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主婦と灯台

その夜の私は、大いなる興奮と一抹の不安を抱えながら、地元の駅前ローターリーで、帰宅のバスがくるのを待っていた。

カバンの中には、私が責任者を務める『第三企画室チーム』の開発した、できたてホヤホヤの新製品がおさめられていた。これが発売されたあかつきには、低迷をつづける老舗玩具メーカーたる会社の売り上げも、そしてなにより社内での私への評価も急上昇するはずなのだ。

勤続18年、いまだ室長どまりの私は、はじめて100%に近い仕事的確信をもっていた。


『美人るんです』....それが私たちが開発した製品の名前である。『美人るんです』と書いて「びじるんです」と読む。名付け親は、第三企画室室長である私自身である。

もちろんネーミングは『写るです』のパクリだが、むろんのこと、ただのカメラというわけではない。これは被写体の『美人度』を測定するという画期的な新商品なのだ。


原理は簡単だ。このカメラの心臓部には、古今東西、今昔男女の美男美女とよばれる人々の身体的データが記憶されている。我々チームはこれを『お宝データ』と呼んでいるのだが、つまり、被写体のデータが、この『お宝データ』の平均値に近ければ近いほど、『美人度』が高くなるというわけだ。

あとはシャッターをおし、性別と年齢を選択するだけ。さすれば、撮影した顔写真とともに、被写体の『美人度』が100.0ptを上限としてパネル画面上に表示されるという次第。


まあ、これだけでも商品としての話題性はあるだろう。しかし、我々が開発した『美人るんです』の機能はこれだけではない。

その一つが『潜在的美人度』という項目だ。これは被写体が、将来どれだけ美人になりえるかという度合いを数値化したものなのだが、その性格上、とうぜん入力した年齢が若いほど高く示される傾向はある。たぶん、流行に敏感な女子高生などには大ウケすることだろう。

しかし、若くはなくとも、人間の顔というものは誰でも日々、少しずつではあるが変化はしている。その度合い、あるいはその方向性を数値化、比較することによって『潜在的美人度』は計測される。

この機能は、ダイエットに関心をよせる世の女性陣にも必ずや歓迎されること間違いない。



大いなる興奮と一抹の不安、そしてさらには、ある誘惑にもかられながら、私はバスに揺られていた。

第三企画室的誘惑。私たちは大勢ならんだ人の顔を見ると、つい『美人るんです』のシャッターを切りたい衝動にかられてしまうのだ。

中央線のつり革を握っているときもそうだったが、公安関係の人間が乗り合わせていたなら、私はきっとスリか痴漢の類と勘違いされていたことだろう。木陰にまぎれこんた獲物を追うハンターのように、ジロジロと周囲を見まわしてしまうのだ。


しかし、仮に隠し撮りに成功したところで、私が得ることのできるのは、『美人るんです』の画面にあらわれるエラー表示だけだろう。

それは開発者である私たちが誰よりもよく知っている。本製品の機能が正確に作動するためには、正面と左右の安定した三枚の顔写真が必要なのだ。

それでもなお、普段はまったく温厚な紳士である第三企画室の総勢三名からなる社員が、群れなす人の顔を見るなり、獲物を狙うハンターへと豹変してしまうのかは、それはなにより、我々にはより沢山のデータが必要であるからなのだ。


製品を商品化するためには、重役会議をとおらなければならない。そのために我々は、祖母の時代から使いつづけている漬け物石のように頭の固い経営陣の目の前で、プレゼンテーションというものをおこなわなければならない。

そこではなにより魅力的なデータがものをいう。週末の接待ゴルフや、どこそこのクラブのお姉さん方に負けないぐらいに魅力的な製品のデータが。

しかし悲しいかな、我々第三企画室には、新たな体験モデルを雇うような金はすでにのこされていない。とうの昔に予算は使い果たしている。

社内の女子社員もダメ。製品開発は会社内でもトップシークレットなのだ。実際に生産ラインにのるまでは、どこで誰に足をすくわれるかわかったものではない。


金がなければ、あとは知恵をしぼりあうしかない。それで我々、第三企画室の三名は、自分たちの家族を被験者にしてはどうかと話しあった。

すると、その場で嬉しい誤算が判明したのだ。なにもモデルなど雇う必要はない。私たちの身のまわりには、ターゲットとなる消費者層をカバーする、それぞれの年齢層の逸材がいたではないか。

