01.春風
1週間に1話ペースになりそうです。
ゆっくりまったり、読んでいただけたら嬉しいです。
彼女は名を持たない。
それは綿々と続く楊家の歴史中、彼女を語る者がいないということでもあった。
―――
春。とある快晴の日。
代々鳳黎国の祭司を輩出してきた楊家の邸宅は、いつになく騒然とした朝を迎えていた。総毛立つような緊張感の中、普段ならば誰も立ち入らぬ長い回廊を一人歩き続ける楊梼にも、そのざわめきは聴こえていた。
――――まだか。まだ産まれぬのか!
苛々と壁を打ちかけた拳を、楊梼は意志の力で抑えた。
当主である楊梼の他、ここへ立ち入る資格がある者はいない。したがって誰もその姿を見ることはないとはいえ、一時の感情に任せた振る舞いをすることは己が許さなかった。
静かに息を吸う。
壁にかけられた先祖たちの肖像と目が合い、昂りかけた心が落ち着きを取り戻した。すると、先のことを考える余裕が生まれた。
――――今回は女だと良いのだが。
楊家にはすでに二男がいた。
次男は母親に似て病弱だが、長男は楊梼によく似た、次期当主に足る聡明さを持つ子だった。
跡継ぎがいる以上、いたずらに直系男児を増やし、血の濃い分家を作ることは避けたい。
――――ただの血ではないのだ。楊家の血は、古く呪われた祭司の血は……
「楊梼様!」
若い男の声が楊梼を思索の淵から引き戻した。
回廊の外へ出た楊梼を待っていたのは、医師の助手を務めていた青年だった。
「産まれたか?」
期待を込め口を開いた楊梼を見つめ、面倒な口上を省略することが許されていると知った青年は、顔を上げ満面の笑みを浮かべた。
悪い知らせではない。楊梼はほっと胸を撫で下ろした。
「ええ!それはそれは……」
だがそれに続く言葉は、楊梼を少なからず落胆させるものであった。
―――
楊家の三男、燦は今年で八つになる遊び盛りだ。
「燦様! 燦様、どこですか!」
お付きの侍女の声に、燦は梢の上で微笑んだ。
(ここなら絶対、ぜったい見つかるまい)
遠ざかる声を聞きながら息をつく。遅れて枝の上までやってきた朱丹を引き上げると、燦は再び満足げに微笑んだ。
「遅かったじゃないか。 待ちくたびれたぞ」
「私が遅いのではなく……燦様がお早いのです……」
息を切らし幹に寄り掛かった朱丹が小声で返した。
「だいたい燦様は……。 少し目を離した隙にいなくなってしまうんですから」
「だって、退屈だろう? 兄上の儀なのだから、私がどんな格好をしていようと気にする者はいないだろうに」
「駄目ですよ、槇様のご兄弟なのですから。 儀では燦様も、それなりの格好でそれなりのお役目を果たさなければなりません」
「律儀だなあ、朱丹は」
燦は大きく伸びをした。
燦の生家である楊家の屋敷は、都を一望できる小高い丘の上にある。都では今日、市が立っているようだった。色とりどりの屋台が並び、街中が活気あふれる人々の姿で賑わっている。
「よし朱丹! 今日は都に行こう! 市が立っている!」
「いけません!」
「堅いなあ、お前は。 良いじゃないか少しくらい」
戯れに拗ねてみせると、生真面目な朱丹は困った表情で口を開いた。
「明日の儀は、鴒様や燦様、楊家の今後にも関わる大切な儀なのですよ」
「だからってどうして、前日から衣装合わせなんかしなきゃならないんだい」
「仕方ありません。 楊家に生まれた者の責務ですから。 それに、花冠の儀はいずれ燦様もお通りになる道です」
「私は兄上とは違うよ。 楊家も鬼も継がない」
