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だい ろくじゅうに わ ~玉藻前~

 唐に清明が渡り、幾年かが経ったころ。

「伯道道士! おーい、道士! 来たぞ!」

 長安の都で伯道道士に呼び出された清明は、薄暗く香の匂いでむせ返りそうになる彼の庵を訪れた。彼は、唐に使わされた清明の世話役であり、また清明に学問だけでなく道術を伝授する師であり、同時に歳の離れた友人であった。それ故に、今更遠慮などせず返事を待たずにずかずかと庵の中へと足を踏み入れる。

「来たか、清明」

 白髪に赤く細長い目をさらに細めながら、伯道道士は清明を迎え入れる。術を極め、既に人の道を脱している伯道道士の真の容姿には最初こそ驚かされたが、もうだいぶん見慣れてしまった。

「あぁ? その姿ってことは結構でかい術使ったのか? 何かあったのか」

「肯定。どうにも最近、夢見が悪くてな……何か不吉なことが起こりそうで気がかりで、故に軽く占ってみたんだが……」

 言うと、伯道道士は部屋の片隅を指さした。何かと思い視線をそちらへ向けると、彼が普段占術に使用している銅鏡がものの見事に真っ二つに割れていた。

「こいつぁ……」

「東方が特にざわついていた故、覗いてみようとしたらその有様だ。簡易的な遠見では駄目だ。故により深く、より広く覗いてみたのだが」

「何か分かったのか」

「否定。何もなかった」

「は? 道士の力でも見つけられなかったってことか?」

「否定。真に、何もなかったのだ。だが未だにざわつきは治まらない。そこで少しばかり、君に試してもらいたいのだ」

 伯道道士は清明を座らせ、彼の前に卓と鏡を置いた。

「俺に見ろってか」

「肯定。もしや、このざわめきの原因はこの国にはないのかもしれぬ。東方の海のその先――君の国で何か起きたのではないかと」

「……京で、何かあったか?」

 否定はできない。伯道道士の夢詠はもはや人外の域に達している。遠く海を越え、見知らぬ土地で起きた何かを感知してしまう可能性は十分にある。

「ふぅ……」

 小さく息を鏡に吹きかけ、霊力を込める。そこから術を組み、鏡面に意識を集中させる。

 そしてじわじわと鏡に風景が映り込み――

 

「おいおい……アレが本当に京の都だってのか……?」


 パリンッ! と音を立て、鏡が砕け散った。

「何が見えた、清明」

「京が……俺の国の都が……飢饉? 冷害? とにかく、俺が見たことないほど荒廃していた……! 瘴気……そう、瘴気だ。日の光が差し籠めぬほど厚い瘴気の雲が空を覆い隠して――」

「……ただの飢饉であれば、遠くこの国にいる我の夢詠に引っかかるとは思えぬ。何者かの悪意が働いているのやもしれぬ」

「……っ!!」

「どこへ行く」

 急に立ち上がった清明を伯道道士が呼び止める。指が白くなるほど拳を強く握り締める清明は、努めて声を荒げないよう慎重に言葉を選んだ。

「あの国には今、ちょっとやそっとの災害なんぞ覆せる知恵者がいる。そいつに知識を授けた瑞獣も未だ健在だ。多少頭が固いが、優秀な術者も多い……腹に一物抱えちゃいるが、腕の立つ僧侶もいる。だってのに、あの荒れよう……のうのうと星を詠む練習なんかしてられねえんだよ……!」

「……気持ちはわかるが落ち着け、清明。海を越えるのだぞ。早々船の手配などできぬし、渡るに何日かかると思っておる」

「嘗めるなよ、道士」

 ぱんぱん、と柏手を打つ。すると、彼の背後に人のカタチをした二匹の鬼が恭しく頭を垂れながら顕現した。

「ごっちゃん、先に京まで飛んでくれ。ぜんさんはごっちゃんを目印に、俺の影渡の手助けを頼む」

「「御意」」

 二匹の鬼のうち、大柄な雄の方が即座に消え失せる。続いて、小柄な雌の鬼が清明の影へと潜り込む。それを確認した清明は、小さく笑みを浮かべながら伯道道士に向き直った。

「んじゃ、ちょいと行ってくるわ。……もしかしたら、そのまま戻れねえかもしれんが」

「はあ……仕様のない奴め。分かった、帝へは我から伝えておこう」

「すまんね。それじゃ、また会える日まで!」

 ずるり、と。

 清明は影の中へ溶け込むように姿を消した。



        * * *



 京の港。

 平時であれば屈強な漁師と彼らに負けない肝の太い女たちの怒号が飛び交い、宮廷へ納められる魚を揚げるための船が何隻も停泊しているところであるが、既にそこには清明の知るかつての面影は残っていなかった。

