だい きゅうじゅういち わ ~狒々~
「狒々」
羽黒さんが藤村先生に肩を貸し、目の前の光景の何が楽しいのか軽薄な笑みを浮かべている。
「巨大な猿のような姿をした妖怪で、よく女を攫って喰うという。特徴としてはその笑い声。山に響き渡るでけえ笑い声を発しながら襲いかかり、その巨体に見合った膂力で人を投げ、切り裂くという。サトリのように心を読むこともできるらしいが」
「あひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ! あーーーーーーーーっ! ハッハッハッハッハ!!」
「「うわぁ……」」
次元の穴を潜り、冥府に足を踏み入れた途端、僕と梓はドン引きして声を漏らした。
冥府というと洞窟のような暗くい空間を想像していたのだが、太陽が存在しないだけで普通に空がある薄暗い程度の視界に、ちょっとした街が広がっていた。
その街が、目の前で暴れまわる一匹の巨大な猿のような妖怪によって瞬く間に破壊されていっている。
「あれ、ガク様だよね……」
「知らなかったら普通に討伐対象だわ」
「ははは……」
封印から解放されて、まだ力が入りきらない藤村先生が苦笑を浮かべる。
八百刀流五家の一角「兼山」を守護する、神格を与えられた猿神のはずなんだけど、街を破壊しつくさんと荒れ狂うその姿は妖魔そのものだ。
「羞恥、羞恥ぞ……完全に我を忘れているな。同じく一族を守るべき神獣として恥ずかしい限りだ」
藤村先生を救出後に一緒に冥府まで戻ってきてくれたイツキ様が頭を抱える。
「まあ……その、ガク様は今回の件について大層ご立腹であられましたから……鬱憤も溜まっていたのかと」
「それフォローのつもり? クソウケるんですけど」
疾風さんが苦笑を浮かべていると、バサリと大きな羽音と共に目の前に巨大な鴉が舞い降りた。三本足に日輪を背負った神々しい姿――「隈武」を守護するスズ様だ。
「思っていたより早い到着ね。ウケるわ」
「こっちの状況はどうなってる?」
と、背景で暴れまわるガク様から視線を逸らしながら羽黒さんが尋ねる。スズ様はフン、と嘴を持ち上げて空を指し示した。
見ると、遥か上空で有翼の龍と、それと比べると砂粒程度にも見えない黒い点のような何かが激しくぶつかり合っていた。
「あっちもあっちで、我を忘れた澪ノ守と死神の長がぶつかり合ってる。ウケることに今のところ拮抗してるけど、隠し玉持ってる死神の方がそのうち叩き落とすと思うわ。一度負けて柱にされてんのに学習しろって話よね」
「地上は?」
「見てのとおり大混乱。死神上層部以外はさっさと退避、傍観に回ってて、もっぱら天使たちで対応してる。アレを『対応』って言うのかは知らないけど。クソウケる」
そう口にするこのヒトもこのヒトで暴れまわっていたらしいというのはところどころバサついている羽毛を見ればすぐにわかる。本当に、うちの街の神様ってこんなんばっかか。……時々、街の向こうから金色の火柱が上がっているのは見ないことにする。
「そう言えば焔御前から伝言があるわ。『彼女については儂に任せよ』だって。意味は分からないけど伝えたわよ」
「はあ……まあ、兎角、兎角だ。混乱している今が好機。柱を助け出すのであれば今しかあるまい」
「柱の場所は先ほど疾風がお伝えしたとおりです。流石にその周囲はこの混乱の中でも警備もしっかりしているでしょうからお気をつけて。疾風たちもこれより陽動に移ります」
「僕はここに残って次元の穴の安定化に専念するよ。……皆、無事に帰ってくるんだよ」
「起きたばっかりなのにすみません!」
「ありがとうございます!」
ぺこりと頭を下げる疾風さんと藤村先生に手短に礼を口にし、僕と梓はいてもたってもいられず駆け出す。
「梓、その前に少しいいか」
「何よ」
と、羽黒さんが梓を呼び止める。少し相談事があるらしい瀧宮兄妹をその場に残し、僕は目的地――白き神の柱の方へと向かった。
* * *
「ぶひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ! アーッハッハッハッハッハッハ!!」
「あっちだ!」
「早くあの猿をなんとかしろ!!」
「護衛のつもりか……何も考えてないだけなのか……」
ガク様が僕の移動と合わせて暴れる場所を移したらしい。道中、何人かの天使と思しき白衣の連中とエンカウントしかけたが、皆揃って笑い声の方のする方に駆けて行ったのでスルーすることに成功した。
疾風さんから事前に聞いたポイントは居住区を抜けた先の一件の建屋だった。
その地点を中心に天使の警備が厳重になっていたため調べてみたら、中からビャクちゃんの気配がかすかに漏れていたそうだ。現世と違って計画そのものがバレること前提だったらしい冥府の封印はガバガバで、もっぱら天使による人力警備が主だったようだ。
そしてその警備も、街で暴れまわる数多の妖怪たちによって手薄どころか皆無と言ってもいいレベルまで落ちている。死神と違って碌に現場に出てこない天使などこんなものなのだろう。
「ここか……」
指定されたポイントには白い箱状の、手抜きな豆腐建築のような蔵が聳えていた。機能さえあれば他はどうでもいいという無粋なデザインの建造物を目の前に、僕の鼓動が高まる。
クソほど迷惑な計画に巻き込まれ、よりにもよって彼女のことさえも忘却していたこのひと月半――今、取り戻す。
「やはり来たか」
「っ!?」
首の後ろに、ヒヤリと冷たい殺気を感じた。
反射的にその場にしゃがみ込み、手にしていた二丁拳銃を後ろ手に放つ。
ダダン!
