だい ろくじゅう わ ~安倍晴明~
「近頃都に不穏な風が吹き荒れておる」
「うむ。民草だけでなく宮中でもよくない噂を耳にする」
「曰く、山入りした者が風に斬られたとか」
「曰く、突如砂嵐に見舞われ進むことも退くこともできなくなったとか」
「曰く、赤子の泣き声を聞いて探しに行った者が帰ってこぬとか」
「天狗よ、天狗の仕業よ」
「何処の山の天狗が荒ぶっておるのか」
「比叡か、天神か、鞍馬か」
「否、那智よ」
「なんと、紀伊の国の風が都まで吹き荒れていると申すか」
「そのような天狗風、如何ほどの者であれば鎮められるのか」
「加茂か。芦屋か」
「否。双方今は京を出払っておる」
「ならば誰が行くというのか。放置はできまい」
「左様。近々上皇も那智へ山入りなさる。それまでに片を付けねば」
「しかし、誰が」
「貴公のご子息は」
「否」
「では」「しかし」
「とは言え」「そうは言っても」「やはり」
「で、あれば」
「…………」「……親王」「敦実親王……」
「いつの間に……」「分からぬ……」
「全く気配がなかった……」
「我に一人、心当たりがある」
「と、申されますと」
「我が友の親族に、腕の良い呪い師がおる」
「呪い師」
「どなたでございます」
「今は摂津の国で小役人をしておるが、幼き頃は加茂の家の者より教えを受けていた。腕は確かよ」
「……貴公、聞いたことはあるか」
「否。寡聞にして知らぬ」
「誰ぞ」
「誰ぞ」
「ふん、知らぬであろう。奴は半ば世捨て人の如き慎重さで田舎に籠り続けておった。我をして今まで所在すらつかめなかった。だが――ようやく居所を掴んだ。……くくく」
「……親王?」
「どうなされた、敦実親王」
「何もない。我の推薦よ。その者であれば、瞬く間に那智の天狗であろうと鞍馬の大天狗であると鎮められようぞ」
「親王がそこまで言うのであれば」
「我々に異論はありませぬ」
「して」
「して、その者の名は」
「ふむ。奴の名は――」
* * *
「安倍晴明」
正面に座る者からの返杯を受けながら、俺は耳を傾ける。
「摂津で小役人をしていたものの、急に京のお偉方に呼び出されて? 陰陽術の心得があるってだけでこんな山奥まで飛ばされたってのかい。大変だねえあんたも」
「全くだよ。陰陽師を何だと思ってんのかね、上の方々は。俺らはしがない占い屋だっつーのによー」
ぐびりと杯を一息で煽る。それを見た赤ら顔に天を指すほど長い鼻を持つ大男――那智の大天狗は呵々と笑って瓢箪を差し出す。
「陰陽師には元々妖退治の力はないってのに、星が詠めるなら神羅万象も詠めるだろなんて無茶ぶりばっかりよ。そんな頭おかしいのは加茂の先生のところか噂の芦屋の坊主に任せろってのに」
「妖退治で昨今名を上げている家だな。まあ、儂としては貴様のようなものが選ばれて助かったわい。謂れのない罪で滅されては敵わんからな」
「全くだぜ。誰だよ、こんな山奥から京の都を荒らしてる天狗がいるなんて言ったやつは!」
「はっはっは! それほどの力があれば儂も天下に名をもっと轟かせることができただろうにな!」
ぐびりと注がれた酒をさらに煽る。喉が焼けるほど強い酒精に気分を良くしながら、今度は俺が天狗に対し瓢箪を傾ける。
「おっと、これはありがたい」
「いやいや。それにしてもこれは美味い酒だな。存外、こんなところまで飛ばされたのも良かったかもしれねえな。天狗の神酒なんぞそうそう飲めるもんじゃねえ」
「だろうな。儂の酒は鞍馬翁だって飲みたがって遣いを寄こすくらいだからな」
「へえ、それはすごい! どれ、よかったら俺が鞍馬まで届けてやろうか」
「貴様、道中でちょびちょび盗み飲む気だろう」
「何故ばれた」
