だい きゅうじゅう わ ~八咫烏~
冥府直轄死神局――総括部。
私は「はあああああ……!」と深い溜息を吐いてペンを置き、目の前の書類の山を机の奥へと押し退けた。
「やっと終わった……」
「お疲れ様、セイ」
「本当に疲れましたよ……」
死神になって約半年が経ち、現場での実地研修も終わりが見えてきたという一カ月半前、急遽研修は一時中断となり、この総括部への異動が命じられた。
何でそんなことになったのかと聞く暇もなく、担当していた月波市周辺地区への立ち入りも一方的に禁じられ、現世の自宅にも帰れなくなり、祐真君とも連絡が取れない日々が続いた。
その間、何をしていたかというと、冥府に急造された実験施設への入居者の登録管理だった。
実験施設と言っても普通の街と同じ機能を有する大区画エリアだ。そこに現世からか無理やり連れてこられた何十万人もの妖怪さんや幽霊さん、神様までもが押し込められ、その一人一人の住民票のような書類の作成を命じられた。
人力で。
流石に一人ではなかったが。
それでも各部署からかき集められた内勤経験者総出で住民票の作成が急ピッチで行われ、私の班の担当分は、さっき私が作った一枚で最後だった。
「ただいまーっと。いやー、ヤバかったわ」
先輩の入れてくれた紅茶を飲みながら一息ついていると、書類の束を抱えた班長が部屋に戻ってきた。
「どうしました?」
「いや、さっき局長室に決裁もらいに行ったんだけどさ、すげーピリピリしてんの」
「キシ補佐ですか?」
「あの方がピリピリしてんのはいつものことでは」
「キシ補佐もそうだけど、それに対する局長がもうピリピリっつかビリビリよ。殺気立ってる。死神じゃなかったら、その場にいるだけで魂削れっちまうわ、あんなん」
書類の束を机に置き、ファイルに閉じながら冷や汗を拭う班長。この妙に軽い雰囲気の人がこんなに焦っているのは初めて見た。
「……やっぱりこの実験施設関連ですかね」
「でしょうね。キシ補佐も知らなかった局長独断の計画だったからなあ……」
窓の外に広がる広大な実験区画を見つめながら、先輩がぎしりと椅子に背を預け腕組みをする。
今回の実験計画の主導はあくまで浄土管理室ということになっている。しかし実際のところ、あそこの室長やそこに連なる尊大な気質の天使たちに細かい作業など出来るはずもなく、実働は私たち死神がほぼ全てを担っている。
そんな大掛かりな計画であるのに、発動のその瞬間まで誰一人として死神は知らされておらず、局長の独断で話が進められていた。
「あの局長のことだから、何か考えがあるんだろうが……」
「それでも、全貌を碌に知らされないままひたすら書類作るの、心折れかけましたよ」
死神歴もそこそこ長いというが、元々実験分野の魔術師であったらしい先輩にとって机に向かってちまちまと書類をまとめるのは苦痛だったらしい。私は生前、バイト以外で社会というものを知る前に死んじゃったからここでの作業が実質初めてのお仕事だったわけだが、なんか思って死後の世界と違うとは感じている。現世とそう変わらないんじゃない?
