だい ろくじゅうさん わ ~葛葉~
「はーん、そういうことね」
むやみやたらと目つきの悪い尼僧姿の女が咥えた煙管をかちかちと噛みながら喉で笑う。
一体何が面白いのか、突如として儂の目の前に現れた荼枳尼は、一人酒をかっ喰らいながら事の顛末を根掘り葉掘り尋ねて来た。あの狐の姉妹と出会ったのはもう何百年も前のことであるため、儂も特に隠し立てせず、むしろずっと溜め込んでいたものを吐き出すように訥々と語った。
「……それで」
「あぁ?」
「御主はこんな話が聞きたくてこんな山奥まで来たんか」
「かぁー! 冷てぇな、旧友を訪ねるのに理由がないとだめだってのか?」
「何が旧友か。儂が天竺にいた頃に起きた戦で貴様が勝手に死肉を貪っただけであろう」
「そうそれ! あん時はごちそーさん!」
カカと気楽に笑い、目を細める。
相も変わらず自分本位でものを言い、こちらの心の傷を無造作に抉ってくる鬼女である。
「というか荼枳尼よ。貴様、何の用でこの国に来た。まさか本当に儂に会いに来ただけではあるまい」
「華陽ちゃんに会いに来たのは本当だぜ? おっと、今は華陽ちゃんじゃなかったな。玉藻ちゃん? 蒲斑ちゃん? どっち?」
「……好きに呼べ」
「じゃあ蒲斑ちゃんで。んー、まあ、マジな話、色々と用事はあるんだがな。まず第一に――俺、この国で女神になりました☆」
「はあ!?」
しれっと何をぬかすかこの鬼女は!
「いやいや、マジマジ。まあ本当にここ最近の話だけどな」
「何がどうすればそんなことになるんじゃ……貴様のような悪鬼をよくもまあ天照大神が許したな」
「俺みたいなもんでも欲しいくらい手が足りてねえんだろ。実際、結構忙しいんだわこれが」
「……ちなみに、何をやっとるんじゃ」
「うーん、色々やってっけど、今んとこ主だったのは亡者の魂の管理かね」
「人選間違えとるじゃろ」
なんでこんな人喰い鬼が死者を司っているのか。絶対摘み喰いしている。
「元々この国には腹ごなしに来たんだがよ。ほら、この数十年飢饉と戦多かったろ。それでふらふら~っと喰い歩きしてたら捕まっちまったのさ」
「そこで滅んでおけばよいものを」
「酷いこと言うねえ。ま、マジで死んだかと思ったがよ。けど、俺の死者の臭いを的確に嗅ぎつける力に目を付けた冥府の役人がいてさ――安倍清明だよ」
「…………」
無言で、荼枳尼の話に耳を傾ける。
特に反応のない儂を見て拍子抜けしたのか、荼枳尼はひょいと眉を持ち上げて尋ねてくる。
「驚かんのな」
「儂が京を離れてどれだけ経ったと思っとるんじゃ。妖の血と魂の混ざった彼奴でも流石に死ぬじゃろうし、あれほどの力を持った人間を冥府も天界も野放しにはせんじゃろ。死後に役人の真似事くらいさせられるのは目に見えておったわ。むしろ今頃神格でも与えられとるんじゃないか」
「正式な神格はまだだなー。ちなみに清明ちゃん、享年八十四だぜ」
「長生きしすぎじゃろ!?」
五十年も生きれば十分という今世においていっそ異様である。晩年、化け物呼ばわりされなかったか心配すらする。
……いや、そこまで長きを生き延びたとあれば、あの事件も多少なりとも報われたのかもしれない。
「で、まあ清明ちゃんの口利きで俺は晴れて八百万の神々に仲間入りよ。いやー、長いこと生きてるけどこうなるとは予想だにできなかったぜ」
「儂としては、御主がそれを大人しく受け入れたということにも驚きなんじゃが」
「まあ完全に野放しってわけじゃあねえよ、流石に。普段は宇迦ちゃんと組んで色々やってる」
「宇迦ちゃん……宇迦之御魂神か」
「そそ。二柱で稲荷大明神つって、新しい肩書し宛がわれてさ」
「二柱一神……随分と思い切ったことをしたのう」
と、荼枳尼が肩を竦めていやいやと首を振る。
「それが宇迦ちゃんがちょいとアレでさあ。ぶっちゃけ俺好みの可愛い女神だったのは良いんだけど、かなりの甘ちゃんなのよなあ。豊穣を司るのはいいんだけど、むやみやたらに加護をばら撒きすぎ。土地が加護に追いつけなくて、結果、デカい飢饉が何度も起きてる。そこで俺の出番よ」
「飴と鞭、というわけか」
「そそ。適度に俺が小さい飢饉を起こして適度に土地を休ませ、人が死に過ぎんよう調整する。亡者は宇迦ちゃんの遣い狐と俺の配下の野干を通じて俺の元にやってくる。狐の扱いには俺にも一家言あるからな、軽いもんよ。繁栄と衰退――そのどちらも司るのが俺たち稲荷よ」
「ふん」
繁栄と衰退、か。
それをわざわざ儂に向かって口にするあたり、こいつの性格の悪さが滲み出ている。