ろくに狙いもつけられない威嚇射撃だが、背後にいつの間にか出現していたそいつは距離を取った。
僕は蔵の壁をぴたりと背にし、襲撃者を目で探す。そして、舌打ち。
「キシさん……!」
「ここに来るとしたら貴様以外いないと思っていたぞ、穂波裕」
黒いフードを被り、憤怒の表情を浮かべた髑髏の仮面を被ってはいるが、その声――そして右手首に一本の棘の残ったままの鋳薔薇の刺青は見間違えない。
キシさんは鎌ではなく、その辺で拾ったとしか思えない長い鉄パイプを肩に担いでこちらを睨んでくる。
「すまないが、そこは立ち入り禁止だ。今すぐ現世に帰るなら、全て見逃してやる」
「邪魔をしないでもらえますか? それにもうこんな計画無意味でしょう? 現世側の柱は全部開放しました。こっちでどれだけ柱を守っていても、遠くないうちに術は自壊する……!」
「ならばもう一度柱を立ててやればいい。上空の黒き蛇神はすぐに捕縛される。黒き人の柱も都合よく冥府にいるようだしな。黒き妖はこちらにいる数多の妖から適当に選べばいい。あの悪魔に固執する理由もない」
「キシさん!!」
「…………」
ふう、とキシさんが大きく溜息を吐く。
そして仮面を外し、いつものしかめっ面をさらしてこちらに視線を投げかけた。
「……そうだな。貴様に取り繕っても無駄だろう」
「キシさん……」
「澪ノ守はともかく、瀧宮羽黒を二度も捕縛できるとは考えていない。計画は破綻した。巻き込んだ人外共が望むなら現世に送ってやりたくもある。だが俺も、迎えが来たからどうぞ連れて行けとも言えん立場でな」
言って、キシさんが鉄パイプを棒術のように構える。
「こんなのは茶番だ。だが分かりやすくていいだろう? ――穂村白を助けたければ、俺を倒してからだ」
「……死神の力が封じられた状態で、僕に棒一本で勝てるとでも?」
「嘗めるなよ。少しでも油断してみろ――その命、刈り取ってやる」
言うと、キシさんは棒術の構えのまま――鉄パイプを投擲してきた。
「っ!?」
完全に予想外のその行動に、僕は慌てて飛んでくる鉄パイプを銃弾で弾き飛ばす。
上方に跳ね飛ぶ鉄パイプ。それに視線が一瞬向いた隙に、キシさんが猛烈な速度でこちらに迫ってきていた。
梓に比べればどうということはない速度。
しかし、目の前にまで迫っているのに現実味が薄い――先ほどまで肌を突き刺すように放っていた殺気が、気配が、ない。
殺気の緩急。そのギャップに、反応がギリギリとなる。
「くっ……!?」
繰り出される掌底を銃のグリップの底でなんとか受け止める。重い一撃に、腕が痺れる。
「良い反応だ」
重い殺気が反対側の拳に集められる。そこに本能的な死の恐怖を感じた僕はろくに思考することもできず、発砲する。
銃弾はゆるりと躱され、上空に弾いた鉄パイプが図ったかのようにキシさんの手のひらに収まる。
警戒し、壁を背にしてしまったことが仇となった。後ろに跳べず、突き出されたパイプを避けるために横に転がる――が、今度は壁に突き立てられた鉄パイプを支点に蹴りが繰り出される。
「しっ!」
さらに転がり、蹴りを避ける。
回る視界の中、何とか銃口を向け、引き金に力を籠める。
「キシさん、なんでこんな計画に賛同してるんですか!」
「知れたこと。リン様がそう望むから従うまでだ!」
鉄パイプを回し、銃弾を弾き飛ばす。動体視力もずば抜けているが、この距離で弾くとかどんだけ器用なんだ。
「そのヒトが望むなら何だってするんですか!?」
「何だってするさ。寝食を共にした相手を刈る冷徹な死神になれと言われればなるし、人間性を身につけろと言われれば貴様らとじゃれ合うのも厭わん。……いや、最初は理解できずに困惑していたか」
ブンと唸り声をあげて鉄パイプが頭上に迫る。
体勢を立て直しながら今度こそ後ろに飛び退き、ようやっとまともに狙いを定めて発砲する。
しかし銃弾は、手足のように器用に動く鉄パイプの先で弾かれてしまう。
「最初は訳が分からなかった。だが最後の方は、存外悪くない気分だったぞ」
「最後じゃない!」
二丁拳銃を捨て、代わりにショットガンを具現化させる。これならば銃弾を弾くことなどできない。
「まだ研修は途中でしょう!? こんな計画さっさと片付けて、現世に帰りますよ!」
「……貴様はまだ、俺をそういう風に見てくれるのか」