 波は高く船はあちこちの浜に打ち上げられ、修復も困難なほど破損している。

 漁師小屋の屋根には名も知らぬ草が生え始め、壁の隙間から魚のものではない異臭が微かに溢れてきていた。

「……こいつぁ」

 思わず顔をしかめて鼻に手を当てる。

 都から遠く離れたこの漁村でさえこの有様である。瘴気の発生源である都はどうなっていることやら。

「……!?」

 と、清明の視界の隅に艶やかな赤が写り込んだ。

 荒廃した漁村に似つかわしくない色鮮やかな着物をまとった黒髪の女。彼女は障子紙の方がまだ感情豊かと思えるほど硬い顔で小さく一礼し、清明に近寄ってきた。

「お、叔母上!?」

 近くまで来てようやくそれが誰なのか気付き、清明は裏返った声を上げる。

 それは紛れもなく、清明の母・葛葉の実姉である蒲斑であった。

「待っていたわ、清明」

「待っていた……? では、伯道道士に夢詠を送ったのは叔母上なのか?」

「ええ、まあ。貴方に最も近しい者に届くよう術を組んだのだけれど、成功して何よりだわ。貴方には急ぎ京に戻ってきてもらわないといけなくなったから」

「さっき鏡で見た。京の都の荒れよう……何だってんだ」

「それを何とかしてもらうために、貴方を呼んだのよ。……もう、貴方しか残っていないの」

 その言葉に清明は己の耳を疑った。

 蒲斑と言えば、人に嫁いだ実の妹を忌み嫌い、その息子である清明と宮中ですれ違うことがあれば呪い殺されるのではないかという形相で睨みつけてくる――そんな印象しかなかった。

 そんな彼女が、清明を頼るというのか。

 それほどまでの事態とは、一体京で何が起きているのか。

「母上は無事なのか!? それに宮の様子は!?」

「あの子は無事よ。こうなる前に山に籠らせたわ。宮中では上皇が最近体調を崩されてずっと表に出てきてはいないけれど、御存命よ。敦実親王と玉藻様が宮中に結界を張り、瘴気の侵入を抑えているわ。都中に沸き上がった瘴気とそれに集まってきた妖たちの対処は加茂家が当たっている……けれど、もう動ける者は残り少ないと聞いているわ。そして未だ、瘴気の元は捕捉しきれていない。都の外へ溢れ出し、この有様よ」

「……芦屋一門は。あの坊主、腹は黒いがこういう荒事には一家言あったろう」

「芦屋道満以下、彼の弟子たちも当然駆り出されたわ。でも、ある時を境に音が途絶えたの。逃げ失せたか、どこぞで絶えたかは分からないけれど」

「うわ」

 本当に自分しかいないのか。

 けれど、蒲斑が都のために毛嫌いしていた清明を呼び出すとは、はっきり言って意外であった。

「嫌いよ。貴方のことは、夏前の毛虫の如く嫌っているわ」

 清明の使役する妖の一体である牛車の妖――朧車。その中に蒲斑と乗り込み、京の都を目指して走り出した道中で清明が恐る恐る尋ねると、そのような答えが返ってきた。

「けれど、考える時間は掃いて捨てるほどあった」

 表情のない瞳が、一瞬、目の前にはないものを映すように細められる。

「あの子の性格から、父上のような妖狐にはなれないだろうとは薄々分かっていたわ。であれば、母上のような宇迦之御魂神の御遣いとなる道を選ぶのであればそれを支持するつもりでいた。……けれど、行きついた先は『人間の嫁』――妖でも御使いでも、ましてや獣ですらない中途半端な存在。大切な妹が、そんな半端者に成り下がるのが耐えられなかった」

「だが母上は――」

「でもあの子、嫁に行ってから本当に幸せそうにして笑うのよ」

 蒲斑は御簾の向こうの群青色の雲に覆われた不気味な空をじっと見つめる。

「あの子の気持ちを真に理解することなどできないわ。私は妖狐――人を誑かす妖よ。餌に嫁ぐ気持ちなど、尻尾の毛ほども理解できない。けれど一人の姉として、あの子が笑って過ごしているのであれば、それはそれで良いことなのかもしれない、と。あの子が都を出て、アレと共に摂津に旅立って三十年以上……ようやく整理がついてきたところなの」

「叔母上……」

「それに玉藻様も瑞獣となり敦実親王を加護している。あの方が人に与するなら、私も私なりに動くことにするわ」

「…………」

「少し、休むわ。着いたら声をかけてちょうだい」

 言うと、蒲斑は目を伏せて壁に背を預ける。

 しばらくすると少女のような穏やかな寝息が聞こえてきて、清明は初めて肩の力をふうっと抜いた。

 叔母には悪いが、どこまで本気なのかずっと図ってきた。唐で過ごしてかなりの年月を経たが、それだけの期間にここまで丸くなるとは、些か不自然であった。自分でも言っていたが、彼女は妖狐――人を誑かす妖である。何か罠があるのではと身構えるのは術を学ぶ者として当然のことだった。