「で、何をもらっておる」
「え」
「存外御主に適性があったのは分かった。じゃが、それと御主が素直に神の座につくかは別の話じゃろ」
「……あー、うん。輪廻転生の時に記憶を消すために削った魂を、ちょいと。あと、更生の余地なしの大罪人は好きにしていいって」
「そんなこったろうとは思っておったわ……」
完全に餌付けされいた。
かつて悪名轟かせた人喰い鬼も、こうなってしまえば飼い犬と変わらん。
「だってしゃーないじゃん!? 拒否れば滅するとかおっかねえこと言うんだぜあの陰陽師! それでいて従っとけば喰うに困らねえし、大罪人相手なら狩りをしても良いっていう至れり尽くせりだぜ!? 断りようないじゃん!?」
「わかったわかった、彼奴は冥府でも上手くやっておるようじゃと安心したわ」
「ぐぬぬぬぬ……」
誤魔化すように酒を一口飲んだ荼枳尼に儂は「フン」と鼻で笑った。
そしてなるほど、話が見えてきた。
「荼枳尼よ。儂に御主の配下になれと申すか」
言うと、荼枳尼は鋭い目つきをすっと細めて儂を見据える。
「……はん。流石は腐っても元瑞獣。知恵が回って何よりだ」
すっと、荼枳尼が儂に指をさす。
「話が早くて助かる。端的に言う――俺たち稲荷神はてめぇが欲しい。俺の配下となれ」
「えぇ……いや、儂を高く買ってくれとるのは嬉しいんじゃがなあ。儂、御主のこと嫌いじゃし」
「え、ちょ、俺、そんな嫌われるようなことした?」
茶化してみると一瞬狼狽えて見せたが、しかし荼枳尼はすぐに気を引き締めて儂に向き直る。
どうやら本気らしい。
「実際問題、てめぇほどの大妖狐がこんな山奥で人知れず消え去ろうとしてるなんて勿体ない――そんな瘴気発し続けてる石ころ後生大事に抱えたまま消滅していいタマじゃねえだろ」
しゅっと、荼枳尼の片頬に赤い線が奔り、たらりと血が零れる。
「此奴を石ころと呼ぶな。儂の大切な家族じゃ」
黄金色の九つの尾の先を荼枳尼に向け、儂は威圧する。返す言葉によっては、このまま串刺しにしてやってもいいとすら考える。
無論、ただでは殺されないだろうが、そんなことはどうでもいい。
「……はん」
血を拭い取り、荼枳尼は鼻で笑う。
嘲笑う。
「討ち取られた玉藻前がその憎しみのあまり瘴気を発し続ける殺生石へと姿を変え、死してなお国を蝕む毒となった。それをさる高名な僧が打ち砕き、その瘴気を封じたという話は聞くが、その僧っててめぇだろ? 蒲斑ちゃん」
儂は何も答えず、ただ荼枳尼を見つめる。
「純粋な妖気の塊と化した砕けた殺生石の欠片は各地の名のある妖狐が管理しているのは俺も確認した。蒲斑ちゃんが授けて回ったんだろうってことは容易に想像できたぜ。だが数多の命を奪った殺生石の破片にしては妙に毒気がねえ。きっと瘴気のみを集めた塊を持ってる奴がいるはずだってんで狐共に探らせてみたら、案の定よ」
「……最後まで責任を取ると誓ったからな」
「そんな姿となっても家族と呼び、瘴気が零れないようその身に取り込み続け、誰にも知られずひっそりと石ころごと消滅しようって自己犠牲の聖人ぶりには頭が上がらねえよ、マジで」
酒を一口含み、ゆっくりと味わうように嚥下する。荼枳尼はもう一つ盃を取り出しそこに注ぎ、儂に向かって差し出してきた。
「けれど流石に引き籠りすぎだぜ? 蒲斑ちゃん、麓の方がどうなってるか知らねえだろ」
「何?」
眉根を顰め、じっと荼枳尼の様子を窺う。
「蒲斑ちゃんが丁寧に丁寧に瘴気を濾しとって毒気が全くねえ妖気を垂れ流しにしてるもんだから、麓が愉快なことになってんだよ。毒気がねえとは言え妖気は妖気だからそれに当てられて妖共が湧いてんだがよ――そいつら、集落作って人間と呑気に暮らしてんぜ?」
「……は?」
「それだけじゃねえ。人と妖のつがいまでできて、そりゃもう幸せそうなもんだぜ」
「…………」
呆気にとられ、何も言葉を返せない。
荼枳尼に向けていた尾も、いつのまにかだらりと地に臥せていた。
「この酒もな、麓の集落の酒蔵で人と妖のつがいがこさえられたやつだ。こいつが美味いのなんのって。ほれ」
改めて荼枳尼が盃を突き出してくる。それを儂は恐る恐る手に取り、くいっと舌の上に転がせた。
「……ほう」
確かに、美味い。
味は良いがいまいち酒精が足りない人の酒と、ただただ辛い妖の酒の良いところを合わせたような、至極の一杯と称すに値する。人が飲むにはきつかろうが、儂のような妖にはちょうどいい。
