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だい ごじゅうきゅう わ ~瑞獣~

玉藻(たまも)様。少しよろしいでしょうか」

「なんじゃ蒲斑。何用じゃ?」

「あの子を――葛葉(くずのは)をご存じありませんでしたか? 今朝から姿を見ていないのですが」

「ふむ? 今宵は儂の所には来てはおらぬが」

「またあの子は……せっかく玉藻様からご享受願えるというのに、どこをほっつき歩いているのかしら」



        * * *



「ふん、ふーん♪」

 白銀の月がぽっかりと夜空に浮かび上がった宵の刻。

 さくさくと僅かに音を鳴らしながら新雪を踏み締め、私は都の外れの山中を進む。

 周囲に人気はないため、髪の色は白のまま、獣の耳と尻尾も出しっぱなしとかなり開放的だ。

 蒲斑姉様に連れられ陸奥を出立した頃と比べると大分マシにはなったが、未だに私はこの人化というものが苦手だった。玉藻様――宮中入りに際しみくずから改名された――の指導により、蒲斑姉様はめきめきとその術の精度を上げていき、完全に髪の色も獣の体も自在に操れるようになった。今では玉藻様のお付として堂々と宮を出入りしているほどだ。

 対して私は、宇迦之御魂神の御遣いであった母の血を濃く受け継いだためか、変化そのものが得意ではない。そもそも御遣いは人を謀る必要のないのだから気にすることはないと玉藻様は笑ってくれたが、蒲斑姉様は私を立派な妖狐にしたがっている。変化が苦手でも、その期待には応えたいのも本音だ。

 とは言え、変化その物が嫌いなわけではない。人の体は好きだ。視点が高くなるというのが大きいのだろうが、獣の体では見られない景色がたくさんあってとても心地よい。あと食べ物が美味しい。とても美味しい。もう鼠狩りをしていた頃には戻れない。

 ……なんて言うと、真面目な蒲斑姉様には「狐が人に誑かされてどうするの!」って怒られそうだけども。

 まあ、贔屓目に見ても私は真面目な学童ではない。玉藻様のお話はそりゃためになるけれど、どうも私には向いていない気がする。すぐに飽きてこうして外を出歩いている辺りからも間違いではないと思う。

「こんな月の綺麗な日は机に向かうよりも外に出なくちゃ腐っちゃう」

 なんて、誰かが聞いているわけでもないのに言い訳を述べる。

「……それにしても本当に綺麗……誰もいない雪積もる山道を照らす満月……うふふ、独り占めしたら罰が当たりそうね。蒲斑姉様はうつつを抜かしている暇があったらーって怒りそうだけど、今度誘ってみようか――」

