00.滝壺
「ミズ!」
美しい月を背にして、精悍な顔立ちの男が言う。
声が聞こえたわけではなかった。そもそも、聞こえるはずがないのだ。
辺りに充ちる水飛沫と轟音は、人の声など簡単にさらってゆく。声だけではない。命も、人の想いも、だ。
だから、ミズはその呼び掛けに答えることが出来なかった。
「ミズ、まだ遅くはない!一緒に生きるんだ!」
次に男の声を揺れる水面越しに読んだのは、ミズがその長いとは言えない生の、最期の息を吐き出している時だった。
残酷な嘘だ。ミズは微笑んだ。
「ミズ!待て!俺は……昔から……っ」
その先は言わせない。
男が歯を食い縛る。押さえ付けた胸から、花が咲いたように鮮血が迸っていた。
ミズは男の体から長剣を引くと、そっと目を閉じた。
数多の想いが、言葉が、脳裏を過ぎる。その中の一つ、渦巻くような過去へ、ミズは指を伸ばした。
懐かしくはない。
戻りたいとも思わない。
ただ、よく薫る思い出だったと思うだけだ。
かつてはこんな想いがあった。
こんな言葉を知っていた。
得ることも与えることもなかったその言葉を、想いを、ミズは沈んでゆく意識の中、しっかりと抱き締めた。
その言葉は、守るべき人を作る。その想いは、人を弱くする。
――――だからミズは、男を憎んだ。