「蒲斑ちゃんが消えちまったら、麓に流れる毒のない妖気も止まっちまう。この酒作ってる人と妖のつがいの関係もそこまでだ。……それはあんまりにも、寂しいだろ」
「…………」
儂はじっと盃に残った酒を見つめる。
そして脳裏に蘇るのは、人に嫁いだ無邪気に笑う白狐の少女の顔。
「あと伝えることと言えば」
と、荼枳尼は推し量ったかのように口を挟む。
「清明ちゃんが面倒見てたあの白い小狐な。蒲斑ちゃんが京を発ってしばらくしてから正式に遣い狐になったらしいぞ。あっちは今も宇迦ちゃんの管轄だけどな。狐ちゃんの希望と清明ちゃんの意向で特に社は持たず、各地を転々と旅してるみたいだが。……知らんかったろ。そんな余裕なかったもんな」
「……そうか」
そうか、と二度、深く頷いた。そして盃の残りの酒をぐいっと煽り、荼枳尼に向けて突き出す。荼枳尼はそれに黙って酒を注ぎ直し、儂もただただ無言で口にする。
やはり、美味い。
「社は麓の集落に作らせるぜ? 何か要望があれば言いな。伏見の本殿にも負けねえ立派な奴だって建ててやんよ」
「そこまでは望まん。ただ――この酒に合う、趣のある造りを所望する」
「承った」
仮にも女神にしては過剰に恭しい態度で頭を下げ、にかっと口角を上げて牙が見えるほど笑って見せた荼枳尼。その俗っぽさに儂は肩を竦めて立ち上がる。
ふと気付くが、自分の足で立ち上がるのも何十年ぶりだろうか。
瘴気を発する石となった彼女をこの身に取り込み、石ごと消滅しようと人知れず山に籠り続けてきたが、無駄に強大な霊力を保有するこの魂は擦り切れる気配を見せず、ただただ世捨て人同然に存在し続けてきた。
いい加減、頃合いだったのだろう。
清明は母狐との関係に踏ん切りをつけ、彼女の新しい生を尊重して御使いとなるよう背中を押した。
何も覚えていないとは言え、無意識なのか、あの事件の後も清明にべったりだった小狐は、元来の好奇心から旅に出た。
儂も、変わらなければならない。
もう一度だけ、人との関わりを持ってみよう。
「…………」
儂は身の内に宿らせていた殺生石の欠片を取り出した。
相も変わらず瘴気を発し続けているが、その全てが儂の中に流れ込んできている。
あまりにも長い間一体となっていたためか、体外に在ってもそれは変わらないらしい。
けれども彼女には申し訳ないが、流石に人里までは連れてはいけない。
ここで、いったんお別れだ。
空間をこじ開け、そこに彼女を据えて布団をかけるようにゆっくりと閉じる。
人にはなれなかった。
瑞獣にも戻れなかった。
けれど神の遣いであれば、あるいは――
「どうしたよ、蒲斑ちゃん」
「いや、なんでもない」
人喰いの鬼女でさえ女神となれたのだ。
傾国の大妖怪だって、人と妖を見守る守狐くらいにはなれるだろう。
* * *
それから数百年の時が過ぎた。
月波と呼ばれるようになったこの地を、一度、未曽有の大飢饉が襲った。
荼枳尼により土地の守護を任された儂にもどうしようもできないほどの規模だった。
人も妖も、ばたばた死んだ。
それに伴い、信仰が薄れ、儂自信の身も危ぶまれた。かつてはあれほど消滅を望んでいたのに、今となってはそうもいかない。
荼枳尼も各地で示し合わせるように起きた飢饉の対応に追われ、月波にばかりかまけていられなかった。
一人で何とかしなくてはならず、しかしどうしようもない。都から離れているが故に薬師などおらず、ただただ民が死ぬのを見ているしかなかった。
もはやこれまでか――そう思われた時だった。
「焔御前とお見受けします」
「…………」
翼を持った黒蛇の化身を連れた、一人の女が社を訪れた。
「…………」
もはや耳を立てて警戒する気力もなく、言葉を口にするのも億劫で、瞳の動きで肯定を伝えた。
「瀧宮と申します。折り入って頼みたいことがございます」
こちらが返事も出来ぬほど衰弱していると見たのか、女は手短に語った。
曰く、謀略により一族を追われ、隠れ住む地を探している。
曰く、自分は安倍家に所縁ある出であるため、儂を探していた。
曰く、陰陽師として薬学の知識もあるため、この地に蔓延る病にも尽力する。
そして――
「安倍清明最後の秘術にして唯一の望み――安倍清明の魂を補っていた、葛葉狐の削られた記憶を、私が伝承しています」
ぴくりと、無意識に獣の耳が動く。力なく寄りかかっていた壁から背を離し、ゆっくりと女に向き合った。
女は続ける。
「安倍清明は最期まで葛葉狐から与えられた魂の欠片――ひいては彼女の失われた記憶について気にかけていたそうです。なんとかして自分の魂から彼女の記憶だけでも切り離し、返してやれないものかと」