「はっはっは! 天狗の酒を盗もうとは豪胆なやつよ!」
「はっはっは! ……っと、そろそろ山を下りねえと、見張りの役人共に怪しまれちまうかな」
「おっと、もうそんな頃合いか」
俺が立ち上がると、天狗は杯を煽りながら俺を見上げてくる。と言っても、視線はようやく俺と同じくらいになったという程度だ。どんだけ背でけえんだこいつは。
俺はにやりと笑い、壁につるしていた笠と蓑を身に纏う。
「それじゃあ、下界の者どもにはよろしく頼むぞ」
「おうともよ。『贄などいらぬ。我は人を喰いたくて風を起こしているのではない』ってな」
天狗に背を向け、塒としている古い社の扉に手を伸ばす。
しかし。
ぎっ
閂が通っているわけでもないのに、僅かに軋むだけで戸は岩のように固く閉ざされていた。
「…………」
「いや、やはり気が変わった。貴様は面白い――もう少し杯を交わそうぞ」
「そいつは困るねえ。いい加減帰らねえと怒られちまう」
「誰かに咎められて気にするような珠ではないだろう貴様は」
「はっはっは――知った風な口を利くじゃねえか人喰い天狗が」
振り向き、懐に手を飛ばす。
否、伸ばそうとしたが、伸ばせなかった。
振り向いたところで全身が微動だに動かせなくなった。指先から瞼まで、微動だにしない。唯一、口と舌だけは変わらずによく回る。
「なんじゃい貴様。気付いておったか。ただの阿呆ではなかったか」
「へっ、贄はいらねえって言うくせに、贄にされて山に残された村娘が誰一人行方知れずっていうのはどういうことだい」
「この辺りであれば熊や山犬の仕業やもしれんぞ?」
「だったら、この社の奥からずっとしてる臭いは何だ。鼻が捥げそうだぜ」
「ふん、人の癖に鼻が利く」
天狗は瓢箪に直接口をつけ、がぶがぶと中身を飲み干した。
「人を喰わぬというのは真である。だが、人の生気の味は格別よ! こうして酒に混ぜてやれば香りもまた言い表せぬほどぞ!」
「はん! そんな趣味悪いもんを、よくもまあ鞍馬の爺も欲しがってるだなんぞ嘘つけたもんだな」
「貴様も美味いと言っておったろう」
「生憎と、我慢強い方でね。もう少しで戻しそうだったのを耐えてたんだ、褒めてくれてもいいんだぜ」
「……よくもまあこの状況で舌の回る」
すっと天狗が腕を伸ばす。掌に、怪しげな力が集まりだした。
「男の生気なぞ、酒に混ぜても辛いばかりで口当たりも悪い。が、たまには趣向を変えるのも悪くなかろう――我が糧となれい、安倍晴明よ!」
「はっ、俺なんか食ったら腹壊すぜ!」
ぶちっ!
何かが千切れる音が社に響いた。
それに目を見開いたのは、天狗の方。
「な、何!?」
俺は天狗の神通力を力ずくでぶち破り、手を伸ばす天狗と対になる形で腕を上げて構えた。
瞬間、天狗の姿が霞む。
「――ぬ、が、ぁ……!?」
断末魔を上げる暇など与えない。
天狗の巨体は一瞬にして霧となり、再び一点に集結するように集まりだし、コロンと小さな石へと姿を変えた。
それを俺は拾い上げ、小石をまとう不可視のものを果実の皮のように摘まみ剥がす。
「はん。陰陽師には妖退治の力はないとは言ったが――俺はできるんでね。面倒だからやりたくないってだけで」
敦実親王も人使いが荒い。こうなることが分かっていたから地方を転々として隠遁生活を続けていたのに、ついに見つかってしまった。これも年貢の納め時か。
「さて」
俺は石となった天狗から引き剥がしたそれを大事に抱えながら社の奥へと足を踏み入れる。建付けの悪くなった戸を力ずくでこじ開け、うっと顔をしかめる。
「こいつはひでぇ……」
そこには、骨と皮だけになった骸が山と積まれていた。あの天狗に合わせるのであれば酒蔵と言ったところだが、これは地獄の方がしっくりくる。
