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蒼穹の月  作者: 夏村千早
第一章
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03.春愁




「こら燦! あんまり急ぐとはぐれてしまうよ!」


 それから数刻の後。

 色とりどりの露店が並ぶ大通りの前で槇は苦笑いを浮かべていた。

 末っ子の姿もその後を慌てて追って行った朱丹の姿も、早くも人混みの中に紛れてしまった。


「急がずとも店は逃げないというのに、せっかちだなぁ」

「久々の都ですからね。はしゃぐのも無理ありませんよ」


 面倒な衣合せの後ならば尚更、と返すと、鴒は小さく欠伸を漏らした。


「なんだ鴒、寝ていないのか?」

「いえ、そういう訳では……」

「目の下の隈は? 恋煩いか何かか?」

「なっ……!」


 鴒は少しだけ顔を上気させ、近くの露店に並べられた鏡を覗き込んだ。


「昨日少し、父上の手伝いをしていただけです!」

「そうかい?」


 楽しそうに笑い、槇は肩を竦めた。

 どんな時も穏やかで、他の二人に比べ露骨な感情表現をしない鴒だったが、ここ数年、菊花のことになるとやけにむきになる。

 からかうなという方が難しい、と槇は笑みを漏らした。だがあまり次男を怒らせても後が怖いだけである。


「父上の手伝いというと、朝廷の政のことだろう?」

「ええ。今年は北西の町で水不足が続いているようで、そのための施策を」

「北西か。あちらは冬季の乾風で有名だが……父上へ話がきたということはやはり、妖の方か?」

「ええ、そうでしょうね。あの地方には昔から、悪さをするモノがいるようですし」


 槇は少し驚いた顔をした後、感心したように目を細めた。

 二人の後ろを、煌びやかな布を抱えた女性が通り過ぎる。賑やかな雑踏の中で誰もがせわしなく動き回り、市は活気に溢れていた。


「お前は本当に勤勉だね。そんなこと、父上だって知らないだろうに」

「いえ……たまたま、屋敷の書物で読んだことがあっただけです。この身体では、私が調べに行く訳にもいきませんから……」

「だが最近は調子が良いのだろう? 丙午先生もお見掛けしないし」

「ええ。ですがやはり、兄上のように遠征へ行ったり、官学校へ上るのも難しいようで……」


 鴒は少しだけ寂しそうに視線を落とした。

 妖力の弱さ故に楊家の一員としての教育を十分受けられる訳ではなく、都の祭祀という楊家の立場故に、ただの文官としての教育を受けることも難しい。それでも、いずれ官吏として働くべく、鴒くらいの年頃には都の官学校へ上がっていた槇とは違い、鴒は時折訪れる父の同僚や雇われの師、出入りする文官たちについて懸命に学んでいた。


「私は屋敷の皆に迷惑を掛けるばかりで……このようなことでしか、父上にも兄上にも恩返し出来ないのです。せめて……せめて身体が強ければ……」

「恩返しなど必要ないさ。それに、誰も迷惑などとは思っていないさ」


 槇は横顔でにっこりと笑みを浮かべた。


「私は、お前がこうして無事に育ってくれたことだけで十分だよ。その上こうも優秀だとね。言う事なんてないさ」

「ですが楊家の人間としては……」

「誰かに何か言われたのかい?」


 鴒が口を噤む。その沈黙を無言の肯定と受け取って、槇はふっと立ち止まった。

 背後で、異国情緒溢れる美しい装飾品が光を受け輝いた。


「気にするなという方が難しいと思うがね……。お前が読んだというその書物は、妖力がなければ読むことはほぼ不可能なものだろう?」


 鴒は一瞬はっと顔を上げ、おずおずと頷いた。

 楊家の蔵書は、妖たちが使う言葉で書かれていることも少なくはない。妖力さえあればある程度のものは読み解くこともできるが、一般人にはただの落書きのようにしか見えないものも多い。

