04.春雷
唐突に、陶器の割れる音と男の怒声が店内に響いた。店内は一瞬静まり返り、刺すような緊張が走る。
少女の悲鳴に似た声が聞こえたように思え、顔を見合わせた二人はそっと様子を伺った。開きかけた口を閉じ、鴒は席を立った。
異様な空気の元は、店の奥に座る客のようだった。怒りで顔を真っ赤にした貴族風の男の前に、散乱した食器の欠片を拾おうとする少女の姿があった。
「何をやっている! すぐに拾え!」
鋭い破片を布で包もうとした少女を、男は背後から蹴り倒した。
少女の小さな悲鳴が響く。
「ぐずぐずするな! まったく、遊廓に売っても良かったところを、わざわざ手元に置いてやっているのだぞ。少しはまともに働いて見せろ!」
「申し訳ございません、叔父様……」
「たわけ! 叔父などと呼ぶなと言っておろうが、この愚図。お前はもう角家の者ではない。何度言えば分かるのだ!」
「申し訳ございません…………旦那様」
男の手が高く振り上げられる。少女が身を固くし、目を瞑る。しかしその手が振り下ろされることはなかった。我にもなく、鴒がその間へと割入ったためであった。
男が目を剝く。
「何だ、お前は。そこを退け」
「できません」
鴒が毅然と相手を見返す。男は寸の間目を細め、鴒を見つめた。
「出来ぬと申すか小僧。相手が誰か分かっての言葉だろうな?」
「それは……」
「角家のこの私に、何か言いたいことでもあるのかと聞いているのだ」
角家と言えば、都の西側を警備する一族だ。楊家ほどではないが妖力を持つ一族で、下級の妖を使役し朝廷に仕える貴族だった。派手好きで素行があまり良いとは言えないが、多くの妖使いを持ち、質の面ではなく数の面で楊家に取って代わろうと機を伺う一族でもあった。
息を吸い込み、鴒は男を睨んだ。
「お言葉ですがこのような場所で、あなたのようなお方が大声を大声を上げるのは相応しくないのでは?」
男は寸の間目を細めると、鴒の服にある楊家の紋を見付け、鼻で笑った。あからさまな嘲笑だった。
「なんと。どこかで見たことがあると思えば、楊家の能無しか」
鴒を見下ろすようにして、男の顔が歪む。鴒は震える唇を噛み、必死に顔を上げた。
しかし鴒が言葉を返すことはなかった。
「そこを退け。退かねば――――」
「失礼」
男が腕を振り上げる。
その腕を掴むと、槇はにこりともせずに相手の瞳を覗き込んだ。角は一瞬怯んだが、それが誰かを認識するや否や、一変してやけに親しげな様子で声を掛けてきた。
「おお! 槇殿ではないか! 明日の儀、楽しみにしておるぞ! なぜこんな場所へ?」
「弟たちと出掛けて来たのです」
「ああ、燦殿ですな? まったく子供というのは、華やかな場が好きだからな」
「……ええ。まあ。ところで角殿、少々騒がしかったようですが、弟が何か?」
ああ、と角は鼻を鳴らした。
「これに罰を与えようとしたら、間に入ってきたものでな。引き取っていただきたい」
「……鴒、来なさい」
「ですが……!」
「良いから……角殿、そちらは?」
鴒を後ろに庇い、槇が横で肩を震わせる少女へと視線を滑らせる。角は薄笑いを浮かべた。
「これは私の弟の子だったが、今は角の奴隷だ。能無しだったものでな」
ちらりと、その視線が槇の横に並んで唇を噛む鴒へと向けられる。
「槇殿もどうです? いつまでも能無しを家において置くのは外聞が良くはあるまい。楊家ならば尚更。さっさとそのような者、追い出してしまえば良いものを」
「角殿、失礼ながら仰る意味が分かりませんな」
「言葉のままだ。その容姿であれば高く売ることもできよう」
寸の間、槇は黙り込んだ。
その間、誰も気が付きはしなかったが、隣に立っていた鴒にだけは、彼の拳が真っ白になるほどにきつく握り締められていることが分かった。
「――――そうですか、角殿。失礼ながら私には、やはり貴殿が何を仰っているのか全くもって理解できない」
「は?」
「理解できぬ。そのような言葉を楊の者に投げ掛けるのは止めて頂きたい」
「何を……!」
「物分りのお悪いことよ。不快だと言っているのだ」
槇は傍目にも分かるほど分かりやすい侮蔑の表情を浮かべ、角を見下ろした。
「楊家は異能の有無で人を選別したりはせぬ。そうせずとも、困りはしない」
「しかし……」
「くどい! 楊の力を見くびってもらっては困る。一族総動員でようやく西を守れる角とは、格が違うのだ」
去れ、と低く槇が言う。
目に見える変化はなかったが、薄いとはいえ楊の血を引く鴒ははっきりと、その場の空気が変わるのを感じていた。
角の目が、槇の背後、ある一点に定まる。
「去れ。そうして二度と、私と弟の前に現れるな……良いか」
ひっ、という小さな声を聞いた気がした。
それから、角は支払いもそこそこに店から逃げ出した。槇が呼び出した“モノ”はその場からぴくりとも動かず、やがて主の指示でその場を去って行った。
何が起こったのかを正確に知るのは、妖を呼び出した槇自身と逃げ出した角のみであった。