 な、と。

 言いかけたその時。


 ガシャン


「へ?」

 雪に突っ込んだ右足に違和感。そして次の瞬間にはぐいんと右足が持ち上がり、視界が反転。体ごと宙づりにされてしまった。

「え、え!? う、嘘でしょ!?」

 あまりの出来事に私は平静を保てなくなり、人化が溶けてしまう。

 ぶらんぶらんと空中で全身が揺すられる。その時になって、ようやく自分が網にかかって木の枝からぶら下げられていることに理解した。

「そ、そんな……」

 サアっと血の気が引く。

 浮かれていたし、積雪で足元が見えなかったとはいえ、まさか自分がこんな古典的な罠に引っかかってしまうとは……。

 しかも狭い網に押し込められて平静が保てず、改めて人化し直すのも難しそうだ。

 ごくっと唾を呑む。

 狩人に捕まってしまった獲物がどうなってしまうのか、想像できないわけじゃない。自分がほんの小さい子狐の頃から両親に口酸っぱく嚇されてきたからだ。

「だ……」

 自分が思っていたよりも、震えた声が漏れる。

「だ、誰かー! 助けてー!? ここから出してー!!」



        * * *



 一体どれくらい経っただろう。

 月はすっかり山の向こうに落ち、反対側から日が昇り始めていた。

 網を振りほどこうと暴れまわったせいで脚に縄が絡まり、擦れて毛皮がとても痛い。それに寒さと圧迫で先端部分の感覚が徐々になくなってきていた。

「…………」

 もはや助けを呼ぶ声すら出せない。

 疲労と飢えから視界も霞んできた。

 このまま死ぬのかな……。

 こんなところで、誰にも看取られず、狩人の手に落ちるのかな……。

 私の毛皮は白くて珍しいから売りに出されちゃうかもしれない……そうなってから蒲斑姉様に見つけてもらっても、もう遅いよ……。

 生きてるうちにもう一度会いたい……。

 お勉強さぼったからこんなに目に遭ったのだとしたら、今度からちゃんと玉藻様のお話聞くから……。

 だから……。

 誰か……。


「あ、かかっとる」


 誰かの声が聞こえた。

 蒲斑姉様でも玉藻様でもない。

 男の声だ。

 この罠をかけた狩人だろうか……。

 霞む視界をこらし、近寄ってくる人影をじっと見つめる。

「いやー、獲れるもんだなこんな罠でも。……って、あれ? こいつぁ……」

 中肉中背の、何とも言えないパッとしない印象。

 右目の下に横一列に並んだ三つのほくろが唯一の特徴だが、平時であれば翌日には忘れてしまいそうな男だった。

「…………」

 こんな冴えない男の罠にかかってしまうとは、我ながら情けない。

 せめて妖狐の血を引く者として、祟ってやろうか――なんて、考えている余裕はなくなった。

「あーあー! こいつぁまずい! 今助けてやるからな!」

 へ?

 ぶちっ、ぶちぶちっ!

 男は腰に差し手いた鉈を引き抜くと、私を宙吊りにしていた網を引き千切った。

「あぶっ」

 急に支えがなくなり、雪に顔面から突っ込んだ。

 訳も分からず未だ力の入らない肢を何とか動かして雪から抜け出し、顔を上げる。

「いやー、まっこと申し訳ない! まさか宇迦之御魂神の遣いを罠にかけちまうとは! どうか、どうか謝りますから祟らんでくだせぇ!」

「…………」

 雪上に手のひらをつき、額をこすりつけんばかりに頭を下げる男の姿がそこにあった。

「確かにあたしゃ、今度やんごとなき方々がやる狩りの獲物を確保しとくために罠を仕掛けましたがね、神の御使いをとっ捕まえようなんてこれっぽっちも考えておりませんで……」

 ぺこぺこと、何だかこちらが申し訳なくなるほど低頭する男。もしかして、私が白い狐だから本物の御使いと間違えているのだろうか。だとしたら、何という幸運。

 その頭頂部にそっと鼻先を近付けると、ようやく男は顔を上げた。

「…………」

 ぱちぱちと瞬きをする男と至近距離で目が合う。しばらくそのまま見つめていると、男はにへらっとこちらが脱力してしまうような緩い笑みを浮かべた。

「へへっ、お怒りでないようで何よりでございます。……歩けますかい?」

 男は網で擦れて地肌が見えかけている肢に視線を向け、心配そうにそう問いかけてきた。

 私は試しに立ち上がろうとしてみるが、やはり上手く力が入らずにこてんと雪上に転んでしまった。

「ああ、ああ、こいつはいけねぇ。……神の遣い――というか、獣も診たことはないが、なんとかなろうか……」

 いうと男は立ち上がり、私を抱き抱えた。

 獲物を捕らえようという抱え方ではない。人間が赤子を抱くような、慈しみのある手つきだった。

 それに――何とも温かい。

「…………」

 男がザクザクと雪道を踏みしめる音を聞きながら、次第に私は舟をこいで静かに夢の世界へと落ちていった。



        * * *



「…………」

「葛葉」

「……………………」

「葛葉?」

「………………………………」

「……葛葉!」

「…………………………………………」

「葛葉!!」

「はっ!? な、なに!?」

 突如耳元で叫ばれ、私は集中が途切れてぽふんと人化が中途半端に溶けて獣の耳と尻尾がはみ出した。慌てて周囲を確認するも、幸いにしてここは玉藻様の自室。そうそう人の目があるわけではない。