若きデザイナーの渡辺君には女子高生の妹さんがいる。先輩格のエンジニアである黒田君は新婚ホヤホヤで、奥さんはまだ20代だ。そして私には長年連れそった、もうすぐ四十の大台を迎えんとする妻がいる。


これで条件はすべて整った。あとはシャッターをおすだけ。しかし、それが上昇気分の私に、第三企画室室長のこの私に、一抹の不安をいだかせるのだ。

黒田君や渡辺君はいい。彼らのご親族はまだ若い。被験者となってくれる二人のお顔を、私はまだこの目で確認したことはないけれど、もし仮にその『美人度』のポイント数が高くなかったとしても、お二人の年齢から推測して、『潜在的美人度』の方はそれなりの数値を弾きだすはずだ。それでもって突然まきおこった家庭内の不和も、まるくおさめることができるだろう。

だがしかし、我が家はどうなる。


私の妻は決して不美人というわけではないが、そうかといって、はっきり美人と断言できるほどでもない。それは長年連れそった夫である私自身が誰よりよく心得ている。

そしてこれが肝心なのだが、妻は世間で言う『おばさん』と呼ばれる年齢に近づきつつある。その年齢とこれまで私がじかにこの目で見てきたその身体的変容から判断して、彼女の『潜在的美人度』もやはりそう期待できるものではない。

これでは私には、家庭内の不和をまるくおさめる手段がない。


まあ、そんなときには、自分が被験者となって、彼女の機嫌をなおすしかあるまい、私はそんなふうに考えていた。

『美人るんです』には男性版の『お宝データ』も入っているから、とうぜん『美男度』だって測定できる。今風に言えばさしずめ『イケメン度』といったところか。

私の『美男度』、そして『潜在的美男度』のポイント数は、妻のそれよりもはるかに低いはずだ。それは誰よりも私と長年連れそってきた私自身がよく心得ている。

それでもって、私は妻の名誉心を少しは回復することができるだろう。それはたしかに、かなり限定的な、ささやかな名誉ではあるけども。


私はほとんどはじめて、こういった顔立ちに生んでくれた両親に感謝しながら近所のバス停におりた。


自宅のマンションに帰宅すると、妻はテレビをつけたままリビングのソファにもたれて眠っていた。

彼女はほんとうによく眠る女性だ。一回のインターホンぐらいでは起きたりしない。

その昔、私がまだかけだしの制作社員だったころ、取引先の玄関を忙しく出入りするたび、カウンター越しから彼女の肩をつっついて、幾度となく深い春眠から引きもどしていたことがある。

当時、妻は部品メーカーの受付嬢として働いていたのだ。得意先の若手社員の手によって、頻繁に揺り起こされるという世にも珍しい受付嬢として。


そして今、妻は相変わらず深い眠りにおちている。亭主のご帰還にもまったく頓着することなく。

しかしこれ幸い。もはや私はその肩をつつくことなく、獲物を狙うハンターへと豹変して、寝顔にレンズをむけ、今度は確実にシャッターをおした。

彼女は起きない。私はそっとソファにもたれた顔を正面にむけさせ、ふたたびシャッターをおす。そうして、測定に必要なだけのデータを夫婦円満のうちに手にいれた。

寝室に入ると、私はネクタイをほどくよりさきに、『美人るんです』の画面上のボタンにふれた。ほどなく、妻の寝顔が表示され、その上を四桁の数値が目まぐるしく走りはじめた....。



翌朝の私は、昨晩とはうって変わり、意気消沈した心持ちで通勤電車のつり革につかまっていた。長年手塩にかけて開発してきた『美人るんです』に不具合が見つかってしまったのだ。


「44.3pt」....それが『美人るんです』の弾きだした我が伴侶の『美人度』だった。予想していたよりもずっと高くて、夫である私も鼻が高いが、そんなことはどうでもいい。問題は『潜在的美人度』の方だ。