そして晩年、葛葉狐の記憶を術式として自分の魂から分離させることに成功した。
そう女は口にした。
「とは言え元々が魂に刻まれた記憶――術式として固定化に成功はしましたが、それ単体では非常に不安定。故に、代々一族の者に術式を植え付け、当代に至りました」
「……何故」
久方ぶりに声を発し、自分でも驚いた。このような気力が残されていたのか。
「何故清明はすぐに彼奴に記憶を返さなんだ。術式が完成してすぐに返せば、術の伝承など手間のかかることをする必要はなかったと思うが」
「然り。ですが安倍清明は術の完成を進めると同時に思い悩んだと聞き及んでおります――即ち、宇迦之御魂神の一御使いとして生き、無邪気に笑い旅を続ける白狐としての人生か、母狐としての記憶を取り戻すと同時に、姉の行いに胸を苦しめる人生か、どちらが本当に幸せなのか」
彼は結局、生あるうちに判断できなかった。
故に後継に託さざるを得なかった。
「とは言え」
女は続ける。
「託された我々としても、この術式は手に余る。特に当代の当主は見ず知らずの妖狐の記憶など何になると蔑ろにし、私のように直接血の繋がりのない分家の末端に術式を押し付け、あまつさえ一族から追放する始末」
「……ふん、強かな女よ」
儂は鼻で笑う。
「その術の使い道、儂でも手に余る。あれから何百年時が過ぎたと思っておる。今や彼奴も、葛葉として生きた時より遣い狐として生きた時の方が長くなってしもうたわ。じゃが儂はその術式を無下に扱うなど到底出来ぬ。彼奴の記憶の行方を儂に委ね、自身はその責から解放。幾許かの見返りとして、この地に留まり民の守護を司る――と見せかけて、その実、儂が術を受け取らねばこの地を見捨て別天地へと赴く腹か」
「受け取り方は如何様にも。ただし否定すべき点として――我々に行く当ては本当にありませぬ。この地をも追い出された後は、どことも知れぬ山で野垂れ死ぬこととなるだけにございます」
「ふん」
瞳を細め、じっくりと女を観察する。
日に焼けて肌は浅黒く、着物の裾は長い旅路の末に繕うことも困難なほど襤褸となっている。術の心得がありながら霊力の宿る髪すら整える余裕がないのか伸び放題で艶もない。みすぼらしい――表現するのであれば、それ以外の言葉が思いつかない。
そして何より、彼女の魂に刻まれた術式からは、ひどく懐かしい気配が漂ってきていた。その言葉に偽りはなさそうだった。
「現実問題、民の病はどうにかせねばならん。彼奴の記憶も知ったからには放ってもおけぬ」
「では」
「ただし条件が三つある」
儂は指を立て、女を指す。
「一つ。御主から始まる血族の悉くは、この地の守護のために動くこと。外の地へ巣立つ者は儂が見定めることとする」
「承りました」
「二つ。知っての通り、この地は人と妖が住まう特殊な神霊地である。御主の一族はこれを分け隔てなく守護すること。ただし悪鬼の類と判ずる者が現れた場合はその限りではない」
「承りました」
女は淡々と快諾していく。
禄に吟味もせず頷いていくため少々不気味ではあったが、その目はいたって冷静であった。
今現在自身が置かれている状況と比べたら、末代までこの地に縛られることなど何ともないということか。
一体、安倍家に何が起きたというのか。
「三つ」
最後の条件を示す。
「御主の胎の双子の片割れを、儂を守護する一族として寄越せ。そして其奴に葛葉の記憶を継承することとする」
「…………」
返事は、すぐに返ってこなかった。
しかしそこに拒絶の意思があったわけではなく、女はただぽかんと呆けた表情を浮かべていた。
そして無意識なのか腹に手を当て、小さく呟く。
「私の胎に……あの方のややこが……?」
驚きと同時に、慈愛に満ちた表情を浮かべる。目には今にも泣き崩れるのではないかというほどの涙が浮かんでいたが、口元に少しずつ笑みが浮かんできた。
気付いていなかったのか。
確かに、魂の具合のわりに腹が目立っていないように見える。よっぽど過酷な旅路であったのか。
「彼奴に記憶を戻す期は儂が図る」
一言付け加えると、はっとして女が頭を下げる。
「……承りました」
* * *
辰帰川の最上流部へと続く細い林道をひたすらに進む。普段登山客どころか木こりすら踏み入らない荒れ放題の小道だが、儂が進むだけでそこは一本の神道となる。
その道を息切れ一つ見せずについて登ってきた裕がじっと儂の昔語りに耳を傾けている。
