だい ななじゅうさん わ ~獏~
キシさんが僕らのクラスに編入してきて数日。
歓迎会の時の質問攻めでかなり警戒されてしまって彼自身はお世辞にもクラスに馴染んだとは言い難いけれど、それでも教室の中央の机にキシさんが座っている風景に僕らが見慣れた頃、とある重大なことが露呈し始めていた。
「あー、確率の問題だ。1~10の数が書かれたボールの入った箱がある。そこからランダムで2つ取り出し、戻す作業を3回行う。その時、3回ともボールに書かれた数の積が偶数である確率を求める、という問題だ。キシ、どのように求めればいいか分かるか?」
「そのような無駄な行為に何の意味があるんだ?」
「…………」
「エンドウ豆にはしわのあるものと、ないものがあるんです。しわがないものの方が多いんですが、育てていくとたまにしわしわの豆が出来るんです。それに法則性を見つけて、遺伝学を誕生させるきっかけになった人のお名前を……キシさん、分かりますか?」
「豆にしわがあろうとなかろうと、食えば同じだろう」
「……えっと……?」
「ヨーロッパの地中海は周囲を大陸に囲まれ、中央に海があるという地形をしているんだ。こういう地形では年間を通して比較的雨が少なく、気温の変化が少ないんだ。こういう気候ではブドウなどの作物がよく育つから、イタリヤやフランスではワイン作りが盛んなんだね。実は日本にも似たような地形と気候の地域があるんだけど――キシ君、どこだと思う?」
「それを理解して今後の生活にどのような影響があるんだ?」
「え……」
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば――藤原道長が詠んだ満月についての和歌だ。これの現代訳と、そこに込められた気持ちを……そうだな、キシ、分かるか?」
「言葉は日々変化していくのにいちいちその時代の言葉に翻訳する価値はあるのか? そもそも詠み手の考えなど当人にしか分かるまい」
「……あ?」
* * *
「キシさん!!」
「いい加減まずいって!!」
「……何だ、藪から棒に」
行燈館――夕食を食べ終わって各々自由な時間を過ごしている中、キシさんに割り振られた部屋に僕とビャクちゃんは突撃した。
月波学園に通い始めたキシさんの住まいはどこなんだろうと思っていたら、羽黒さんが姉さんを伝手に行燈館に放り込む手続きをしていたのは流石に驚いたが、それも数日前の話。皆揃っての食事には顔を出してくれるが、それ以外は部屋に引き籠るか、夜中ふらっと外出するかの生活を続けていた。しかも部屋に引き籠って何をしているのかと思えば、特に何もせず――授業で出た宿題すら手を付けず――腕を組んで布団の上で就寝まで胡坐をかいているのだ。
待機モード――そういう言葉が実にしっくりくる。唐突に夜外出する時は死神としての仕事が抜けきれずに見回りに出かけているのだと簡単に予想できるが、それ以外は本当にただずっと「そこにいる」だけだ。
簡単に言えば、彼は勉強に関することを全く、これっぽっちもしていない。しかも昼間の授業での受け答えはアレだし、クラスの皆はともかく、教師陣からの印象は最悪だ。ただそこに座って教科書もノートも開かず、じっと前だけを見て座り続け、何か問われても碌な回答をしない。
「穂波君、穂村さん……ちょっと下宿にいる時に何とか言ってもらえないかな?」
体育祭の一件以来お昼のお弁当を届けるのが日課になった僕とビャクちゃんに、ついに藤村先生経由で職員室からのお言葉が下された。キシさんは当然のように帰りのホームルームが終わった瞬間帰宅するため捕まらないのだ。
「キシさん、一応学園通ってるんですから、ちゃんと授業受けて勉強してくださいよ!?」
「先生たち怒ってるよ!?」
「……何事かと思えば」
今日も今日とて布団と机(当然教材の類は置かれていない)以外の家具が一切ない自室で胡坐をかいて待機モードになっていたキシさんは眉間に力一杯のしわを作る。