 そうやって、楊家をはじめ鳳黎国の妖使いたちは、代々その秘密を守ってきたのだ。


「自分で解読したのだろう? 並の人間にできることではない。その努力、導き出すまでの過程と結果は誇って良いのだよ」

「元々、父上や兄上には造作もないことですし……」

「そう謙遜するものじゃない」


 槇は真顔で鴒を見つめた。


「お前は力がなくとも身体が弱くとも、それを補うだけの努力をしている。私も父上も良く分かっているよ。それが分からない者の戯言など、気にするな」


 肩を叩き、槇は先を歩き出した。


 ――――ああ、やはり……


 その背を見つめ、鴒はぼんやりと思う。


 ――――やはり、兄上には敵わない……


 数秒の後、我に返った鴒はその背中を追おうとした。そこでふと、後ろから袖を引かれていることに気が付く。


「ちょいと! そこのお嬢さん!」


 通りに雑貨屋の主人の声が響く。鴒は眉根を寄せ、怪訝そうに振り返った。


「簪はいらんかね? 綺麗な御髪にぴったりの物があるんでさぁ!」


 そう言うと、雑貨屋の主人は青い花飾りのついた簪を取り出した。少し先を行く槇が事情を察し、客引きに袖を掴まれた弟の元へと音もなく戻って来る。店主が槇へちらっと目を向け、歯を見せて笑う。


「恋人とお出掛けかい? お連れさんも良く見ておくれよ。こっちもどうだい? よーく似合うだろう?」


 何か勘違いをされている。

 抗議の声を上げようとした鴒はしかし、笑いを押し殺した様子の槇に口を押さえられてしまった。

 上背のある槇はそのまま、鴒の頭一つ分上で口を開いた。


「ご主人、何かお勧めの髪飾りはあるかい? 何分贈り物なんて初めてでね」

「よっ、色男! これなんかどうでさぁ?」

「おお、立派な瑪瑙だ! 他には?」

「へいっ! 少々お待ちを!」

「兄上っ!」


 店主が店の奥へと引っ込んだところで、ようやく拘束から逃れた鴒は顔を上気させて兄を睨んだ。


「どういうおつもりですか!」

「いや、特に意図はないさ」


 そう言うと槇はからからと笑った。悪びれない様子に毒気を抜かれ、鴒は息を吐いた。


 ――――兄上はこういう方なのだ。


 その顔を見て声を聴くと、不思議と心の小波が凪いでゆく。どんなに困らされようが面倒事に巻き込まれようが、何の気負いもなく笑う槇の前ではすべてが些末な事のように思えてくる。

