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中央線沿線下ネタ教室

もしもあなたが職場や学校で繰りひろげられる同僚や学友たちの下ネタ合戦にお困りなら、ぜひとも中央線沿線にある『下ネタ教室』に通われることをお勧めする。

それは正式には『新社会人フォーラム・下ネタ教室』といって、よく勘違いされるらしいのだが、間違っても「下ネタ愛好家」の集まりなどではない。そこはかつての私のように、仕事の合間に交わされる同僚たちの下世話な会話にどうしても馴染めず、ついにはデスクで一人孤立してしまうような社会人や学生諸君を救済する場所なのだ。


世間では「セクハラ」などといった言葉が認知されて久しいが、実際の現場では下ネタなる冗談の類がいかに幅を利かしているかは、一度なりとも会社勤めをしたことのある人ならば誰もがご存知だろう。なにしろ下ネタは分かりやすいし、職場の空気を和ませる。人より一時間多く残業する社員よりも、気の利いた下ネタを一つでも言える人間を組織は重宝がる。どんな会社でも万年課長の発するダジャレは職場を白けさせるだけだが、下ネタはなぜかその場をホットなものに変えてしまうのだ。


私もそうだったが、下ネタの苦手な人にはシャイな人が多いようだ。もしあなたがそうであったとしても、なにも心配する必要はない。『下ネタ教室』はそういう人たちのための駆け込み寺なのだから、躊躇することはないのだ。ちなみに、その壁には念仏のかわりにこんな言葉が額縁に入ってかけられている。

「下ネタなんて怖くない!」....まったくその通り!


新宿からほど近い中央線沿線の駅近くに教室はある。仕事帰りに通うのに便利かと思う。目立った看板はない。どこにでもあるような古びれた雑居ビルの曇りガラスの入った三階のフロアだ。地元の人でもここでこんな風変わりな教室が開かれていることを知る者はほとんどいないだろう。なにしろ授業内容が内容なだけにまったく宣伝というものをしていないのだ。

では、どのようにして生徒が集まってくるかといえば、彼らはみな人の紹介でやってくる。私の場合、口添えをしてくれたのは直属の上司であるK主任だった。

もっとも、このK主任こそ我が職場をホットにしている張本人であり、私が苦手としていたまさに目の上のタンコブのような人物だったのだが、じつのところ彼は『下ネタ教室』の卒業生であったのだ。

ある人事関連の飲み会のあと、同じ終電の車両に乗り合わせた主任は、居酒屋でいまにも一人『カラマーゾフの兄弟』でも読みだしそうな勢いだった私によほど感銘をうけたか、顔を赤くしながら隣の座席でこうつぶやいた。

「君を見てると昔の自分を思いだすなァ」


そんなわけで私は『下ネタ教室』のドアを叩くことにあいなった。驚いたことに、教室の机にはそのK主任が職場と同じスーツ姿で私を待っていた。そう、『下ネタ教室』の講師陣のほとんどはその卒業生たちでなりたっているのだ。

もちろんその中には女性の講師もいる。ちなみに校長と呼ばれる人は男だが、昔はフリーライターの肩書きを持っていた人物だそうで、著書であるノストラダムス関連の研究書はベストセラーにもなったらしい。氏はどうもその印税でもってこの教室を開講したようなのだ。

じつは私はかの大予言のあと、その筋の研究家と呼ばれた人たちはいったいどこでなにをしているのだろうかと以前からずっと疑問に思っていたのだが、これで一つ積年の謎が解けたわけだ。いまでは釣り好きの晩年の文豪のように恰幅のよい校長も、若いころは下世話な世間とうまく折り合いをつけられずにいた痩せた文学青年であったのかもしれない。

いずれにしろ人騒げな大予言も、極東の島国ではこうして少しは人助けの足しにはなったということか。


さて、職場では上司であるKを教室では主任とは呼ばずに、私は「Kチンチンさん」と声をかける。当『下ネタ教室』では誰でも相手が男なら「チンチン」であり、女性なら「オッパイ」なのだ。

バカみたいな決まりだが、これがけっこう重要なのだ。なにしろ下ネタの苦手な人はその言葉自体に慣れていない。仕事でもなんでもそうだが、まずは慣れることが先決だ。そのうち気心がわかってくれば、「Tチンチンさん」が「モッコリTさん」になり、「Sオッパイさん」が「Sボイン嬢」になったりする。そうなれば、あなたのこれまでのどこかぎこちなかった愛想笑いは、きっとその時ごく自然な微笑へと変わっていることだろう。