 一呼吸おいて改めて人化し直し、声の主――蒲斑姉様に向き直る。

「えっと、何でしょう蒲斑姉様」

「何でしょう、じゃありません。既に何度も呼んでいるのに、何故返事をしないのです」

 目を吊り上げ、言葉に圧を含ませながら詰め寄る蒲斑姉様。その瞳の奥では赤い妖気が渦巻いている。まずい、割と本気でお怒りだ。

「葛葉、あなた弛みすぎではないかしら? 前々から集中力に欠けているところはあったけど、最近は特に酷いですよ」

「ご、ごめんなさい……」

 勝手に視線が泳ぎ、それを誤魔化すように俯く。その視界に、ちらりと右足に巻かれた包帯が映り込む。


『あたしゃこれでも宮で飯係をやっておりましてね。ちょいとばかし薬膳の類には詳しいんですよ。……まあ、何でそんな男がお偉方の狩りの下準備なんぞしてんだって話ですがね。下っ端は何でもやらされるのが世の常ってやつですよ』


 こちらの気が緩む笑みを浮かべながら私の肢に包帯を巻いた、あの男の顔が脳裏を過る。その瞬間、夏に外を駆け回った後のように顔が熱くなるのを感じた。

「……???」

「葛葉? 顔が赤いですよ? もしかして、体調が悪いとか?」

 と、先程までの剣呑な空気を引っ込めて蒲斑姉様が私の顔を覗き込んでくる。しかし自分でも理由が分からず、「大丈夫、大丈夫だから……」と首を振った。

「そう。……倒れては元も子もないのだし、今日はもう帰った方がいいですよ。玉藻様もお忙しいようですし」

 言いながら蒲斑姉様はそっと御簾越しに外に視線を向ける。

 いくらか欠けた白い月は、既に高い位置まで登っている。最近、玉藻様は自室に戻られる時間が遅い。帰ってきてもいくつかお話をしてくれるだけで、すぐに寝台へとこもられてしまう。

 何かあったのだろうかと蒲斑姉様と心配になって尋ねたことがあるが、玉藻様は笑って首を横に振るだけだった。

「……うん、そうだね。私、先に帰ってるね」

「はい。私はもう少し残って、寝台を整えてから帰りますね。では葛葉、また明日」

「はーい。おやすみなさい、蒲斑姉様」

 そう言って私は玉藻様の自室を出て廊下を歩く――ふりをして、すぐに変化を解いて軒下に潜り込んだ。

 今日は何だか、玉藻様の侍女として宮勤めしている蒲斑姉様に宛がわれている部屋へとまっすぐに帰る気にはなれなかった。

 もちろん、玉藻様の帰りが最近遅いのが気になるというのはある。それと同時に、この胸を絞めるような、それでいて不快ではない感情について、玉藻様に相談したかったからだ。

 何となくだけど、これは蒲斑姉様に相談しても答えは出ない気がしたから……。

「玉藻様は……こっちかな?」

 人化を解いたことにより跳ね上がった嗅覚を頼りに宮中の軒下を進む。いかな宮仕えの凄腕掃除人でも軒下までは手が回っていない――というか、必要ないためカビだらけの蜘蛛の巣だらけだったが、元々野山を駆け回る方が性に合っているため気にせずずんどこ進んでいく。

 そうして無駄としか思えない広大な宮中を進み続けて、ようやく玉藻様がいると思われる部屋の近くまでやってきた。

 が。

「……? あれ、今って夜だよね?」

 なんだかこの辺り、昼間みたいにたくさんの人間の気配がするんだけど……。

 ひょっこりと軒下から顔を出し、辺りを伺う。すると、行燈を持ち背中に弓矢を背負い、腰に鉄の刃を佩いた守り人たちが何人も辺りを定期的に歩き回っていた。

「なんだかすっごい警備が厳重……」

 こんなところで玉藻様は何をしているんだろう……?