その数値は、なんと「76.5pt」。美人で有名な我が社の受付嬢S嬢を、ひと月前にカメラの試作品だと偽って撮影したときだって、「70.2pt」だったというのに。これが不具合でなくてなんなのだ。


『美人度』の平均値はとうぜん「50.0pt」だが、美人にしろ美男にしろ、とかく『美』に関するものは、個人の主観が入りやすい。昔から「アバタもえくぼ」と言うように。

そんなわけだから、もし被写体の『美人度』が平均値の「50.0pt」をマークしたとしたら、実際にはそれはほとんど美人の部類に入るといって過言ではないし、我々第三企画室のこれまでの試験結果によれば、半数以上の人は平均値までとどかなかった。

それが私の妻は「76.5pt」。これが不具合でなくてなんなのか。


「なんだ、綺麗な人じゃないですか」

エンジニアの黒田君が言った。

「一杯食わされちゃいましたね。僕たちのことを騙してたんじゃないですか、室長」

後輩の渡辺君が言った。

第三企画室は、来年の春先にはきっと会社のど真ん中のフロアを陣取っているだろうが、今はまだ地下の一階にある。 ここで昨晩撮ってきた『美人るんです』のデータを、黒田君のパソコンに取り込むのが、これからひと月あまり、我々三名の毎朝の日課である。

そのトリを勤める室長である私は、妻の寝顔が表示されたデスクトップのアイコンをクリックした。

画面横に彼女の『美人度』のポイント数があらわれた。

「おぉー」

二人の部下は同時に感嘆の声をあげた。


妻は勝ってしまったのだ。新妻と女子高生に。それが『美人るんです』の弾きだした第三企画室親族による『美人度』試験の初日の結果だった。

もちろん、私には部下の二人を騙す気などさらさらなかった。この結果に一番驚いているのは、なにを隠そう、私自身なのだ。もしも、こうなることを予測していたなら、私だって身内を被験者にすることなど合意しなかったろう。なにしろさすがにバツが悪い。とくに新婚ホヤホの黒田君にたいしては。


どうやら私は、少し認識をあらためなければいけないのかもしれない。ふだん考えている以上に、世間一般的には、私の妻は美人の部類に入るらしいのだ。

しかし、『美人るんです』に対戦ゲーム的な要素があることが判明したのは、我々にとって嬉しい誤算だった。これでまた一つ商品の付加価値があがったわけだ。

だがしかし、浮かれている場合ではない。 

私はいま一度、マウスの右ボタンをクリックした。今度は妻の『潜在的美人度』があらわれた。

「はぁ?」

二人の部下は同時に呆れ気味のクエッションマークを投げかけた。


これまでの私たちの試験結果では、一個人の『美人度』と『潜在的美人度』の開きは、平均で「5〜7pt」。多い人でも「15pt」止まりだった。それが、うちの妻になると「33.2pt」。

この数値がもし真実であったなら、近い将来、私の妻は今とはまったくの別人になってしまうことになる。それは非常に困る。たとえ彼女が、絶世の美女に変身して、エプロン一枚でキッチンに立っていたとしても。


黒田君にはさっそく、『美人るんです』の図面をコンピューター上で再点検してもらったが、設計上のミスは見つからなかった。

ためしに、妻を撮影した『美人るんです』を用いて、我々三人、そしてかのS嬢にもふたたび被験者となってもらい、撮影を試みもしたが、S嬢の『美人度』ならびに『潜在的美人度』がそれぞれ「5pt」落ちた以外は、前回の撮影時と同様の結果がでた。


はたして、この一ヶ月の間に、S嬢になにがあったのかは詳しくは知らないけども、前後の検査状況と、昼食時に社内食堂で偶然耳にしてしまった彼女のよからぬ噂から判断して、「−5pt」の下降は決して製品の不具合によるものではないと、我々は午後のミーティングの席で結論づけた。

そうすると、あとは寝顔を撮影したことによっておこった誤作動としか考えられない。あるていど最初から予想はしていたことではあったが、我々はやっと原因を特定することができた。