 だが、今目の前で無防備な寝顔を見せる彼女からは悪意の類は読み取れない。

 もちろん、他の感情も読み取れないため警戒を完全に解くことはできないが、多少は信じてみてもいいかもしれない。

 実際、遠見で見た光景に間違いはないのだから。

「一体何が起きてるってんだ……」

 御簾から覗き込んだ京の空は、鏡に映った空よりも淀んでいた



        * * *



 それは突然だった。

 朧車ががたっと震え、何かを拒むように速度を緩め、ついには車輪が完全に止まってしまった。

「……なんだ?」

「本能的に何かを悟ったのでしょうね。今の京には弱い妖は近寄りもしない」

 と、先ほどの揺れで目を覚ましたのか、実は最初から寝てはいなかったのか、蒲斑が目を開ける。

「ここからは歩いた方が良さそうだ……叔母上、よろしいか」

「私は構わないわ。……それに」

「うん?」

「歩く必要もなさそうだし」

 遅ればせながらもそれに気づいた清明は、蒲斑を抱えて朧車の外に飛び出した。蒲斑を腕で守りながら地面を転がりながら、清明は視線を上に向ける。

 黒い影が、先ほどまで二人が乗っていた朧車の背のすぐそばまで迫っていた。

「おぼ……!」

 声をかけるも間に合わず。

 朧車は黒い影に押しつぶされ、一瞬にして呑み込まれてしまった。

 メキメキと朧車の柱を咀嚼する音だけが影の中から聞こえる。耳を塞ぎたくなるようなその音をぐっと堪え、襲撃者を見極めるため眉間に力を込めて視線を向けた。

 まず目につくのはその巨体。虫のようなずんぐりとしたその体躯は屋敷ほどの大きさがあり、見上げるほど大きい。さらに杉のように太い八本の足は抉れるほど強く地面を掴んでいる。

「つ、土蜘蛛なのか……?」

 大きな蜘蛛の姿をした妖の一種ではあるが、ここまで巨大な個体は見たことがない。そもそも本当に土蜘蛛なのかも分からない――はっきりと視認できるほど濃い瘴気を纏ったその妖の外観はぼやけてしまって見極められない。

「ちっ……こんな外れの方まで来るなんて」

「叔母上?」

「こいつが京の瘴気の元になっている土蜘蛛よ。いつも神出鬼没に現れては人襲い、またすぐ何処かへ雲隠れする。今や京の都はこいつの巣になってしまった。けれど、ついに京の外にまで巣を広げ始めていたなんて」

 朧車を綺麗に平らげたその土蜘蛛はゆっくりと顔を上げる。血のように赤い目のような器官でこちらを確認すると、土蜘蛛は子供のように高い声で笑い声をあげた。

「清明」

「はっ」

 蒲斑を抱えたまま大きく飛びのく。すると先ほどまで二人が転がっていた周囲が空間ごと切り取られたように消滅した。

「ったく、どんだけ腹減ってんだ!」

 清明は霊力を練り、二体の鬼に呼びかける。

「ぜんさん、ごっちゃん!」

「「ここに」」

 清明の影からずるりと現れた華奢な赤鬼と大柄な青鬼――前鬼と後鬼は恭しく頭を下げる。

「ぜんさんは俺とあの化け物退治。ごっちゃんは叔母上を安全なところまで匿ってくれ」

「承知」

「お任せくだせぇ!」

 二鬼が頷いたその時。


 ドッ、と。


 清明の視界が歪む。

 あまりにも唐突だった。

「は……?」

 視界の隅に見えたのは、地面を赤く染めながら倒れた前鬼と後鬼。

 おいおい何やってんだと軽口を叩く余裕もなく、遅れて腹に奔る激痛。

 一切の前触れもなく地面に転がされた清明の理解が追い付く前に、土蜘蛛は巨大な口を開けて清明を()()()



        * * *











「いい子いい子、ご飯は家で食べましょう?」









        * * *



 目を覚ました時、清明は一切の身動きを封じられていた。

 背後から腹を刺された時にだいぶ出血したらしく、血が足りずに意識も朦朧としている。それでも無意識のうちに霊力の大部分を治癒に回していたらしく、止血は終わっており、なんとか周囲を確認するだけの気力は戻っていた。

「ここは……」

 目に霊力を集中させて光の一切入らない謎の空間をぐるりと見渡す。一見すると岩山を刳り貫いたような巨大な洞窟に見えるが、いたるところに細い糸状の物が張り巡らされている。自分の体を見ることもできないほど頑強に拘束されているため確認はできないが、おそらくあの糸に雁字搦めにされているのだろう。

「蜘蛛の糸……ってことは、ここはあの土蜘蛛の巣か」

 体躯が巨大だと素もまた規格外である。下手をしたら宮廷と同等の広さがありそうだ。

 いや、と清明は首を振る。

「叔母上の話だとあの土蜘蛛は京に巣くっているらしい。これだけの空間が京の地下にできりゃ、流石に沈むだろ。まやかしの類か、異空間か」

 と、独り言ちるが誰の声も返ってこない。普段であれば隠形していたり清明に宿ったりしている式や妖たちが何かしらの返答をするのだが、まったくの無言。精神を集中させて確認すると、一切の契約が感知できなくなっている。長年連れ添ってきた前鬼と後鬼すら生死不明とくれば、これはいよいよ不測の事態だ。