「ともかく、行ってみよう」

 今や自分のことはどうでもよく、玉藻様がここでなにをしているのかという興味の方が勝ってきていた。

 しかし獣の身とは言え、毛の白い毛皮は闇夜でも目立ってしまう。こっそりと近づくためにも、私は霊力を練って周囲に氷の鏡を出現させる。

 蝦夷随一の妖狐と呼ばれていたらしい父様から唯一受け継がれた、冷気を操る妖術――原理はよくわからないが、これを使うと周囲から目を向けられなくなる。父様はこれを使って、毎夜のように宇迦之御魂神の庭に忍び込んで母様に会いに行っていたらしい。……ところで、毎夜会って何をしていたのかは母様は教えてくれなかったなあ。父様は教えようとすると母様にぶん殴られていたし。結局知りじまいだった。

 そんなことより。

「玉藻様はここかな……?」

 姿を隠し、警備をすり抜けながら歩いていると、中でも特別大きそうな部屋の前まで来てしまった。扉に耳を立てて中の様子を窺うと、話し声が聞こえてくる。

「では頼みましたよ。今宵は顔合わせ程度で結構ですが、玉藻、くれぐれも失礼のないように」

「かしこまりました。お局様」

 声の主はやっぱり玉藻様だった。そして相手は確か、玉藻様よりなんか偉い人だっけ? あんまり印象にないけど、なんか鴉みたいな角ばった鼻立ちが特徴的なのだけは覚えてる。

 って、そんなこと思い出してる場合じゃない!

 私は扉の陰に隠れ、鴉納言様(今命名)が退室するのと入れ代わりに中へと入った。

「うわっ……」

 思わず声が漏れる。

 扉の向こうからでも何となく分かっていたけど、この部屋本当に広い……。でも御簾の奥に寝台も見えるし、この大きさで個人用の部屋なの? こんなところに住める人って宮中でも限られてるんじゃ……。

「さて」

 玉藻様の声が聞こえてきた。慌てて近くにあった火鉢の陰に隠れて様子を窺う。

「お初にお目にかかります――アツザネ様」

 玉藻様がうやうやしくこうべを下げる。どうやら相手方はアツザネというらしい。

 あんまり聞いたことのない名前――

「……ん?」

 アツザネ?

 アツザネ……あつざね? 敦ざね、敦実…………敦実!?

 今玉藻様、敦実って言った!?

「…………」

 火鉢の陰から限界まで首を伸ばして様子を窺う。

 すると、玉藻様の奥――一段高いところで行儀悪く胡坐をかき、帯もきちんと結ばず、散らかした枕に肘をついてイライラと貧乏揺すりしている少年がいた。

 うわ、初めて見た……宮中にあまり興味がない私でも知っている、天皇家きっての問題児――敦実親王だ……。

 噂だと、現皇の実弟でありながら歌に蹴鞠と遊び惚けてばかりである上に、普段から奇行が目立つから譲位から最も遠いって聞いてたけど……確かに、アレはちょっと……。アレじゃあ、その辺の農夫の子供のほうがよっぽど行儀がよさそう……。

「明日より敦実様の教育係と呼ばれることとなりました、玉藻と申します。以後、お見知りおきを」

「…………」

 敦実様は興味なさげに大欠伸をし、眠そうな目を玉藻様に向ける。

「……で?」

 しばしの沈黙の後、ようやく敦実様が口を開いた。

「それだけならもう帰ったら? 俺はもう眠いんだよ」

「…………」

 今、俺って言った?

 仮にも皇家に連なるお方がなんという言葉遣いを……。

 それに玉藻様もこの方の教育係って言った? 最近帰りが遅かったのはそのせいかな……。それにしても、またとんでもない重荷を押し付けられて……ひょっとして、農夫の娘が異様に出世が早いんで煙たがられてる?