あーあ、早く立ち入り制限解除されないかな。祐真君に会いたいな……。
「その作戦の全貌なんだが」
と、自称情報通、他称ただの口の軽い班長がずいっと私たちに顔を寄せてきた。内緒話のつもりなのだろうが、地声が大きめなのでそうしなくても普通に聞こえる。
「どうも、世界を二分するための実験らしい」
「「世界を二分?」」
私と先輩の声が重なる。
言っていることがいまいち分からない。
「簡単に言えば、人間とそうじゃない者に分けて、人間を現世、それ以外を冥府で管理する世界を作りたいらしい」
「そんなこと、できるんですか!?」
「馬鹿馬鹿しい。世界規模でそんな大胆なことして、現世の連中がぼけっと見てるわけないじゃない」
「だが、なんせ作戦の首謀者が浄土管理室長だからな……本気で出来ると考えてても不思議じゃない所がまた」
「あー……」
先輩が頭痛をこらえるように眉間のしわを揉む。私は直接会ったことはないが、噂を聞く限りかなり楽観的というか……有り体に言って、持て余されている印象がある。
「それで、そんな非現実的な計画に月波市は巻き込まれてしまったと。ついでにそれに死神局も道連れにされたと」
「そういうこと。組織としては死神局の方が格上でも、責任者がアレだから、局長も断り切れなかった……っていうか、なんか弱み握られちまったんじゃねえかって、上の方じゃ噂になってる」
「あり得ますね。室長がアレじゃなかったらぶん殴ってやりたいところだわ。リン様、可哀そうに」
「先輩、元魔術師の上に内勤歴ウン十年じゃないですか。殴り方なんて知らないでしょう」
もちろん私も知らないが。
「つーわけで、計画の破綻は目に見えてるってのは覚えとけよ。それはそれで威張り腐ってる天使どもを鼻で笑えるチャンスなんだが、このひと月半にやってきたことが全部無駄になるかもって覚悟はしとけ」
「嘘でしょ!?」
先輩が絶叫し、気を失ったように机に額を擦り付ける。班長の最後の一言がよっぽどショックだったのか、起き上がる気配はない。
「計画が破綻したら、妖怪さんたちは現世に帰れるんでしょうか?」
「微妙なところ。全ては計画責任者の室長殿の判断に掛かってるな。元々妖怪は冥府に住んでいた存在なのだからこのまま冥府に留めると言われれば、拒否できる要素は少ない。幽霊については言わずもがな……」
「…………」
確かに、資料作りのため居住区を回って直接話を聞いて回った限り、現世に戻りたいと口にする妖怪さんが多い一方で、幽霊さんたちの大部分が冥府に来れてよかったと安堵する声が聞こえてくるのも事実だ。あの街の性質上、恨み辛みは蓄積されずとも、あてどなくさまよい続け、しかし未練を果たすこともできない幽霊さんたちからすれば今回の計画は救いだったのかもしれない。
「いっそ妖怪たちがクーデターでも起こして勝手に帰ってくれりゃ楽なのに」
「滅多なこと言うなよ。このひと月半、俺たちの指示に従って大人しくしてくれたから、実験区画に娯楽施設も増設できて、居住区外にも出歩ける許可が出たんだ」
「……でも、なんか妙ですよね」
「「うん?」」
班長と先輩がこちらを見る。
「私は生前から月波市にいたので、施設に収容されてる妖怪さんの中には知ってるヒトたちもいるんですけど……ここまで従順に、大人しくしてるのが違和感あるっていうか」
「なに、セイ、そんなやんちゃな子と付き合いあったの?」
「そうじゃないですけど、でも皆が皆、良い子ちゃんってわけがないじゃないですか。妖怪にだって個性がある……っていうか、個性の塊みたいなヒトたちばっかりです。それなのに、現世に戻りたいとは口にするものの、誰一人不満を漏らさず、大人しく従ってるだけって言うのが、逆に怖いというか」
「「…………」」
言われてみれば、という風に顔を見合わせる班長と先輩。二人とも、資料作りにこのひと月半忙殺されて、そこまで思考が回らなかったらしい。
これは何か企んでいると捉えた方が。
と、考えていると。
ちゅどおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉんっ!!
「きゃっ!?」
「伏せろ!!」
「な、なに!?」
突如爆音が、隣接する実験施設の方から聞こえてきた。
班長の指示通り、私と先輩は頭を抱えて床にうつ伏せになる。
その姿勢だと見えにくいが、普段から薄暗い冥府の空を映す窓が、さらに暗くなっているのに気付いた。
黒い何かが、空にいる。
「おいおい、なんだありゃ……!?」
班長が窓の外を覗き込んで青褪める。私はずりずりと這ったまま移動し、窓に近寄ってひょっこりと外の様子を覗き込んだ。
猛禽の翼を持つ巨大な龍が、何かを探すようにこちらを――死神局を見下ろしていた。
そして同時に。
『警告! 警告! この声が聞こえている者は十数えた後に耳を塞がれたし! 警告を無視したことで被害を被ったことに対する責任は我々は負わない! 繰り返す! この声が――』
キンキンと耳に響く声がどこからともなく降ってくる。
局内のアナウンス放送ではない。まるで耳元に直接語り掛けられているような、不可思議な感覚だった。
『十、九、八――』
耳元の声のカウントダウンが始まる。
私は何も考えず、言われるがままに耳を塞いだ。
何が起きるか分からないけど、とりあえず今は言うことを聞いた方がいい――それが、長らく月波市に通った私の出した答えだった。
『三、二、一――』
そして。
『零!!』
嘘つき!!
