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だい ろくじゅういち わ ~蠱毒~

「全く忌々しい……!」

 月のない静かな夜。

 質の悪い油の小さな灯だけを頼りに歩く裏路地は、普段であれば名もない雑鬼たちの巣窟となっていることが多いが、私の怒気にあてられたか、はたまたどこぞの親王の部屋で宴をしているのか、今夜ばかりはどこにも気配がない。

 私は周囲に誰もいないのを確認し、ガリガリと親指の爪を齧りながら吐き捨てる。

 播磨の片田舎からようやく都へと居を移し、弟子たちと共に名をはせるべく宮仕えを初めて二十数余年――未だ実を結ぶどころか花も咲いていない。種をまき、芽吹くまでは順調だった。加茂という古臭いだけの術師もどきの星詠み共はすぐに引き摺り下ろせると高をくくっていたのが、あのいけ好かない小僧がぽんと都に現れてからすべての調子が狂い始めた。

 奴が京に来て間もない、髭が生えるどころか前髪を下していたような幼少の頃だ。私は内裏で行われた、箱の中身を当てるという簡単な呪術勝負で敗北した。確かに、私が透視した時には蜜柑が入っていたのを、奴は術により鼠に変えて見せたのだ。

 その結果、何も知らぬ貴族たちは私が透視に失敗した愚者として笑い、一部の知恵ある者たちは奴の手腕に驚き私に見向きもしなかった。

 屈辱である。

 さらに腹立たしいことに当の本人がその時のことをすっぱりと忘却し、十年後に正式に宮仕えするため上京したおり、私に対し始めて面するかのように振る舞ったことだ。

「忌々しい、忌々しい……!」

 ガリガリと爪を削る。

 私など端から眼中にないというのか。

 確かに腕は立つ。学もある。それらは素直に認めよう。幼少時に何度か言葉を交わしたが、歳不相応の知識を披露されたときには開いた口がふさがらなかった。

 しかしそれを、さも何でもない、当たり前のような口ぶりで誇るでもなく淡々と語る姿勢が心の底から気に食わない。

 だというのに、周囲の連中はその鼻持ちならない態度に逆に好感を抱いているらしく、奴が上京してより更に十余年、じわりじわりと宮中でも地位を固め始めている。

 私が二十年以上かけて登った階段を、半分の年月で追い越そうと迫りつつある。

 ああ、忌々しい。

 忌々しい。


「お行儀が悪いですよ」


「……っ!?」

 背後から声がした。

 耳元で囁かれたような、不快感。しかし慌てて振り向くもそこには暗い小道が続くだけで、人影はない。

 疲れているのか。そう溜息を吐き、再び歩き出そうと前を向き直り、息が止まるかと思った。

 一体いつの間にそこに現れたのか――くすんだ真鍮色の髪に鬼灯のような濁った赤色の瞳の女がうっすらと笑みを浮かべて立っていた。

「き、貴様妖の類か……!」

 思わず手元から灯がこぼれ、地面に落ち儚く消える。

 それに構わず距離を取り、懐から念を込めた数珠を取り出し呪いを整える準備をする。しかし些か距離が近すぎる。私がこの距離まで接近されるまで気付けなかった上位の妖――よもやこれまでか。