「さて、と」

 霊力を練り、全身に不可視の刃を纏う。

 ザシュッと音を立てて清明を拘束していた糸が細切れにされ、背中から地面に落下する。着地の瞬間、術により地面を綿のように軟化させて衝撃を和らげながらふとあることに気付いた。

「何気に一人ぼっちって人生初かね?」

 生まれてからはずっと葛葉に猫可愛がりされ、自分の足で立つようになってからは前鬼が常にそばに控えていた。外に出るようになってからはさらに後鬼が付いて回るようになった。

 孤独というものを一切知らずに甘やかされて育ってきたわけだが、一人になってみると存外両肩が涼しくて居心地が悪い。

 だからというわけなのか、普段よりも警戒心が強くなっていた。

 だだっ広い空間の奥で何かが動くのを感じた。

「剣よ」

 霊力を煉り固め、両刃の剣の形に整えて手に握る。それを呪具として新たに術を組み、地面に這わせる。


 ――ガアアアアアアアアアア!!


 術が辛うじて形を成したその瞬間、暗闇の奥から巨大な影が清明に向かって突っ込んできた。

「鉾よ」

 清明の足元から何十本もの巨大な鉾が生え、影にその切っ先を突き立てる。

 ぐじゅりと耳を塞ぎたくなるような生々しい音が木霊した。

 頭から鉾に突っ込んだ影――土蜘蛛は八本の足をばたばたとさせながら暴れ、鉾の山から抜け出そうと藻掻いている。

「……この程度でくたばっちゃくれないか」

 霊剣を構えたまま後ろに飛び退き、新たに術を形成する。

「刃よ」

 言霊に呼応するように土蜘蛛の周囲に無数の冷気の刀剣が生まれ、その背に向かって。

 何本かは分厚い瘴気の鎧に弾かれ消滅してしまったが、針山と呼ぶには十分なほどの刀剣が突き刺さった。

 さらに加えて術を練る。

「炎よ」

 背に突き刺さった刀剣から青白い炎が吹きあがる。これには土蜘蛛も苦悶の声をあげてさらに大きく暴れ出し、周囲の地面や岩壁を削っていく。

「ちっ……」

 思わず、舌打ち。

 いくらこの空洞がまやかしによる異空間だとしても、清明自身がそこに呑まれてしまっている以上、万一落石に押しつぶされてしまったら現実世界の身も危うくなる。

 と、なれば、これ以上苦しめることなく瞬間的に止めを刺さなければならない。じっくりと考慮する時間はなかった。

「発破!」

 術に付与した属性は、わずかばかりの水気と木気。

 加えて土蜘蛛自身が持つ潤沢な土気と、燃える刀剣の火気と金気を活用した、複数の性質を混ぜ合わせる術式その物の暴走。それに刀剣の切っ先により方向性を持たせて生まれた、内側に向けて喰い進むように広がる――大爆発。


 どおおおおおおおおおおん!


 一瞬、動きが止まった後、土蜘蛛の体の上半分が吹き飛ぶ。


 ――ギェャアアアアアアアアアアッ!?


 断末魔の叫びが、()()()()()から聞こえてきた。

「ん……!?」

 清明は眉を顰め、霊剣を構えたまま後ろに下がる。

 爆破の際の炎により瘴気が焼き払われていくと同時に、土蜘蛛の残骸がぼろぼろと剥がれ落ちるように崩れ、肌を切り裂くような殺気が溢れ出す。


 ――セイ、メイ……!


 地獄の底から響くような、怨嗟を孕んだ低い声。


 ――セイメイ……コ、ロロロス……!


「俺……?」

 思いがけず聞いた自身の名に首を傾げる。

 京にいた頃、確かに悪さをする土蜘蛛を退治したこともある。だがそのほとんどは人の言葉も分からない低い知能の妖であったし、人智ある土蜘蛛は揃って清明と式の契りを結んだ。子蜘蛛に討ち洩らしがあったとしても、知能のない小妖怪が数年でここまで憎悪に塗れ、京をここまで陥れる大妖怪に変化するか?


 ――セイメイ……! コロス……!!


 殺気が膨れ上がり、漂っていた最後の瘴気すら消し飛んだ。

 その中心に現れたのは、餓えた猛禽のように目をぎらつかせた一人の痩せた男――人相はだいぶ変わってしまっていたが、その野心溢れる眼光には覚えがあった。

「芦屋……道満……!?」

 獣のように歯を剥きだしにし、殺気を瘴気に変えながら再びその身に纏う。

 その姿はもはや人とは呼べず、まるで、鬼そのものと化している。

「いつからか消息を絶ったとは聞いていたが、まさか土蜘蛛に取り込まれたのか?」

 だとしても、殺意の方向を間違えているだろう。

 霊剣を構え直し、清明は顎に鈍痛が奔るほど強く奥歯を噛みしめる。

 芦屋道満が自分を良く思っていないのは知っていた。だが、清明自身は道満を憎いとは露ほども思っていなかった。()()()()()()()()()()謎の敵愾心を燃やされたのはほとほと参ったが、それでも道満の確かな呪術の腕前と知識には尊敬の念すら覚えていた。

 それが、このような最後を迎えるとは予想だにできず、それがただただ悲しかった。

「せめて、これ以上苦しまないよう人として弔ってやる」

 剣に持てる限り全ての霊力を集中させる。すると、たとえ常人であろうと目視できるほど強い光を放ち始めた。

 それは、妖気を退ける破魔の光。

 例え怨嗟により魔に堕ちた者であっても、その瘴気を払いのけることができる。


 ――グ、ウグググ……!