「またそのようなことを」
春の月が満ちる明日、燦の長兄である槇は“花冠儀”と呼ばれる成人の儀を迎える。
この国の者ならば誰もが経験する花冠儀。だが代々この鳳黎国の祭司を輩出してきた楊家においては、その儀の意味合いも役割も大きく異なる。
楊の一族は、鳳黎国と同等かそれ以上の歴史を持つ古い一族である。
楊家は広大な領地も莫大な資産も、帝との縁戚関係も持たない。良く言えば由緒正しき旧家だが、悪く言ってしまえば古いだけの小貴族である。
しかしながら今日、朝廷に仕官する者、否、都に住んでいる者で、その名を知らぬ者は一人もいない。
楊家と他貴族を決定的に分かつもの―――それが“鬼”と呼ばれる妖の存在であった。
その血筋故に大きな妖力を持つ楊家の当主は、一定の年齢に達すると“鬼”と呼ばれる妖との契約を結ぶ。そうして朝廷に仕官し、国と民を守るため、あるいは国の祭祀を取り仕切るため、その力を行使する。
楊家の次期当主たる槇が楊家の鬼と契約する儀。それが明日に迫った花冠の儀なのだ。
「槇様はどの鬼を式とするのでしょうかね」
「さあ……兄上次第だ」
「あまりご興味ありませんか? 燦様はせっかく、お見えになるというのに」
燦は少しだけ笑みを浮かべた。
「私だって興味はあるさ。 けど、どんな鬼と契約するか、その力をどのように生かすか、それはやはり、兄上次第なんだ。 兄上のことだからきっと凄く強いモノが来るということは分かるけれど」
「強いモノですか。 私にも見えたらなあ……」
「楊家の鬼くらいの妖であれば、お前にだって見えるさ」
「本当ですか!」
「しっ! 声が大きい!」
燦の言葉にはっと口に手を当てた後、目を輝かせた朱丹が小声で問うてくる。
「本当に、妖力のない私にも見えるのですか?」
「ああ、本当だよ。 だけど意外だなあ。 お前は怖がりだと思っていたんだ」
「わ……私だってもう十になったのですよ! いつまでも怖がりなどと……!」
朱丹の言葉に、燦はにやりと笑みを浮かべた。
「そんなに見たいと言うのなら、今見せることもできる。 昨日、水仙師から習ったんだ」
「本当ですか!」
瞳を輝かせる朱丹はその好奇心のせいで、燦が浮かべる人の悪い笑みに気が付かないようだった。
人間は誰しも生まれつき妖魔と関わりを持つ力、つまり妖力を持つ。だが妖を使役できるほどの強い妖力を持つ者は稀で、多くの者はその存在を感知することもできない。
力のある者には見えるが、ない者にとっては不可思議な自然現象の一部でしかない。それが妖というものであり、その存在はいわば公然の秘密のようなものだった。
「ちょうどここにも妖がいる。 見たいか?」
「はい!」
「分かった。 少し待つんだ」
確かに存在していると言われながらも、自分には見ることのできないモノ。
朱丹がこのように興味を惹かれるのも、当然といえば当然であった。
燦は胸元から紙を取り出すと、すらすらと朱丹には理解できない文字と図を描き、掌に乗せた。仕上げに自分の血を滲ませると、燦は朱丹の手を取った。
「この上に手を乗せて」
「こう……ですか?」
「そう。 それから最後に……」
燦は二つの掌に挟まれた紙にふっと息を吹きかけた。目を見開く朱丹の前で、紙は青白く光を放つ。
そうして唐突に、朱丹の掌の中へと消えていった。
「あれ……燦様?」
「終わりだ、朱丹。 あそこを見てごらん」
言われるまま梢の横へと視線を移した朱丹は硬直した。
――――なんだ……あれは……?