骸はどれもこれも破れた白い死装束をまとった髪の長いものばかり。見る影もないが、麓の村で聞いた話では全員年頃の娘だったはず。天狗風に田畑を壊されるだけでなく大水まで起こされ、やむを得ず生贄として生娘を捧げていたというが……。
「すまない。もっと早く知れていたら……」
俺は抱えていたそれに息を吹きかける。もちろん、先ほど天狗に飲まされた酒に交じっていた物も、腑の中からかき集めて吐き出した。
天狗に奪われていたそれが骸へと戻っていく。瞬く間に干からびた皮に水気が戻り、肉が蘇っていく。どれもこれもしゃれこうべの如き様相で見分けのつかなかった骸に、ようやく表情が戻った。
だが、戻ったのはそこまでだ。
心の臓は止まったままだし、その瞼は二度と開くことはない。
「ぜんさん、ごっちゃん」
ぱんぱんと二度柏手を打つ。すると目の前の空間がぐにゃりと水飴のように歪み、二人の人に姿を変えた。
「お呼びでしょうか、清明様」
二人のうち片方――赤い着物の小柄な女性が恭しく頭を下げた。冬の海のような黒い瞳と同様の冷たい口調だが、別に機嫌が悪いというわけではない。いつもこの調子だ。
「よう、大将。スンスン、酒の匂いがするな……なんだよ水くせえ、飲むならあっしも誘ってくれりゃあいいのに」
そしてもう一人――青い着物の大柄で粗野な風体の大男がガハハと豪快に笑う。そしてそれが気にくわないぜんさんは、ごっちゃんをきっと睨みつける。
「貴様、先ほどのやり取りを見ていなかったのか。あれは人の生気を混ぜ込んだ妖酒。あんなものを飲みたいなど汚らわしい、地獄に落ちろ」
「見てなかった!」
「…………」
どこまでも能天気なごっちゃんに、ぜんさんは割と本気の殺気を込めた視線を投げる。しかしごっちゃんはそれを飄々といなしながら社の外へと向かう。
「おい、どこへ行く」
「ん、ああ。ちょいと外に。大将、穴は大穴一つでいいですかい? それとも一人一つ用意しますかい?」
「……? 何の話だ」
眉間にしわを寄せながら首を傾げるぜんさん。
やはり、何も考えていないように見えてごっちゃんはちゃんと見ているなあ、などと考えながらぞりと髭が伸びてきた顎を指でさする。
「本当は一人一つ用意してやりてえところだが、刻む名前も分からん。それに俺も経が読めるわけでもねえからな……申し訳ないが、大穴で」
「ういっす」
「……!」
ようやく俺の意図を察してくれたのか、ぜんさんは慌てて山積みになったままの少女の骸たちに手を伸ばす。肉は戻ったとは言え、裸同然のみすぼらしい姿で送り出すのも気が引ける。ぜんさんは破れた死装束を一人一人繕い、髪を整え、化粧を施していく。
それを見届けたのち、俺も社の外に出て近くに井戸か何かないか捜し歩いた。
幸いなことに、枯れてはいたがすぐに井戸は見つかった。俺はその中に天狗だった小石を丁寧に丁寧に粉々に砕き、放り込む。そして蓋をしたのち厳重に縄で縛りあげて封する。
「これでよし……二度と這い出てくんじゃねえぞクソ天狗」
呪いの言葉を吐き捨て、俺はごっちゃんが掘っている墓穴を手伝いに戻った。
* * *
「ご苦労、大儀であった」
「…………」
遠路遥々都まで戻り事の顛末を報告し、帰ってきた言葉はそんな一言だけだった。
「いやいや、敦実様」
「なんだ我が駒……否、清明よ」
「がっつり『駒』って言っておいて今更取り繕っても遅いっすよ。ご苦労って、それだけですか」
隠す気もさらさらない雇い主にため息を溢しながら、もう半ば諦めているのでそれ以上の追及はやめておく。下手に口出しするといらん仕事まで追加で押し付けられてしまう。
「時に清明。近頃都では夜ごと蜘蛛の妖が出没しておってな」
とか言う間に新たな面倒ごとが!