 その光を本能的に嫌ったのか、道満は顔を歪めて数歩後退する。

「最後まで分かり合えなかったが、俺はあんたのこと、嫌いじゃなかったぞ」

 霊剣を構え、放たれた矢のように駆け出す。

 術により強靭化された脚力が人智を超えた速度を生み出し、道満に肉薄する。

「さらばだ、道満」

 その切っ先が左胸に突き刺さる――寸前。


 ――ガッ


 ()()()()()()()()()()()()

「は……!?」

 あっけにとられる清明。

 目の前の光景に理解が及ばず、一瞬だけ全ての気が緩んだ。


 緩んで、しまった。


 ざあっ、 と。


  道満の首から

        黒が溢れる。


      この世の闇を

         全て掻き集め、煮詰めたような

             濃厚な黒。


 その黒が、清明の

           全身に溶け    込んでいく。


「……っ!?」


 破  魔の霊剣な

           ど毛ほ ども意

              味がなく

                 砕  け散 り  。


  黒に  蝕ま

          れ。


 清    明の意識が

           深

             い深い

        何処かへ

          と連れ去      られ

                       る。


 最期に頭を

       過ったのは、

               母と、

          自分を慕う    たくさんの 妖たち  と。


 ――何故、道満はすぐに喰わずに京の巣まで持ち帰ったのか、という疑問だった。











        * * *











「ふん、ふーん♪」


 鼻歌が自然と零れる。

 こんなに上機嫌なのは生まれて初めてかもしれない。


 最初にソレを思いついたのは、アレが生まれて数年がたった頃だった。


 あの子を連れ去った、憎い憎いあの男の息子だった。


 あの男を呪い殺してやれば少しでも気が晴れるかと思ったが全くそんなことはなく、苛立ちを覚える日々が続いていたある日。

 アレを連れ、あの子が京に帰ってきた。


 まだ幼かったアレを必要以上に威かし、屋敷の外に出ないよう仕向けた。


 予定されていた貴族との顔合わせと術比べには、私が化けて出てやった。

 滑稽なことに、誰も彼も、術比べをした芦屋道満ですら私の正体に気付けなかった。

 私は道満の神経を逆撫でするような言動をとり、憎しみの種を植え付けた。


 それからさらに数年後、何も知らないアレは普通に道満に接し――道満の怒りを買った。


 憎しみの種が、芽吹いた。


 大変口惜しいが有り難いことに、優秀だったアレはじわじわとではあるが着実に出世を重ねていった。


 憎しみの芽が、大きな蕾をつけた。


 その間にも、私は少しずつ準備を重ねていった。

 古いなりに知識と実力を兼ね揃えた加茂家に気取られぬよう、少しずつ少しずつ呪いを撒いた。


 元気な童が少しずつ体を弱くしていった。

 兄弟のように仲の良かった二人が、些細なことで喧嘩をするようになった。

 良妻と謳われた女が、別の男に気が向くようになった。


 全て全てが軋みを生み、歪みとなり――魔を集める鍵となった。


 最も気を遣ったのは、術者の女に化けてアレの側室として迎え入れられた時だ。

 多少なりとも妖の臭いは残っていただろうが、奴自身が半妖であるうえ、私がアレに授けた術や呪具は本物であった。

 すぐに警戒は解けた。


 しばらくして、アレの唐行きが決まった。

 その頃には何もしなくとも、京の都には瘴気が溜まるようになっていた。

 私が、そう仕向けた。


 アレが京を離れる少し前、満を持して芦屋道満と接触した。

 滑稽なことに、口車に乗り、私が作った呪具の紛い物を喜び勇んで受け取った道満は手当たり次第に妖を封印していった。


 安っぽくはあったが、憎しみの蕾は大輪の花を咲かせていた。


 道満は、京中の瘴気を、小さな器に掻き集め始めた。

 しかし私が整えた瘴気の渦が、あのような小さな器に収まるはずもなく。


 道満は少しずつ少しずつ、魔に侵されていき。


 仕舞には、醜い醜い蜘蛛となり果てた。


 唯一の誤算と言えば、蜘蛛となった道満の行動範囲が京の外にまで及んだことか。

 危うく、術の外でアレを喰い殺すところだった。

 懸念していたアレの取り巻きを背後から一突きし、動きを封じることができたというのに、あっさり喰い殺されてしまえば面白みに欠ける。

 それはそれで気が晴れたかもしれないが、何十年にも及ぶ企てが知能のない妖一匹に邪魔されるのは業腹であった。


 そして数え切れないほどの妖と人を喰らい、鬼にまで変化した道満を私自身の手で殺して。


 蠱毒は、成った。


「さあ、さあ、さあ! 芦屋一派は滅び、加茂家も動ける者はほぼおらず、最大の障害であった安倍清明も蠱毒の贄となりました! 京に渦巻く瘴気は未だ健在! さあ、今こそ貴女様の舞台が整いました! 瑞獣などという生温い立場に甘んじる器ではないのは私は分かっています、玉藻様! いえ――妲己様! 今こそこの蒲斑に、妲己様の真の力を見せてくださいませ!」











        * * *











 冷たい雨が、物言わぬ一人の骸に降り注ぐ。

 僅かばかり残されていた最後の温もりを、その一滴一滴が無情にも奪い去っていく。

 その骸に噛り付くように、一人の白髪の少女が噎び泣いていた。

「清明……清明……!!」

 姉である蒲斑に山中に封じられていた葛葉は、突如としてその結界が解かれたため、慌てて京まで下山してきた。獣でも妖でもない、母としての勘が働いた――京で、良くないことが起きた、と。