「当たり前です! 二年のクラス替え、同じクラスになれるといいですね!」
「……はっ。そうだな!!」
引き金を引く。
前方広域に放たれた散弾を避けるように、キシさんが人外の脚力で大きく跳ぶ。
その隙にリロードを済ませ、落下地点に標準を合わせる――が、再びキシさんは鉄パイプを投擲して牽制してくる。
「進級したら部活入りましょう! 文化部でも運動部でも、キシさんなら引く手数多ですよ! 大会でもコンクールでも、何でも出てやりましょうよ!」
「馬鹿め! その頃には流石に研修は終わっとるわ!」
降ってきた鉄パイプを避け、標準を再度合わせる。しかしキシさんはすでに着地を済ませ、鉄パイプを拾ってこちらに肉薄してきていた。
流石に撃てない。距離が近すぎる。
「良いじゃないですか終わってても! 卒業まで通いましょうよ、学園!」
「死神の激務の合間に通学か! 夢はあるが現実味は薄いな!」
迫る鉄パイプをショットガンで受け止める。本物の銃ではできない芸当だ。そのまま、鍔迫り合いよろしく押し合いになる。
「人間と神様が恋人になれるあの街ですよ! 死神が学園卒業くらいしてもいいじゃないですか!」
「確かに! 言えてる、な!!」
ゴツッ!!
鈍い音が額から聞こえてくる。
鍔迫り合いが拮抗してしまったため、お互い、同じタイミングで頭突きをかましてしまった。
視界が揺れる――が、キシさんも同じらしく、足がもつれていた。
「……やりたいこと、やりましょうよ。リンさんが望むことをやるだけじゃなくって、自分がやりたいことを」
「ははっ。悪いがそこだけは譲る気はない。不動の最優先事項だ」
「この石頭……」
「貴様もな。だが……悪くない」
カラン、と鉄パイプが地面に転がる。
訝しげに見ていると、キシさんは「はあ」と大きな溜息を吐いて腰を下ろした。
「騙し騙し動いていたが……やはり、力を封印されている状態の上に、このひと月半、ろくに寝ずに内勤に徹していたツケだな。もうろくに動けん」
「…………」
「降参だ、穂波裕」
諸手を挙げ、敵意が失せたことを示すキシさん。それを見て、僕は手にしていたショットガンを消し――手を、キシさんに差し出した。
「…………」
キシさんは無言で手を握り返し、僕を支えに立ち上がる。
その時ふらりとよろめいたので受け止めてやる。本当に、体は限界で消耗しきっている状態らしい。
「行くぞ」
「え?」
「穂村白を救うのだろう。あの蔵は人外の力がなくば開かん。今、鍵を開けてやる」
「そ、そうだったんですか」
となると、キシさんは計画に加担した死神としての体裁を保つだけでなく、あの蔵を開けるためにここで待っていたのだろう。これを俗にツンデレというのではないだろうか。
「……む?」
「どうしました?」
蔵の壁に手をかけ、何やら念を送っていたキシさんが首を捻る。そして再度念を送り直すと、ぷしっと缶ジュースを開けるような軽い音と共に壁の一部が横にスライドして扉が開いた。
「鍵が開いていた。……何者かがあらかじめ開錠していた?」
「見張りの天使が閉め忘れたとかじゃないですか?」
「流石にそこまで阿呆ではないと信じたいのだが……」
渋い表情を浮かべるキシさん。と、その時。
ちゅどおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉんっ!!
「何だ!?」
「……リン様!?」
上空から爆音が轟く。
何事かと見上げると、遥か上空を飛び回っていたミオ様が頭を下にしまっすぐ下降を始めていた。……いや、あれ、落下か。本当にあの最高位の龍を伸しちゃったよ、リンって死神。
と、ミオ様の姿が消える。
どうやらリンさんが街に落ちる前にどこか亜空間にミオ様をしまったらしい。
「ミオ様、ほんと散々だな」
「穂波裕、俺はあちらの確認に行く! 柱は蔵の中だ! 障害はもうない、後は好きにしろ!」
「あ、はい! ……キシさん!」
「なんだ」
走り去ろうとするキシさんを呼び止める。
「現世で、待ってますから!」
「……ああ!」
頷き返し、駆け出すキシさん。それを見送った後、僕も蔵の中に入る。
「ん……?」
遠くの建物の影に、誰かがいた。
すぐに姿を消したため顔は見えなかったが――青い着物の大男と、赤い着物の女性を連れた、黒衣の男だった。