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だい よん わ ~地縛霊~



 大学受験という人生で最も激しく勉強する期間を経て、僕は晴れて大学生となることが確定した。

 それは僕自身喜ばしいことであるはずなのに、実家の郵便受けに届いた合格通知を見ても、心が晴れることはなかった。


 それは第一志望の有名な国立に落ちたからであり。

 それは第二志望の有名な私立に落ちたからであり。

 それは第三志望の最寄の公立に落ちたからであり。


 滑り止めの滑り止めである、地方の名も知られていないような私立大学に何とか合格したからでもある。

 はっきり言って、ここの大学に落ちたら自殺していたかもしれない。

 何せ僕が滑り止めの滑り止めに受けた私立月波大学の倍率は常に1.00倍。定員に制限をかけていないため、このような数字になるのだ。

 そもそも落ちようがないのだ。

 逆に言えば、僕が合格できたのは誰でも入れるような大学だったわけだが。


 もちろん僕の勉強に、文字通り汗水たらして働いた給料を注ぎ込んだ親父は、オレに失望し、怒り、ついには口も利かなくなった。

 共働きで生活を支えてくれた御袋だけは俺を励ましてくれたが、どこか腫れ物に触れるような態度だった。

 親の期待を裏切った息子に、二人ともどこかよそよそしい態度だった。

 それが僕の気が晴れない、一番の理由だったのかもしれない。



 僕は逃げるように家を出た。

 カバン一つに収まるような少ない荷物としばらくの生活費が入った通帳とハンコを持って、僕は月波市に向かった。

 入学式はまだ半月以上先だった。

 滑り止めの滑り止めだった月波大学周辺にアパートやマンション、下宿など取っているわけもなく、早めに向かって不動産を探さなければならなかったからだ。

 月波市と僕の実家は驚くほど離れている。

 しばらくはネットカフェに寝泊りすることになりそうだ。

 いや、常識的に考えれば、このネット社会、実家にいたって住まいは見つけることができる。

 僕はきっと、あの家から逃げたかったのだろう。

 逃げるように、ではなく、本当に逃げたのだ。



 私立にしては驚くほど安い学費は親父が出してくれることになった。

 さすがに学費だけは一学生のバイトや奨学金だけでは払えないからな。

 世間体と言うのもあるし、我が子を一人見知らぬ地に放り捨てるのもどうかと考えたのだろう。

 生活費も、御袋が少しばかり出してくれることになった。

 本当は遠慮したかったのだが、御袋にどうしてもと泣きつかれた。

 そこまでされたらもらわないわけにもいかない。

 だがバイトでなるべく返すつもりだった。



 それが、親の期待に応えられなかった僕の精一杯だと思った。



       *  *  *



 月波市は意外と大きな町だった。

 周囲を山々に囲まれた地方都市を想像していた身としては嬉しい誤算だ。

 今日から僕は、ここで一人で生きていかなければならない。

 まずはねぐら探しだ。

 このくらいの規模の町なら、まだ安いアパートが空いているかもしれない。

 ケータイのネットを使って近くの不動産屋を探す。

 それほど離れていないところに、一軒。

 少し歩いたところに二件。

 まず近くの不動産屋に向かう。



 結論。

 空振り。

 そこの物件はどこも月十万以上もするマンションしか取り扱っていなかった。

 学生にはとても無理。


 二件目。

 同じく空振り。

 月三万円台以下の学生や新社会人向けの不動産屋だったが、すでにほとんど売れてしまっていた。

 残っていたのは大学から四駅も離れたボロアパート。

 遠い上に異様にボロボロで、しかも狭いところだったので、申し訳ないと思いつつ辞退。



 三件目も似たようなものだった。

 やはり格安で大学に近い物件は人気で、すぐに売れてしまったのだそうだ。

 僕は途方に暮れながら中心街を歩いた。

 どうしたものか……。

 空を見上げれば、すっかり薄暗くなっていた。

 どこか寝泊りできる場所を探さないと。

 ネットカフェか漫画喫茶があればいいんだけど。

 見渡しても、それらしい建物はない。

 ネットで探すも、ここから歩くと結構遠い。

 はあ。

 僕は思わず溜息を吐く。


「あれ……? ひょっとして、祐真(ゆうま)君?」


 若い女性の声だった。

 誰かが、僕の名前を呼んだ。

 誰だ?