そこには梢と同じ高さの青黒い何か――――今まで見えなかった何かがいた。
「あれは……」
「この家を守る妖だ。 いつもここで屋敷の番をしている」
「いつも?」
「少なくとも私が外で遊ぶようになってからは、いつもここにいる」
朱丹は食い入るようにその妖の背中を見つめた。
――――こんなモノが、いつもこの場所にいたなんて。全く知らなかった。
この大きな妖の名を知りたくなり、振り向いた朱丹は小さく息を呑んだ。
「燦様のお体が……!」
「え? ああ……そうか。 朱丹にはこれも見えないのだったね」
そう言うと燦は自分の体を指差した。そこには今まで見えなかった光、体を中心に流れるように燦の体を取り巻く青色と黄金色の光があった。
「この青みがかっているのは私の“力”だ。 金色の方は私の命の光」
「命の光……ですか?」
「そう。 自分を見てごらん」
促されるままに自分の体を見下ろしてみる。
「ああ……本当に……!」
そこには燦と同じ金色の光と、僅かながら見える赤色の光が見えた。
指先を目の前に持ってくる。輝く金と赤の光が太陽に照らされたそれは、見たこともない幻想的で美しい景色だった。
「朱丹の力はあまり強くはないけれど、綺麗な赤色をしているんだ。 だから父上はお前を拾ってきた時、朱丹と名付けたんだよ」
「そう……だったのですか……!」
朱丹はもと、都の孤児だった。物心つく前に親に捨てられ、自分の名前も生まれた日も、両親の顔すら知らずにいた。
ちょうど五年前、当時五歳ほどの年齢だった朱丹は、弱り切って屋敷の前に倒れているところを楊梼に保護された。手厚く看護された後、行く当てのない朱丹は屋敷で雇われることとなり、いつしか燦の遊び相手となった。
初春の寒さの中ですべてを諦めきった朱丹にとって、それは信じられないような幸運だった。
指先の赤い光を見て、朱丹はその幸福を思い出す。
――――見たことも感じたこともない世界。あの時の自分も、こんな風に毎日心が躍った。
――――これを燦様は、生まれてからずっと目にして生きてこられたのだな……。
ふと、我に返る。燦の右手に金色の光が集中しているように見えたのだ。
「燦様の右の手が、随分明るいように見えるのですが?」
「これはさっき傷をつけたからだ。 少しだけ他の場所より命の光が多く漏れ出しているから」
「た……大変じゃないですか!」
「はは。 朱丹は心配性だなあ! そんなことよりも、ほら」
燦が大きな妖に向け、吐息をかける。心なしかその顔には悪戯をする子供のような笑顔が浮かんでいた。
突然、青黒い妖が何かに気付いたかのように振り返った。その顔を見て、朱丹は腰を抜かした。
「さ、さ……燦様っ! め、め、目が……っ!」
「ははは! 引っかかったな朱丹! この妖は百目だからね」
妖が枝を掴み、梢が大きく揺れる。燦の隣で枝に掴まっていた朱丹は悲鳴をあげた。
「あっ――――燦様っ!」
燦がまずい、と思ったときにはもう、木の下で青ざめた侍女と目が合ってしまっていた。
お降り下さいませ!と甲高く叫ぶ侍女を見下ろし、燦はしがみついてきた朱丹をわざとらしい不機嫌顔で見つめる。
「見ろ、見つかってしまったじゃないか」
「も……うしわけありません……っ!」
真面目で舌足らずな遊び仲間の謝罪を聞くと、燦は堅い表情を崩し大きく笑い声をあげた。
「まったく、朱丹はやはり怖がりだな。 大した高さじゃないだろうに」
「ですが……」
「ですが、何だ? 妖に驚いたか?」
朱丹は口ごもりながら俯いた。そうして、自分が燦にしがみついていることに気が付くと、恥じたように顔を赤くした。
「燦様! 危のうございます! お降り下さいませ!」
「分かっている! 今降りる!」
心配性の侍女に返事をし、燦は木の枝の上に立ち上がる。
「大丈夫。 悪さはしない」
「燦様は、ずっと、この景色を見てきたのですね」
「ああ、そうだ」
「その……。恐ろしくは、ないのですか?」
「恐ろしいものは恐ろしい。 でも、もう慣れてしまったよ。 それが楊家の血だからね」
それに、と燦は微笑んだ。
「他の人には見えない美しいものだって、見ることができるんだ。 そうだろう?」
降りるよ、と声をかけ、するすると地面へと向かう燦を見つめる。あっという間に地面に足をつけると、燦は澄んだ黒い瞳を朱丹へと向ける。
その瞳を見ていつも、ああこの方には敵わない、と朱丹は思うのだった。