だい きゅうじゅうに わ ~魔王~
パキリ。
音が鳴る。
パキリ、パキリ。
ヒビが、広がる。
パキリ、パキリ、パキリ――パリン!
ガラスが砕けるように、柱が内側から少しずつ崩れた。
「あぁ……ずっと、待っていました。来てくれたんですね――羽黒」
私はゆっくりと辺りを見渡す。
どこか狭い建物の内部のようだ。
これは――牢屋のつもりか。
「ふふ……」
愚かしい。
笑ってしまう。
冥府の心地よい空気を肺に一杯吸い込み、そして吐き出す。
状況は読めた。
現世で陰陽分離の術を打ち破った羽黒たちが冥府に侵攻、それを好機と踏んで今まで大人しくしていた妖たちが反旗を翻した――そんなところだろう。
で、あれば。
「私はそちらに参加することとしましょう。羽黒、あなたはあなたの為すべきことを」
心が――体が軽い。
陰陽分離……その絵空事のような思想はともかく、この状況は私にとっては悪くはない。
いったいいつぶりだろう――羽黒の中に封じていた彼女が私の中に戻ってくるのは。
一歩。
たったそれだけで――どかん、と、爆音を立てて私が入っていた柱を保管していた牢が吹き飛んだ。
そして。
「あぁん?」
「あら?」
目の前に、巨大な肉の塊が座ってこちらを見下ろしていた。
「なんでオメ、ぞどにででんだ?」
むしり、と何かの肉を齧りながら、肉の塊――ベヒモスがこちらを見下ろす。
「…………」
それを私は横を通り抜けようと無言で歩みを進める。
しかし。
「むじずるな!!」
ぐしゃっ!
頭上から降ってきた巨大な手の平に、私は押し潰されてしまう。
肉片と化してしまった私を、ベヒモスは汚いものを触ってしまったという風に手を震わせ、雫を牢があった方向に向けて弾く。
びちゃっと瓦礫に叩きつけられる私の血肉。そこからふう、とため息交じりに肉体を再生させ、私は仕方がなくベヒモスの方に視線を向ける。
「急にびっくりするじゃないですか」
「はじらにもどれよぉ……! オメがおどなじぐじでねえど、しつちょーのげいがぐがおかじぐなるんだ」
「はあ」
聞取りにくい声を頑張って聞取るも、だからどうしたという感想しか出てこない。
「この状況を見て、まだ計画が上手くいくと思ってるんですか。図体の割に脳髄が矮小なのでしょうか」
「あ“ぁ!?」
「計画は既に破綻しています。黒き柱は既に解放され、白き柱もこのとおり。今更私を柱に戻したところでどうにもなりません。それくらい、考えたらわかるでしょう」
「…………」
少ない脳みそで私の言葉を精いっぱい咀嚼し、理解しようとするベヒモス。
そして数秒ほど視線を交わしたのち――にやりと、ベヒモスは笑った。
「だっだら――ずごじぐらい、だべでいいよな?」
「え」
ぐしゃっ!
「…………」
左腕が消えた。
再生は――されない。
「ぐち、ぐち、ぐち……んぐ、げぇぇぇっ」
咀嚼、嚥下、そして汚い曖気。
私の左腕を喰らったベヒモスに対し、私は流石に距離を置く。
数百メートルは離れた――しかし。
「くっ!?」
着地地点。そこで、右足が消えた。
遠くに見えるベヒモスは、私の右足だった肉片を齧りながら、視線をこちらに向けている。
「暴食のベヒモス……」
油断をしていたわけではないが、これは流石に想定外。
まさかあの肉塊の食欲は存在そのものを消滅させるほどだとは思わなかった。喰われた部位はまるで最初から存在しなかったかのような錯覚すら覚える。
「左腕と右足は……うん」
再生には時間がかかりそうだ。肉体の完全なる消滅とはさすがの私も未経験だ。最初からなかったものを一から作り直すとは、いつもの再生とは勝手が違う。
「これは少し、やる気を出さなければなりませんかね」
残った右手に力を籠め、動きやすいように長い銀髪を毟るように切り落とした。
パラパラと足下に散らばる髪を見ながら溜息を吐く。羽黒が褒めてくれた自慢の髪の毛だったが、まあこの際仕方ない。どうせすぐ再生する。
さらに傷口から滝のようにあふれる鮮血を操り、仮の腕脚を生成する。なくとも別に平気だが、あった方がバランスが取れやすい。
「さて、それでは――」
口内の牙に舌を這わせる。
「喰い合いましょう」
どん!
