壱 −壬生浪士−
壬生村の八木家に腰を下ろしている浪士たち。人々は彼らを『壬生浪』と呼
んだ。
‐壬生浪士‐
「酒はそのくらいにしてください、芹沢さん」
「うるせぇ!」
ガンと、瓶子の割れる音が耳に付く。欠片が床に飛び散り、沖田があーあと何と
も間の抜けた声を発した。
「おい近藤…お前誰にモノ言ってんだ?あぁ?」
悪態を吐き、芹沢は横に置いておいた鉄扇で近藤の頬を二回、軽く叩いた。だが
それに怯む様子をまったく見せない近藤は、射るような瞳で芹沢を見る。
「他の者に悪影響があったらどうするんですか?」
芹沢は、背後から響いた凛とした声に、不快そうに眉根を寄せる。
「…土方…」
「軽率な行動は控えていただきたい。」
「トシ…」
長めの前髪を真ん中で分け、着流しの男―土方歳三は口元に笑みを浮かべた。
「ねぇ?芹沢さん」
芹沢はギッと土方を睨み、瓶子を手に持ち立ち上がる。ドスドスと大きな足音を
立ててその場を立ち去った芹沢に舌を出した沖田の頬を、斎藤が戒めるように引
っ張った。
「ひっ、ひはひへふよはいほうはんっ!」
「何言ってんだか分かんねぇよ」
「痛いってよ。離してやれ」
「…ハイ」
言われ手を離すと、沖田は多少赤くなった頬を擦った。大きな黒い瞳が、斎藤を
軽く睨みつける。
「にしても…芹沢には困ったものだな」
困ったように髪を掻き上げた土方は溜息を吐き、うなだれた近藤を横目で見た。
慰めるように肩を叩くと土方は芹沢の既に見えなくなった背を睨み付けた。
「この間の大阪での問題もだが…もうどうしようもないぜ?」
「……トシ」
遠回しな土方の言葉に、近藤が顔を上げた。
『芹沢を殺す』
遠回しに、彼はそう言っていた。苦悶の表情を浮かべた近藤は、小さく頷いた。
(…あれは、俺のせいか…)
斎藤は大阪という言葉に、眼を細めた。
「ハジメさぁ〜ん…大丈夫ですかぁ?」
「〜〜〜ッ…」
大阪。舟涼みに芹沢、新見錦に連れ出された斎藤、沖田、原田、永倉たちは、舟
上で口にした草餅により腹痛を起こした斎藤を何処かで休ませるべく歩を進めて
いた。
「でもよぉ。何で同じモン食ってお前だけアタるんだ?」
不思議そうに頭を掻いた原田を斎藤は軽く睨んだ。
「…俺は原田さんみたいに頑丈にできてないんだよ…」
むっと顔を歪ませた原田は、斎藤の腕をつねる。真っ青な顔をして痛みを堪えて
る斎藤に沖田は笑った。
「うるせぇぞ斎藤、原田。病人だったら病人らしくおとなしくしてやがれ」
「ほらぁ怒られ…痛っ!」
よそ見をしていた沖田が、急に大声を張り上げた。尻餅をついた沖田に、大きな
影が差す。
「なんだ?最近の侍は徒党を組まんと道も歩けんのか?」
上から降ってきた声に、沖田が顔を上げる。大きな男が、厚い唇を歪ませた。
「退け。往来の邪魔だ」
その男の後ろで、同じような体格の大男数人が、にやにやと笑っている。
「――退くのは、貴様らだ」
「あ?」
黙ってその状況を眺めていた芹沢が口を開いた。冷たい瞳で大男を見、笑みを零
す。
「邪魔だ」
「はっ!この熊川熊次郎!どかせるものならどかせて…」
光の筋が、男を切り裂いた。光に煌めいた刄は一瞬にして血の色と匂いを帯びて
空を斬る。
「関取!」
「え、相撲取りかよ!」
右の横腹から、左の肩まで刀傷が伸びていた。おそらく、既に息絶えているだろ
う。
「っクソおぉぉ!!」
頭に血が登ったらしい力士が、一斉に襲ってきた。原田は支えていた斎藤を新見
に頼むと刀を抜いた。永倉も一人、拳で殴り付ける。峰打ちが力士の鳩尾を打っ
た。ぐえと蛙が潰れるような奇声を発し、一人、二人と地に倒れてゆく。
斎藤は虚ろな瞳で、それを見つめていた。
「っ…」
「まだ痛いですか?」
遊廓、住吉楼で体を休ませていた斎藤は、あまりに治まらない腹痛に体を丸めて
いた。薬を運んでくれた沖田の表情は、心配半分興味半分…といった所だろうか
。
「ハジメさんって案外繊細なんですねー。意外意外」
一人納得したように頷いた沖田は自分用に持ってきたと見える饅頭を口に放り込
んだ。
「ハジメさんも食べます?」
「甘いのは苦手だ…」
そう口にすると、斎藤は沖田が持ってきた薬―千振を飲む。
「っ…苦…」
「良薬口に苦し、ですよ」
「出てこいコラァ!」