「これはこれは申し訳ありません。今宵はあくまで顔合わせ故、すぐに下がります。が、一つだけ、敦実様に申し上げておきたいことがございます」

「はあ? なんだよ、さっさと帰れよ」

「なに、すぐに済みます」

 言うと、玉藻様はパン! と一つ、柏手を打った。

 すると周囲に仄暗く光る、黒い火の玉がいくつか浮かび上がった。

 それを見て、私はぎょっと目を見開いた。

 アレは間違いなく、妖狐の操る狐火――人に生まれ変わり、膨大な妖力をその身に秘めながらも繰る術のほとんどを失った玉藻様が扱える、数少ない妖術の一つ。しかし今日の今日まで妖狐の生まれ変わりであることを秘してきたのに、何で突然こんなことを!?

 あ、でもよく見ればあの狐火、かなり込められている妖気が薄い。あれくらいなら普通の人間には見えないはず……。

「…………」

 だけど、敦実様は目玉が零れ落ちんばかりに目を見開いてその黒い狐火を凝視している。え、もしかしなくても見えてる!? 子供のうちは見えやすい体質の子はいるって聞いたことあるけど、そりゃ、自分の教育係に呼ばれた者が突如狐火を呼び出したら誰だってあんな顔になるよ!

 が、玉藻様はくつくつと喉の奥で笑っている。

「ああ、やはり。やはりそうなのだな」

「……なっ」

「やはり御主、見鬼の才があるようじゃな」

 普段、私や蒲斑姉様と話すときの口調に戻った玉藻様は、次々と狐火を呼び出して辺りに漂わせる。

「このような妖気の薄い狐火すらはっきりと目に見えるとは、よっぽどのようじゃな。童のうちは見える者が多いが、御主ほどの才ある者は初めて見たわ」

「貴様、妖の類か」

 あ、まずい。

 敦実様が散らかっていた床に転がっていた短刀に手を伸ばす。

 いくら狐火が扱えても、今の玉藻様は肉体的には人間だ。あんな小さな刃でも凶器以外の何物でもない。

「玉藻様!!」

 私は氷鏡を打ち払い、玉藻様と敦実様の間に躍り出る。獣の牙をむき、ありったけの妖力を漂わせて威圧を――と。

 ぽん、と。

 頭を撫でられ、私の体がひょいと優しく持ち上げられる。

 もちろん、玉藻様だ。

「え?」

「落ち着けい、葛葉」

「……あぅ」

 温かみのある声に喉元をさする優しい手つき……私は一瞬で気が抜けて玉藻様の腕の中で脱力してしまう。こ、このままじゃ玉藻様をお守りできないのにぃ……。

 だけど、敦実様は一向に手にした刃を抜き放つ気配はない。何でだろうと玉藻様に撫でられながらじっと見ていると、敦実様はカチカチと短刀の唾と鞘口を合わせて音を鳴らした。

 すると。


『あつざねー!!』

『きたぞきたぞー!!』

『こよいはなにする!? こゆみか!? いしなごか!? けまりもいいな!』


 部屋の中の影という影、闇という闇の中からどざぁっと音を立てて大量の小鬼がなだれ込んできた。それと同時に周囲の柱や梁からパチンパチンと異音が響く。もしかして、これ全部家鳴?