「瀧宮と名乗った女の二人の子のうち、弟の方の姓を改め、儂が引き取った。そして葛葉の記憶を儂の任意のタイミングで戻せるよう術式を改変し、継承させたのが御主ら『穂波』じゃ」
「…………」
無言。
しかし視線は儂の背をじっと据えており、足取りも止まる気配はない。
「さて葛葉の記憶を確保したはいいが、やはり儂もまた清明同様すぐには決心できなんだ。一介の御使いとして何も知らずに生きる幸せか、実の姉の暴挙を思い出した上に愛する息子もとうの昔に果てた母狐か。――悩むべくもないわな」
「それは嘘です」
と、裕が呟く。
「葛葉……さんの記憶を諦めるのなら、そんな術式放棄してしまえばいい。けれど、僕の代までしっかり記憶は継承されていた。ホムラ様は、決定を先延ばしにしていただけです」
「…………」
今度は儂が無言となる番だった。
振り返ると、強い口調とは裏腹に、裕は今にも泣きそうな顔でそこに立っていた。
「ホムラ様の力が一瞬衰えた時、僕の中から葛葉さんの記憶が流れ出るのを感じました。あの時はよくわからなかったけど、話を聞く限り、あれは葛葉さんの記憶で間違いない」
「見えたのか」
「見えたというか、聞こえました。かなりノイズ交じりでしたけど」
「……そうか」
やはり、限界だったか。
「記憶の術式は完璧じゃった。しかしその継承を完璧に行えるとは限らんのじゃ。さながら伝言ゲームのように、代を経るごとに少しずつ劣化していった。そして当代に至り、ついに初めて継承が失敗したのじゃ」
「失敗……? え、でも記憶は……」
「いやいや、おるじゃろ。御主以前に継承されるべき者が」
「……あ」
思い立ったのか、裕はぽかんと口を開けた。
穂波穂――見鬼の才のみしか持って生まれなかったにもかかわらず、その身に秘めた霊力は歴代当主に負けるとも劣らない、臆病な姉。
彼女にもまた、一度は継承を試みはした。
「じゃが、何度やっても上手くいかんかった」
ただでさえ劣化を始めて久しい術式であった。そこにきて、初めて継承そのものができなかった。
幸いにしてその弟である裕には継承は上手くいったが、今後このようなことが続かないとも限らない。もし万が一、儂が決意できなかったばかりに葛葉の記憶が消滅したら――そう思うと、儂は焦った。
「焦って焦って、それでも結局決意できぬまま十数年が経ち、いい加減そんな儂自身に嫌気がさし、決断を下せぬまま、彼奴をこの街に呼び寄せた」
彼奴も長きにわたる放浪生活で一時の神格など見る影もなく衰え、いい加減定住の地を見つけてやらねばならない頃合いだった。
これが記憶を戻してやるには、本当に最後の機会だろうと思った。
だというのに、久方ぶりに会った妹分は、薄汚れた悪魔の手により再び記憶を失い無力な小狐と成り果てていた。
神の使いとして、また、妲己という妖として、直接あの悪魔に手を出せなかったことがどれほど歯痒かったことか。 しかし同時に、あの悪魔には背中を押されたと感じている節もある。
魂を喰われ、再び記憶を失った彼奴に辛く苦しい最期を迎えた葛葉の記憶を戻すと、最悪、彼女自身が壊れてしまう可能性もあった。
儂は悟った――ああ、葛葉の記憶は消えてなくなるべき運命だったのか、と。
「じゃから今回のことは全くの予想外なんじゃよ。まさか梓に葛葉の記憶の制御ごと力の大半を持っていかれ、勝手に彼奴に戻るとは、誰が考えられるか」
「じゃあやっぱり、ビャクちゃんが倒れたのは……」
「急に何百年も前の自分の記憶が戻ったことによるショックじゃよ。……まあ、そもそもが劣化しておる術式による記憶であるうえに、儂の与り知らぬところで戻ってしまったからのう……完全に思い出せたとは到底思えんが」
「だ、大丈夫なんですかソレ!? 今も目を覚まさないんですよ!?」
「寝ながら飯を食うておったという話じゃが?」
「……あ、全然大丈夫そうな気がしてきた」
「そもそも狸寝入りしておるんじゃないかと儂は睨んでおるくらいじゃ」
「狐が狸寝入り……」
何とも言えない表情を浮かべる裕。妙に食い意地を張っている辺りは出会って間もない頃から変わらない。魂に刻まれた本質というべきか。
「ともかく、あの悪魔の一件で葛葉の記憶の返還はすっぱり諦めたところに今回の件じゃ。ここまで儂の絵図を引っ掻き回してくれたんじゃ、梓には相応の結果を見せてもらわんと困るの」
「あー、まあ、あいつなら何かしら納得のいく決断はしますよ」
「儂と違ってか?」
「……すみません、そういうつもりで言ったわけでは」
少しばかり意地悪であったか。