急に聞こえてきた大声に、斎藤と沖田は同時に耳を塞ぐ。格子から外を見ると先
程の力士たちと仲間がたくさん。
「うっわぁ〜…仇打ちってヤツ?」
「…だろうな」
ドタバタと騒がしい音がし、芹沢が襖を開けた。くいと顎を動かすと芹沢は階段
を降りる。
「…出動、か」
「不逞力士の取り締まりですね」
立ち上がろうとした斎藤に小袖をかけた沖田は、首を横に振った。
「沖、田……?」
「ハジメさんは残って」
「だが…」
「腹痛でやられましたじゃ洒落にならないでしょ?」
茶化すように言った沖田を見ると、斎藤は渋々首を縦に振った。
「じゃ、行ってきますね」
沖田は木刀を掴むと、襖を開ける。
「…沖田…」
「はい?」
「怪我…したら承知しないからな」
沖田は一瞬驚いたような表情をすると、にこやかに微笑んだ。
「さ、芹沢さん。もう一杯」
宵の頃、角屋での宴席。芹沢は勧められるままに盃を仰いでいた。特に怪しむ素
振りも見せていない芹沢は泥酔状態に陥り、呼んだ籠で先に屯所へと戻った。
隊士達も殆どが酔い潰れており、いびきを立てているものもいる。
闇は、静寂の中動きだす。
「芹沢はあとどの位で屯所に戻る?」
「籠だと道が限られるからね…大体あと半刻程だろう」
土方の問い掛けに、山南は冷静に答えると住吉楼を出る。二人の後を続くように
沖田と原田が続く。
数歩進んだ所で、皆の足が止まった。
「あ……」
「斎藤君…」
てっきり酔い潰れていたのかと思っていた斎藤が、刀の柄に手をかけ、そこに立
っていた。斎藤はゆっくり顔を上げると無表情のまま口を開いた。
「…芹沢さんを、斬るのか」
「……はい」
「俺も、連れていってくれ」
「駄目です」
何故、と目で訴えると沖田が溜息を吐いた。
「…貴方まで…汚れることはない」
斎藤の表情が、固まった。
「行くぞ」
――――……
「沖田…」
お前は――
『鬼』に、なる気か?
文久三年 九月十八日深夜
壬生浪士組…名を改め新選組筆頭局長芹沢鴨
何者かの手により惨殺される
「…昨夜、芹沢鴨局長が何者かに襲われ命を落とした」
翌日、隊士全員を集め近藤が口にした話はこうだった。
昨夜泥酔し屯所に戻った芹沢は、待ち構えていた不逞浪士に惨殺された。表向き
は病死として扱い、会津にもそう連絡する、と。
『…貴方まで…汚れることはない』
(これが…あんた達の望んでいたコトなのか…?)
斎藤はちらと横目で沖田を見る。表情一つ変えずに近藤の話を聞いている沖田。
隣で腕を組んでいる土方、山南。
(だとしたら俺は…)
「俺は……」
「俺は…何だい?」
ふいに後ろからかかった声に斎藤は驚いたように振り向いた。長い髪をきちんと
結い上げている新選組総長、山南敬介。人当たりも良く、北辰一刀流免許皆伝の
実力者。勉学にも秀でており、近藤も一目置いている人物である。
「山南さん…」
「俺は…の続きを聞かせてくれないか?」
眼鏡の奥の瞳が、鋭くなったような気がした。
何時の間にか声に出ていた自分の思いに、斎藤は溜息を吐くと真剣な表情で山南
に向き合った。
「もし芹沢さんを斬ることを初めから望んでいたのなら、俺は抜ける」
真摯に見つめられた山南は一瞬呆気にとられたような表情を見せたが、直ぐに何
時ものような柔らかな笑みに戻る。だが、どこか翳りを見せているその表情に、
斎藤も苦悶を感じた。
「望んでいたわけじゃない…寧ろ芹沢さんは新選組に無くてはならない存在なん
だよ」
「じゃあ何故!」
「あの人は何時か新選組にとって最大の障害になる。…今のうちに取りのぞかな
ければいけなかったんだ」
「っ…そんなの…」
「身勝手すぎる、かい?」
苦しそうに微笑んだ山南に、斎藤は言葉を失った。上ってくる嗚咽を必死に堪え
、斎藤は駆け出していた。
消えかかっている行灯の灯り以上に、心細いものは無いと思う。薄暗がりの部屋
には小さな火が揺らめいていた。
「っ…う……!」
「ハジメさん」
音もなく開いた障子戸に、斎藤の目が移る。斎藤と相部屋の沖田が帰ってくるの
は承知の事実。そこで情けなく泣いていたのも自分。
斎藤は着物の袖で目を擦ると極力沖田の方を向かないように行灯の灯りに目を移
した。
「…ハジメさん。僕はね、十と一つの時に初めて人を殺したんです」
「え…?」