耳を塞いでいても鼓膜が破れるかと思ったよ!!
* * *
「八咫烏」
班長が窓の外の惨状を眺めながら嘆息する。
「三本足の巨大なカラスとして描かれる。神の声を伝える遣いだったり、導きの神そのものだったり、果ては太陽の化身だったりと、とにかく日本神話じゃ結構重要なポジションにいる神獣だな」
「それがさっき警告を発して回った声の正体だと?」
「多分な。ほら」
班長が指さす先には一羽の鳥が、龍の周囲をおちょくるように飛び回っていた。龍はそれには一切反応せず、相変わらず、それだけで学校の校舎くらいある巨大な目玉を動かしてこちらを見下ろしている。
背景の龍が大きすぎて遠近感がおかしくなるが、あの鳥も龍の鱗一枚分くらいある巨大な姿をしている。遠くて足が三本あるかどうかはよく見えないが、背中に太陽の様に輝く輪っかを背負っている。
そう言えば、月波市を守護する旧家の一角を守っているのがその八咫烏だと聞いたことがある。
「あの八咫烏が警告を発して、施設警備の天使どもが慌ててる隙に間髪入れずに無差別音響爆撃。警備が混乱している間に備えていた妖怪たちがクーデーター……良かったな、お前の希望がかなったぞ」
「本心じゃないですよ!?」
見下ろす実験区画は、人化を解いて本来の姿で暴れまわっている妖怪たちによって既にあちこちの壁や建物が破壊されている。中には上空の龍よりも巨大な鬼なんかもいて、もう遠近感が分からなくなってきている。
そして警備を担当……というか、別にこだわってるわけでもないのに私たち死神から任務をもぎ取っていい気になっていた天使たちは未だに右往左往している。酷いのは最初の音響爆撃に直撃して未だに気を失っている。
「それで、どうします?」
「局長から指示があるまで待つ。元々死神局としては消極的な計画だったんだ。自ら動いてやる義理はない。せいぜい、局内で鼓膜をやられたやつがいたら治療してやるくらいだ」
そういう班長は、完全に窓縁に肘をついて実験区画を見下ろし、完全に物見遊山気分だ。いいのかな、こんなヒトが仮にも小班の責任者で。
『全死神に告ぎます』
と、懐にしまっていた髑髏の仮面から声が聞こえてきた。
内勤だからと油断して外していたそれを慌てて装着し、聞こえてくる声に耳を傾ける。
発信者は死神局の総責任者――リン様だった。
『只今、実験区画で暴動が発生しています。規模は不明ですが収容していた半数以上の人外が加担していると考えると死神局の手に余る事態です。非戦闘員は速やかに退避すること。戦闘員も、警備担当の浄土管理室からの指示があるまで避難誘導に努めてください』
「つまり俺たちから動くなってか。こりゃいいぜ。天使ガンバ」
仮面の下を破顔させながら班長が呟く。
『上空の龍種については私が対処します。衝撃に巻き込まれないよう注意してください。……戦闘が始まったら、私から指示は出せませんので、各々現場の状況を見ながら判断するように。以上』
ぷつりと、仮面を通した念話が途切れる。
どうしましょう、と判断を煽ごうと班長の方に視線をやると、彼は既に避難のためにドアノブに手をかけていた。行動が早い。
「「班長……」」
「何をボッとしてんだ、逃げるぞほら早く!」
どことなくウキウキしながら部屋から出ていく班長に、私と先輩は顔を見合わせて溜息を吐いた。