「寝顔はいけません」

「室長なんですから」

私は一つ咳払いしてから、二人の部下の言葉にうなずいてみせた。


帰りの中央線の車内でも、バスの車中でも、私が獲物を狙うハンターに変貌することはもはやなかった。

かわりに私は、塾帰りの小学生みたいになって、ゲームに興じているかのごとく、『美人るんです』の画面操作に没頭していた。妻の寝顔と受付で微笑むS嬢の写真とを交互に映しだしては、飽くことなく、二人の顔を見くらべていたのだ。

うたた寝を上司に見つかったあげく、倉庫係へと堕ちていった過去の受付嬢と、不穏な噂を耳にしたとはいえ、いまだ我が社のマドンナ的存在である現在の受付嬢。

まるで、通販エステの使用前使用後の写真を見ているようで気が引けるが、社名は違えども、二人が同じ部署に所属していたという事実に固執するあまり、私は妻の容姿をS嬢と比較して、それを下評価しすぎていたのかもしれない。


はたして私の妻は、世間的にいわゆる美人の部類に入るのだろうか。

『潜在的美人度』には直ぐさま異議を唱えた部下たちも、妻の『美人度』の方はあっさり認めるばかりか、その美貌を称えてさえもいた。

夫として、あるいは『美人るんです』の開発責任者として、私は自分の美的感覚を検証してみる必要があった。


画面上の電池残量表示がそろそろ心細くなってきたころだった。ようやく私の五感に変化のきざしがおとずれた。写真の妻の顔が、以前よりも美しく見えはじめたのだ。

気のせいだろうか。私はバスに揺られながら、ふと半年まえに社内で催されたあるセミナーの一幕を思いだした。招待された某大学教授がこんなことを喋っていたのだ。

曰く、「消費者は自分が欲しいものではなく、他人が欲しがるものを買うもの」なのだと。

その理論を応用すれば、「人は他人が美しいと口にしたものを、美しいと感じる」わけだ。

今の私がちょうどそのいい例なのかもしれない。



「まるで、スーパーサイア人ですね」

「渡辺君、私の妻は猿ではないよ」

「いえ、その潜在能力が」

「わかってる」

親族を被験者としたデータ収集を開始してから一週間がたとうとしていた。黒田君のパソコン画面にはいま、7日分の妻の写真が横並びに表示されている。

結局、私はS嬢にそうしたように、開発中のデジタルカメラの試験だと嘘をついて、寝顔ではない妻の写真を撮ることに成功したのだったが、それで彼女の『潜在的美人度』が下降するということは一切なかった。「76.5pt」という驚異的な数値は、0.1ptも減ることなくキープされつづけているのだ。

しかも、『美人度』の方はというと、これが毎日2から4ptずつ、確実に上昇していた。


これはいったいどういうことなのだろう。毎日少しずつではあるが、彼女は着実に美しくなっている。このままのペースでいくと、おそらくあと二週間あまりで、妻の『美人度』はそのピークを迎えることになる。つまり、『潜在的美人度』の数値に到達することになるのだ。