 そして街の端まで雨に濡れながら駆けてきた彼女を迎えたのは、血に濡れたままの着物姿の後鬼に抱えられた、変わり果てた息子の姿だった。

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……!」

「…………」

 同じように血塗れのまま壊れたように謝り続ける前鬼の背をさすりながら、後鬼もまた何かを堪えるように深い深い皺を眉間に刻んでいた。


 どうしてこうなった。

 どうしてこうなった。

 どうしてこうなった。


 もっと自分が姉と分かり合う努力をしていたら。

 もっと自分が背後に気を配っていたら。

 もっと自分が強ければ。


 どうしようもない後悔が三人を押し潰す。


「不穏な闇を感じてようやっと影伝いに海を渡ってきてみれば……これは、どういうことか」


 背後から声が聞こえた。

 振り向くと、いったいいつの間にそこに現れたのか、白髪に赤目の男が呆然と立っていた。

 その血のように赤い瞳は、じっと清明の骸を見つめ続けている。

「伯道道士……」

 後鬼が男の名を呼ぶ。

「前鬼。後鬼。貴様らがついていながらこれはどういうことだ。説明せよ」

 その怒気を孕んだ追及に、前鬼がびくっと肩を震わせる。それに対し後鬼が前鬼の肩を抱き、気まずそうに俯いた。

 その態度が気に食わなかったのか、伯道道士はさらに気を苛立たせて声を上げる。

「俯き無言のままでは何も分からぬ! よもや、そこな白狐が我が友を殺めたのではあるまいな!」

「……っ! ぶ、無礼な! 御屋形様は清明様の御母堂であられるぞ!」

 はっと我に返った前鬼が顔を上げ、食いかかるように伯道道士に詰め寄る。それを鬱陶し気に払いのけると、ではどういうことかと改めて説明を求める。

「…………」

 それに対し、前鬼も後鬼も上手く言葉にできなかった。

 説明できるわけがない。

 主が、親族に呪い殺されたなど――


「姉様が……蒲斑姉様がやったの」


 と、消え入るような声が微かに聞こえた。

「何?」

「清明は、蒲斑姉様に殺された」

 葛葉のその声に力は感じられず、さりとて憎悪の感情すら込められていない。

 ただただ、深い悲哀に満ちている。

「……妖とは言え、この国では親類をこうも怨嗟に満ちた殺し方をするのか」

「私が悪いの……もっと姉様と分かり合えていたら……」

「……ちっ」

 舌打ちし、伯道道士は葛葉を引き剥がすように清明の骸を奪い取った。

「清明!」

「伯道道士! あんた、大将に何する気だ!」

 後鬼が太い腕を振りかざし、いつでも伯道道士を止められるよう構える。だが伯道道士はそちらには一切興味なさそうに赤い瞳を流しながら、懐から筆と香炉を取り出した。

「こうなってからまださほど時間は経っておらぬのだろう。ここまで酷い呪詛を受けては魂も無事ではないはず。冥府にも逝けず、未だこの世を彷徨っているやも知れぬ」

「まさか、大将の魂を呼び戻そうってのか!?」

「しかし反魂法は禁術……いかに伯道道士と言えど、無事では済まなかろう」

「否定。技術は十全である。舐めるなよ鬼ども」

 赤い瞳を細め、伯道道士はがっと前鬼と後鬼の腕をつかんだ。

「がっ……」

「ぐぅっ」

 二鬼の顔色が急に蒼褪め、息を荒げながら地に膝をつく。それに対し葛葉が小さく悲鳴を上げたが、あくまで伯道道士は無関心に清明の骸にのみ視線を注ぐ。

「足りぬ霊力は貴様らから借り受ければ良いだけよ」

「せ、せめて一言断ってからやれ……!」

 前鬼が射殺すような目で睨み付けるが伯道道士はどこ吹く風。雨の中にも関わらず香炉に火をつけ、筆を宙で奔らせる。

 すると筆先から溢れた墨がそのまま詛となり、周囲を漂い始めた。

 詛が何重にも清明の周りを取り囲み、何やら囁き合うように小刻みに震える。その光景が少しの間続いた後――何の前触れもなく、水に溶けたようにさあっと消えてなくなった。

 後に残されたのは、黒くくすんだ小さな硝子のような珠が一粒。

「せ、清明!」

 葛葉が我を忘れてその小さな珠に手を伸ばそうとしたが、前鬼が慌ててその手を抑える。

「前鬼!? 清明が、清明が!!」

「お待ちください御屋形様! 触れてはなりませぬ!」

「え……?」

 険しい表情を浮かべる前鬼に、葛葉は首を傾げる。

