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蒼穹の月  作者: 夏村千早
第一章
3/7

02.春暉

1月に1話ペースの間違いだろうか。

よろしければ感想頂けると嬉しいです。





「なんだ燦、捕まったのか」


 朱丹に連れられ、渋々戻って来た燦を見ると、楊家の長男・槇は大きく笑った。


「だから逃げるなら本気で行け、と言ったのに」

「槇様!」


 おどけて言う次期当主に、朱丹はげっそりと声をあげた。

 楊の血を引くとはいえ、三男である燦は槇や次男の鴒に比べ、伸びやかに育てられている。そのためかは分からないが、木に登る・屋敷を抜け出すなどは日常茶飯事で、一度など庭の溜池を蒸発させた事もある。

 そしてそういった燦の“悪戯”にはたまに……どころではなく頻繁に、槇が関わっていることがあるのだ。

 朱丹は息を吐いた。安堵の吐息だった。


 ――――槇様が燦様をけしかけると、とんでもないことになる。そうなる前に連れ戻せて良かった……


 太陽が照りつける夏の昼下がり。ぴちぴちと泥中を跳ね回る錦鯉を、青くなりながら目にするような経験は、一度だけで十分だ。

 朱丹の表情に「おお怖い」と笑うと、槇は文机に頬杖を突き微笑んだ。


「そうか。あまりやりすぎると、鴒だけではなくお前にも怒られてしまうんだったね。次からは気を付けよう」

「槇様……」


 なんだか余計な言葉を聞いた気がした。

 燦に仕えて数年。幼い頃から朱丹の苦労は絶えない。

 槇が立ち上がる。肩幅が広く上背もある彼は、精悍な顔つきも相俟って一見すると武官のようにも見えるのだが、よく見ると凛とした中にもどこか線の細さが残っており、楊の血を感じさせた。

 その顔によく映える笑顔を浮かべ、槇は燦の肩に手を置いた。


「燦。明日の準備はもう終わったのかい?」

「……衣合せがあと少し……ですが兄上」

「うん?」

「私は正装なんか嫌いです。どうして兄上の儀なのに、私まであんな重い服着なくてはならないのですか」

「あはは。そうか、燦は花冠儀に参加するのは初めてだったね!」


 少しばかりふてくされた燦の頭をくしゃくしゃと撫で、槇が笑う。


「いいかい燦、よくお聞き。花冠儀で私はね、その儀に参加した者の中で一番年長の者、一番年下の者からそれぞれ、花冠を貰うのだよ」

「花冠?」

「そう。紫苑で編んだ花冠だ。紫苑は忘れな草とも言ってね、成人して家を出て行く家の者に、『あなたのことを忘れない』という想いを込めて渡すのだよ」

「兄上は出て行ってしまうのですか?」


 燦が槇を見上げる。末弟に着物の裾を掴まれ不安気に見上げられた槇は、不意を突かれたような顔をした後、ふうっと破顔した。


「昔の話だよ、燦。昔は成人になると家を出て都へ出稼ぎに行ったり、どこかへ奉公に出されることが多かったからね。その名残なのだよ」

「本当ですか?」

「水仙師に何も聞かなかったのかい?」

「はい……」


 そうかそうか、と呟きながら槇は屈むと、燦と目線を同じくした。大きな掌が、燦の小さな頬を撫でる。


「大丈夫だから、そんな目をしないでおくれよ。私はこの家から朝廷へ出仕するのだよ。今までのように父上と屋敷を空けることはあっても、私の家はここだ。必ず帰ってくるよ」

「……約束ですよ」

「ああ。約束だ……。……燦、ついでではないがもう一つ、私の願いを聞いてくれるかい?」


 燦が頷くと、拳を突き合わせる約束の仕草の後、槇は燦の顔を真っ直ぐ見て言った。


「明日の儀では何が起こるか分からない。もし私がいなくなるようなことがあれば、燦、その時はお前が私に代わり、鴒や朱丹や一族の者を守るのだよ」

「私に……兄上の代わりなど務まるか分かりませんが……」

「何を言っているんだい。一族の中でお前に敵うほどの力を持つ者はいない。楊家の歴史の中にも、あるいはほとんどいないのかも知れないのだよ」


 槇の言う通りだった。燦は一族の中でも珍しいほど生まれ持った妖力が強い。妖を見ることはもちろんのこと、簡単な式を使役したり結界を張ることに関しても、他を圧倒する才能を持っていた。