なんなら新入生であるあなた自身「新人の荻窪チンチンです」とか「新人阿佐ヶ谷オッパイです」なり自己紹介してみるのもいい。私の経験ではこれは必ずウケる。ただくどいようだが、当『下ネタ教室』はけっして下ネタ愛好家の集まりではない。


すでにお気づきかもしれないが、下ネタには特別な才能などはなにも必要ない。ようするにこれは言ったもん勝ちなのだ。ジョークとしてならよほど万年課長のダジャレのほうが上等かもしれない。誰かそのことを失意の課長にそっと耳打ちしてやるべきだ。私は遠慮しておくが。

そんなわけで、我が教室で使用されている『下ネタガイドブック』なるテキストには、その名のとおり数々の下ネタ例文が引用されているのだが、そこに笑いの質を求めるのは理不尽というものだろう。必要なのは特別な才能ではなく、自分を変えようとするほんの少しの勇気だけ。テキストの扉のページには、きっと若かりし日の校長が傾倒していたのであろう、ある米国の詩人のこんな生前の言葉が飾られている。それは私にとって、かの大予言の詩よりもよほど予言に満ちあふれたものだった....。


 あなたが子供のころにつけられた

 恥ずかしいあだ名

 (忘れたくても忘れられない)

 それが

 私の名前


「キンタマサル」....私が小学生のときにつけられたあだ名だ。どうもチンチンやら下の話ばかりで恐縮なのだけど、それが我が生涯唯一のあだ名であり、地元の中学校を卒業するまで私は一匹の卑猥なオス猿としてあつかわれた。ちなみに「金田マサル」というのが私の本名なのだが。


教室の授業には基礎編と実践編がある。基礎編は講師との一対一でのテキストの読み合わせだ。チンチン、オッパイ諸君はただそこに並んだ文章を読み上げるだけでよい。慣れてきた段階で講師がアドリブの言葉を入れてくるようになるから、生徒諸君もそれに見合ったように文章を変えてゆく。その過程であなたなりの下ネタ文法なるものができあがってくるというわけだ。

基礎編を終了するといよいよ実践編になる。そこでは毎回テーマを決め、講師の指導のもと、お茶を飲みながらグループごとにフリーの下ネタトークが展開される。ちなみに私が参加したグループの先週のテーマは『初デートで許される下ネタの限界点』で、出されたお茶は水牛のオッパイが入ったようなインド風のミルクティーだった。


めったにないことだが、きわめて優秀な成績を納めた生徒には講師陣の推薦で、ぜひうちで教鞭をと、校長からじきじきに声がかかることもある。それは講習を終えたチンチン君やオッパイさんの会話だけでなく、その懐もいくらかホットにすることだろう。K主任はその収入を家のローンの返済にあてているらしい。

そういった機会に恵まれなくとも、卒業生全員には記念のバッヂが贈られることになっている。詳しいことはここでは話せないのだが、それはとても奇妙な形をした小さなバッヂで、当教室のOB・OGが運営している『下の会』なる同窓生の集まりへのパスポート代わりにもなっているそうだ。


どうももう少しマシな名前はつけられなかったのかと思うのだけど、その奇妙なバッヂを誇らしげに胸につけた男女の一団を、私も中央線沿線の街中で何度か目撃したことがある。会の名前はどうであるにしろ、彼らはみな愉快そうであり、それでいて謙虚に通りの風景に溶けこんでいたのだった。


そんなわけだから、もしもあなたが中央線のどこかの街でおかしなバッヂを胸につけたなにやら楽しげな集団を目撃したとしても、気軽に声をかけることは謹んでほしい。彼らはみなそれなりに人生の辛苦を味わい、それを共に乗り越えてきた人々たちなのであって、くれぐれも下ネタ愛好家の集まりではないのだから。

それでも、もしあなたがほんとうにお困りで、『下ネタ教室』に通いたいと思ったなら、その時はそのバッヂをつけた一人にそれとなく話しを持ちかけるぐらいは許されるだろう。彼や彼女はきっと素直に曇り窓の入った雑居ビルの場所を教えてくれるはずだ。


それではまだ見ぬチンチン君、オッパイさん、いつか中央線沿線のどこかの街で。


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