 この町に知り合いはいないと思うのだが。

 ひょっとして同名の誰かを呼んだのだろうか?

 もしそうだったら恥しいので、僕はさりげなく、何事もなさそうに振り返る。


「あー、やっぱり祐真君だー」

「……?」


 そこに、長い黒髪の色白な女性がいた。

 美人というよりも可愛らしい顔つき。

 コロコロと少女のように笑う彼女に、僕はどこか懐かしさを覚えた。


 僕が無言で眺めていると、彼女は少し怒ったように歩み寄ってきた。


「もー、忘れたの? ウチだよ、ウチ。祐真君が小さい時、斜向かいに住んでた加奈子(かなこ)ちゃんだよー」

「あ……」


 名前を聞き、僕の頭の中で彼女の顔と名前が一致した。

 そうだ。

 何で忘れていたのだろう。

 盛田(もりた)加奈子。

 今はもう取り壊された、斜向かいの家に住んでいたお姉さん。

 僕にとっては実の姉のようであり。

 友達であり。

 幼馴染であり。


 初恋の人だった。


「わー、祐真君、しばらく見ない間にずいぶん大きくなったねー。加奈子ちゃんビックリ」

「そういう加奈子……さんは、ちっとも変わってないね」

「えー、そー?」


 クルリとその場で回って自分の背格好を確かめる。

 すっかり思い出した。

 昔からこの人は、こういう幼さの残る行動が多かった。

 僕が小学生中学年の時に大学に入り、家を出たはずなのだが。

 本当に、あの頃とほとんど変わっていないように見える。

 艶やかな黒髪も、綺麗な白い肌も。

 あれから十年も経っているはずなのに、全く変わっていない。


「ねえ、ところで祐真君」

「なに?」

「祐真君はどうしてこんなところにいるのかな?」


 加奈子さんは好奇な視線を向ける。

 別に隠すことでもないので、素直に月波大学に合格したと告げる。

 それを聞き、加奈子さんはほんの少しだけ、驚いたように見えた。


「へえ、意外……祐真君があそこに入れるなんて」

「……バカにしてる? いくらなんでも倍率が存在しない大学に落ちるほど頭は悪くないよ」

「うーん、そういうことじゃなくて……。あ、でも、そっか……なるほどね」

「何がなるほど、なの?」


 何やら一人納得する加奈子さんに、僕は口を尖らせる。

 一人思案に更け、周囲を置いていく。

 そんなところも、変わっていない。


「ううん。なんでもない」


 そう言って、彼女は首を振った。


 その瞳がどこか哀しげだったのは、僕の気のせいだったのだろうか。


「それで、祐真君はこれからどころか今夜の宿も危ういんだね」

「うん、まあ……」


 きちんと荷造りして飛び出したつもりだが、それでもカバン一つとは少なすぎる。

 恐らく後々でアレコレ足りないものが出てくるだろう。


 親のお金はなるべく使いたくない。

 出来る限りせこくせこくやりくりしなくては。


「それじゃあ、さ」


 加奈子さんはポンと手を打ち、いかにも名案を思いついたという風に笑った。


「ウチんち、来る?」


 そしてそう言い放った。


「……………………はい?」

「だからー、ウチの家、来ない? もちろん今夜だけじゃなくて、これからの大学生活の住居として」

「え? えぇっ!?」


 いきなり何を言い出すのでしょうかこの方は。


「一応言っておくけど、僕は男だよ」

「知ってるよー」

「そして加奈子さんは女の方だったはず」