「馬鹿、お前ら、この前室内で蹴鞠をして怒られたのをもう忘れたか」

『えー、いいじゃんいいじゃん』

『おこられたのはおれたちじゃないしー』

「いいわけあるか、あの鴉女、口うるさくて敵わん」

 本来臆病で、私たち妖の前にもほとんど姿を見せない家鳴たちが大量に敦実様に群がっている……。

 そのある種異様な光景に、今度は私がぽかんと眺める番だった。

「くくく、普段の奇行や遊びはこやつらの相手をしておるからか?」

「ふん。奇行やなんや、好きに言わせておけ。目に見えるものだけ信じる愚か者には興味がない」

 きっぱりと言い放つ敦実様。いまだに信じられず、玉藻様を見上げると今度は敦実様の方から声をかけられた。

「で、貴様らは何なんだ。そっちの白いのは妖狐の類か? はたまた神の御遣いか?」

「どちらでもない。どちらになるかは、この者が決めることよ」

「ふん。で、貴様は? 一見すると人のように見えるが、どうなんだ玉藻前よ」

「儂は人じゃよ。今は、な」

「今は、とは」

「かつては大陸におった狐じゃ。死して後、この国で人として生を受けた」

「ほう」

 敦実様が目を細める。彼に群がる大量の家鳴たちも、興味深そうに玉藻様の様子を窺っている。

「その狐が、何故俺の前に現れた? 聞いたことがあるぞ。古来より国を傾ける狐の化身の伝承を……よもや俺に取り入り、宮を崩す心づもりでもあるまい。今ここで名乗り出る意味がないからな」

「……ほう。遊び惚けていると聞いておったが、学はある様子」

「あんなもの、一度聞けば覚えられる。それをあの鴉女は何度も何度も押し付けてくる。鬱陶しくて敵わん」

「自身に理解できぬことは他者にも押し付けるのが人の常よ。……学があるのであれが知っておろう。古の狐の、もう一つの顔を」

 もう一つの顔?

 玉藻様の腕の中で、私は首を傾げる。

 大陸で国をいくつも滅ぼした妖狐の話は知っている。蒲斑姉様はその話が大好きで、いつかそのような立派な妖狐になりたいものだと息巻いて玉藻様に何度もその話をねだるから、諳んじることだってできる。

 けれど、それ以外はあまり印象にない。……別に、居眠りして聞いてなかったわけじゃないとは思うけど。

「ふん、なるほど……貴様、瑞獣に戻りたいのか」



        * * *



「瑞獣」

 敦実様は話を聞くのに飽きて体をよじ登り始めた家鳴たちを一匹一匹引き剥がしながら頷く。

「古来より吉祥を示す獣であり、長とされてきた者たちの総称だな。鳳凰は叡智ある賢者のもとに、麒麟は仁徳ある王者のもとに、獬豸は優れた裁判官が生まれた時に現れるという。九尾の狐もまたその一匹。司るは守護。そして――革命。その側面から元々凶獣とも呼ばれてはいたが、それがいつの頃からか、国を傾ける大妖怪と言われるようになったが」

「…………」

 玉藻様は目を伏せ、私の頭を撫でる。

 その指先は、僅かに震えていた。

「……儂は、女媧様に言われるがまま、彼の国を滅ぼした。紂王に取り入り、世を乱した。女に溺れた紂王は暴君となり果てたが……儂にだけは、確かに優しかった。あの温かみが忘れられず、その後も数々の国を渡り歩いた。――その度に、国が滅んだ」

「ふん」

 なんだ、と敦実様は鼻で笑った。

「書物で読んだ時、一体どんな大悪党なのかと思ったら、単なる寂しがり屋か。孤独を拗らせて妖に堕ちたとは、随分な笑い話よ」

「否定はせんよ。……儂が儂であるが故に国が滅ぶ。で、あれば、儂以外のものになろうとこの国に来て赤子の亡骸に宿り、人となった。……が、結果はこの様よ。妖の力は完全には消えず、それでも農夫の娘として慎ましやかに暮らしておったのに、まんまと宮に呼び出され、儂の意思に関係なく帝に近しい者のそばにつかされる」

 私は息をのんだ。

 これまで、玉藻様が昔話以外で自身のことを語ったことは一度たりともなかった。

 でも、これを蒲斑姉様が聞いたら……。

「…………」

 と、玉藻様の指先が再び私の頭をやさしく撫でた。見上げると、もの悲しい光を瞳に湛えた玉藻様が、指先を唇に当てていた。

 それを見て、勝手に耳が下に垂れ、尾が腹側に丸まってしまった。

「儂自信を変えるため、儂でないものに成れないのであれば、かつて儂だったものに戻るしかあるまい。……人として生きることは、もう諦めよう。妖として生きるのも、もうまっぴらじゃ」

