャーメン、スリーフィシャーメン」と、三つの単語が三匹の魚みたいになって東京の街中を泳いでいたことでしょう。タバコ屋の猫が、宙を横切る透明魚の行方を小窓から目をパチパチして覗いていたかもしれません。一方でまともな大人たちである私たちは、用心に用事を重ねて、うかつにスリーフィシャーメンには近づこうとはしませんでした。


東京にはランドセルを背負い黄色い帽子を被って、朝早くから都心の電車で通学している、午後の時間には帰宅する、小学生の子供たちが大勢います。その子供たちだけが彼らスリーフィッシャーメンたちを通りで指差し、大人たちとは対照的にケラケラと声をだして笑っていたのでした。それでもフードを被ったままのスリーフィッシャーメンたちは、戦場に向かう兵士たちのように三者の列を乱すことなく、子供たちに向けて愛想笑いするでもなく、ピースサインを送るでもなく、ただ街中を黙々と歩きつづけ、その光景が私たち大人をますます怯えさせ、彼らから足を遠ざけていました。アビーロードの横断歩道で交通整理しているお巡りさんでさえ、釣り竿の鉾先が横切るのを黙って見守っているだけでした。


不思議と言ったら、これほど不思議な男たちはいないスリーフィッシャーメンでしたが、なにより首を傾げるのは、いつからかトレードマーク化していた、片手に釣り竿を持って肩にのせた格好の彼らが、実際に釣りをしている光景を見かけた東京人など、仲良しの子供たちを含めても、一人も存在していないことでした。彼らは釣りをしないおかしな釣り人集団なのです。有名な都内の釣り堀も、東京中の街を練り歩いているはずの彼らは、わざとルートから外しているかのように見えました。


ようやく春の日差しが戻って、人家の軒先にもつばめたちが巣作りをはじめるころ、例年ならば波光きらめく都心の釣り堀にも釣り人たちの姿が目立つようになりはじめるはずが、その年ばかりは閑古鳥が鳴いて、魚たちにとっては安全この上ない無風状態がつづき、池の魚たちに深刻な季節的時差ボケ状態を引き起こしていました。それほどスリーフィッシャーメンたちの生態系にたいする局部的な影響力は大きかったようで、これもまた彼らがもたらした変化する東京の街の風景です。

私たち東京の大人たちとスリーフィッシャーメンたちとのコミニュケーションは、父と年頃の娘の間にありそうなそれに似て、様々な理由によって挫折を繰り返し、そこだけはまだ寒風吹き荒ぶ真冬状態のままでした。

ただ小学生の子供たちだけは違っていたようです。彼らは大人たちにとって泣き虫で笑い上戸な突破者です。そしてスリーフィシャーメンは三人並んだ街中のクエッションマークです。クエッションマークと突破者たちが東京の真ん中で出会えば、そこには必然的になにかが起こらずにはいられないものです。季節も飛び越えた魔法的ななにかが。


「釣れますか?」私たちはそう尋ねてもよかったのかもしれません。もしくは「なにが釣れるんですか?」とか。

なんだってよかったはずです。それなのに私たちはなにもしなかったのです。どうしてでしょう。なぜ私たちは声をかけられなかったのでしょう。

しかしそれでよかったのかもしれません。フィシャーメンに声をかけるのは私たち大人の役目でなく、あくまで突破者である子供たちの出番であっただろうからです。その行為は、私たち大人には分不相応だったと言えるでしょう。フィシャーメンは子供たちに声をかけられるのを待っていたフシがありましたし、それこそが彼らの魔法が準備万端、街の隅々までゆき届いた合図だったのかもしれないのです。


今では駅前の靴磨き職人として収まっているスリーフィシャーメンですが、私たちはかつて彼らがおかしな街中の釣り人であったのを知っています。あるいはすでに忘れています。

魔法の靴が大嫌いなことで有名な、私の心の友、東京メトロの〈中の人〉は、かつて想像上の魔法使いの存在についてブログ上でこんな仮説を立てていました。曰く、

「もしも私たちが暮らしている現実の世界に魔法が成立するとしたら、それはどんな場合なのか、私なりに一生懸命に考えてみました。いつも一方的に人を批判ばかりしているのは、不公平だと感じたからです。その結果一つだけ仮説が残りました。一つだけです。あとは全部ダメでした。たった一つの仮説だけが、もしかしたらこれならばあり得るかもしれないと思ったのです」

このブログが書かれたのは、一番目のミスターノーバディが靴磨き職人たちによって選ばれた時期にあたります。〈中の人〉は、つづけます。

「私たちが暮らしている現実の世界と、魔法使いたちが暮らしている魔法の世界とは、コインの表と裏のような関係なのではないかと、ふと思いついたのです。光があれば影があるように、二つの世界が存在しているんです。いいえ、存在しなければならないんです。そしてその二つの世界は決まって相反した性質を持っていなければなりません。魔法の世界が存在するためには現実の世界が必要であり、現実の世界が存在するためには魔法の世界が必要というわけです。相反する二つの世界は、相反しているからこそ共存できるのです。ただ、魔法の世界から私たちの現実の世界にくることはできても、現実の世界から魔法の世界にいくことはできないのかもしれません。なぜなら私たちには魔法が使えないからです。それを可能にするのは今のところ魔法の力だけです。だからこそ私たちは魔法使いには懐疑的にならざるを得ないのです。それは私たちの無力さの証であり、嫉妬のあらわれでもあるのです」