「あの授業は俺には不要だ。アレは貴様ら真っ当な学童が進学するためのものであって、俺のような半端物が受ける意味はない。進学するわけでも、ましてや就職するわけでもない。研修という名の任が解かれたら元通りリン様――死神の長の補佐か『導き』に従事するだけだ」
「いや、そうかもしれないけどさ……」
「逆に教員共に伝えろ。俺に話を振るだけ時間の無駄だ。他の連中を指した方が、よっぽどそいつのためになる」
「…………」
取り付く島もないとはこのことか。
とは言えここで大人しく引き下がっても、どうせまた明日僕らに苦情が降って来るだけなのは目に見えている。
「でも、そうは言うけどね」
と、ビャクちゃんが控えめに口を出す。
「あと少しで期末評価があるんだよ?」
「……?」
だからどうした、と言わんばかりに首を傾げるキシさん。期末評価という言葉が何なのか理解していない、というわけではないだろう。自分に一体何の関係があるのか、といった感じか。
「月波学園はね、期末評価で赤点取っちゃうと補習授業があるんだよ? 私も編入したての頃は数学とか理科とかよくわからなくって赤点たくさん取っちゃって大変だったんだあ」
「そうか、それはご苦労なことだ」
「キシ、このままだとほとんどの教科赤点だよ?」
「ふん……何かと思えば。期末テストは二週間後だったな? あのような子供騙しの教え、俺が本気を出せば悠々と赤点など回避――」
「テストで赤点取った時の追試と、評価で赤点取った時の補習授業は別だよ?」
「何……?」
ピクリとキシさんの眉が動いた。
「中間期末テストの結果と、学期中の提出物とか普段の授業態度とかを合わせて点数をつけるのが『期末評価』なんです。極端な話をすれば、点数が多少低くても普段の授業態度が良くてきちんと宿題とか出してれば、評価での赤点は回避できて補習授業が免除されるんです。逆に点数が良くても宿題出さなかったり授業サボったりしてると赤点扱いで補習対象にされます」
今でこそ余裕で赤点を回避しているビャクちゃんだが、編入当時は長年の放蕩生活もあってそもそもの学力が残念で、10点20点とか普通に取っていた。けれど普段の授業態度は良いし宿題も僕らが教えながら頑張って解いて提出していたから、文系科目の補習は回避できていた。
逆パターンは元生徒会副会長の神崎尊さんがよくやらかしていたと聞いている。もみじさん曰く、あのヒト、英語は壊滅的にダメだけど他の科目はそこそこ点数をとれていて、けれどさも当たり前のように普段授業に出ないもんだからほぼ全科目がっつり補習を食らっていた。
編入時期的に中間テストを受けていないハンデに加え、まともに授業を受けず、宿題も提出していないキシさんはこのままだと完全に尊さんコースだ。
「ちなみに補習は義務で、逃げると魔術で捕まって終わるまで補習室に封印されるそうです」
前に経さんがやらかしていたからよく覚えている。宇井さんが爆笑しながら教えてくれた。
「おいふざけるな! 聞いていないぞ!」
「まあ一学期に痛い目見た連中はもう見てるし、今更改めて説明なんてないですよ」
「そもそもこんなに態度悪いとは思わなかっただろうから、編入の時も先生たち説明しなかったのかもねー」
「くっ……」
苦笑するビャクちゃん。なるほど、それは大いにあり得る。まさか仮にも死を司る神が授業サボるとは思うまい。
「流石に中間テストとか編入前の提出物は加味してくれると思いますけど、編入後の評価については自己責任ですよ。明日からでも真面目に授業受けた上でよっぽど高い点数取らなきゃ、今のままだと補習コース確実です」
「補習は結構遅い時間までやるから、その間『本業』からは離れなきゃいけないし……そもそも、補習受けることになったら、そのリン様ってヒト、どう思うかな?」
「はっ!?」