「ふふ……」

 しかし女は笑うだけで何もしてこない。それどころか恭しく頭を下げ、「ああ、よかった」と私の頬に手のひらを伸ばしてきた。

「噂通りの聡いお方で安心しました」

「……何なんだ貴様は」

 数珠を巻いた手で女の手を払いのける。ぱちりと小さく稲光が奔り、多少は驚いたのか女は目を細め、しかしすぐに嘘くさい笑みを張り付けた。

「今宵は貴方様にお話があり参りました――道満法師様」

「襲われるならまだしも、妖に訪ねてこられるような心当たりはない。今なら見逃してやる。即刻去ね」

「あらら、怖い怖い」

 女は笑うと、ぼやっと輪郭が崩れた。霧に姿を変えた女は笑いながら私の周りをぐるりと漂い、宙へと浮かび上がった。

「まあ、いきなり訪ねて驚かせてしまったのは私の非ですね。もっとお話ししたいところですが、今宵はここまでとしておきましょう」

「二度と近づくな妖女が!」

「ですがこれだけはお伝えしておきましょうか」

 こちらの話を全く聞かない。

 指を口元に添え、女はくすくすと笑った。


「貴方様が目の敵にしている男――近々、唐に遣わされるとのことです。つまり、数年はあの男はこの都から姿を消す――残るは旧い加茂の家のみ」


「……っ!?」

「そのお顔……ふふ、やはり、もう少しお話がしたいわ。続きが気になるのであれば私の『別宅』までいらしてね」

「ま、待て!」

 無意識だった。

 今度は私から伸ばした手は、しかしむなしく宙を掻く。女は姿を消し、闇のような路地裏に私だけがぽつんと一人立っていた。

「何なんだあの女……! 私が目の敵にしている男だと!?」

 そんな者、一人しかいない。そして近々唐国へ送られるという噂の派遣団に選ばれても不思議ではない。

 また奴に差をつけられるのか――否、奴がいない間にのし上がる絶好の機会ではないか。

 だがしかし分からないことが多すぎる。

「何故あの妖は私にそのことを伝えた?」

 それに別宅だと? 奴はさも私が奴の根城を知っているかのように口にしたが、皆目見当もつかん。

 いや、思い出せ。

 暗かったとはいえ、あの女の容姿はそうそう忘れられるものではない。面妖な髪と瞳の色はしていたが、見目は麗しく鼻立ちは整っていた。しかし目の下に隈ができていて、顔色が悪かった気がする。

 そして私にあの男の不在を知らせてきたということは、私が利をなすことで利を得る者であるということ。だが、呪い師である私が地位と力を得たところで妖であるあの女には不利益しかあるまい。

 と、なると、あの男に不利益が生じることで益を得る者――もしくは、その遣いか。

 遣いであった場合は私がいくら記憶を掘り起こしたところで特定は無理だ。奴を疎ましく思っている者は貴族の中にも少なからずいるし、そのお抱えの呪い師の式まで把握しきれない。で、あれば私を「別宅」とやらに招くには些か与える情報が少なすぎる。やはりあの男に不都合を感じる本人か。

 となれば、やはりあの男の周囲の者を思い出さねばならない。それも普段は人に姿を変え、表向きは青の男と親しくしている者だろう。これが闇に潜むただの妖であったならば、わざわざ「別宅」と指定して私に声をかけてくる必要はないからだ。

「ん……?」

 別宅――思考を巡らせる中、その単語に引っかかった。

 大変腹立たしいことに、奴は帝と血縁関係のある一部の有力貴族からも信頼を得ており、いくつか別宅を頂いていた。その中の一つで、都の端の方にある古い邸を所有していたと記憶している。

 そこに、奴は自分の側室を住まわせていたはずだ。病弱だと言って最低限の使用人を通わせ、表に出ることはめったにないという。

「んん……?」

 いや、まさかそんなことはあるまい。

 いくら奴が優れた呪い師で、多くの力ある式を配下にしているとはいえ、側室に妖を迎えるか?

 しかし一度考えがそこに行きついてしまうと、どうしても無関係であるとは思えなくなってくるのが人の性である。一度だけ牛車に乗るところを見てことがあるが、その横顔はあの妖に似ていたような気がする。

 だがもしそれが真実であれば、あの男は故意ないし意図せず、妖を囲っていることとなる。

 そう、この数十年で都で増えに増え、呪いや病魔をまき散らしている妖を――

「……なるほど」

 やはり、一度会って確かめてみる必要がある。

 あの女の思惑は未だ分からん。奴を陥れるために同業たる私に声をかけてくる理由まではさすがに想像することも難しい。

 だが目的は同じである――そう悪い話ではないだろう。



          * * *



 数か月後。

 あの女の言った通り、あの男は唐への派遣団に選ばれ、あれよあれよという間に海上の人となった。唐では学問の他にも呪いの知識も深めるつもりらしく、配下の式を連れていけるだけ連れて行った。

 おかげで奴の手腕によりある程度均衡が保たれていた都の夜は一気に騒がしくなり、私の一派だけでなくもはや旧いだけと高をくくっていた加茂家も引っ張り出されてきた。これが存外動きは悪くない。腐っても、アレを育てた家だけはある。