「お言葉ですが敦実様!」
「……何だ」
今も昔も悪名轟く宮中きっての問題児と言えど、仮にも皇族。歳を重ね、帝に世継ぎができた今、帝位継承権などないに等しいと言えど皇族は皇族。言葉を遮るなど不敬中の不敬であるが、今この場には俺と敦実様しかいないし、当の敦実様もにやにやと嫌らしい笑みを浮かべ続けている。
「言われた通り那智の天狗は封じてきました! 天狗風もやんでいるようですし、もう俺の仕事は終わりでしょう! これ以上何させようってんです! 摂津か淡路に帰りたい!」
「くく……」
しかし敦実様は喉の奥で笑い、続けてとんでもないことを口にした。
「摂津で貴様が座っていた席には既に別の者がついた。淡路の貴様の生家はすでに売り払われている」
「何てことしやがる!?」
摂津はともかく、実家はさすがに嘘だよな!? ……嘘だと言ってくれ!! 頼む!
「ふん、屋敷などどうでもよいではないか。どのみち、母君も貴様について上京してきておるのだろう」
「……まあ、そうですがね」
うつむき、唇の端を噛む。
だからこそ。
「だからこそ、京の都にはいたくないんですがねえ。それは、敦実様も分かっておいででしょう」
「……ふん」
「叔母上、まだ母上を許しちゃいないんでしょう」
母上がまだ幼いころ、都のはずれの山で怪我をしていたところを親父に助けられたらしい。それが馴れ初めだというが、一目惚れというやつだろう。摂津へと部署替えした親父を追いかけて都を離れ、駆け落ちしたというのだからよっぽどだ。
多変残念なことに、俺が摂津の生家で四つん這いで床を駆け回っていたころに病で死んだらしいから顔などまるで覚えていないが、母上がいつも嬉しそうに昔語りをしてくれるので不思議と遠く感じたことはなかった。
そんな母上の昔語りの中には、母上の実姉と、姉妹揃って師と仰ぐ女官の話もあった。
俺の乳離れが終わり、ある程度手を離せるようになったころ、母上が俺を連れて京まで来たことがった。無論、姉とお師匠さんに俺のことを報告するためだ。
師の方は俺を随分と可愛がってくれたが、問題なのは姉――叔母上の方だ。
誰とも知らぬ馬の骨と駆け落ちし、俺という訳の分からん餓鬼をこさえて帰ってきた母上を、叔母上は大層激怒した。否、激怒という言葉では足りないほど怒り狂った。
未だにその時の恐怖は骨身にしみて覚えている。幼いながらも死というものを早々に悟ったほどだ。
『この恥知らず!』
『顔も見たくない!』
『そんな餓鬼、今ここで――』
結局、京に滞在中はお師匠さんの紹介で、呪い師一族として頭角を現し始めていた加茂家に預けられた。その時に加茂のクソ爺共にあれこれいらんことを吹き込まれ、俺の無用な才能を開花させられたのも今となっては悩みの種だが、それはもはやどうしようもないから諦めることとした。
で、だ。母親想いの孝行息子としてはそんな京から母上を少しでも離そうと地方の小役人を転々としていたのだが、母上たちから見れば弟弟子にあたるらしい敦実様についに見つかって今に至る。
敦実様は渋い顔で俺を見る。
「許しておらぬどころか、あやつを殺す勢い未だ衰えぬ」
「やっぱり……」
「だが、そうも言っていられん事態でな」
「…………」
「この数年、都の不穏な気配が払われたことは一度もない。帝が立て続けに崩御なされ、都合よく継承権の上の者からばたばたと死んでいく――のは、まあ歴史を紐解けばよくある話だとしても」
「いいんですかそんなこと言って」
「史実よ。しかしそれにしても不穏。宮の闇に引き寄せられたか、妖共も動きが激しい。加茂の呪い師だけでは足りず、流浪の者にまで手を借りねばならぬほどよ」
「芦屋、ですか。あの怪しい坊主」
「口惜しいことに、優秀故に手放すこともできぬ。が、清明よ――貴様がいれば話は別よ」
「…………」
「どうか、都を守る手助けをしてはくれまいか」
「って、ちょ!?」
俺が返事を渋っている間に、敦実様は頭を下げた。
帝の親類が、ほとんど平民と変わらぬ俺に対し。
「あ、頭をお上げください!」
こんな光景、誰かに見られたら俺の首が物理的に飛ぶ!