「それはウチが一番知ってるー」

「……その上での提案……?」

「大丈夫よー。あの泣き虫祐真君がウチに何かできるとは思えないし」

「……………………」


 その信頼のされ方はいたく微妙だ。

 むしろ悲しい。

 無駄とは分かりつつも、もう一度あがいてみる。


「いや、でもいいの?」

「何がー?」

「その、彼氏さんとか……」

「それも大丈夫」


 コロコロと、加奈子さんは相変わらず少女のように笑った。


「もう、いないから」

「……………………」


 もう少し神妙な面持ちで言って欲しかった。


 そんなわけで。

 そんな理由で。

 そう言う事で。


 僕はなぜか、初恋のお姉さんの家に居候することとなった。



       *  *  *



「実は祐真君が一緒に住んでくれると助かるのはウチもなんだよね。急に勤め先が潰れちゃって、今はアルバイト生活なのよ。それにそれほど安くない家賃のトコだったから、今までの貯蓄を削りながら何とか払ってたの。祐真君とウチで割り勘の月三万円! どう、お徳でしょ」

「はあ……」


 電車で二駅。

 月波市と隣町の境目くらいの立地。

 そんな簡単な説明をされつつ僕が連れて行かれたのは、まだ壁が真新しいマンションだった。

 パッと見では五階建て。

 入り口はオートロックの高セキュリティ。

 全部屋ベランダ付き。

 こんなところか。


「……ねえ、加奈子さん」

「ん? なあに?」

「この物件で月六万は安すぎない?」


 正直、月十万取られたって文句は言えない。

 だが当の住民さんは笑って答えた。


「外見はいいんだけどね。でも内装は結構ボロボロかな? エレベーターがないから階によって値段も違うし」

「加奈子さんの部屋は?」

「四階。だからこんなに安いのです、が、それでもアルバイターには辛いのです」

「……なるほど」


 僕は頷いてアパートを見上げる。

 うん、高い。

 これから毎日上り下りするのか……。

 だが文句を言っている場合じゃない。

 それも居候が。


「じゃ、行こうか」

「あ、うん」


 先に歩き出した加奈子さんの背中を追う。

 加奈子さんは正面玄関の鍵を開け、中に入っていく。

 僕もそれを追って中に入る。


「へえ……」


 なるほど。

 壁が少し黒ずんでいたり、確かに外見と比べれば少し見劣りする。

 それでも気にしない人は全く気にしないのではなかろうか。

 ちなみに僕は気にしない人。


「さ、ここよ」


 やけに軽やかな足取りで四回分の階段を上った加奈子さんは、一番奥の部屋の前まで僕を案内した。

 413号室。

 ガチャリという音と共に扉が開く。

 年頃の女性にしては妙にこざっぱりとした部屋が、そこにあった。

 見る限り必要最低限のものしか置いていない。

 タンスとテーブルとテレビと冷蔵庫。

 すぐに確認できるのはそれだけだ。


「家具は全部備え付けだったんだー。他はお金がないから売っちゃった」

「……そんなに困窮してたの?」

「うん、まあ。でも必要なかったし、ゴチャゴチャしてたから『ええーい、この際だ!』って、全部」

「……………………」

「十年近くここに住んでた相棒達だったから、ちょっと勇気が必要だったけど、結果すっきり!」

「……………………」


 発想が男らしい!