私たちはその変貌を目の当たりにしている最中だ。まるで、貴重な記録映像を見つめる地下室の科学者たちのように。


私たちは狭い室内で膝をあわせては、パソコンに映った我が妻とにらめっこをつづけ、議論をかさねた。

重役プレゼンのためのデータ収集という当初の目的は急速に色あせ、我々第三企画室の関心は、言ってみれば、「世界の謎」への究明へと発展していったのだ。

それはビジネスの域を越えた純粋な探求心であり、一人の女性の存在が、我々の中に、少年だったころの好奇心旺盛な心を蘇らせたわけだ。

「特殊なエステに通っているとか」

渡辺君が言った。

「毎日少しずつ整形してるんじゃないですか」

黒田君が言った。

室長である私も似たようなことは考えてはいたが、我が家の家計と整形医学上そんなことはまずありえない。私は彼らにむかい、静かに首を横にふってみせた。


「もしかしたら、実際に綺麗になっているのではなくて、ただ綺麗になっているように見えているだけじゃないでしょうか」 

「黒田君、実際に綺麗になっていることと、綺麗になっているように見えていることとの違いを、わかりやすく説明してくれないか」

黒田君は口をつぐんだ。

我々の好奇心旺盛な少年の心は、夏休みの最終日のごとく立ち往生した。

すると、渡辺君がひらめいたように言った。

「室長の奥さん、恋をしているとか。恋をすると女性は美しくなるといいますよね」

私は首をふるより先に、静かに彼をにらみつけた。

渡辺君も口をつぐんだ。


少年の心をもった男たちが、地下室の無口な老人になりかけたころ、先輩の黒田君がふたたび口をひらいた。

「室長は一緒に生活していて、なにか思いあたることはないんですか」

「そうだな....」

部下のもっともな問いかけに、この一週間ばかりの出来事を思いおこしてみた私ではあったが、「べつに何もないな」と返答しかけたそのとき、ふと自宅の食卓の風景が頭をよぎった。

「そういえばね、最近、我が家の夕食のメニューが毎晩一品ずつ増えてゆくんだよ。それがどうも、商店街の店主たちが買い物途中の妻にサービスしてくれるらしいんだ。おかげでさ、私、なんだか太っちゃって」

横を見ると、部下たちの冷めきった視線がそこにあった。


その日、おそらく私は誰よりもはやくタイムカードをおし、べつに他意はないけれど、受付のS嬢に「おつかれさん」と優しく声をかけて、そそくさと会社をあとにした。

部下たちにはあえて話さなかったが、これもここ一週間ばかりにおこった我が家の変化の一つだった。

室長という肩書きゆえ、毎日の定時上がりなど許される身分ではないけれど、それも気にならない。

とにかく、私ははやく家に帰りたくてしょうがないのだ。


そんな新婚ホヤホヤ黒田君顔負けの輩ではあるが、地元の駅に着くと、バス停の列にはならばずに、自宅まで歩いて帰ることにしている私であった。

夕飯のおかずが増えるのはうれしいけども、ここのところの私のお腹回りときたら、まるで寝正月明けみたいな有り様になってるし、家にいる妻に、帰宅がはやい理由を悟らてしまうのも、それはそれでまた面白くない。

そんなわけで、私は商店街通りを鞄片手にブラブラと歩いていた。

すると、「あなた、あなた」と、妻によく似た声が背中のほうから聞こえてきた。不思議に思ってふり返ると、私の視線は肉屋の店前に群れなす主婦連へとむかっていった。その中に、とびきり美しい一人の女性がいたからなのだが、よく見れば、それは私の妻だった。


妻は笑いながら近づいてきた。

ただ、近づいてきたのは彼女だけではなかった。店のカウンターからまわってきた肉屋の主人らしき人物も「奥さん、奥さん」と言って、私のもとへむかってきた。

てっきり私は、妻が代金を払い忘れでもしたのかと思ったが、そういうわけではなかった。主人は「奥さん、これサービス。松阪牛」と小声で言って、こんもりした包みを妻に手わたした。

松阪牛がサービス。いったい彼女はなにを買ったのか。

主婦連の冷たい視線を尻目に、主人はうれしそうに仕事場へともどっていった。


「なにボーッと歩いてるの」

妻は当たり前のように高価な包みを買い物袋にしまい込みながら言った。

べつに私はボーッとはしていなかった。私がボーッとしたのは、彼女の顔を見てからだ。

「すごいでしょ。今日ちゃんとお金払って買ったのこれだけよ」

そう言って、妻は袋の中からのぞいた牛乳パックを私に見せた。

「商店街バンザイ」

私はその手から買い物袋を引きうけて言った。


よく「早起きは三文の得」と言うけれど、会社の定時上がりもまた然り。この歳になって、私ははじめて美女を横にはべらかして歩く男の優越感がわかったような気がした。

商店街から自宅マンションまでのわずかな距離ではあったが、ありとあらゆる男たちが、ランドセルを背負った男の子までがこちらをふり返るのだ。

まるで、映画スターにでもなったような気分だ。だがしかし、彼らはみな、妻の美貌より、夫婦そろって亀のようにのそのそと歩く二人の姿を奇妙に思って、顔をこちらにむけていたのかもしれなかった。


