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魔法の靴のための広告②

あるいはこういうふうに言う人もいます。「魔法は実行されたのだ」と。「四人のサラリーマンは、あるいは四人のミスターノーバディは、逃避したのではなく、それを実行したからこそ、あとは野となれ山となれとばかり、どこかに消えてしまったのだ」と。

果たして真実はどうなのでしょうか。客観的に判断するのは難しいところです。なぜなら私たちには正確に肯定する術も、否定する術も、どちらも持ち合わせていないからです。でも彼ら世にも珍しい四つ葉のクローバーの持ち主がもしも本当になにかしらの四つの魔法を実行したのであれば、今度こそ私たちは、リスペクトしていそうでじつのところ小馬鹿にもしていそうな名前とはべつの名称で、彼らを呼ばなければならないでしょう。


それはタイムマシンに乗り込み、過去に向かって旅した場合に起こり得る、ある種のタイムパラドックスに似ているかもしれません。

故意か偶然か過去の歴史を変えてしまったあとにふたたびタイムマシンに乗って現代にもどってきたとき、本当のところ歴史が変わったかどうか私たちには判断できないのです。なぜならそのパラドックスの理論によれば、現代にもどってきたとき、私たちの記憶も同時に書き換えられてしまっているからです。過去を変えるというのは、記憶が書き換えられるのに等しいわけです。しかも、記憶が書き換えられた事実ですら、私たちには知るよしもないのです。

似たような現象が魔法についても言えそうです。仮にミスターノーバディによる魔法のステッキの一振りによって世界が変えられたとしても、魔法が行使される前の世界と、行使されたあとの世界とを、私たちは識別できないでしょう。たとえ魔法によって世界の一部が変わったとしても、私たちは最初から世界はそのようにあったと思い、そう認識するだけでしょう。

私たちがふだんプラットホームの立ち食い蕎麦店で使っている割り箸でさえ、以前は今とはまったく違った形をしていたのかもしれません。ただ私たちにはそれを知る術がないのです。


騒ぎ過ぎなのかもしれません。すべてが子供染みています。

タイムマシンの存在が理論的に破綻しているように(世界のうちの誰が未来からやってきた私たちの客人に出会った経験があるでしょう?)、魔法のステッキだと信じられていたものはじつはただの割り箸に過ぎなかったのかもしれません。たかだか靴の爪先が伸びただけの話です。それにしたところで魔法による所業などではなく、化学反応によるものなのです。

東京メトロ広告機構の〈中の人〉は見透かしたように言います。

「いいでしょう。百歩譲って、〈魔法の靴のための広告〉といったものがこの世に存在するとしましょう。でもそれがいったいなんだというのでしょうか。それが私たちになにをしてくれたというのでしょうか。なにもありません。その魔法の所業は私たちの暮らしとはなんら関係ありません。それより思いだしてください。世界に誇る私たちの鉄道ダイヤを。それは五分と狂うことなく、あなたを行きたい場所に行きたい時間に運んでくれるのです。それもほとんど毎日必ずです。これが魔法でなくていったいなんなのでしょう。私たちの魔法は実在するのかどうか、実行されたのかどうか、それすら分からないような不確かなものではなく、『私鉄JR時刻表』という書物の紙の上に列記された数字によって、またはレールという鉄によってできた万里の地上絵地中図のごとく、確実に捺印されています。私たちは数字と鉄に仕える者です。私の言葉は数字と鉄からできています。誰もそう簡単には私の発言を否定できないはずです」


〈魔法の靴のための広告〉の存在を否定したいがために、東京メトロの〈中の人〉は、ついに自分こそが本物の魔法使いなのだと宣言しはじめてしまったかのようです。地下鉄職員の制服に身を包んだ。首都圏の時間と空間を支配しているのは自分なのだとばかりに。魔法のステッキや呪文などではなく、数字と鉄によって。