 思い切りの良さも変わっていないようで。


「祐真君」


 隣で、加奈子さんがコロコロと笑っていた。


「しばらくヨロシクね」

「こ、こちらこそ」


 そうして、僕の新生活が始まった。



       *  *  *



 月波大学は思った以上にハードだった。

 入学式の日の午後からすぐに、事前に履修申告していた講義が始まった。

 そしてその内容のレベルの高いこと高いこと。

 必死でノートを取らなければ付いていけなくなりそうだった。


 そこでようやく理解した。

 ここは手当たり次第学生を入学させ、成績優秀な学生や努力を怠らない学生のみが進学できるという、いわばサドンデス方式の大学なのだ。

 欧米の「入りやすいが出にくい」大学を極端化させたようなものだ。

 大学くらい出ておくか、などという生温い意思で入学したものは痛い目を見ることとなる。


 そんな鬼のような講義に僕が何とか付いていけたのは、加奈子さんのおかげだと思っていい。

 加奈子さんは僕が大学に行っている間と寝ている間にアルバイトに行っているらしく、基本的に帰れば部屋にいた。

 そして嬉しいことに加奈子さんは僕に勉強を教えてくれるのだ。

 しかも月波大学の卒業生。

 頭の良さは半端じゃない。


「この単語はこっちの意味で覚えた方がいいよ」


「この構造はこっちと同じなの」


「この公式は覚えると便利!」


 こんな感じで。

 加奈子さんは僕の勉強の世話を見てくれた。


 再会した時に同居を勧められ、渋っていたのが嘘のように、僕は加奈子さんとの同棲生活に馴染んでいた。

 馴染みすぎて。

 幸せすぎて。

 僕はそれが普通だと思ってしまった。


 加奈子さんがすぐ隣にいることが普通になったある日。


 大学で新しくできた友人に勧められた洋画をDVDで借りてきて見ることになった。

 加奈子さんも噂では聞いていて、見てみたかったのだという。

 レンタルショップから借りてきて、すぐにプレーヤーに入れた。

 僕と加奈子さんはテレビの前に並んで見た。


 見始めて。

 すぐにお互い気まずくなった。


 その映画、ストーリーは面白いのだが。

 なぜか、やたらとラブシーンが多いのだ。


 肩が触れ合うような距離感。

 隣には初恋相手。


 僕はそっと手を伸ばし、加奈子さんの指に触れてしまった。


 ビクンと、彼女の体が震えたのが伝わってきた。

 見れば、彼女は驚きで目を見開いていた。

 そして慌てたように立ち上がり、加奈子さんはこう言った。


「ご、ごめんね。ウチ、そろそろバイトだわ」


 時計を見れば、確かに僕もとうに眠っている時間。

 加奈子さんもバイトに出発していくだろう時間。


「あ、うん……」


 僕は頷き、慌てて部屋を出た加奈子さんの背中を見送った。


 拒絶された。

 僕はそう思ってしまった。



       *  *  *



 お互い、何となく気まずくなって交わす口数も減ったある日。

 僕はゴミだしに出た先で近所のオバサン軍団に捕まってしまった。

 話し始めると長いんだコレが。

 まるでマシンガンのように次々に質問が来る。

 どこの学生だとか。

 何学部だとか。

 あなたたちの記憶力は大丈夫ですかと聞きたくなるような、以前にあった時と同じ質問をぶつけられる。

 そんな質問攻撃に無気力に応じていると、一人のおばさんがこんな質問をしてきた。


「そう言えばどこに住んでるんだっけ」

「そこのアパートの413です」


 答えると、オバサン軍団はまるで気味の悪いものを見るような目で僕を見た。


「あんた、よくあんな部屋に住んでいられるね!」

「はい? 何か問題でもあったんですか?」

「問題も何も、あそこに住んでた人、無理心中しちゃったんだって!」


 え?