「大丈夫かい」

私は聞いた。

「大丈夫。最近、なんだか調子がいいのよ」

妻は明るくこたえた。

今から思うと、ずっと椅子に座っていられる受付嬢は、彼女には天職みたいなものだった。ただ、眠ることは、それ以上に至福の時だったのだ。

妻は幼いころから血行の悪くなる難病を患っていて、長い距離を歩くことが苦手だった。おかげで、私もゆっくり歩く癖がすっかり身についていた。

二匹の亀はならんでのそのそと家に帰った。


その晩、我が家の食卓にかざられたのは、松阪牛のステーキと、野菜コロッケが二切れであった。こんな食生活が長くつづくと、経済観念と舌の感覚がおかしくなりそうでなんだか怖いが、そんなことよりも、私が一番驚かされたのは、帰ってくるなり妻がとったある行動だった。


二人で買い物袋から冷蔵庫へと、戦利品をしまったあとだった。

妻はお役ご免になっていた財布から百円玉を一枚とりだして私に見せた。てっきり、荷物番をひきうけた夫にチップでもくれるのかと思ったが、そういうわけではなかった。

彼女は手品師のようにコインを指にはさんだまま居間へとむかった。どうするのかと思って、私はそのあとについていった。


棚の前にたった妻は、部屋に入ってきた私にもう一度百円玉を見せた。そして彼女の手が棚の中にかくれると、鈴の音のような響きが、そこからかすかに聞こえた。

私はまわり込んで、彼女の背後から棚の中をのぞき見た。

それは雑誌やCDにはさまれた狭いスペースの一角と、私の記憶の奥と、その両端にたっていた。

コカコーラ瓶ほどの灯台の形をした白い貯金箱。

妻はお参りをするように、それにむかって両手をあわせてから言った。

「いい置き物でしょ。これ、『願い事の叶う灯台の貯金箱』っていうのよ」

説明されなくてもわかっていた。なにしろこの代物は、入社して私の企画がはじめて製品化された記念すべき第一号なのだ。たしか300個ほど生産されたはずだが、まったく売れずに、ほとんどの在庫品が、取引先に無料で配られたという曰くつきの。

それはもう二昔近くも前の話だ。

思えば、これが最初のつまずきだった。私の灰色のキャリアのはじまりであった。

 

そして、なんの因果かは知らないけども、300個のうちの、おさらく最後の一個が、めぐりめぐって今、私の目の前にある。

「三月ぐらい前に実家から送ってきたのよ。せっかく驚かせようと思って黙って置いといたのに、あなたったらぜんぜん気がつかないんだもの」

いいや、むしろ気がつかなくてよかったのだ。三月前といえば、『美人るんです』の試作品づくりで、てんやわいやだったころだ。そんな時期にネガティブな気持ちになって、もし判断を誤っていたら、私の灰色のキャリアは、さらに暗黒へと一歩近づいていたことだろう。

ん、待て。三月前とな....。


私の手は、懐かしさよりも、ある好奇心から棚へとのびた。思ったとおり、陶器でできた灯台の貯金箱はズシリと重くなっていた。一日コイン一枚。およそ三ヶ月で一杯になる容積にあらかじめ設計されているのだ。それが小さな願い事に見合った消費者の忍耐力と、新人だった私なりに予測しての計算だった。

ただ、不惑の歳をむかえ、その計算を逆算してみることになろうとは、私もさすがに予測はしていなかった。それも『美人るんです』的な逆算を。


貯金箱に残された容積、そして妻の『潜在的美人度』、それから日々更新されてゆく彼女の『美人度』。この三つの数字が、灯台の照明灯のように私の頭の中でグルグル回っていた。

間違いない。私の不惑な計算に狂いがなければ、ちょうど妻の『美人度』が、その『潜在的美人度』に到達するころ、この貯金箱はコインで一杯になる。

しかし、そんなことがあるだろうか。企画した本人が言うのもうしろめたいが、どんな願い事であるにしろ、小さな貯金箱を一杯にしたことによって、それが現実的に叶えられるということは、まずありえない。まして、絶世の美女などに....。