俺は慌てて「分かりました! やりますやりますから!」と首を縦に振ると、一瞬前までのしおらしい態度はどこへやら、いつもの不遜な表情に戻ってククと喉の奥で笑った。
「期待しておるぞ」
「くっそぉ……なんと卑怯な……」
「くくく……我の頭一つで京の平穏を取り戻せるのであれば安いものよ」
「……敦実様って、言動のわりに結構家想いですよね」
俺が何とか絞り出した嫌味に、敦実様は堪えもせずに飄々と笑っていた。
「では今宵より何かあったら頼むぞ」
「はあ……」
「有事の際には加茂家の式が飛ぶ。迅速な対応を心掛けるように。では、今日ももう下がってよい」
「はいはい、畏まりましたよっと」
嫌味交じりに深々と丁寧に頭を下げ、敦実様の部屋から退出する。やれやれこの調子だと今日から夜にm共に寝所に籠ることは難しそうだ――などと考えていたら、背中に突き刺さるような冷たい視線を感じた。
「……っ!」
あまりにも冷たいそれに身震いし、反射的に振り返る。
すると廊下の奥の陰から、一人の女官がこちらを覗いていた。
一見するとどこにでもいそうな容姿をしている。しかし、ゆらゆらと陽炎が肩から漏れ出し、瞳も鬼灯色に怪しく染まっている。見る者が見れば、とても常人とは思えない女がそこにいた。
「叔母上……」
ごくりと唾を飲みこみ、ぎこちない動きで頭を下げる。しかしそれに満足する素振りは見せず、ただただ黙ってこちらをにらみつけ続けるだけだった。
「お、おっかねえ……」
金縛りにあったように動かない足を懸命に叱咤し、俺は何とかその場から離れた。
* * *
それから数日後の宵の刻。
まだ必要なかろうと松明もつけずに街中を巡りながら怪異が発生していないか見回っていた時だった。
『清明様』
頭の中にぜんさんの声が響いた。
『どうしたん?』
『尾行けられています』
『あー』
心中ため息をつきながら、歩みは止めない。ここで振り返ると余計に不審に見られる。
『やっぱりいる?』
『左後ろの塀の陰に二人、右側の屋敷の屋根の上に一人』
『手練れだな。匂いでいることは気付いてたけど、気配は全くないわ』
『……お気付きでしたら、早く撒くべきかと』
『えー、面倒くさい』
『…………』
『ごめんなさい無言にならないで!』
なんとか表情に出るのは抑えながらぜんさんに気分の上で土下座をする。下手に機嫌を損ねると母上に報告がいき、母上の機嫌が悪くなる。母上の機嫌が悪くなると都中を走り回って菓子を桶いっぱいにかき集めでもしない限り直らないもんだから、非常に疲れる。
『と、とりあえず、そこの角を曲がったら潜るわ。手伝ってくれ』
『御意』
ふっとぜんさんの声がやむ。
俺は引き続き歩みを進めながら追跡者に気取られないよう術を編み、準備をする。
『角まで十歩』
『三つ数えたら行くぞ。……一、二、三』
ずるり。
屋根の上の者の死角になっていることを確認し、急な方向転換で小道に足を踏み入れる。その瞬間、池に落ちるように足の裏から一切の感覚が消え失せ、俺は影の中に落ちた。
『……お見事』
背後から俺の体に腕を回していたぜんさんが耳元で囁く。
『術の構築速度と精度についてはもう何も言うことはありませぬ。あと何度か試せば私の補助なしでも影渡も習得できるでしょう』
『俺としてはもうちょっと付き合ってほしいなーって思うところだけどね』
背中に感じる柔らかな感触が楽しみだから、とは口が裂けても言えない。
『……そのようなことをお考えでしたか』
『しまった念話中だった!』
ぜんさんの腕が解かれ、俺から距離を置く気配がした。嗚呼、俺の楽しみが……。
『しかし』
ぜんさんは咳払いをし、地上を見上げる。
俺が影に潜った辺りで、追跡者三人が集まって話し合いをしていた。どうやら見事に俺のことを見失ったらしく、屋根の上にいた奴に二人が小言をぶつけていた。
『どこの手の者でしょうか』
『芦屋じゃねえの。これまで実質的に京の夜を支配していた加茂家に食らいついたはいいものの、そこから思うようにいってなかったって聞くぞ』