 素質だけならば十分過ぎるほど、燦も当主たる資格を持っているのだ。


「足りない部分はきっと鴒が補ってくれるだろう。だが鴒はあの通り身体が弱い。妖力もあまり強くはないから、この前のように良くないモノに憑かれることもある。だから協力して、皆を守るのだよ」


 次男である鴒が性質の悪い妖に憑かれ、体調を崩したのは記憶に新しいことだった。

 折悪く、槇は楊梼と共に遠方の街を守る任に就いており、鴒は屋敷の者たちの甲斐甲斐しい看病にも関わらず、みるみるうちに痩せ細っていった。元々母に似て病弱であったため、かかりつけの医者に診せたりもしたのだが、一向に病状は良くならない。

 そんな中燦だけが、兄の身体から立ち上る微かな妖の臭いに気が付いたのだ。


「お前たち二人がいるからこそ、私は安心して、帝にお仕え出来るのだよ」

「……はい」


 口を結び、燦が頷いた。

 槇はそれを見、再び末弟の髪をくしゃくしゃと撫でた。くすぐったいと笑う燦は、先ほどの大人びた少年と確かに同じはずなのに、朱丹には年相応のあどけない少年のように見えた。兄弟とは不思議なものだ、と朱丹は思った。


「ですが、兄上は失敗などしませんよ! きっとすごく強いモノと、父上のように契約します」

「そうかい? お前がそう言うのならそうなのかな?」

「きっとそうです!」


 槇は顔を上げ朱丹と目が合うと、照れたようににっこりと微笑んだ。


「参ったなあ。何だか私が励まされてしまったようだよ」


 朱丹が微笑み返すと、槇はぐっと大きく伸びをした。


「さて。朱丹、私も可愛い弟の衣合せに付き合うことにするよ」


 そう答えると槇は素早く、逃げようと彼の手をすり抜けた燦の首衿を掴んだ。にやりと槇が笑う。


「こら燦。私はお前の兄だぞ? 考えることくらい分かるのだよ」


 そのやり取りがとても微笑ましいと思った。

 燦は槇に良く似ている。外見上は二人とも父である楊梼に似ているだけなのだが、それ以上に性格が、根の部分では同じなのではないかと思うほど、良く似ているのだ。


「私も面倒事は好きではないから、お前の気持ちも分からないでもないが、ほんの数刻の辛抱じゃないか」

「兄上……」

「それとも私は、燦から忘れな草の花冠を貰えないのかな?」

「そんなことありません!」


 燦が慌てて首を振る。


「ただ……都に市が立っていたので……あんまり楽しそうなので、少しだけ外に行きたくて……」

「では衣合せが終わったら私と鴒と、三人で出掛けようか」

「えっ!」


 構わないだろう?と槇は朱丹を見つめた。

 ふう、と息をつく。


「槇様がご一緒なら……。ですが槇様、明日のご準備はもうよろしいのですか?」

「うん……? あー……、こういうものはね、根を詰めれば良いというものではないんだよ。適度な気分転換も大切だ。そうだろう、燦?」

「はい!」


 そうですか、と納得しかけた朱丹はしかし、その直前で首を振った。


「燦様を出汁にして槇様が遊びに行きたいだけではありませんか!」

「人聞きが悪いなあ」

「いけません! 明日は大切な儀なのですよ!」

「分かっているよ朱丹。ただ私は可愛い弟のためを思ってだね……」


 何のかんのとそれらしい理由を並べ立ててはいるが、要するにこの青年も花冠儀の前日準備から遠ざかりたいだけなのだ。

 さすが似たもの兄弟である。朱丹は頭痛を感じ、どうすれば引き止めるられるかと頭を巡らせた。


「可愛い弟の頼み事だ。無下なんてできないだろう?」


 そうして朱丹が頭を抱えていた、まさにその時。


「では」


 朱丹の耳に凛とした涼やかな声が入る。


「私のお願いも聞いていただけますか?」


 襖が開く。振り返った朱丹の瞳には、少し呆れ顔の、しかし声と同じ涼やかな顔つきの少年の姿が映った。


「兄上……まだ御礼状への署名が終わっていないはずですよ? 何をなさっているのですか?」