そこに至り、ついにキシさんの顔色が青くなった。本業つっても見回りと報告くらいしか今のキシさんにできることはないだろうけど、それでも見たことない慌てぶりで立ち上がるとどことも知れない亜空間に手を突っ込み、そこから大量の教材を引っ張り出した。
部屋に教科書とか見当たらないしどこにしまってるのかと思ったら、そんなところに……。
「……俺はこれから補習回避のため、勉学任務に入る。貴様らは部屋より退出せよ」
「はーい」
「分からないところがあったら声をかけてくださいね」
ようやっとやる気になってくれたか。
僕たちは肩を竦めながら、せっかく溢れ出てくれたやる気を削がないよう静かに部屋を後にした。
「さて、僕らも勉強しようか」
「そうだねー。テストが近いのは私たちも同じだし。……ね、化学の範囲で分からない所が――」
二人で話しながら廊下を歩く。
この時、僕らは事態を甘く見ていたことに気付いていなかった。
ビャクちゃんは数百年の放蕩の末、現代の勉学がからっきしであったのと同様に――キシさんもまた数百年の間、死神としての生き方しか知らなかったということを。
* * *
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
五人の沈黙が放課後の教室に満ちる。
教室中央の机に置かれた小テストの答案用紙には、いくつもの「0」が並んでいた。
「あのような子供騙しの教え、俺が本気を出せば――何でしたっけ?」
「くっ……何故だ!?」
ダン! と机に拳を叩きつけるキシさん。普段ならその威圧的な挙動にビクリと震えるであろう朝倉が、今日は鉄のように冷たい灰色の瞳を向けるだけだった。
「何がどうしたらこうなんのよ……」
小テストを一枚拾い上げてざっと目を通す梓。期末テストが迫ってきて、今更新しい範囲に手を出すこともないため今日の授業はほぼ全科目で復習を兼ねた小テストが行われたのだが、これは酷い。あんまりだ。
「……数百年遊んで過ごしてた私もこうはならなかったよ? 大人しく補習、受けた方がいいんじゃない?」
「ぐふぅっ……!?」
普段優しい言葉をかけるビャクちゃんにすら見放され、キシさんはガックリと項垂れる。
「現代文――現代文で小テストが行われていたらここまでの結果ではなかったはずだ……!」
「……現文だけ点数取れて、それで何だっていうんですか? そもそも漢字の読み書きは出来たとしても、文脈の読み解きできるんですか? 人の心を学んでくるように言われたキシさんが?」
「…………」
朝倉の言葉に苦虫を噛み潰したような表情を浮かべるキシさん。なんか今日の朝倉厳しいな。
と、それと同時にバチっと電気が弾けるような音がした。何事かと思い見てみれば、キシさんの手首の刺青から棘が一本消えていた。
「あ、研修進んだみたい」
「こんなことでか!?」
「いったいどういう基準何だろう……?」
「己の無学を自覚したからじゃない?」
ごつっ。
梓の無慈悲な言葉についに机に突っ伏した。鈍い音したけど、額大丈夫か?
「……おのれ瀧宮羽黒……! ヒトを小馬鹿にするような呪いをかけよって……! この研修が終わったら痛い目合わせてやる……!」
「それについては全力で応援するけど、でもキシ、一つだけ間違ってる。あんたは小馬鹿にするまでもなく紛れもない馬鹿よ」
「言葉が過ぎるぞ瀧宮梓!!」
「事実じゃん」
言いながら梓は自分のカバンから今日の小テストの答案を引っ張り出す。性格に似合わない丸文字の並ぶ答案用紙は、全て90以上の点数が並んでいた。こいつ死神相手によくマウント取って殴りに行けるな。
「アズサ、大人気ないよ……?」
「大人はどっちかっていうとこっちのヒトだけどね。ちなみにユーちゃん、今日のアベレージなんぼよ」
「え? 八割くらい?」
「穂波裕! 貴様!!」
しまった矛先がこっちにも。
「まあ、その……言いたくはないんですけど」
