参−池田屋事変・前編−
「出動だ」
近藤のその言葉に、土方は頷いた。
‐池田屋事変・前編‐
「…騒がしくなってきたね」
先程から足音が耐えない屯所内で、沖田が呟いた。出動命令が出てからずっとこの調子だから仕方はないが。
「ッ…ケホ…」
「…風邪か?」
何度か咳き込んだ沖田の背を擦り、斎藤は眉根をひそめた。
「ん。大丈夫」
「それならいいが…」
「申の刻までに祇園会所に集結せよ。無論羽織は無しだ。装備は別に集合場所に
搬入する」
これが、下された命だった。
「ハジメさん、今何刻?」
「…未の刻を少し過ぎた所だろう」
ふぅんと言葉を返すと沖田はつまらなそうに寝転がった。そのまま天井に指を突き出すと何やら数えだす。
「…何してるんだ?」
「染みを数えてまーす」
沖田らしいその答え方に少しばかり肩を落とし、真似するように沖田の横に寝転がる。腕を頭の後ろで組み、目を閉じた。
「…のどかだな」
「今だけですよ…ゴホッ…」
「…医者に行かなくて良いのか?」
「行ってる暇無いでしょ」
――嫌な咳だ。
喉の奥で啖が絡まっているような咳。ただこれだけならそんな嫌な事を考えたりはしない。
アイツもそうだったから
何時も咳き込んでて。
もっとも、俺がアイツの病名を知ったのは斬った後だったが。
――労咳。
不死の病と言われているそれと同じような症状だから。
「…沖田…」
「ん?なに?」
屈託の無い彼の笑みに、つい言葉を失う。
もし労咳じゃないのかと聞いたら…何と答えるだろう?
笑ってまさかと言うだろうか
それともこの笑みが曇るのだろうか
「…ハジメさん?」
「あ…」
「何を、考えてたんですか」
「…何でもない」
「そんなワケないだろ」
急に厳しい口調で責められ、思わず沖田を見た。
何時もような優しい柔らかい表情ではなく、厳しく、そして何処か辛そうな表情。
「僕たちの役に立ちたいとか言って、僕の心が聞きたいとか言って…アンタは何も話してくれないじゃないか!そんな態度取られたらアンタの事信じられなくなるだろ!?僕だってアンタの心が聞きたいだよ!」
一気にまくしたてた為か多少息切れている沖田は、キッと斎藤を睨み付ける。
「…すまん」
「すまないじゃ無いよ…っ」
「……夢を、見てた」
斎藤の言葉に、沖田が顔を上げた。斎藤はまるで目が見えていないかのように虚ろで。
「辛くて…悲しくて苦しくて…嫌な夢だ」
あって欲しくない、考えたくもない、嫌な夢。
「…夢、か…」
『夢』という言葉を聞いて、沖田が懐かしそうに目を細めた。
「最初試衛館にいた頃…九つだったかな。嫌な夢を見たことがあって…子の刻くらいに部屋で泣いてたら土方さんが来てくれたんだ。一晩中抱き締めて背中を擦ってくれて…暖かかったなぁ…」
「土方さんが…?」
思いがけない言葉を聞いた斎藤は、笑いを堪えるのに精一杯だった。思い浮かぶのは鬼副長と崇められる土方。
「…なぁ、沖田…」
「ハジメ…さん?」
「頼むから…」
喉まで込み上げてきた言葉を飲み込んだ。言ってはいけない、と。
「頼むから?」
「…何でもない。そろそろ行かないと遅れるぞ?」
傍に置いていた太刀と脇差を腰に差すと、立ち上がった。
「…ハジメさん…」
「今日は長くなるぞ」
――頼むから…
「…それでは近藤さん達の隊は鴨川の西を、俺たちの隊は鴨川の東を担当する。
四条通りから北上し、宿屋や貸座敷、茶屋を改める」
二分された隊の頭には近藤と土方。そして近藤の下に沖田、永倉、藤堂、武田他隊士数名。
土方の下に斎藤、原田など他隊士数名。しかし土方隊が担当した通りのほうが茶屋や貸座敷が多いため、こちらの方が人数が多い。
「…ハジメさん」
「…?」
キュッと引き締められた唇から、発せられる言葉は、とても心地よい。
「…ご武運を」
「…お前こそな」
出された手を、叩いた。
「チッ…ここもハズレかよ!一体何処なんだ!」
少し乱暴に戸を閉めた原田はそう零した。紙に記されている店の名を消すと、土方が次の貸座敷へ足を向けた。
「見つかりませんね…」
小さく咳き込んだ沖田の背を心配そうに擦った永倉は、店先に灯っている行灯の灯りを見た。
「…一体何処なんだよっ…」
その時だった。前から歩いてくる商人に気付いたのは。
「…こりゃ天の恵みですね」
沖田はさり気なくその商人の横を通り過ぎる。商人は小さく折り畳んだ紙を沖田へと手渡し、闇に消えた。
「どうやら、山崎さんが見つけたみたいですよ」
書かれている文は『池田屋』
恐らく、ここが浪士達の潜伏場所。
「近藤さん」
「行くぞ」
「今すぐにでも古高さんを救出しましょう!」
「宮部先生!」