 とは言え混乱は未だに続いている。

 故に呪い師の頭目が直々に街に足を運び、妖を追って路地裏に消えたとしても不思議ではない。

「旦那様は気付いてはおられませんよ」

 手ずから入れた茶を差し出しながら、女――梨花と名乗った妖はうっすらと気味の悪い笑みを浮かべた。

 やはりあの夜に出会った妖はこいつで間違いない――私は改めてそう確信した。

「ふふ……都に名を轟かす高名な陰陽師が、それと気付かず妖を娶るとは愚かなお話ですね。……あら、お飲みになりませんか?」

「その高名な陰陽師を化かしている妖が淹れた茶など飲めるか」

「用心深いことで。まあ、正解ですが」

 言うと、梨花は私に差し出した茶碗から匙で一滴茶を掬い、柱に向けて投げつけた。

 瞬間、じゅうっと音を立てて茶が当たった部分が焼け爛れる。

「それで、私に何をさせたい」

「せっかちな殿方ですね。私はもう少しゆっくりとお話ししたいのですが」

 梨花は毒茶を自分の方に手繰り寄せ、躊躇せずに一口含む。そして香りでも楽しむかのようにゆっくりと嚥下し、瞳を細めて満足げに頷いた。

「……夫の不在の女の家に男が足を運んでいるだけでも体裁が悪いのだ。簡潔にまとめろ」

「ふふ……ご安心を。この辺りは私の領域――私の許可なくば、人どころか小鬼も寄り付きません」

「…………」

 まあ、それは真実なのであろう。

 この規模の古い邸に、家鳴の気配がないのだ。元々警戒心が強く、人前に姿を現さない小鬼だが、それでもいれば家が軋み、存在を確認できる。

 それが、ない。

 不自然なほどに静かで、耳が痛い。

「私が貴方様に求めることは一つ――妖たちの保護にございます」

「保護、だと?」

 無意味に言葉を反芻する。

 こいつは一体何を言っているんだ。

 妖を滅する私に対し、妖を保護せよと?

「私は妖の中でも穏健派で通っていましてね」

 茶碗を置き、梨花はそっと瞳を伏せた。

「妖は人がいないと生きていけない。闇を恐れ、夜を畏れる気持ちこそ、本来我々の唯一無二の餌です。故に、人の世界と妖の世界の線引きが重要だと、私は考えております」

「興味深い話ではある。だが事実、妖共は夜な夜な京の都を歩き回り、不用意に呪いと病魔を振りまいているではないか。それこそ、我々人を喰い尽そうと考えているのではと勘繰るほどに」

「そうですね……ですが今のこの状況、私にとっては大変不本意なのですよ」

 梨花は深い溜息を吐き、目尻を袖でそっと抑える。

「京に人が増え、夜に対する畏れが減ったのです。商人は遅くまで勘定を揃え、貴族は日を超えてもなお『夜歩き』する世です。夜を、畏れなくなってきた」

 人の恐怖心を餌とする妖からすれば食い物が減る死活問題であったと、梨花は語る。

 都の影に潜むだけで勝手に用意されていた餌が少しずつ減ってきた妖たちは、次第に影から少しずつ姿を足を伸ばし始めた。呪い撒き、病魔を植え付け、あるいは単に人襲うことで恐怖心を引き出し、貪るのが今の妖なのだという。

 そしてその恐怖心は、ただ口を開けて待っていた時の餌なんかと比べ、よっぽど上質で美味なものであったという。

「そこから先はもう止まりません。止められるだけの力ある者も、次第に美味い餌に心を落としていった」

「貴様を除いて、か?」

 梨花はにこりと笑い、話を続けた。

 曰く、梨花も最初は傍観しようとしていたのだそうだ。確かに故意に煽り得た恐怖心は大層美味であった。しかも名もなき小妖怪共が執拗に人を襲いまくったために、人の闇に対する畏れはより上質なものとなり、以前のようにただそこにいるだけでも十分に腹が膨れるほどには元に戻りつつあった。