 故に、儂を瑞獣として傍に置いてはくれまいか。

 玉藻様はそう口にし、深々と頭を下げた。

「……はん」

 敦実様が、鼻で笑った。

「何故貴様のような凶獣まがいの妖を兄上のそばに置かねばならん。昔から狐は人を騙すと相場が決まっておる。例え貴様の言が嘘偽りのない真実であったとしても、貴様の無意識で国が傾くのであれば、そんな不穏分子など排除せん理由はない」

「なっ……そんな言い方はないじゃない!」

「黙れ、妖でも御使いでもない半端者の子狐が。俺はこれでも親王ぞ。宮に仇名す可能性のあるものを排除して何が悪い。今ここで切り捨てても構わないのだぞ」

「そこから一歩でも近付いてみなさい! 指先という指先に一本ずつ歯形を付けてやるんだから!」

「地味に嫌な脅しじゃのう……」

「あぅ……」

 今度は首周りの一番柔らかい毛皮を指先で撫でられた。そこ、何だかこそばゆくて力が入らなくなる……。

「どうしても、駄目か」

「利はあっても害が大きい」

「ふむ」

 片方の手は私の毛皮を撫でるのを止めず、もう片方の手を綺麗な形のあご先に当てて小さく首を傾げる。そしてほんの少しの間、何やら思考を巡らせるそぶりを見せたのち、玉藻様は再び口を開いた。

「では、御主個人に利を与えよう」

「はあ?」

 怪訝そうに眉根を顰める敦実様に、玉藻様は喉の奥で笑った。

「なに、単純な話よ。御主が欲しいものを何でも与えよう。金でも女でも名誉でも才でも、思うが儘よ」

「……阿呆なのか、貴様」

 見下すような視線が、行き過ぎて呆れ返ったそれになる。しかしそれを前にしても、玉藻様は変わらず笑いつづける。

「金などあって俺に何の得がある。女など、この血のせいで向こうから勝手にやってくるわ。名誉なんぞ興味もない。才もこれ以上不要よ」

「すんごい自信家……」

 特に最後の一つ。詩に蹴鞠と遊び呆けているとは聞いていたけど、それも才がなければ長続きはしない。この歳で宮中の噂になるくらいだから、やっぱり相当なんだろうなあ。

「で、あろうな」

 しかし一刀で断られたにもかかわらず、玉藻様はおかしそうに口元を歪めている。

「このような俗なものに飛びつくほど、御主は小物ではなかろう」

「いちいち物言いが面倒な奴よ。これだから人を誑かす類の妖は嫌い――」


「知識」


 敦実様の言葉を遮るように、玉藻様はそう口にした。

「御主には知識を与えよう」

「……何だと」

 ごくりと、敦実様が唾を飲み込む。初めて彼の表情が変わった。

「儂がこの目で見、この耳で聞き、この魂に刻んだありとあらゆる知識を御主に授けよう。数千数万にも及ぶ年月を経て蓄積された膨大な知識――否、歴史よ。御主ほどの知者が、まさかいらぬとは言うまい」

「……くく」

 敦実様が喉の奥で笑った。

 先ほどまでの相手を見下すような顔はすでにない。そこにいるのは獲物を見つけた猛禽のような表情を浮かべた、知識を欲する鬼のようだった。

「如何かな、敦実様」

「くく……なぁにが『如何かな』だ、この女狐。元々貴様は俺の教育係として呼ばれていたな。端からそのつもりであったんだろう。あの鴉女をかどわかし、俺に近付いたといったところか。その狡猾さ、貴様自身も用心せねばあっという間に妖に()()羽目になるぞ」