と、朝倉がカバンを開き、中から初等部向けさんすうドリルもびっくりするくらいペラッペラな参考書を引っ張り出してきた。タイトルは「10日で分かる数学IA」だった。書店でよく見る各項の触りだけを集めた問題集だな。
「今から正攻法で赤点回避は無理だと思うので、せめて少しでも点数を伸ばして印象良くしましょう……? それでも、補習授業は厳しいと思いますけど……」
「くっ……いや待て。正攻法で無理なのであれば――」
「魔術使ったカンニングは強制的に全教科0点&補習確定ですよ」
「…………」
思考回路が頭悪い学生のそれなんだよなあ。いくら死神としての技術が優秀でも、これじゃ研修に送り出されるわけだ。
「ふ……ふふ……!」
と、キシさんが不敵な笑みを浮かべる。
「カンニングなど愚かな行為はせん。とは言え正攻法も厳しいとなれば――それ以外の道を探すまでよ」
「そんな道があったら誰もテストで苦労してないのよ」
「俺は俺のやり方で補習を回避してやろう……全てはこの研修を終え、一刻も早くリン様の元に戻るために!」
言いながらキシさんはポケットからケータイを取り出す。そしてたどたどしい手つきで電話帳を呼び出し、耳に当てながら僕らを置いて教室を後にした。
「大丈夫かな?」
「「まあ無理でしょ」」
「あはは……」
声を揃えた僕と梓に、朝倉は苦笑を浮かべた。
* * *
「獏」
その夜遅く、やっと帰ってきたキシさんは僕を厨房に呼び出して何かピンク系極彩色の巨大な肉塊を差し出してきた。
「言わずと知れた夢を食らう怪異だ。現世のバクと混合され鼻の伸びた生物と捉われがちだが文献や目撃例によっていまいち姿が一致せん。鼻がゾウ、目がサイ、尾がウシで足がトラという現世のバクに近い姿のキメラだったり、はたまた白黒でクマに似ているだとか、夢だけでなく竹や鉄を食うともいう」
「竹食べる白黒のクマってパンダじゃないですか」
「そしてこれが冥府で捕らえた獏の肉だ」
「…………」
そんな気がした。
だってなんか肉から変な薄紫色の靄が溢れてて、その向こうに悪夢で見るようなめちゃくちゃな世界が浮かんだり沈んだりしている。
「……で、これがキシさんなりの道ですか?」
「そうだ。夢とはその者の知識や記憶によって形成される。夢占いなどとのたまって予言する術者もいるが、そんな物は所詮、前世までに積み重ねてきた記憶が完全に消え去っていない者が過去の経験則から未来を予見しているにすぎん」
「科学的なのか魔術的なのかよく分からないです……」
「とにかく、夢とは知識と経験の集合体だという話だ。そして獏はそれを食らう怪異――知識と経験が凝縮された肉を食らえば、俺もまたそれを得られると考えたのだ」
「……医食同源みたいな話ですか? 心臓が悪い人は心臓を食べよみたいな」
それでいくならこのヒトは肉じゃなく脳みそを食べたほうがいい気がする。
「俺は今日より期末テストが終わるまで、この獏の肉のみを食う。穂波裕、そのつもりで食事当番に当たれ」
「…………」
うん、分かった。
やっぱりこのヒト、馬鹿だ。
「それではさっそく夕食と行こう。少しばかり時間は遅いがな」
「はあ……まあ、いいですけど。えっと、普通に肉として調理すればいいですか?」
「ああ。とりあえず一食目は塩胡椒でステーキといこう。複雑な味付けは明日以降楽しむとする」
何で美食屋気取ってんだ。
なんかもう僕自身どうでもよくなってきた。とりあえず期末テストまでの二週間三食、獏のみの偏食でも有り余る大きさの肉塊を調理しやすいよう細かく切り分ける。……うわあ、切り口からも靄が溢れ出てきてさらに気色悪いウネウネした光景が浮かんできた。
「これ本当に大丈夫ですか? お腹壊す……っつーか、なんか呪われそう」
「大丈夫だ、さっさと調理しろ。それに死神が呪いなど恐れるものか」
羽黒さんに研修の呪いかけられたくせによく言う。そろそろ見下しながらこのヒトと付き合っていって良いかな?