 だが、やりすぎたのだ。

 無秩序となりつつある京の闇を憂いた一部の貴族が、私や、あの男のような力のある呪い師を呼び寄せ、逆に人の方から闇へと足を踏み入れてきたのだ。

「つまり貴様はこう言いたいのか? ――どうか見逃してください、もう悪いことは致しません、助けてください、と?」

「有り体に言ってしまえばその通りですね」

「ならば貴様が京中の妖を連れて闇に閉じこもればいい。私に保護を求める理由がない」

「残念ながら、私にそこまでの力はありませんよ。旦那様は化かせても、百鬼夜行を連れるほどの力は、ない」

 だからこそ貴方様に媚び売って、助けてもらおうと考えているのです。

 梨花はそう言葉を続けた。

「目下の障害は旦那様です。妖を滅する力は何者よりも秀で、宮中とも深く太い繋がりがあります。旦那様がいる限り、京の妖に安息の地はありません」

「ふん、それで目を付けたのが私か。あの男を疎ましく思う万年二番手の私を」

「……そこまで卑下することもないと思いますが」

「妖に情けを賭けられても疎ましいだけだ」

「そんなつもりは――貴方様は、旦那様を蹴落とせるだけの十分な力を持ち、かつこうして私と話ができる心の広い方であると見たからこそ、御声掛けをさせていただいたのです。力はあれど、地位に興味がない学者気質の旦那様など、すぐに追い越せると見ています」

「まあ……アレにもう少しの出世欲があれば、帝の教育係ぐらいなっていてもおかしくはないからな」

「それを認められるお心をお持ちなのも、私が貴方様に御声掛けさせていただいた理由の一つでありますよ」

「ふん」

 煽てるのが上手い。

 あの男にもこうやって取り入ったということだろうか。

「で」

 私は目を細め、梨花に続きを促す。

「具体的に貴様は私に何をさせたい」

「鬼の居ぬ間に――もとい、鬼狩りの居ぬ間に、貴方様には京で暴れている妖たちを鎮めていただきたいのです。それも、できるだけ傷付けずに」

「阿呆か貴様」

 ただ妖に対するだけでこちらは命がけだというのに、それを生け捕りにせよというのか。話にならん。

 こいつがどれほどの力を秘めているのか未だに測りきれないが、それでも京中の妖を生け捕りにするよりこいつを今ここで滅する方が易いことは確実だ。

「勿論、何も裸のまま京の闇に突っ込めというのではありませんよ」

 梨花はくすりと笑う。こちらの心を読まれているようで大変不快だが、ごとりといつの間にか目の前に出現したソレに私は目を瞠った。

「そちらの呪具――大陸風の言い方をすれば宝貝(パオペイ)ですかね。貴方様にお渡しします」

「これは……まさか、本物ということはあるまいな」

 それは、一見すると朱色に塗られた大ぶりの瓢箪に見える。金糸が混ぜられた藍色の縄でくくられており、手に持つとずしりと不思議な重みがある。振っても音はせず、中は空のようだ。

「紫金紅葫藘……名を呼び、相手が返事をすると吸い込まれるという瓢箪か……! 吸い込まれたが最後、外から蓋を開けて逆さにでもせん限り自力での脱出は不可能と」

「残念ながら本物ではありませんよ。本物は唐国の仙界で保管されているはずですから」

「ならばこれは何だというのだ」

 もちろん、私も本物など見たことはない。というか実在するかも大変怪しい。伝承にしか登場しない最上位の呪具なのだ。

 だがしかし、この瓢箪の中で渦巻く力の質は、大きな吸引力を秘めているように見える。

 それこそ、封を解いて口を向けると吸い込まれてしまいそうだ。

「私が紫金紅葫藘の伝承をもとに作成した模倣品ですよ。呼びかけた相手が反応すれば吸い込まれるところまでは再現できましたが、吸い込まれた後、骨も残さず溶かされてしまうという効果は無理でした。失敗作として奥にしまっていたのですが、こうして日の目を見ることができて何よりです」

「……貴様、本当に何者なのだ」

「ふふ……ただの趣味ですよ。旦那様にも、この術を見初められておそばに置かせていただくことになりました」

 つまり妖であることはひた隠し、術者として取り入ったということか。全く抜け目ない。

「それがあれば荒ぶる妖たちの生け捕りも容易いでしょう」

「ふん……だが、足りんな」

 京の闇に蔓延る妖は、何も名のあるものばかりではない。この生業で食い扶持を稼いでいる者も名を知らない小妖怪や雑鬼など、笊ですくえるほどいるのだ。そういったものまで名を特定し、生け捕りにせよとはこれまた無謀な話。さりとて一匹一匹滅するのもきりがなく、とは言え一匹の大妖怪よりも百匹の小鬼が人に危害を及ぼす規模は大きいため無視もできない。