 兄は不思議な魅力を持つ人間だ、と鴒は思った。


「へいっ、お二人さん、これなんかどうでしょ?」

「ああ、すまないがつけてやってくれないか?」

「へいっ! へえ。こりゃあ珍しい。最近の都じゃ短髪が流行りで?」

「そんなところだ」

「兄上! そこまでにしてください!」


 鴒の渾身の抗議を聞き、店主はあからさまにぎょっとした顔をした。姿はどうであれ、声は少年のそれなのだから当然である。

 店主に向かって「すみません」と声をかけたきり、鴒は顔を赤らめたまま俯いてしまった。

 結局、「迷惑料代わりに」と簪を買い取った二人がその場を離れるまで、人騒がせな次期当主はくつくつと体を曲げて笑い通していた。


「もう……ほどほどにして下さい!」

「いやあ、流石だな」

「何がですか!」

「さあね? ほらこれ、お前がとっておきなさい」


 二人は市の中に作られた茶屋へと入ると、通りが見える席へと腰を下ろした。

 繁忙時らしく店内は多くの客で賑わっていた。喧騒の中差し出された小袋を訝しげに見つめ首を傾げた鴒に、槇は悪戯っぽく微笑んだ。


「さっきの簪だ。菊花にあげるといい」

「なっ……」

「他意はないぞ? 勢いで買ってしまったが、家にこういったものを使う者はいないからね」

「……そうですが……」

「もちろんお前が使っても良いがね」

「兄上!」

「だから冗談だよ。ほら、とっておきなさい」


 渋々といった様子で小袋を受け取ると、鴒は小さく溜息を漏らした。


「兄上、今思い出したのですが……四・五年ほど前、私が大風邪を引いて寝込んだこと覚えていらっしゃいますか?」

「あー……梅の咲く季節だったね」


 槇は懐かしげに目を細めた。それを見て鴒はまた一つ息を吐く。


「あの時は確か兄上に、出入りしていた武官たちに挨拶するように言われてずっと門の横に立っていたのです」

「そうだったかな?」

「そうですよ。私はいつ終わらせていいか分からずに、夕餉時まで薄着のまま外にいて風邪を引いたのです」

「ああー……思い出した」


 槇は少しだけ気まずそうに肩を竦めた。当時の情景を鮮明に思い出す。


「お前を見て『可愛いらしい侍女が入った』と騒ぐ武官たちが愉快だったのだよ。いやあ……悪いことをしたね」

「……兄上は変わりませんね」

「まあね。なんだ、根に持っているのかい?」


 運ばれてきた甘酒に口をつけると、鴒はふっと微笑んだ。


「まさか。兄上を見ていると怒る気も無くしますよ」

「そうかい? なら良かった。お前は年々母上に似てくるからね。小言を言われたくてつい度を越してしまう」

「ああ……」


 鴒は窓に映った自分の顔を一瞥すると、ぼんやりとしか覚えのないその人の顔を一瞬だけ思い出そうとした。

 陶器のように白い肌の、黒髪が美しい人だった。それ以外のことはあまり覚えていない。

 だからこそ、兄弟たちが自分の中に母の面影を見ることが些か不思議でもあった。


「そういえば、燦は良いのですか?」

「ああ、式をつけてある。朱丹もいることだし、大丈夫だろう」


 槇は小さな水晶を取り出しながら言った。使うことこそないが、鴒にはそれが、使役する妖と槇とを繋ぐものだということが分かっていた。

 本来なら紫色に見えるはずの使用中の水晶は、鴒の目には薄桃色に色付いているように見えるだけだった。分かり切ったこととはいえ、それを少しだけ悲しく思い、鴒は軽く目を瞑った。

 外界からの刺激を遮断すると、僅かではあるが自分の中にも異能が眠っていることを感じた。弱々しくはあるが渦を巻き、ひっそりと息衝いている。


 ――――この力が兄弟のように強くあれば、あるいは私も……


「鴒、お前は、楊家を継ぐことについて考えたことがあるかい?」

「え?」

「いや……ずっと訊いてみたかったのだよ」


 こういう話は燦の前では出来ないからね、と微笑んで、槇も甘酒を口に運んだ。

 考えを見透かされたように思い、鴒は背筋を伸ばした。そんな弟の様子を見、槇は苦笑した。


「そんなに堅くならずとも良いよ。おかしなことを訊いてしまったかな。もし私ではなくお前が楊家の跡取りだったら、何を考えたのだろうと思ったのだが……」


 手元に目線を落とす。湯気を上げる甘酒の香りがふわりと身体を包んだ。


「そんなこと、考えはしないか……」

「……いえ……考えたことはあります」


 鴒は手元を見つめたまま答えた。


「私が嫡男だったら、とは……。ですが何度考えてみても、楊家の当主となる光景は想像できませんでした。どうしても……私では楊家の役を継げないので……」

「お前は、この身体に産んだ母上を恨んでいるのかい?」

「それは……!」


 沈黙が落ちた。その先の言葉を鴒は継ぐことができなかった。答えを躊躇ったからではなく、単純にそれが、どういった意図で口にされた問いか全く分からなかったからだった。


「それは?」

「それは……ありません」

「本心かい?」


 鴒は強く頷いた。

 妖力もなく虚弱な己に苛立ちを感じる時はある。なぜ兄弟の中で自分だけが、と思う時もある。

 けれど、それで誰かを怨もうなどと思ってはいない。少なくとも今は、誰のせいでもないと分かっているからだ。


「そうか。そう言い切れるのなら……お前は大丈夫だね」


 槇は安堵したように息を吐き、甘酒を含んだ。


「実を言うと私はずっと心配だったのだよ。お前は人一倍努力家で、私たち兄弟の中ではきっと一番自分に厳しい。己を無力だと思い込む傾向もある。やり場のないその想いを、どうしているのか……とね」