「まあもう一つ予想できんかったことと言えば、当の御主らが恋仲になったことじゃがな」
「あー……」
「御主らがまぐわって何かしらの不具合が起きて術式が発動したらどう説明しようかと戦々恐々としておったわ」
「まぐっ……言い方……」
「まあ結局、別方向からの不具合で発動してしまったわけじゃがな」
「あ、それで一個だけ確認良いですか」
と、裕がいつになく真剣な眼差しでこちらを見据えていた。儂の昔語りの最中でさえ、ここまでの真剣さは見受けられなかったが、いったい何を聞きたいというのか。
ごくりと、裕が唾を飲み込む。
「僕とビャクちゃん、ほとんど一目惚れプラス吊り橋効果みたいな感じで恋人になっちゃったわけですけど、もしかしてそこに葛葉さんの記憶って関係あるんですか?」
「…………」
真剣な顔で何を聞いとんのじゃ是奴は。
「いやだってなんか怖いじゃないですか!? 僕がビャクちゃんを好きな気持ちは変わりませんけど、その根底というか魂的な部分にビャクちゃんの昔々の記憶があって、それで母性方面から惹かれたんだとしたら、なんか、なんか!?」
「いや落ちつけよ御主」
完全に混乱している。全く考えなくてもいいところにまでむだに思考の巣を伸ばしてしまっているらしい。
「御主の初恋は誰じゃ」
「え……いや、そんなこと言えるわけが……」
「穂じゃったかの?」
「何で知ってんですか!?」
「その次が宇井で、そんでもって梓じゃったな」
「やめてください!? 僕の黒歴史を掘り起こさないでください!?」
「何を言っておる、梓の初めての――」
「ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああ!!??」
閑話休題。
その辺に銃弾をばら撒き始めた裕を軽く制圧し、地面に顔面を押し付けながら問いただす。
「儂が言いたいのは、恋人に家族や親族、友人の面影があったとしても、純愛かどうか疑う必要などないということじゃ」
「……そんなことを言うために僕のトラウマを抉ったんですか」
「御主のトラウマ、何でそんなところにあるんじゃよ」
傍から見ていた限りでは、それはそれで幸せそうだったと思うのだが、それはあくまで個人の問題か。
「というか、そんなこと呼ばわりしとるが、御主が望んだ答えだと思うが?」
「う……」
「それに記憶を継承していても葛葉の記憶を垣間見て育ってきたわけではあるまい。術式が発動してしまった際にちらりと聞こえただけじゃろ。御主のこれまでの人生に何も影響は与えておらんし、それは彼奴にとっても同じじゃ。葛葉時代の記憶が綺麗さっぱりなくなっておるのは儂がかつて嫌になるほど確認しておるし、自身の魂と記憶の宿る清明を前にしてもやや過剰に懐いてはおったが悲しいくらいに母狐らしい感情は見受けられんかった。それに今や彼奴の人生からすれば葛葉時代の年月など一割にも満たんわ。そもそも彼奴自身、御主からかつての自分を思い出すような節でもあったのか?」
「……ないです、微塵も」
「じゃろう? じゃから――」
ひょいと裕を抱え起こし、服や顔についた土ぼこりを払ってやる。
「御主は御主じゃ。彼奴に――ビャクに、かつての記憶が少々戻ったくらいで狼狽えるでない」
「…………」
ぱちぱちと、何度か瞬きをする。そしてすんと小さく鼻を鳴らし、裕はしっかりと頷いた。
「はい」
* * *
「よーう、遅かったな!」
「「…………」」
瀧宮がこの地に辿り着いた後、改めて安置しなおした殺生石を封じた祠の上に、何か不遜の輩が胡坐をかいていた。
「ふん」
「あっつぁっ!?」
もうそれ履く意味あるんかと問いただしたくなる襤褸同然のジーンズに、やたらとでかいシャツとパーカーをだぼっと着たサングラスの女が前髪を焼かれて祠から転げ落ちた。
「何しやがるホムラちゃん!? 前髪ちりちりになっちゃったらどうすんの!?」
「そういう台詞はちっとでも焦げてから言えい、荼枳尼よ」
「え、これが!?」
目を剥き驚愕する裕。気持ちは分かる。昔の尼僧姿のほうがまだ神秘性があった。煙草は吸うし酒はかっくらうし酔って大股広げてその辺で寝るが。
「こらこら穂波ちゃん、仮にも自分ちの神様のそのまた神様に向かって『これ』はないんじゃねーの?」
「であれば少しは威厳ある装いをせんか……」
「やだよ、かったるい」
喉でゲラゲラと汚い笑い声をあげる胡散臭いラッパーのような格好の荼枳尼。耳だけでなく舌にまでピアスをつけて、なんかもう、相方の宇迦之御魂神が可哀想になってきた。いや、そういう姿をしているだけで実際に体に穴を開けているというわけではないのだろう。きっと。多分。