「ふむ、忠告はありがたく受け入れよう」

 にやりと笑う玉藻様。なんだか二人とも楽しそうで何よりだけど、私が言葉を挟むすきがないというか……。

「覚悟せよ玉藻前。貴様に刻まれた歴史、髄の髄までしゃぶりつくしてくれよう」

「かかっ、そう急くな小僧。せっかちな男は嫌われるぞ」

 言うと、玉藻様は私を抱きかかえたまま静かに立ち上がった。

「では明日、朝餉の後にここで」

「ああ」

 そっと頭を下げ、敦実様の自室から立ち去る玉藻様。

 薄暗い廊下を夜闇に浮かぶ月の光が照らす中、淀みのない足取りで進む玉藻様は、私の頭を撫でながら小さく呟いた。

「……分かっておるとは思うが」

「うん……」

 そのあとに言葉は続かない。

 言われなくとも、分かっている。

 今夜のことは、蒲斑姉様には絶対に口にしてはいけない。良くも悪くも、蒲斑姉様は玉藻様に――大陸を傾けた大妖狐に心酔している。その本人が今更「妖をやめたい」などと考えているのがばれたら、どうなるか分かったものじゃない。

 妖狐と生まれたのであれば、かような妖狐であるべし。

 妹の私から見ても、蒲斑姉様が玉藻様に抱いている妄執にも似た感情には、ついていけない時がたまにある。

「で、葛葉よ」

「あ、はい」

「御主、何用で儂の元まで参った?」

「……あ」

 そういえばすっかり忘れてた……。

 思いがけず玉藻様の本心を知ることができて、自分のことがすぽんと抜け落ちていた。

「あのね、玉藻様……黙ってたんだけど、私、この前罠にかかっちゃって……」

「……なんじゃと。そう言えば先日から歩くときに足を引きずっておったが」

「あ、ううん! 怪我は大したことじゃなかったの! 薬も塗ってもらったし……」

「薬?」

「うん。この前、山を一人で歩いていたら――」

 そこから私は訥々と語った。

 一人で山を歩き、罠にかかり一人吊るされたこと。

 そのわなを仕掛けた本人が、私の毛皮を見て神様の遣いだと勘違いして助けてくれたこと。

 怪我をしているのを見て、薬を塗ってくれたこと。

 そして、その人のことを思い出すと――

「何だか、胸の奥がきゅうってなるっていうか……苦しい? わけじゃないんだけど、何だか、変な感じなの。むしろ温かいっていうか……」

「…………」

「玉藻様?」

 見上げると、私の頭を撫でながら苦笑している玉藻様のお顔が見えた。目元も何とも言えないゆるーい感じに細められている。

「その男、右目の下に黒子が三つ、横一列に並んでおったのだな?」

「え、うん。そうだけど……あの、玉藻様。本当に怪我とか大丈夫だから、あんまり酷いことは……」

「御主は儂を何だと思っておる」

「あたっ」

 額のあたりを軽く指で弾かれてしまった。

「その男には心当たりがある。大膳大夫の……確か、安倍益材(あべのますき)といったか。しかしそうほいほい野山に狩りに出れるような身分ではなかろうに。何をしているのやら……」

 呆れ半分怪訝半分といった声音で首を傾げる玉藻様。しかし呟きの後ろ半分は私の耳にはほとんど入ってきていなかった。

「益材……様」

 そうか、あの人……益材様っていうんだ……。

 また胸の奥で何かがきゅうっと小さく音を立てた。

「……葛葉よ」

「はい?」

 と、玉藻様が神妙な面持ちで私を見ていた。

「一つ、知らせねばならぬことがある」

「? 何ですか?」

「その男、近いうちに淡路守の下に就くことになるはずだぞ」

「え?」

 淡路って……えぇっ!?

「淡路って、すっごく遠いじゃない!」

「まあ遠いは遠いが、陸奥より来た御主が驚くほどの距離ではあるまい」

「で、でもぉ……」

 その時気付く。

 胸の奥で鳴っていた音が、ほんの少しだけ変わった気がした。

「……玉藻様」

「うむ?」

「なんか、変……胸がきゅうって……さっきとは違う感じに、ちょっと苦しいかも。ねえ、玉藻様……これ、何なんだろう……」

「……かかっ。そう焦らずとも、すぐにでも淡路に向かうわけではない」

「焦る……? 私、焦ってるの?」

 玉藻様は小さく笑った。

「葛葉よ、教えてやろう」

 そう口にした玉藻様は、瞳を伏せた。

 まるで昔々を思い出しているかのように。


「それは所謂――『恋』というやつだよ」

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