「……はい……」

「私はね、鴒。お前が楊家の者を……楊家の力を恨めしく思っているのではないだろうかと思っていた時期があったのだよ」

「……それは……」


 意外だった。そして驚きであった。鴒が決して口にしない、ひた隠しにしてきた想いに、この兄がずっと前から気が付いていたということが。

 今現在、鴒が母や一族のことを憎んでいないということは事実だ。兄へ向けた言葉に偽りはない。けれどもし、槇が「楊家の血を恨んだことがあるか」と尋ねたならば、鴒は答えに窮していた。

 ない、と言えば嘘になるからであった。

 槇は俯きかけた鴒の視線を捉えると「良いのだよ」と微笑んだ。


「私は……」

「いい。何も言うな。今はもう過ぎたことだろう?」

「……兄上……」

「そう情けない顔をしてくれるな。私が苛めている気分になるではないか」


 呵々と笑い、槇は甘酒をもう一杯注文した。そうしてすっと真顔に戻り、姿勢を正した。


「鴒、花冠儀の危険性については聞いたことがあるね?」

「……はい」

「もし私に何かあれば、お前は燦と手を取り合って楊家の皆を守っていかねばならない。父上のご兄弟に子がいない以上、それが我ら兄弟の義務……だ」


 鴒は深く頷いた。

 一般的に花冠儀はただの通過儀礼であるが、鬼との契約という独特の習慣を持つ楊家では、その意味合いも危険性も大きく異なる。

 かつてはその儀で契約を果たせず、命を落とす者もいた。


 ――――だからこそ先程まで行われていた衣合せで、兄上の正装として白装束が用意されていたのだ。


 鴒が顔を上げると、槇は少しだけ苦い表情を浮かべていた。


「兄上?」

「……ああ、いや、何でもない。ただ出来ることならば、花冠儀など無ければ良いのに、と思ってね」


 堅苦しい儀は苦手なのだよ、と言うと、槇はいつもの軽妙さで片目を瞑った。その様子に肩の力を抜き、鴒はふっと笑みを浮かべた。


「またそのようなことを。明日、楽しみにしていますからね」

「そうだなぁ。これ以上の先延ばしは出来ないからね」


 通常花冠儀は十四から十八の間に執り行われるものだ。有力貴族の子弟は大抵十五になる前に儀を済ませ、社交界の仲間入りを果たす。

 それを槇は、十九になる直前まで頑なに拒み続け今日まで来たのだった。理由を聞いたことはないが、槇のことだ。彼なりの考えがあってのことだったのだろう。

 息を吐く。ふと、今日が兄弟として過ごせる最後の日だということに気が付いた。三人で過ごす子供時代は今日で終わりを告げる。

 槇の花冠儀が済み次第、鴒はなるべく早く自らの儀を行えるよう父に頼むつもりであった。長兄よりも先に儀を行うのは、順序を乱すようでどうしても気が進まず、何となく言い出せずにいたのだった。

 甘酒を口に含む。長らく、聞きたくともその勇気が出なかったことを、口にしてみようと思った。


「兄上」

「うん?」

「私も一つ、ずっとお聞きしたかったことがあります」

「私に? 何だい?」

「兄上は……」


 鴒は一瞬躊躇った後、思い切ったように長兄の顔を見た。


「もし――――」


 しかし、その先の言葉が槇の耳に届くことはなかった。









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