 そんな話は聞いていないけど……。

 でも、加奈子さん、そういうのは気にしない人だからなあ。

 噂は噂かもしれないし。


「はあ、そうなんですか」

「そうなのよ! もう何年も前だけどね!」

「いつだったかしら?」

「えーと、確か六年前よ!」


 僕の反応がイマイチなのが気に食わないのか、オバサンはやたらと甲高い声を張り上げた。


「え、六年前?」


 おかしい。

 その頃には、加奈子さんはあの部屋に住んでいたはずだ。

 オバサン軍団は僕そっちのけでけたたましく話し始めた。


「そうそう! あの時は大変だったわね!」

「警察の人とかがたくさん来てねえ!」

「男の方が女の子を殺して自殺しようとしたんだっけ?」

「でも男は助かっちゃったんでしょ? 女の子、かわいそうに」

「殺された娘、何ていったかしら」

「えーと……あぁ、もう! この辺まで出てきてるんだけどねえ!」

「可愛い子だったけど、名前も可愛かったわよねえ!」


 そして僕はオバサンの口から出た名前に、目を見開いた。


「えっと……かな……かな……カナコちゃんとか言ったかしら!」


 気付けば、僕はゴミをその辺に放り出して駆け出していた。


 カナコ。

 あの部屋で自殺した人の名前は、カナコ。


 そして僕が今住んでいるあの部屋の同居人の名前は、加奈子。


 僕は携帯電話を取り出し、この数週間、見ることすらなかった電話番号をダイヤルする。

 ピリリリ、と呼び出し音が耳に届く中、僕は部屋に駆け戻る。

 バンと音を立て、扉を開く。

 いつもならもう大学に向かっている時間だ。

 加奈子さんはもうバイトに出かけているはずだった。

 だがそこには、突然帰ってきた僕に驚く加奈子さんの姿があった。


「ゆ、祐真君? どうしたの、忘れ物?」

「違うよ」


 僕は首を振る。

 そうしている間に、電話口から懐かしい声が響いた。


「はい、小野田(おのだ)です」


 ああ、懐かしい。

 まだ携帯電話のアドレス帳機能を使いこなせていないらしく、身内からの電話にも苗字を名乗る。


「もしもし、お母さん。祐真だけど」

「あら……祐真。久しぶりね」

「うん、久しぶり」

「元気にしてる? ちゃんと食べてる?」

「うん、大丈夫」

「そう、よかった……」

「それよりお母さん。聞きたいことがあるんだけど」

「あら、何かしら」


 僕は一呼吸置き、ジッと加奈子さんを見据えた。

 加奈子さんの瞳には、どこか哀しげな光が湛えられていた。


「昔、斜向かいに住んでたカナ姉ちゃんって、覚えてる?」


 そう、昔の呼び名で加奈子さんを呼んだ。


「……ええ。覚えてるわ」


 電話口の声が、どこか気まずそうに答えた。


「じゃあ、今、カナ姉ちゃんがどうしてるか、知ってる?」

「それは……」

「正直に答えて。お母さん、カナ姉ちゃんのお母さんと仲良かったでしょ」

「祐真……」

「答えて、お母さん!」


 僕は叫ぶように問い詰めた。

 その声に観念したのか、お母さんは震える声でこう言った。


「……ごめんなさい。あなたの中学受験の勉強の妨げになると思って言わなかったの……。それからずっと言い出せなくて……」

「お母さん……」

「……カナちゃんは六年前に――亡くなっているの」


 目の前で、加奈子さんがどこか申し訳なさそうに笑った。



       *  *  *



「地縛霊」


 そう、加奈子さんは呟いた。


「未練を残して死んだ人の魂が成仏できずに、その土地に縛られると地縛霊になるの。個人によって違うけど、ウチみたいに結構な距離を出歩けるパターンと、その場所にがんじがらめになって全く動けないパターンがあるらしいの。未練の強さによって、動ける範囲が違うと聞いたこともあるわ」