私は頑固一徹の目利きのような顔をして、自分の処女作を棚へともどした。たしかに拝見しました。しかし、所詮は安価なオモチャ。バッタ物ですな、というふうに。

すると、目の前の妻が私に抱きつき、こう言ったのだ。

「天才だわ、あなた。私の魔法使い!」

人がよく赤ん坊にそうするように、私はヨシヨシと彼女の背中を優しく叩いたのだった。

そうするほかに、いったい私になにができただろう。


そもそも、それはなぜ灯台だったのか。どうして灯台でなければいけなかったのか。

大した理由はなかった。仕事のアイデア探しのために、雑誌のページをパラパラと捲っていたおり、海辺の風景写真と一緒に、「外国では、灯台は街の教会のような、信仰に近い存在になっている」という文面にでくわし、そこから『願い事の叶う灯台の貯金箱』という商品を仕立て上げただけなのだ。

ただ、信仰云々はあくまで外国での話。そんな習慣もないお国柄で、そういった性格をもった商品が売れるはずもない。せめて、『願い事の叶う賽銭箱型貯金箱』ぐらいにしておけばよかった。


しかし、誕生の理由はどうであれ、効果のほどはどうであれ、一人の女性が、小さな白い灯台にむかって祈りを捧げる様子には、どこかおとぎ話めいた純真な趣があった。凍てつく冬の夜に、澄み切った星空を見あげているような神聖な雰囲気もあった。まったく売れはしなかったが、やはり私はいいものを作ったのではなかろうか。『賽銭箱型貯金箱』ではこうはいくまい。

 

そう考えると、もし妻が美しくなりたいと祈っていたとするならば、それはいかにも打算的で、おとぎ話めいたイメージとはどこか矛盾するようだが、それは夫である私の浅はかな思い込みであった。じつは、彼女は自分の病気がはやくよくなるようにと、毎日コインを一枚ずつ入れていたのだ。

そして、その願いは今まさに叶えられようとしていた。それも、夫の才能や特殊能力、あるいはあんちょこな貯金箱の力ではなく、それこそ体育の授業でいつも一人別メニューをこなしていたという、子供のときからつづけてきた、彼女自身の地道な努力の積み重ねによって。



「その灯台の貯金箱と『美人るんです』をセットにしたら売れるんじゃないですか」

「渡辺君、そんなことをせずとも『美人るんです』は売れるよ。それに妻が美しくなったのは、体の血行がよくなったからだ。貯金箱のせいじゃない」

時は来た。第三企画室が日の当たらない地下室から、会社の中央フロアへと上り詰める、その取っかかりとなるべき記念の日がついに。

重役会議でのプレゼンまであと十数分。だがしかし、そんな緊張感が張りつめてしかるべきときにも、我々三人はデスクトップの画面に映しだされた「世界の謎」への挑戦を果敢につづけていた。


「でも、血行がよくなったぐらいで、こんなすぐに綺麗になれるもんですかね」

この日の渡辺君はすぐには引き下がらなかった。

「血管の手術をうけて、それまで歩けなかった男性患者が、一時間もしないうちにふつうに歩行ができるようになるのをテレビで観たことがあるよ」

エンジニアの黒田君が先輩医師みたいな顔をして言った。

私も彼の意見に賛成だった。そこで、大した知識はないけども、室長兼医院長風な態度をとって私も語った。

「たぶん、美しくなったというより、本来あるへき姿をとりもどしたと言ったほうが正解なんだろうね。あらかじめ妻の体内ではそういったプログラミングが準備されていたんだよ。それで眠っていた細胞が急速に活性化できたわけだ」

「なるほど。とすると、室長の奥さんは『スーパーサイア人』ではなく、むしろ『みにくいアヒルの子』だったわけだ」

私は今一度、渡辺君の顔を睨みつけたい衝動にかられたが、大事な会議のまえだったのでそれはやめにした。

「時間だ。いこう」

私は口火を切った。資料の山とノートパソコン、そして『美人るんです』の入ったダンボール箱を抱え、我々は地下室をあとにした。


その日、私はそそくさとではなく、胸を張って定時きっかりに会社をでた。せっかくなので、受付のS嬢に勝利報告の挨拶でもしていこうと思ったが、あいにく彼女は休みのようだった。

それから十数分後、私は中央線のシートに腰をおろしていた。本来なら部下を引き連れ、祝杯をあげるために繁華街へとくりだしてしかるべき夜だったが、それどこではなかった。