「はあ……それで、聞くまでもないとは思うが、何の用じゃ」
「そりゃモチロン、ホムラちゃんがようやく決心して葛葉ちゃんの記憶を返したっぽいって宇迦ちゃんが言うからその確認に。ま、俺の予想通り不測の事態だったみてぇだが?」
「何で御主が動くんじゃよ。ビャクは未だ宇迦之御魂神の所管じゃろ」
「宇迦ちゃんは俺と違って超絶忙しいからな! ほら俺、死神連中に亡者の管理委任してから割と自由なのよ」
「あの世、委託とかあるんだ……」
裕が何とも言えない微妙な顔をしているが、他人事ではないということは伏せておこう。
今現在冥府で動く死神の多くは、生前何かしらの異能をもって活動していた者たちが、死後の転生前に要観察処分扱いで死者の魂の管理をやらされているわけだが、この地の出の者の死神就任率は尋常ではない。おそらく裕も真っ当に人生を歩めば死後死神をやらされる。
まあそんな先の話を今しても仕方がないか。
「それで、何の用じゃ。既に街の方に溢れ出た瘴気は処理済みじゃし、残るは本体の術の再調整すれば元通りじゃ。御主が面白がるようなことは何もないぞ」
「冷たいねえ、ホムラちゃん。お友達が色々理由をこじつけて酒飲みに来たってのに」
「仕事しろ。あと儂、御主のこと嫌いじゃし」
「嫌い嫌い言ってるくせに毎回朝まではしご酒に付き合ってくれるホムラちゃん、俺は大好きだぜ☆」
「はいはい」
「ぞんざい! でも好き!」
「もう酔っとるなコレ」
ギャハハハハ! と汚い笑い声を上げながら地面を転げまわる荼枳尼。それを見てドン引きする裕。気持ちは分かる。現代文化に悪い方に感化されて堕落した是奴の所業は目に余る。
「まあよい。酒くらい付き合ってやるからそこで黙って見とれ」
「はいはーい」
地面に寝ころびながら手をひらひらと振る荼枳尼。本当にこいつ何しに来たんだと内心溜息を吐きながら、儂は改めて祠に向かい、小さな扉に手をかける。
「…………」
背後から裕がごくりと唾を飲み込む気配が伝わってくる。
不可視の状態にしていても、コレが内包する濃厚な瘴気の気配は隠し切れない。
そっと手を伸ばし、駄々をこねる幼子に対するように優しく撫でる。すると僅かばかり瘴気の猛りが穏やかになり、その隙に儂は息を吹きかけほつれていた術をしっかりとかけ直す。
「起こしてすまんの。……その毒は儂が全部引き受ける故、大人しくしておれ」
瞬間、溢れていた瘴気が余すところなく儂の中に雪崩れ込んできた。そして毒気のみを濾し取り、浄化された妖気を龍脈を通して土地へと返す。殺生石を砕き、この地に臥してから数百年もの間ずっと続けてきた呼吸同然の循環がやっと戻ってきた。
「終わったぞ」
「えっと、お疲れ様です」
「うむ。裕よ、もしもこの先儂に何かあれば原因は大抵ここにある故、覚えておけ。万一の時は儂をここまで運んでもらわねばならんからな」
「ビャクちゃんくらいの大きさならともかく、人化が解けたホムラ様のあの巨体をここまで運ぶのはかなり辛いんですが。二度とこんなことが起きないよう望みますよ」
「……じゃな」
二人で苦笑を浮かべる。それを何が面白いのか寝転んだままニヤニヤと笑みを浮かべ観察していた荼枳尼がひょいと起き上がり、近寄ってきた。
「いやあ月波の龍脈が元に戻って何より! これでしばらくは安泰で今日は美味い酒が飲める!」
「酒ばっかりですね……ホムラ様やミオ様よりひでぇや」
「お、言うねえ穂波ちゃん! でもそれ、俺にとっちゃあ褒め言葉だぜ!」
「さいですか」
「そんな穂波ちゃんには特別にプレゼントだ!」
「へ?」
どろん! と突如煙が立つ。あまりの煙さに顔をしかめて軽く風を吹かせて吹き飛ばすと、そこに見覚えのある少女が気まずそうな表情を浮かべて立っていた。
「…………」
雪のように白い髪に獣の耳と尾、海のように深くも澄んだ青い瞳――かつて葛葉と名付けた白狐の少女。
「ビャクちゃん!? え、なんで!?」
驚愕に目を見開いた裕に、荼枳尼がケラケラと笑う。
「いや、てめぇらが懐かしい話しながらえっちらおっちら山登ってる間に拉致ってここまで連れてきた」
「おい、何してくれとるんじゃ御主」
「ちなみにお二人の会話全部筒抜けにしといたぜ!」
「はあ!?」
本当に何をしてくれるだこの駄女神は! 目を覚まして後、しばしの冷却期間を経て落ち着いてから事情を説明しようとしていたのに! そりゃあビャクだって気まずそうな顔くらいするわ!
