だい はちじゅうに わ ~レヴィアタン~
「……遅いですね」
腕時計の時刻を確認して、私は小さく呟きました。
時針は既に午後六時半を指しています。待ち合わせ時間は六時半ですが、私は六時過ぎには到着していたので既に三十分近く市民ホール前で待っていることになります。
「遅刻とは珍しい……」
羽黒は連絡もなしに遅刻するタイプではないので、これは何かあったのだろうと考えるべきでしょうか。そう考え、携帯電話を取り出したところで「あら、もみじ?」と声をかけられました。
「白羽さん?」
視線を低く移動させると、白髪に白いコート、白いマフラーに白いランドセルという全身白尽くめの少女が一人立ってこちらを見つめていました。羽黒の妹さんの一人で、彼が各機関を敵に回し冥府と不可侵協定を結んでまで蘇らせた、私と彼が出会う切っ掛けとなった、とても大切な存在です。
「もみじ一人ですの? 今日は羽黒お兄様とデートと窺っていましたが」
「そうなんですが……どうも到着が遅れているようです」
「連絡は?」
「これからですが……うん、繋がりませんね」
「まあ!」
電話口から羽黒の携帯電話が圏外にいることを伝えるメッセージが流れました。これはいよいよ何かあったと考えるべきでしょう。
「もみじ、どうなさるおつもりですの!?」
「うーん、もう少し様子見ですかね。少し前のお仕事で『もみじが独自に動くと被害が増える』と羽黒に怒られたばかりですし」
「……あのダイダラボッチ花火事件のことを言っているのでしたら、本当に反省なさってください」
じとっとした目で白羽さんに睨まれてしまいました。
とある街を襲ったダイダラボッチという巨人の侵攻を防ぐため、私が上空に打ち上げて地面に落下しないようお手玉をしていたのですが、つい力んでしまって爆砕四散させてしまい、地上にダイダラボッチの血肉が花火の暴発ように降り注ぐという事故がありました。いやあ、あれは悲惨な事故でした。街の術者たちがなんとか結界で受け止めてくれたおかげで最悪の事態は避けられましたが、地上から見ると結界に血が付着して空が真っ赤になっていたそうです。
ともかく。
「指示があるまでとりあえず待つこととします。本当にどうしようもない事態が発生しているのでしたら、私の前に八百刀流の方たちが先に動いているはずですし」
「……確かに、白羽にも連絡が来ていませんし、案外ケータイのバッテリー切れかもしれませんわ」
確かに羽黒はよく携帯電話を壊すので、それもあり得ます。
「ところで白羽さんはどうしてこちらに? 白羽さんもコンサート鑑賞ですか?」
「いえ、白羽はユー兄様に本命チョコレートを渡したく! ……ついでにあの女狐とのデートを邪魔してくれようと」
「あらあら」
兄姉に似て発想が苛烈です。
「ですが残念でした。ユウさんとビャクさんはもう会場に入られましたよ」
「なーっ!」
「チケットがないと会場には入れませんので、チョコレートも明日以降ですね。初等部の方があまり遅くまで一人でうろうろしていると御実家にいらない連絡が行きますよ」
「うー……デートの妨害だけでなく、惚れぐす――じゃなく、真心込めて作ったチョコを渡すことも叶わないなんて……!」
本当に、あの兄姉にしてこの妹ありです。
地面に膝をついて項垂れる少女を苦笑しながら眺めていると、ポケットにしまった携帯電話に着信が入りました。発信者名は――瀧宮羽黒。
「あら、ようやく連絡が来ましたね」
「……羽黒お兄様ですの?」
「ええ。……もしもし?」
『もみじ! 上から街を確認しろ!』
「……なにやら剣呑な雰囲気ですが、何がありました?」
お互い冷静になるため、あえて質問を挟む。それを汲んでか、羽黒も一呼吸置いて、続けました。
『ベヒモスだ! どこの馬鹿か知らねえが、俺狙ってベヒモス放ちやがった!!』
「……っ、それでは……!」
『ああ、もう一体もいると考えろ! 最優先は一般市民の安全の確保! 次いで足止め! 可能なら本家にも――』
「白羽さん」
「了解ですわ!」
電話口からこぼれる声を聞き、既に白羽さんが動いていました。
「羽黒お兄様! 本家と大峰への連絡は完了しましたわ! すぐに動き出すかと!」
『白羽、近くにいたか。お前はもみじと一緒に動け、だが無理はするなよ!』
「らじゃりましたわ!」
プツッと、通話が途切れました。それは通話を切ったというよりも、端末が破損して中断されたという印象がでした。
そして同時に、
きゃああああああああああっ!?
ホールの方から、甲高い声が響き渡りました。
コンサートの開演はもう少し先、そして何より今のは黄色い歓声というより――悲鳴。
「白羽さん!」
「向かいましょう!」
市民ホールのエントランスに足を踏み入れると、奥の方から観衆が次々と逃げるように走ってくるのが見えました。この手の騒ぎに慣れている月波市民がこの慌てよう、確実に異常事態。
「はっ!」
白羽さんが床と壁を蹴り、逃げ惑う群衆に巻き込まれないよう天井付近を駆け出しました。私もそれに倣い、体内の魔力を練って宙に浮かんで移動します。
目指す先は、コンサート会場。
人々の頭上を飛び越え、会場に入ると、一足先に到着していた白羽さんが既に殺気を全身に纏っていました。
「てめぇ……何しやがった!!」
「白羽さん!?」
口調が崩れ、瞬く間もなくその場から消えたように駆け出しました。何とか目で追いかけると、既に客の半数以上が退避したホールの座席に、布切れのように垂れ下がる一人の人影。そしてステージには、何か白いものを小脇に抱える青いドレスの女性が立っていました。
「ユウさん!? ビャクさん!?」
座席で倒れているのは、先に会場に入っていたユウさん。そしてステージの女性に抱えられているのはビャクさんでした。
「瀧宮白羽に白銀もみじだな?」
離れているのに、妙に通る声がホールに響きました。
このタイミングでの謎の襲撃――ソロコンサートに呼ばれたアカペラ歌手、エイダ・パーカーの正体は……!
* * *
「レヴィアタン」
とある屋敷を眺めながら、黒い女が呟きました。
「古の神々が創り出した最強の生物。ベヒモスと対をなすようにその性格は冷酷無情であらゆる武器を跳ね返す鎧で覆われている。ベヒモスが陸を支配する王者だとすれば、レヴィアタンは海を統べる暴君。しかしあまりにも危険過ぎて手に負えなくなったため雄は殺され、殖えぬようにされたという。そこからも分かる通り、創りし神にしか殺せない存在」