ゆっくりと斎藤の横に腰を下ろした沖田は斎藤の顔を覗き込んだ。驚き、戸惑っ
た斎藤の反応に苦笑すると沖田は淡々と語りだす。
「その時、他流の門人と稽古をしていたんです。そしたら相手が真剣でやろうと
言い出しました。僕は快く承知しました。ちゃんと刃も潰しておいたんです」
「………」
「でも…刺されば死にます。僕は刺さればどうなるかなんてまったく考えずに突
きを出し…相手の人を、殺してしまった」
「…そうか」
行灯に目を移し、沖田は障子…いや、障子の向こうに広がっているはずの夕闇を
見つめた。そしてまた直ぐに視線を行灯に戻し、己の手を握りしめる。
「…ハジメさんが斬るのは不逞浪士だけでいいんです。貴方まで鬼になる事はな
い」
「………だ」
「え?」
キッとキツイ眼差しで睨み付けられた沖田は、少したじろいだ。今まで俯いてい
たため長い前髪に隠れていた黒瞳が濡れている。
「アンタは勝手だ!俺は自分の意志でこの新選組に入隊したんだ!俺は近藤さん
や土方さん…それにアンタの力になりたいんだよ!!なのに…っ…そんなコト言
われたらっ…」
「俺は、どうしたらいいんだよ!!」
「ハジメさ…」
「何が『貴方まで鬼になる事はない』だよ!そんなのアンタが決めるコトじゃな
いっ」
止まらない
「俺は自分の信じるコトをやるって決めてる!」
知らなかった
「アンタ達の役に立ちたいんだよっ!」
自分がこんな思いを抱いているなんて
「ハジメさん…」
「何とか言えよ!」
醜く、哀しい思いが胸を侵食していく
「……頼むから…っ」
苦しい、痛い、辛い
「はっきり言ってくれよ…」
―――カナシイ。
「……ごめんなさい」
「謝って欲しくない!アンタの心が聞きたいんだっ」
「ごめんなさい」
「謝るなっ…」
「ごめんなさい…」
「謝るな……」
「ごめん……」
「謝るなよっ…」
「ごめん…ハジメさん…」
「……っ……」
「…ごめんなさいっ」
何度も謝られた斎藤は、困ったように顔に手をあてた。すっかり乾いてしまった
涙の跡を拭き取るように顔を擦ると、何時も首に巻いているベルトを少し緩める
。
「…俺が初めて斬ったのは親友だった」
「ハジメさん…?」
血が染み込んでいる、異国製であろう革で出来たそのベルトを何度か撫でると目
を閉じた。
「これは…形見なんだよ」
「……ごめんなさい」
「…謝るな…」
「じゃあ、謝らなきゃいけないような事言わないでよ…」
ずずと鼻を啜った音が斎藤の耳をつく。驚いて沖田の方を見ると、沖田の大きな
瞳が潤んでいた。
「ごめん…ハジメさん…」
「沖田…」
差し出された掌を見、ゆっくりと視線を沖田の顔に移す。柔らかく、にこやかに
微笑んでいる彼は斎藤の視線に気付くと恥ずかしそうに頬を掻いた。
「僕を…新選組を助けてくれますか?」
「…!沖田…」
差し出された手を握ると、斎藤もまるで沖田につられるように笑みを浮かべた。
「無論…そのつもりで入隊したのだからな」
「ハジメさん…」
それから数日後――…
「総司ぃ――!!俺の発句集返しやがれ――!!」
「僕は持ってませんよ〜〜!ね、永倉さん!」
「おうよ!な、左之!」
「ウグイスや、はたきの音も……」
「読むなあぁぁっ!!」
顔を湯でダコのように真っ赤にしながら怒鳴っている新選組副長・土方歳三。土
方をからかっている副長助勤・一番隊組長 沖田総司、同二番隊組長 永倉新八、
同十番隊組長 原田左之助。
「あれ?何やってんの。みんなして…」
「おや、藤堂君。…皆、まだ幼気な童ってことさ」
その様子を微笑ましそうに、そして不思議そうに見つめている新選組総長 山南敬
介、副長助勤八番隊組長 藤堂平助。
「元気が良いのは認めるが…ちと騒がしいな」
「ですねぇ…」
新選組局長 近藤勇、六番隊組長 井上源三郎。
「ハジメさぁ〜〜ん!これ持って逃げてくださ〜〜い!」
「え、な、沖田っ!?」
ぽんと走ってきた沖田に渡された『豊玉発句集』と書かれている書物をマジマジ
と見つめ、逃げている三人の後ろから土煙をあげながら走ってくる影。
「斎藤―――ッ!!そいつを寄越しやがれ―――ッ!!」
「ひっ、土方さん!?」
本物の鬼にも負けぬような形相で走ってくる土方に思わず発句集片手に駆け出し
た。
新選組副長助勤三番隊組長
―――斎藤、一