細かく切り分けた一塊の筋を切り、肉叩きで薄くしていく。叩く度に靄がぼふぼふ飛び出てくるのがとってもシュール。
「牛脂……は、ないからサラダ油で」
塩胡椒を振って気持ち下味をつけてからフライパンを熱し、油を薄く塗る。そこに獏の肉を乗せるとジュワアッと音だけは美味しそうなしたが、同時に独特のにおいと共に大量の靄が溢れ出て換気扇に吸い込まれていった。
「しまった! 夢がこぼれ出る!」
言葉だけはとってもロマンチック。
「ぼうっとするな穂波裕! 蓋を閉じて肉に戻せ!」
「はいはい」
かぽっ。
術式も何もかけられていないフライパン用の蓋を被せる。すると濛々と立ち込めていた紫の靄は閉じ込められた。これでいいんだ……。
「くっ……出て行ってしまった分は勿体ないが、この場合は仕方あるまい。全体からすればわずかな夢だろう。しかし、なかなか良い匂いであったな」
「ソウデスネー」
独特すぎて、ぶっちゃけ臭いっちゃ臭かったけど。このヒト嗅覚も馬鹿なのかもしれない。
その後しばし待ち、夢が溢れ出ないように注意しながら手早くひっくり返して蓋を閉じる。
「ん……?」
蓋を開けたのは一瞬だったとは言え、さっきより溢れる靄が圧倒的に少なかったぞ? それに何か焼き始めより大きかった気が……。
「…………」
何やら嫌な予感が心中つっかえながらも焼き上がりを待つ。
そして数分後――
「よし、もういい頃か――」
な? と蓋を開けると、フライパンの中にぎっちりと半透明の煮凝り(紫色)のような物体が詰め込まれていた。え、ナニコレ。
「ほう、サシのように含まれていた夢が溶け出して固まったようだな。面白い」
「もはやこれ、ステーキと言っていいのか分かんないんですが?」
フライパンの底の方にあるひときわ色が濃い部分が肉か? 元の質量の十倍以上の物体が錬成されたんだけど。
「よ……っと」
大皿で蓋をし、フライパンをひっくり返す。見た目は膨れ上がったが最初の薄い肉と重さが変わらないというケーキみたいな現象に脳みそがすっかり理解を諦めているが、これで一応完成だ。
「ふむ、では頂こう」
いつの間にかナイフとフォークを準備していたキシさんが、どこからともなく取り出したテーブルセットに腰かけて催促する。ナプキンを首に巻いてて腹立つ。
「では――」
ナイフとフォークを刺すとザクッ! と煎餅かみ砕いたみてえな音が厨房に響いた。あんなプルプルした見た目で、なんでそんな音がするんだ。
そんな突っ込み所など意に介さず、キシさんは躊躇なく一切れ口に放り込んだ。
「……ふむ」
「…………」
気持ち悪くて味見など当然していないが、一応は調理した身として感想は気になる。そもそもどんな味がするのか興味もある。食べてみたいとは全く思わないけれど。
「ふむ、ふむ……」
「ど、どうですか?」
「うーん……」
切り分けた時は堅い音がしたのに咀嚼音はしない。見た目通り柔らかいのかもしれないが……なんか一口にかける時間長すぎじゃない? 柔らかいは柔らかいけどホルモンみたいに噛み切れない系の柔らかさか? いや、それにしてはあっさりナイフで切れていた。ますます分けわからん。
「……甘い」
そしてようやく飲み込んで出た言葉がそれ。味付けは塩胡椒なのに?
「脂が甘いみたいなアレですか?」
「いや、和菓子系の甘さだ」
甘っ。
「そしてそれが通り過ぎると山菜のようなほろ苦さが広がり、ピリリとした山椒のような辛味、藻塩を訪仏させるやわらかな塩味、柑橘系の爽やかな酸味が順に巡り――最後にガツンと肉! という感じの旨味が来る」
「ぜ、全然分からない……!」
「ちなみに何の肉かと問われれば回答は困難だ。何か分からぬが『肉!』という味だ」
「はあ……」
もう何が何やら……。
「まあ大分独特ではあるが、美味いのではないか?」
「美味いんだ……」
「調理を担当してもらった礼だ。貴様も少しどうだ」
「ご遠慮します……お礼というなら、後片付けをお願いします……もう寝ます」
靄を吸ってしまったのか心なしか眠気が強い。時刻と調理疲れの一言では片付けられない眠さだ。これも獏肉の力なのだろうか……実際に食ってるキシさんからは眠気を感じないが。
「うむ。休むがよい」
「それじゃあ、お休みなさい……」
厨房に残るキシさんに背を向け、僕は自室に向けて歩き出した。
* * *
――その後、僕は悪夢に魘されながら三日三晩眠り続けた。
目が覚めた時に最初に見たのは、涙で青い瞳を赤く腫らせたビャクちゃんだった。明らかに獏の肉を調理した副作用で、流石のキシさんも申し訳なさそうに頭を下げてきた。
……僕が眠っている間も獏肉を自分で調理して食い続けていたキシさんが無事なのは全くの謎であるが。