距離を詰める。
ベヒモスの背後に回り、鮮血の左腕に鋭利な爪を生やし、ぶよぶよとした首の肉に食い込ませる。
「ぶひぃっ!?」
豚のように啼き、傷口を手で押さえるベヒモス。私は再び距離を置き、毟り取った肉片を吸収しながら握りつぶす。
「おや」
しゅうしゅうと煙を立て、取り込んだ分と同じだけの質量の太腿が再生した。これは便利だ。
で、あれば。
「ふふ……あはは……!」
アレを全て喰らったら、一体どうなるのか。
どくんと、私の中で『彼女』が疼く。
その欲望を制御してやる義理は――ない。
* * *
「魔王」
私は肉の塊を足蹴にしながら、高揚感を抑えることも忘れて呟く。
「世界各地、様々な神話、宗教、怪奇譚、創作物に登場する存在。その凡そにおいて人を誑かし、魔の道へと堕落させ、欲望のままに行動し世界に破滅をもたらすとされますが」
ぐしゃり、と肉塊を踏み潰す。
既に失った腕と脚は完全に再生している。踏み潰し、取り込んだ肉塊はそのまま魔力として還元され、さらなる高揚感を湧き出させる。
「ひ、ぶひぃ……!!」
肉が削ぎ落され、すっかり細くなった腕を何とか持ち上げ、ベヒモスがこちらに向かって這う。
ぐしゃり。
私の右腕が消える。
「芸がない」
私は宙を舞い、すれ違いざまに右腕でベヒモスの肉を毟り取り、喰らう。
もうベヒモスの暴食による消滅からの再生にも慣れてしまった。あちらもあちらで傷口の再生力だけはずば抜けてはいるが、細身になっても愚鈍であることに変わりはない。後は無駄に巨体な図体を、完全に取り込むまで喰らい続けるだけだ。
「これが陸の王者……獣の王、神の最高傑作ですか。聞いて飽きれますね」
「……ぐぅ……!!」
「そろそろ味にも飽きてきたのでさっさと諦めてくれると助かるのですが」
「だめだ……しつちょー、げいがぐ……まもる……!!」
「愚かな……自分で状況を見ることもできないとは。己で思考し、試行し私と白羽さんを捕らえて見せたレヴィアタンの方がよっぽど有能ですね。いえ、比べるべくもないですか。世界の終焉で生き残るのはどちらか、もう見えたも同然ですね」
「な……っ!!」
吐き捨てると、ベヒモスは表情を変えた。
肉に埋もれて見えなかったソレが、憤怒の物へと変化する。
「な……なめるな……なめるなあああああああああああああっ!!」
「……っ!?」
地を這っていたベヒモスが急に起き上がる。
そして巨大な顎を開き――それが、腹まで裂け、全身が口と化す。
肉が削れど、かろうじて人の形を保っていたベヒモスが完全に人外のそれとなる。
「こ、これは……!?」
背後から急に風が吹き荒れる。
否。
ベヒモスの口が全てを――瓦礫が、建屋が、空間が、次元が、吸い込まれていく。
ありとあらゆる存在そのものが呑み込まれる。
「これは……流石に……!?」
踏ん張りがきかなくってきた。
何とか必死に抜け出そうと試みるが――ぐちゃり、と。
「くっ!?」
両足が、消滅した。
ベヒモスを見れば、腹の大口を開けながら顔に残っている口いっぱいに私の両足を咥えて咀嚼していた。
「しまっ――」
踏ん張りがきかなくなる。
私はなす術なく、ベヒモスの体内に吸い込まれてしまった。
* * *
「げぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ……っぷ」
メキメキと腹の口を閉じながら、耳を塞ぎたくなるような汚濁の曖気を口から吐き出すベヒモス。そしてぶよぶよの肉が戻った腕で口の周りを拭い、そこに至ってようやく「あっ」と自分のしでかしたことに気付いて顔を青褪めさせた。
「は、はじら……ぐっじまっだ……! ど、どうじよう……レヴィに笑われる……ジズに怒られる……しつちょーに……ご、ごろざれる……!!」
ベヒモスは矮小な脳髄で必死に思考する。
何とか誤魔化す手段はないものか。
「ぞ、ぞうだ! がわりのはじらをみづげで……!」
どうやって?
柱を選定したジズが取り憑いてる死神曰く、白き妖の柱が最も苦慮したとのことだった。陽気の強い妖というのがそもそも矛盾しているのだ。とてもではないが代わりなどすぐに見つかるはずもない。
「う、うぅ……! しつちょー、ずなおにあやまれば、ゆるじでぐれるがな……?」
しょぼんと肩を落とし、歩き出すベヒモス。
そのタイミングを見計らい――私はその太い首に爪を喰い込ませた。
「あがっ!?」
「流石に、驚きました」
「な、なんでいぎでるんだ!?」
ベヒモスがぶんぶんと腕を振り回して首に貼り付いている私を剥がそうと藻掻く。しかし私の肉体を喰って……喰ってしまって再生されてしまった醜く太い腕は首の後ろにまで届かずに宙を掻く。
「おで、だじがにオメをぐっだぞ!?」
「ええ、確かに喰べられちゃいました。全身が消滅したのは生まれて初めてです」
「!? な、ならオメどうやで……!?」
「簡単なことですよ――髪の毛から、全身を再生させました」
動きやすいようにとあらかじめ毟り取っておいた、魔力のこもった髪の毛――「動きやすい」とは身動きのことではなく、多少の無茶をするため、あらかじめ準備をしておく、という意味だ。
「ぞ、ぞんなでだらめ!?」
「それが出来るのが魔王というものです」
初めて遭いましたか?
私はベヒモスの耳元で囁く。
「陰陽分離……貴方が恐れる室長とやらの計略で、羽黒の中に封じていた私の力が全て解放されたおかげで出来た無茶ですが」
「は、はなれろ! おでは! おでは……!!」
「私に無茶をさせたのは、貴方で三人目です。その褒美として――私の糧となりなさい」
「!!??」
ずぶり、と。
私はベヒモスの首に牙を突き立てる。
じゅるりと、血が、肉が、魔力が――魂が、口いっぱいに流れ込んでくる。
「い、いやだ……! だべないで……!!」
藻掻くベヒモス。
私はそれを腕の力だけで抑え込み、血溜一つ、肉片一つ、魔素の一つも残すことなく――喰らい尽くした。