 楊家の次男、鴒だった。

 ほっとする朱丹の横で、彼はもう一度「何をなさっているのですか?」と尋ねた。


「いや、これはあれだ。気分転換だ」

「お付きの文官に眠り術をおかけになりましたね?」

「いや、ここのところ眠りが浅いとぼやいていたからだよ」

「兄上の脱走癖のせいです」

「そうだろうか?」

「本人がそう言っていましたから」


 なおも惚け通そうとする兄を見つめ、鴒は小さく息を吐いた。

 楊家特有の線の細い横顔。それだけであれば先の二人とさほど変わらぬ容姿なのだが、幼い頃からあまり身体が強くなく屋敷にこもりがちであった彼は、三兄弟のうちで誰よりも色白の肌を持っていた。華奢な体つきも相俟って、その姿は二人よりも濃く母親の血を継いだことが分かる、より中性的で美しいものだった。


「兄上。気分転換ももう十分なはずですよ。先ほどから文官たちが『準備が終わらない』と慌てております。お戻り下さい」

「まあ、そう急ぐな。燦も都に行きたいと言っているし、帰ってからでも準備は終わるだろう?」

「いけません。兄上ほどのお方が中途半端な格好で朝廷へ出て、軽んじられようものなら……私はまた寝込んでしまいますよ」


 そうして今度は燦へと向き直り、有無を言わさぬ笑顔で尋ねた。


「燦、お前も衣合せが済んでいないね?」

「……はい……」

「では朱丹とそれを済ましてきなさい。いいね?」

「はい……」

「兄上も、よろしいですか?」


 てきぱきと指示を出す鴒に、朱丹はほっと息を吐いた。

 真面目で勤勉な鴒は、屋敷に出入りする文官や使用人たちからの信頼も厚い。恐らく、右往左往する彼らを見かねてやって来たのだろう。まだ若く朝廷への出入りが認められていないにも関わらず、端麗な容姿に加え、父譲りの人を動かす才とその人柄は、すでに多くの者の口へと上るまでになっている。

 槇は寸の間何かを考える仕草をした後、悪戯っぽい表情で口を開いた。


「そうだなあ。燦の頼みも聞いてあげたいが、鴒に寝込まれてしまったらまた菊花に睨まれてしまう。これは困った」

「なっ……兄上!」


 鴒が不意を突かれたように顔を赤くする。

 菊花は、楊家と付き合いのある家の跡取り娘であり、鴒の生まれた時からの許婚だ。今は都に住んでいるが、度々この屋敷にも遊びに来るため朱丹もよく知る存在である。

 様々な思惑が入り乱れる朝廷において、親同士により決められた許婚とはいえ、鴒も菊花も嫌々それを受け入れている訳ではないことは、誰の目にも明らかなことだった。

 今までの冷静さが嘘のように慌てふためく鴒を見て、こうして頬を染めるとますます、鴒様も齢十四の少年というよりは年頃の少女のように見えるのだから困る、と朱丹は思った。


「菊花は関係ありません!」

「そう頑なになってくれるなよ。許婚じゃないか」

「か……彼女にも相手を選ぶ権利がありますよ!」

「当然、お前にもね」


 からかうように向けられた言葉を華麗に無視し、とにかく、と鴒は兄を見据えた。


「外へ出るのは準備が済んでからにして下さい。私もお手伝いしますから」

「そうか! お前が手伝ってくれるのならそうしようかな」


 のんびりと返す槇を見つめほっと息をつくと、鴒は朱丹を手招きして言った。


「いつも悪いね、朱丹」

「いえ……お身体はもう良いのですか?」

「兄上と燦が祓ってくれたからね。大丈夫だ」

「それは良かったです!」

「ありがとう。それでは私は兄上を手伝う。お前は悪いが燦の衣合わせについてやってくれるか? 市は、それからだ」

「ええ、もちろんです!」


 苦労性の二人はいつも通りそっと脱出経路を塞ぐと、それぞれの仕事へと取り掛かった。

 それは何でもない、いつもと変わらぬ日常の光景だった。






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