オレンジ色のフードをすっぽり頭に被ったおかしなヒッピー集団こと三人一組のスリーフィシャーメンたちは、東京の街中を練り歩きながら、彼らにとっての良き釣り場をずっと探しつづけていたようでした。それは愚然か、街の不動産屋よろしく駅のすぐそばに見つかり、たいていはガード下にある中央分離帯のある大きな横断歩道の、そのモラトリアム地帯とも呼ぶべき中央分離帯そのものでした。

彼らはそのモラトリアム地帯で行き交う通行人と車にはまったくお構いなしに釣り糸を垂れはじめたのでした。

たとえそこがガード下の、上下線の車が行き交うど真ん中であったとしても、これは私たちとスリーフィシャーメンたちとがコミュニケーションをとれる最初で最後のシチュエーションのように思われました。この際、実際にそこで魚が釣れるかどうかは二の次です。

しかし、興味津々、「そこでなにが釣れるんですか?」のセリフを用意して彼らに近づいたアビーロードのお巡りさんは発見してしまうのです。その三本の釣り竿には三本とも、最初から釣り糸など張られていなかったのを。

釣り糸がないわけですから、当然針だってありません。哀れお巡りさんは口をあんぐり空けながら青信号の横断歩道を引き返してくる羽目になりました。


いったいスリーフィシャーメンがなにを考えているのか、フードの下に隠された表情からはうかがい知るのは不可能です。ただその姿は勤め人である私たちから見たなら、単なるおふざけのエアーフィッシングのようにしか映りませんでした。

スリーフィシャーメンたちは世間にはまったく無頓着に駅前のエアーフィッシングをつづけました。彼らは朝早くから他の乗客たちに混じっては三人そろって通勤電車に乗ってやってきて、彼らにとっての釣り場になっている都心の駅で下車するのでした。そうして三人がお互いに背を向けあった三角形の格好で、大通りのモラトリアム地帯に三本の釣り竿をそれぞれ三方向にむかっておもむろにかざしはじめるのです。

それは大掛かりなパフォーマンスのようにも見えました。アーチストたちが展開する〈釣り〉をテーマにしたなにかしらのメッセージを伴った芸術的なパフォーマンスのような。しかし仮にそうだったとしても、ただの勤め人にすぎない私たちにはなんの関係もありません。それでなくても都会の勤め人たちはみんな忙しいんです。ましてそこは街のど真ん中にある大通りのど真ん中です。人騒がせなパフォーマンスに付き合ってる暇などありません。私たちはこれまでどおり完全にスリーフィシャーメンを無視し、スリーフィシャーメンの方でも私たちを完全に無視していました。


だから私たちはなんの言葉もかけなかったわけです。都会の通りの真ん中でいったいなにが釣れるというのでしょう。しかも糸も針もない竿で。それはもはや釣りでもなんでもないのです。

それでも私たちは「釣れますか?」と声をかけることはできたのかもしれません。ブラックジョークとしてなら。でもそれはギリギリのユーモアです。誰からも期待されていない、クスリとも笑いの起こらない種類の。

子供たちだってニコリともしなかったでしょう。でもフィシャーメンの友達である彼らは、笑いとは違ったもう一つべつの特化した反応でもって、ついに形だけは本当の釣り人となったスリーフィシャーメンを優しく迎えたのでした。


登校途中である子供たちは学校の始業ベルに間に合う時間ぎりぎりまで、フィシャーメンたちのエアーフィッシングに毎朝付き合うようになりました。私たち通勤途中の大人たちは一抹の不安を抱きながら、孤島に取り残された十五人の子供たちを心配するかのごとく、それをいつも遠目に眺めていたものです。ランドセル集団が横断歩道のモラトリアム地帯で三人のフィシャーメンを取り囲んでは、三方向の存在しない釣り糸を見つめ、ピクリともしない針の動きを注意深く目で追っていたのです。

あるいは子供たちには存在しないはずの釣り糸が見えていたのかもしれません。トラックやタクシーの車列に混じって通りを泳ぐ透明なサンマやマグロの群れの中の一匹を、スリーフィシャーメンが見事に釣り上げる瞬間を、固唾を飲んで見守っていたのかもしれません。

私たちは謎の釣り人たちと子供たちを車の往来の向こうに眺めつつ、こう唱えずにはいられなくなってきます。「スリーフィシャーメン、スリーフィシャーメン、スリーフィシャーメン」と。


つづく

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