 同じく、険しい表情を浮かべていた伯道道士が吐き捨てるように清明の魂の状態について説く。

「魂の大半が呪詛で染められておる。このままではとても触れられぬし、例え肉体に戻したところで人ではなくなってしまうだろう」

「じゃあ、もう助からないってこと?」

 再び顔をくしゃりとさせた葛葉に、伯道道士は初めてじっと視線を向けた。

 そして、ゆっくりと首を振る。

「否定。一つだけ、方法はある」

 伯道道士は懐を弄り、玉でできた小刀を取り出した。

「呪詛で穢された箇所を切り取り、清浄な魂のみを戻せば命は助かる」

「魂を削り取るってのか!? だが、そんなことしたら……!」

「肯定。とてもではないが一人の人間として生きてはいけぬであろう。一人で飯も食えぬし、厠にも行けぬ。声を発することもできぬかもしれぬ」

「……っ!」

 葛葉が顔を青くし、口を手で塞ぐ。例えそうなってしまったとして、息子を愛す自信はある。けれど――清明自身が、そうなってまで生きていきたいと思うかは、また別の話だった。

「故に、御母堂。貴殿の力を借りたい」

 初めて、伯道道士が葛葉に視線を合わせた。

「切除し、足りなくなった魂を御母堂の魂で補おうと考えている」

「私の、魂で……?」

「肯定。人間と比べ莫大な霊力を秘める妖の魂であれば、命に支障のない範囲で切り取り、移し替えることができる。我らが知る清明として蘇らせることができる」

「しばし待て、伯道道士!」

 と、前鬼が静止をかける。

「わずかばかりとは言え、魂を削られた御屋形様はどうなる!? 万一廃人同然と化したら、お目覚めになった清明様がどうお思いになるか……!」

「そうだ! 俺の魂を使え! 俺の魂ならきっと他の妖よりでけぇだろうし、多少削り取ったくらいでちょうどいい!」

 後鬼まで身を乗り出して懇願し始めるが、伯道道士は静かに首を横に振る。

「不可。貴様らのような純粋な鬼の魂は人間にとって毒である。これは貴様らの意思の問題ではない。そういう性質のものなのだ。血を、魂を分けた御母堂だからこそできる術なのだ。それに御母堂が廃人となるほど削るわけではない。……記憶は、失うかもしれぬが」

「やるわ」

 と。

 葛葉は即座に答えた。

「御屋形様!」

「他に方法もないのでしょう? 私の魂を削るだけで清明が助かるなら、それに越したことはないわ」

「ですが、記憶を失うやもしれんのですぜ!」

「それでも――清明の命には、替えられない」

 それに、と、葛葉は小さく笑った。


「記憶を失い、清明の母であったことを忘れてしまっても、清明と離れ離れになるわけじゃない」


 言うと、葛葉は伯道道士に向き直り、小さく頭を下げた。


「お願いね。……清明は、良い友人を持ったわ」

「……勇気ある御母堂に、賛美を」











        * * *











「そんなに、そんなに見たいか……!」


「儂の力が!」


「甥に手をかけ、妹を悲しませても構わぬほどに!」


「結局、こうなるのか! 表面ばかり瑞獣面しても、結局は近しい者を歪ませる!」


「……こうなってしまっては、もう取り返しはつかない」


「責任を、取らねばならない」


「あの子の歪みを看過してしまった儂の責任である」


「望みとあらば、見せてやる」


「儂の――妲己の、力を」











        * * *











 朝から、妙に頭が痛かった。

 体も重く、寝所から起き上がるのにも苦労した。

 それに外が妙に騒がしく、耳鳴りがして鬱陶しい。

 軽い風邪だろうか。()()()となってからは以前ほどの頑強さを失い、少し油断するとすぐに体調を崩す。

 ただでさえ弱っている帝にうつしてしまうと事である。今日は敦実に頼んで登朝は見合わせて――


「いたぞ!」

「ひっ捕らえよ!」

「術師! 呪いの用意を!」


 唐突であった。

 乱暴に雨戸がこじ開けられ、そとから武装した兵と呪符やら数珠やらを手にした術師が雪崩れ込んできた。

「な、なにを!? 貴様ら、私が何者か知っての狼藉か!?」

「笑止! 貴様を捕らえよとの勅命が出ている! 大人しくしろこの女狐が!」

「なっ……!?」

 私を、狐と呼んだか?