『なるほど。そこに加え、清明様という期待の新星が加茂家についたと知って、偵察を。あわよくば亡き者にしようと』
『いや、そこまで大それた考えがあるかは知らんけど』
あと期待の新星ってなんぞ。
『頭領の……なんだっけ、あの坊主』
『道満法師ですか?』
『そうそれ。道満法師は腕はいいらしいけどな。が、如何せん新参者だからどうしようもないんだろうが、連中、加茂家の更に後ろに敦実様がいるって知らねえんだろうよ。宮中で敦実様をないがしろにする傾向のある貴族共を後ろ盾に動いてるから、結局決定打がないんだよな。どれだけ表では気味の悪い問題児扱いで発言が蔑ろにされてても、都の暗部は敦実様の掌だ』
『流石はあの大妖狐を飼い慣らしているだけはありますね』
『どうせならもう一匹の方の手綱もしっかり握っていってほしいところだけど』
いや、しっかり握られていてアレなのか。
もし叔母上が本当に自由に動き回れるのであれば、俺も母上も呑気に京で生きていけまい。
けれど正直、いつか何かやらかしそうで怖いんだよなあ……。いくら人間嫌いでも、実の妹とその息子だぜ? もう少し穏便にしていただきたいところだが。
『さて、今夜はどうするか』
見回りがてら気のいい小妖怪どもと酒でもと思っていたが、あんな連中がうろついているのであれば今夜は大人しくしていた方がよさそうだ。
『今日は大人しく帰るか』
『見回りはよろしいので?』
『何かあったら報せが来るし、それにホレ』
俺は顎で未だ言い争いを続ける追跡者三人組を指す。
『仕事熱心な術者が三人もいるからな。今夜くらい休んだって大丈夫だろ』
『……まあ、清明様がいいと仰るのであれば』
『それじゃあ屋敷まで影渡頼んだぜ』
『御意……いえ、たまにはご自分でどうぞ』
『…………』
流れでまた後ろから抱きしめてくれないかと期待したが、そんなことはなかった。
* * *
加茂家別宅。
の、さらに離れの一室。
「ただいま帰りましたよーっと」
ずるりと柱の影から這い出した俺とぜんさんを出迎えてくれたのは、巨大な男の無駄に厳つい背中だった。
「えぇっと、この色は確か……これだ!」
「残念でしたー、こっちですー」
「あぁっ! また負けた!」
本気で悔しがる大男――ごっちゃんと、その陰に完全に隠れて姿の見えない少女の声。俺は溜息をつき、ぜんさんは苛立ち交じりにごっちゃんの背中を蹴っ飛ばした。
「痛ってえ!? 何すんだよぉ!」
「主のご帰還だ。三つ指付いて出迎えろとまでは言わんが、顔くらいこちらに向けろ無礼者」
歯に衣着せぬ棘のある言葉にごっちゃんは心なしか小さくなってしゅんと下唇を突き出す。幼子であれば可愛らしかったであろう表情だが、でかいおっさんがやると気持ち悪い。俺もちょっとイラっとした。
「あ、ごめんね前鬼……私が無理言って後鬼を誘っちゃったから……」
と、ごっちゃんの後ろから少女の申し訳なさそうな声が聞こえてきた。
「い、いえ! 御屋形様! 御屋形様が悪いのではありません! 悪いのはこいつ、全部こいつです!」
慌てて手を振り頭を下げるぜんさん。それに苦笑を浮かべながら、俺はごっちゃんの肩から顔を覗かせて二人の手元を窺う。
「ほう、貝合わせですか。また雅な遊びを」
「うん! ……お前が生まれた時に、玉藻様から頂いたものが出てきてね。懐かしくって」
そう言って、彼女は小さく笑っていた。
白と空色を基調とした比較的簡素な十二単に身を包み、手元の積んだ蛤の貝殻を眺める少女姿の怪異。雪のように白い髪も、獣のような尖った耳も、裾の下からはみ出る尾も、人のそれではない。
俺の母――葛葉と呼ばれるその存在は、狐である。
妖にもなれず、神の御遣いにもなれなかった中途半端な狐と、徒人である父の間に生まれた俺もまた、半妖という中途半端な存在としてこの世に生を受けたのも、何の因果か。
もっとも、当の本人たちはそのことについてまったく気にしておらず、それ故に蒲斑叔母上の逆鱗を逆撫でているなどとは、到底思いもしなかった。