06.春嵐
「――――様! 燦様!」
翌日、まだ日も昇り切らぬ早朝。
燦はいつになく慌てた様子の朱丹に肩を揺すぶられ目を覚ました。温厚な朱丹がそのような手段に出ることは珍しく、燦は眠い目を擦りどうした? と問うた。
「……様が!」
「え?」
「槇様が!」
朱丹の口から出た名を理解した瞬間、燦は勢いよく上半身を起こした。押し倒さんばかりの勢いで朱丹の肩を掴む。
異様な空気を感じる。未だ寒さの残る春の夜明け。普段ならば屋敷の者の半分も起きていないであろう時間帯だが、今日は違う。屋敷は騒がしく人の動き回る気配で溢れている。
花冠儀の準備などといった和やかな喧噪ではないと直感が告げていた。
「兄上がどうした!」
「槇様が……っ……」
朱丹は口を開こうとしたが、上手く言葉が出てこないようだった。
燦は寝着のまま部屋を飛び出すと、何も考えず槇の部屋まで駆けて行った。
そうして彼が長兄の部屋で見たものは、何もないがらんどうの部屋とそこに立ち尽くす次兄であった。
「兄上……一体何が……」
「……燦か」
鴒は半身だけ振り返ると、封の切られた一通の手紙を差し出してきた。
昨日とは一転した有無を言わさぬその空気に圧され、燦は何も問うことはせず手紙を開いた。
そこには短い、しかし衝撃的な文が書き記されていた。
――――私 楊家の長子槇は自ら望み楊家の継承権を放棄する。
これは祭祀・朝廷の権力を否定し抗議の意を示すための行為である。
我らはもう待ちはしない。
長らく虐げられてきた民衆と共に朝廷を倒し新たな世とすることをここに宣言する。
何度も読み返す必要はなかった。紛れもない見慣れた兄の字で書かれたそれは燦の思考をゆっくりと鈍化させ、体から力を奪っていった。
――――兄上が
燦の手から手紙が落ちてゆく。季節外れの落ち葉の如く揺れ落ちたそれは床に当たり、かさりと小さな音を立てた。
足の力が抜ける。気が付けば燦は床にへたり込んでいた。
――――兄上が、楊家を捨てた……
ふと手元に目を落とす。手から滑り落ち、裏返された手紙の裏には小さく、彼の弟たちの名前が書かれていた。
―――― 鴒、燦、
すまない ――――
遠くで朱丹の声が聞こえたような気がした。鴒の問いかけを聞いた気もした。
だが燦にはそれに応える余裕も、体を動かす余裕もなかった。
ただただ、開け放たれた窓から見える、明けの口の白い月を茫然と眺めるばかりであった――――