 まさか、露呈したというのか?

 そんなはずはない。

 用心に用心を重ね、()()()にすら全貌を気取られず、アレを呪い殺すに至ったのだ。

 あれからまだ一日と経っていない。京に残っている弱小術者連中に動きを掴めるはずがない。

 ……そうだ、今残っているのは術者の中でも軟弱な連中ばかりであったはずだ。

 であれば、多少無理すれば呪いによる拘束など振りほどける。

 だが。

「放せ! 放せと言っている!」

 両腕を束ねる呪縛はまるで微動だにしない。まるで()()()()()()()かのようにぴくりともしない。

「放せ! こんなこと、許されると思っているのか!」

 できることと言えば、虚空へと消える叫び声をただただ上げるのみ。

「ええい、放せ! 私は――」

 と、言葉に詰まる。

 私は――誰だ?



        * * *



 内裏には既に名のある貴族たちが顔を連ねていた。

 その中央に跪かされた私を、信じられない男が出迎えた。

 目つきこそ母親譲りの優し気な形をしているが、他にはそれと言った特徴のない父親そっくりの憎たらしい顔つきの陰陽師――阿倍清明。

「よう、幽霊でも見たみてぇな顔してんぞ」

 杓で行儀悪く掌を叩きながら、清明は冷たい視線を私に投げかけた。

 馬鹿な。

 そんなはずはない。

 だってこの男は、数多の人と妖を贄にした蠱毒により死んだはずだ!

「……未だに信じられん」

 と、御簾の奥から声がした。

 はっと顔を上げると、病に臥していたはずの上皇が、そこに座っていた。

「騙されてはなりませんぞ。上皇、貴方が寵愛したこの女こそ、全ての元凶。この毒婦をこれ以上のさばらせておけば国が傾く」

 と、覚えのある声がした。

 視線をそちらに向ければ、()()()()()()()()()()()()敦実が、こちらを冷たい目でじっと見ていた。

「まあ確かに、上皇はこの女に執心しておられたからなあ。だがしかし、コレの正体を目にしてはそうも言ってはおられますまい。……清明よ」

「はっ」

 敦実の呼びかけに、傍で待機していた清明が頷き、なにやらぶつぶつと怪しげな詛を唱え始めた。

 途端、頭と腰のあたりがざわざわとむず痒くなる。

 そして遅れて奔る、骨が軋むような痛み。


「っ、っひ、が、ああああああああああああああああああああああああ!?」


 頭が割れる。

 腰骨が砕ける。

 そう思わせる痛み続き、私は床に爪を立てる。

 しかしその程度では痛みを紛らわせることもできず、さりとて呪縛により転げまわることもできず、ただただ獣のような悲鳴を上げ続けた。


 延々と続くかと思われた地獄のような時間は、不意に終わった。


 全ての感覚が麻痺し、腑の中身を撒き散らしながらゆっくりと顔を上げて目に入ったのは――二本の、獣の尾。

 はっとして頭に手をやると、獣の毛に覆われた長い耳。

 人化が解けてしまっていた。


 いや待て。

 ()()()でありながら()()とはどういうことだ。


 そのような疑問に頭を巡らせる暇もなく、清明が声を張り上げる。


「皆、括目せよ! これが帝に病魔を植え付け、都を闇に陥れた――玉藻前の正体である!」


 ざわつく貴族たち。

 しかし私の耳には何も入ってこない。


 玉藻前――私が、玉藻前?

 否。

 それは、あの方に与えられた名前であったはず。

 私ではない。


 私は――私の名前は――


 一体、誰だ?


「あああああああああああああああああああっ!!」


 もはや人の言葉を喉から捻り出すことも出来なくなっていた。

 私は言うことをきかない体に鞭打ち、持てる限りの妖力を無理やり放出させて呪縛を引き千切る。


「何っ!?」

「ひっ捕らえよ!」

「逃がすな!」


 なんで。

 なんでなんでなんで!

 なんで私がこんな目に!


 私はただ、あの方に妖としての本分を取り戻してもらいたかっただけなのに!


 なんで!!


 恥も外聞もかなぐり捨て、獣のように四足で内裏から逃げ出し――廊下の奥からじっとこちらを見つめる影に気付いた。


 私だ。


 私が、私を見ていた。


「        」


 私が、何かを呟いた。


 声は聞こえなかった。


 けれど、何と言っていたのかは不思議と理解できた。


 さらばだ、蒲斑(ほむら)よ。











        * * *










「玉藻前」

 儂は、自分自身に言い聞かせるように呟いた。

「かつて上皇を惑わせ、京の都を陥れたとされる妖狐の化身――安倍清明にその正体を看破されると、那須まで逃げうせたが敢え無く討ち取られ、殺生石へと姿を変えた」

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