 つまり手っ取り早く名が知りたい。

「ふふ……欲張りなお方。素敵ですね」

 梨花が小さく笑う。

 全て心得ていると言わんばかりの準備の良さに、さしもの私も気分は悪くはならない。あの男が傍に置くのも頷ける。

「こちらをどうぞ」

 言って、梨花が差し出してきたのは一本の巻物だった。呪いのかけられた紐で封されているが題はなく、内容はくみ取れない。よもや目を通すだけで気を違えるような物ではなかろうが、用心に用心を重ねて眉の下に唾を塗ってから封を解いた。

 そして、言葉を失う。

「お気に召されましたか?」

 中は絵巻であった。

 無論、ただの絵巻ではない。

 路傍の石のようにただそこにいるだけの小鬼から、災害級の強大な力を秘めた大妖怪まで一匹一匹詳細に姿が描かれ、さらにご丁寧に名と退ける方法まで記されていた。

「は、白澤図……!?」

「もちろん、模造品ですが」

 口元を袖口で隠し、梨花は笑う。

「私も大概この京に棲み居て長いですからね。神獣白澤ほどでなくとも、京の妖には精通しておりまして。それを簡単にではございますが取りまとめたものです……あら」

 梨花の言葉は、もはや私の耳にはしっかりと届いてはいなかった。

 絵巻を夢中で読み耽る。

 そこに記されていた妖の対処法は、私が知るところも当然含んでいたが、それ以外の未知の手法についても理に適っている。それ以外の名も知らぬ者どもについては判断のしようがないが、全く信用できないというわけではない。

 ――これがあれば、奴の不在の間に名をあげることも夢ではない。

「なるほど、そういう絵図か……!」

「ふふ、気に入っていただけて何よりです」

 梨花は微笑みながら、飲みかけの毒茶を煽りずっと音を立ててすする。

「…………」

 それを視界の端に捉えながら、私はどうしようもなく湧き上がる気持ちを抑えられず、密かに先に受け取った紫金紅葫藘の模造品の口を開けた。

 別に、この女の言うがままに妖を生け捕りにする必要はないのではないか。今この女を消してしまえば、何の憂いもなく京の白澤図を手中に収めることができるのだ。

 製作者には効果がない可能性はある。ないならないで構わない。頼みの綱に毒茶を出して様子を見るような女だ。今後多少警戒はされるだろうが、「用心」として見逃してくれよう。

「…………」

 どくどくと高鳴る鼓動が表情に出ないよう呼吸を整え、舌に呪いを籠める。

 女が、茶碗を置いた。

「梨花よ」

「? はい、なんでご――」

 それはまさしく瞬きする間もない、一瞬の出来事だった。梨花が座っていた空間ごとねじ曲がり、穴の開いた桶の水がこぼれるように小さな瓢箪の口へと吸い込まれていった。

 あまりにもあっけなく吸い込まれた梨花に、私はしばし呆然とした。しかしすぐに正気を取り戻し、瓢箪に蓋をする。かの石猿は、紫金紅葫藘の持ち主たる狐狸精の一瞬の隙をついて小さな虫へと変化し逃げおおせたという。二度とこの蓋は開けまいという確固たる意志をもって手持ちの呪符で厳重に封しておくこととする。

「くく……!」

 改めて京の白澤図を眺める。

 白澤図とは、かの神獣白澤が、医学の祖と言われる黄帝に語った怪異鬼神を取りまとめた書物のことである。これは怪異梨花が京の妖についてまとめた絵巻だが、知識の塊という点については大きな差はない。

 笑いが止まらないとはこのことだ。

「くく……くははは!」

 これさえあれば京に巣くう悪鬼羅刹も小鬼と変わらない。

 そして今、私の最大の障害となりえる男も数年は帰ってこない。

 唯一の気がかりは加茂家だが、それくらいは自力でなんとかしなければ罰が当たるというものだろう。

「くくく……せいぜいこれは平和利用させてもらうよ、梨花よ!」

 京の白澤図を懐にしまい、瓢箪を軽く振る。

 中から小さな石が転がったような軽い感触が返ってきた。



          * * *



「蠱毒」

 私が立ち去った後の別邸で、女が冷たい目で嗤う。

「壺に無数の毒虫を放り、互いに喰い殺させると最後まで生き残った一匹が強大な呪いを生むという儀式ですが……こうも容易く準備が整うと拍子抜けですね」

 だから万年二番手なのですよ、と女は口元を袖口で隠す。


「さあ、さあ……存分に喰い合いなさい。京という巨大な壺の中、最後の一匹となるまで……」


 嗤う女の背後に、ずるりと、錆真鍮色の尾が二本、蠢いた。

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