 どれくらい経ったろう。

 加奈子さんの声が途切れてからさほど時間は経過していないはずなのに、僕は何時間も彼女の前に座っている感覚を覚えた。

 そして加奈子さんは、彼女には似合わない、困ったような笑みを浮かべた。


「黙っててごめんなさい……」

「……いや」

「でもよかった……祐真君がこういう話、信じてくれる人で」

「信じるも何も、目の前にいるわけだし……」

「……そうよね」

「月波市には……その、加奈子さんみたいなヒトがたくさんいるんだよね……?」

「うん。でも出歩くと疲れちゃうから、基本的にはこの部屋にずっといたの」

「そう、なんだ……」


 いや。

 僕は首を振る。

 それよりも聞きたいことがある。


「どうして……加奈子さんは……」


 うん、と、加奈子さんは小さく頷いた。


「……彼がね、詐欺に遭ったの」

「詐欺?」

「うん。……それで、とても返せないような多額の借金ができちゃって。取り立ても怖くて、どんどん酷くなったの。それで彼が私の家に逃げてきて、こう言ったの」


『このままだと加奈子も危ない。下手をしたら殺される。だったらいっそ、二人で死のう』


「……怖かった。彼の借金よりも、借金の取立てよりも、彼のその言葉が、彼の目が、本当に怖かった……!」


 加奈子さんは震える肩を抱きしめた。

 思い出したのか、顔も青ざめている。


「加奈子さん!」


 僕は思わず、彼女の手を取った。


「思い出さなくていいから! もう、思い出さなくていいんだ!」

「祐真君……」

「もう加奈子さんは辛い目に遭いすぎてるんだ。……死んでまで、辛い気持ちにならなくていいから」

「……ありがとう、祐真君……」


 キュッと、手を握り返される。


「あったかい……こんなに温かくなれたの、死んでから初めてだよ……」


 加奈子さんは静かに、とても静かに涙を流した。


「ぅ、うう……っ」


 堪えるような涙声。

 ポロポロとこぼれる涙は、床に落ちてすぐに消えた。


「ぅううう……、祐真君……こわ、怖かったよぅ……!」

「加奈子さん……」

「うわあああああぁぁぁぁぁんっ……!」


 子供のように泣きじゃくり、加奈子さんは僕に抱きついてきた。

 死んでから、ずっと一人でこの部屋にいて。

 誰にも気付かれなくて。

 自分に気付いてくれる人は、二駅も離れた所にしかいなくて。

 ずっと、寂しい思いをしてきた。

 僕の手には彼女の震える背中の感覚が伝わってくるが。

 この町の人には、彼女が見えてすらいないのだ。


「加奈子さん」

「……なあに?」


 加奈子さんは涙で赤くなった目を僕に向けた。

 ああ、やっぱり。

 あれから何年も経ったけど。

 僕はこの人が好きだ。


「僕、ずっと加奈子さんのことが好きだったんだ」

「え……?」

「今からでも、加奈子さんの隣にいてもいいかな?」

「え、ええっ!?」


 当惑の表情を浮かべる加奈子さん。

 そりゃそうだ。


「う、ウチ、幽霊だよ?」

「知ってるよ」

「死んだ時の姿してるけど、実際はもういい歳のオバサンだよ?」

「でもたかだか十歳上でしょ?」

「……その上での提案なの?」

「大丈夫だよ」


 僕は笑った。


「何年先か分からないけど。加奈子さんの未練が晴れたとき、加奈子さんが成仏しちゃうとき、僕は加奈子さんのそばにいたい」

「祐真君……」

「それとも、こう言った方がいい? 曰く付きのアパートに引きずり込んだんだから、最後まで面倒見てよ、幽霊さん」

「……幽霊に自分の世話を頼む人も、どうかと思うけど」


 苦笑いを浮かべ、加奈子さんは呟いた。

 だがすぐに少女のようなコロコロとした笑みを浮かべ、もう一度抱きついてきた。


「あなたに、取り憑いちゃってもいいの?」

「もちろん。加奈子さんなら、大歓迎」

「……嬉しい」


 加奈子さんは満面の笑みを浮かべる。


「あの夜、祐真君の指が触れた時、本当にビックリした。人と触れ合うって、久しぶりだったから」


 そう口にした加奈子さんに、僕は小さく息を吐いた。

 そうか。

 あの時は拒絶されたのではなく、ただ動揺していただけだったのか。

 久しぶりの、本当に久しぶりの、人の温もりに。


「そう言えば、あの時も今も、何で触れるんだろう? 幽霊って、触れないものだと思ってたけど」

「月波学園にいる陰陽師の女の子の話だと、波長が合う人なら霊感も霊媒体質もほとんどない人でも、たまに見たり触れたりするんだって」

「そうなんだ」

「……だからかな。一人歩いてた祐真君に、思わず声をかけちゃったのは」

「波長が、合ったから?」

「波長が合った、と言うより、運命があったのかな?」


 コロコロと、加奈子さんは笑った。



「終わりの瞬間が来るまで、あなたと共にいます」


 僕の新生活は、まだ始まったばかりだ。




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