「どうせホムラちゃん、時間置いてから話そうとか考えてたろ。それ、ホムラちゃんお得意のいつもの問題の先送りだぜ」
「それとこれとはまた話が別じゃろ!?」
……別だよな?
「あの、えっと……」
「その……」
一体何から話せばいいのやら分からん様子で、裕とビャクがそわそわと体を揺らしながらこちらに視線を向ける。流石の儂もこの空気には耐えられず、とりあえず助け舟を出そうとした、その時。
「んじゃ、あとはお若い二人でシクヨロ~☆」
「は!?」
むんずと腰帯を掴まれ、そのまま人外の脚力でひょいと儂ごと跳躍した。はるか眼下に月波の街並みを眺めながら、荼枳尼が儂を小脇に抱え直して宙を千鳥足で歩み始める。
「おい荼枳尼!? 貴様何のつもりじゃ!?」
「いやいやホムラちゃん、あそこで口を挟むのは野暮ってもんっしょ」
「強引すぎるわ! 段階を踏め! 一度に大量の情報を詰め込まれて彼奴ら頭真っ当に動いておらんのだぞ!?」
「別に頭で小難しいこと考える必要はないんじゃねーの?」
にやにやと笑いながら、荼枳尼はおぼつかない足取りでゆっくりと下降していく。着地先と思われる場所は、飲み屋街の中でも昼からやっているチェーンの居酒屋がある辺りだった。
是奴、本当に酒を飲むためだけにここに来たのか?
「いっちゃん大事なことは穂波ちゃんが言ってたじゃん。『僕がビャクちゃんを好きな気持ちは変わりませんけど』つって。いやぁ、熱いねえ! 妲己ちゃんと紂王くらい熱いねえ!」
「いや御主、その頃の儂知らんじゃろ」
「当の狐ちゃんだって別に問題ないっしょ。もう何百年前の話だよつって。もはや葛葉ちゃんとは別人格よ。記憶戻ったところで、せいぜい映画とかドラマ見て『あ、このヒロイン、親近感湧いちゃうな~』くらいの感じだと思うぜ」
「それは御主の所感じゃろ」
「いやだって、狐ちゃん、穂波ちゃんのあのセリフ聞いたとき顔真っ赤にして尻尾ぶんぶん振り回してたぜ?」
「……なんか大丈夫な気がしてきたわ」
「だろ?」
徐々に近づいてくる飲み屋街。いい加減荼枳尼の手を振りほどいて自分の力でバランスを保ち、引き続き降下する。
「特に神様が気ぃ遣わなくたって、まあまあ何とかなるのが人の仲ってもんよ。特にこの街じゃあ、な」
「……分かっとるわ」
なんせ浄化した妖気を垂れ流しにしただけで勝手に夫婦となった人と妖から始まった街である。人と妖という古くからの隣人同士の距離感が近いだけ――言ってしまえば、それだけだ。
縁結びの神でさえ、結ばれた二人の間に割り入ることなどできやしないのだ。
ましてやただの守狐など言語道断。馬に蹴られて死にたくない。
飲み屋街に降り立ったところで儂らに気付いた通行人たちが少しばかり驚いた風に目を開き、それから小さく頭を下げながら通り過ぎていく。それに荼枳尼は満足したように頷き、儂の腕を掴んでずんずん進みだす。
「んじゃとりあえず、狐ちゃんの新たな門出を祈って、夜にいい店が開くまでテキトーに飲んでようぜ」
「言っておくが、御主の奢りじゃぞ」
「えー……」
* * *
「葛葉」
高鼾を掻きながら腹を出して寝ている荼枳尼を尻目に、儂は街の様子を窺いながら二人を探した。
「罠にかかったところを助けられ、助けたその男に恋をし、陰陽師安倍清明の母となった白狐。宇迦之御魂神の遣いとされ、清明共々数々の伝説が後世に残っている」
親元を離れた学童が集う行燈館――そこから月波学園までの通学路を追っていくと、目標の気配に辿り着いた。朝だというのに身を寄せ合い、いつものように指を絡ませてゆっくり歩む二人からは、昨日の気まずさは感じられない。
あれからどのように語らったかには興味はない。特に語るべくもない、当然の帰結である。
唯一の変化と言えば、術式が劣化していたとはいえ葛葉の記憶が戻ったことにより、ビャクの魂がほぼ完全な形に戻り、かつての力を取り戻したというくらいか。
まあそんなこと、二人にしてみれば本当に些細な差なのだろう。
「ふう……」
息を吐き、瞳を伏せる。
不思議なことに、つい先日まで容易に浮かんだ葛葉の笑みがいまいち思い出せない。どうしても、裕の隣に立って笑うビャクの笑顔が被ってくる。
「さらばだ、葛葉」
誰に言うでもなく、一人そう呟いた。