プレゼンは大成功だった。妻のデータはあまりに特殊な例なので、我々はそれを公表することは控えたが、二人の部下が持ちよった親族のデータだけでも重役たちには大ウケだった。

ただ一つ、重役連中がお気に召さなかったのは、室長たる私自身が命名した『美人るんです』という商品名であった。彼らによれば、『美人るんです』を「びじるんです」とは誰も読めないし、仮に読めたとしても、魅力に欠けると言うのだ。


そんなわけで、肝心の商品名はプロのコピーライターにあらためて発注することで手打ちとなった。

なんだか手柄を横取りされたみたいで癪に障るが、どんなに優秀なアイデアにも、1%のケチをつけ忘れないのがサラリーマンの世の常だ。

ありがたい重役連中のアドバイスはとっとと忘れ、おまけに残業の部下たちは会社に残し、私は中央線の車両に飛び乗ったのだった。


そして、私の鞄の中には今、『美人るんです』ではなく、ドイツ製のブロックハンマーがはいっている。プレゼンの準備にかこつけて、はやい時間に東急ハンズにでむいて買ってきたものなのだが、無論、多少なりとも不愉快な事例があったとはいえ、会議の席上で私がそれを振りかざすことはなかった。

たぶん人生の中で、日曜大工品を妻にプレゼントするというのは、これが最初で最後の機会になるのではないだろうか。私はこのハンマーを、彼女の夢を完結させるために購入したのだ。


もしも、毎夜のごとく流星群がおがめれば、誰も星に願いなどかけたりはしない。神社のおみくじだって、大吉がでるまで買いつづけては有り難みもない。

夢が叶うチャンスはふつう一度かぎり。それで当時、設計者であった私は、灯台の貯金箱にあえてコインの取り出し口をもうけなかったのだ。

そしてその最後の一つが、今夜、役目を終えようとしている。塔のてっぺんに空けられたコインの差し口からは、すでに浮いた食費から妻が貯め込んだ、地元商店街店主たちの真心があふれて見える。彼女は布かなにかを巻いて、ドイツ製鉄槌でもって陶器でできたその胴体を叩き割ることになるのだ。

それをもって今日という一日は、私たち夫婦にとって、夫が戦で手柄をたてた日としてではなく、妻の積年の願いが叶った記念日として末永く記憶されることになるだろう。


もっとも当の妻はといえば、はじめから壊される運命にあったとはいえ、貯金箱の破壊者となることに少しためらいを感じているようではあった。灯台の破片とともに、叶ったはずの自分の願いもまた、砕け散ってしまうのではないかと心配しているようなのだ。

笑止千万。もとより私が設計したオモチャにそんな力はありはしない。作った本人が言うのだから間違いない。

それでも、妻はいまだに、昔私が考えだした商品名の効能をにわかに信じているようであった。せっかくだから、私もあえて彼女の前でそれを否定するつもりはない。

信じる者は救われる。願わくば叶えられん、と。


しかし、駅のホームに降り立ってみると、私の頭の中には、これまでとは相反する考えが思い浮かんでくるのであった。

もしかしたら1%ぐらいならば、あの小さな灯台の恩恵もあったのかもしれない、というふうな。

そもそも、あの貯金箱は300個のうちの最後の一つであるし、それが十数年も経った今、私のもとにまいもどってきたのには、どこか運命的な力さえ感じる。そしてなにより、あの商品には制作者である夫の愛情もつまっているであろうから。

いいや、もしかしたら300あまりの何処の家庭でも、あれやこれやの願い事が、一つ一つ、私の知らない間に叶えられていたのかもしれない。

もしそうだったとしたら、失意のS嬢にも一つとっておいてあげればよかった。


どうも駅のプラットホームには、人の妄想をかきたてる不思議な磁場が働いているようだ。

気がつくと、私は自動改札機をぬけていた。


マンションに着くと、我が家の眠り姫はリビングのソファでふたたび夢をみているようであった。壁の棚には、灯台の貯金箱がいつもどおりそこにあって、最後の優美な姿をみせていた。

私はソファの端っこに腰をおろし、美しい寝顔を眺めながら気長に待つことにした。

一人の女性の、大いなる目覚めのときを。


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