日頃から鉄道会社のサービスを利用している私たちとしても、その恩恵には感謝しているところです。いくら感謝してもし切れないほどです。鉄道会社の社会に対する貢献は、誰の目から見ても賞賛に値するでしょう。

ただしそれを魔法と呼ぶのには若干ながら違和感があるのも事実です。〈中の人〉の発言にはいささか先走りすぎている感が見受けられます。鉄道システムはあくまで公共のためのものであり、警察や病院などと一緒にその役割を担っているのです。だとすれば、その中で働く地下鉄職員たちは魔法使いというよりは、警察官や医療関係者と同様に、社会生活やインフラを守るための番人めいた存在と呼ぶべきものではないでしょうか。


魔法使いの名において地下鉄職員とミスターノーバディが対抗するのであれば、地下鉄職員と尖りサラリーマンたちの関係もまた、職員と利用客という外見以上に複雑なものになりそうです。魔法の靴をめぐる騒動が首都圏の地下深くに張り巡らされた鉄道網を見定めたかのようにして出現したのはなにやら象徴的です。

東京メトロの上層部の潜在意識の奥には、〈魔法の靴のための広告〉をことさら目の敵にする傾向が最初から備わっていたのかもしれません。彼らにとって尖りサラリーマンとは時間と空間を、数字と鉄による規律を、乱す存在であるかのような。

東京メトロの〈中の人〉が発信しているSNSには、上層部の考えが大幅に取り入れられ反映している可能性がありそうです。恐らく彼は中間管理職の地下鉄職員なのに違いありません。上層部と魔法の靴に憧れる平社員である鉄道員との間で板挟みになって苦悶しているのです。

その影響もあるでしょう、東京メトロの〈中の人〉には重要な視点があらかじめ欠如しているようです。あるいは意識的に。

それは尖りサラリーマンたちが幻視する者たちだというファクトです。東京メトロの〈中の人〉が自分たちの血統の正当性を声高に主張している間にも、尖りサラリーマンたちは時刻表に並んだ数字の間に666の厄介なゾロ目を発見し、都会の迷路めいた地下鉄の路線図の上に幻の塔が作りだす長い影を見つけだすのです。レールが横へ横へと伸びていく間に、塔は上へ上へと伸びていきます。


ここで一つ注釈が必要です。これまで私たちは無意識のうちに「尖りサラリーマン」という言葉を便利に使い過ぎてきたきらいがあります。そろそろ私たちは、魔法の靴以前と以後を分けて語るべきだと思うのです。同じ尖りサラリーマンであっても、二つはあきらかに別種の生き物であり、とくに〈魔法の靴のための広告〉に関する真実を語るためには、それぞれを分けて語る必要があります。それほどに魔法の靴以前と以後の両者には違いがあるのです。まるでビートルズの赤盤と青盤ぐらいに違うのです。

状況は複雑です。しかしありがたいことに、そんな時の推移を上手いこと一言で表現できる卓越した言葉を私たちはすでに共有しています。〈シン尖りサラリーマン〉というのがそれです。


かつての尖りサラリーマンたちは、ファッションとビジネスのために尖り革靴を履いていました。それは車や腕時計などの即物的なアイテムに似た一時的な流行であり、そこには個人的な事情以外の目的が入り込む余地はありませんでした。

けれどもシン尖りサラリーマンは違います。彼らもまた消費者であることに変わりはありませんが、同時に彼らは自らの社会的な立場から離脱しようとする者たちでもあるのです。

シン尖りサラリーマンたちの記念日は、Googleのホームページから飛びだして、半年に一度、地下鉄の車両にやってきます。それはかつてのおしゃれなビジネスマン然とした尖りサラリーマンたちのカレンダーにはなかった祝祭日です。

その日の朝がくると、彼らの中からミスターノーバディがたった一人選ばれます。シン尖りサラリーマンの中のシン尖りサラリーマンが、もっとも美しい尖りフォルムを持った魔法の靴が、東京中から集まった靴磨き職人たちによる無記名投票によって選ばれるのです。


つづく



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