畳の上に置いていた茶が零れる。宮部は静かに首を横に振った。
「…藩邸がまだ動くなと言っているんだ」
「だからと言って!」
「静かにしろ」
壁に寄り掛かっている優男に感じられる風体の男が言った。言われたように静かにすると下から聞こえてくる騒ぎ声。
そして。
「御用改めである!手向かいいたすにおいては容赦なく斬り捨てる!!」
「なっ…新選組!?」
刃と刃がぶつかり合う音が、響いた。四方から聞こえてくるそれは、止むことのない。
飛び散る鮮血。充満していく血の匂い。悲鳴。
「永倉君に平助は一階を、俺と総司は二階をやる!」
「合点承知!」
頼りない蝋燭の灯りに照らされて、刃が光る。階段を駆け昇る音と、刃がぶつかり合う音が混じり耳が痛い。
「デヤァァァァ!」
無我夢中で向かってくる浪士を右袈裟に斬り捨てる。飛び散った血が頬を濡らした。
「ヤアァァ!!」
「ハァッ!」
後ろから降ってきた刃を防ぎ滑り込ませる。滑り込んだ刃は胴を斬り、そのまま勢い良く空を舞った。
「っ…!」
「なかなか綺麗な太刀筋だねぇ」
はっと振り向くと、男が壁に寄り掛かっていた。浴衣を着流している優男…いや、優男と言うよりも都人と言ったほうが正しいかもしれない。
「あんたは…?」
「長州藩士、吉田稔麿」
体が震えた。今の今まで壁に寄り掛かっていた男が、急に槍を手に掴み眼前まで寄っていたのだから。
「く!」
態勢を低く構え、攻撃を防ごうと刀を振り上げる。振り上げた刀を槍の柄の部分が叩きつけた。その反動で片腕が上にあがり、隙が出来る。
「ハアァァッ!」
「ヤァ!」
突かれそうになったのを脇差を抜き、防ぐ。力一杯弾いて三歩後退する。
――おかしい。
沖田は大きく息を吐いた。
喉の辺りで固まっているような何かが、邪魔をする。始まってまだ半刻も経っていないのにこの息遣い。
「ハッ…吉田さん、でしたっけ…桂小五郎もここに居るんですか?」
「桂は居ない。今頃藩邸にいるだろう」
端正な顔立ちに張りついている冷酷な笑み。
(殺気が…無い?)
吉田から感じられるのはまるで子供のようなモノ。斬り合いを遊びと感じているような…そんなモノ。
「さて…君の名前を聞いておこうかな」
吉田は腰まで伸びた髪を掻き上げると、沖田に向き合う。その視線に答えるように真っすぐ見つめ返し、口を開く。
「新選組副長助勤筆頭――沖田総司」
沖田の名を聞き、一瞬驚いたような表情を浮かべたが、直ぐに楽しそうな表情に変わった。艶微笑を浮かべ、槍を構える。
「俺は幸せ者だねぇ…沖田総司と手合せ出来るなんて…」
「…それは良かった」
「運命、かな」
同時に駆け出し、交差する。一瞬だが時が止まり、一階の騒ぎが良く聞こえてきた。
「…終わりです」
「あぁ…そうだ…な…」
ガラン、と大きな音を立て、槍が床に転がる。それに重なるように吉田が倒れこみ、下から真っ赤な血が溢れ出ていた。
「…こんな哀しい運命なんて…僕は嫌だよ…」
一気に襲ってきた嘔吐感。手を当て、咳き込んだ。
床に血が飛び散る。掌に広がっている血。唇の端から伝う、赤い筋。
口の中に広がる、鉄錆のような味。
「…う、そ…だよね…」
血まみれの掌を握りしめ、呟いた。目の前が暗くなったかと思った途端に、沖田の体が床に倒れた。
「クッソ限りがねぇ!!」
四方から襲ってくる刃を防ぎ斬り捨てながら永倉が悪態を吐く。自分の後ろで交戦していた藤堂と背を合わせ、荒い息を整えた。
「ちょっとちょっとちょっと〜っ…まだ居るのぉ〜?勘弁してよっ」
「それで勘弁してくれる敵さんなんて居ないだろうが!」
前から斬りかかってきた男を力一杯突く。刀を引き、体から抜くと顔に生暖かい血が降り注いだ。
「うわ気持ち悪ぃ!」
「オイ新八っ!こっちにまでかかったんだけどっ!」
言い、藤堂は鉢金を外した。それを浪士が見逃す筈無い。
「デヤァァァァ!!」
「え…!?」
目の前が真っ赤に染まる。浪士の刀は、藤堂の額を斬り空を閃く。
「平助――っ!!」
永倉は平助を斬った相手を斬ると、崩れそうになった藤堂の体を支える。
流れた血が目に入ったのか目が開けられない藤堂を物陰まで引き摺っていくと前に立ち
刀を振るった。
「見つかったと!?」
「はい、近藤局長の隊が浪士と交戦中です!」
監察方の隊士からの報告に緊張が走った。土方は呼吸を整えるように吸った息を
「場所はっ?」
と、吐く。
「三条小橋西入ル、長州定宿池田屋です!」
「池田屋か…行くぞ!」
土方の言葉に、応と隊士が意気込む。
…何だ…?この嫌な感じ…
斎藤の脳内に浮かんでは消える映像。心臓が荒く叩いているのがよく分かる。
…沖田…頼むから…