だい ごじゅうはち わ ~妲己~
どこで間違えたのだろう。
何が間違いだったのだろう。
どうしてこうなってしまったのだろう。
幾百幾千考えてきたが、ついぞわからない。
そもそもの発端は、主君である女神の像に懸想をした王がしたためた一節の詩であった。
嗚呼、これほどの美女がいればすぐにでも妻に迎え入れるのに。
そういった旨の詩を自身を祀った神殿の壁に書き連ねた無礼な男に、女神は激怒した。
そして神罰として、女神は当時最も霊力の強かった一匹の狐を地上に遣わした。
女神の美しさを諦められなかった王は国中から美しい女の噂を聞いては宮に迎え入れた。
その中でも特に美しい――それこそ、主である女神を彷彿とさせるような、地方の太守の娘に狐は目を付けた。
宮へ召される直前、狐は娘を喰らった。
娘の皮を被り、何食わぬ顔で宮へと入った。
王は娘の美しさに王は大いに満足し、娘を飴よりも甘く甘やかした。
娘のいうことは何でも聞いた。
娘の求めるものはなんでも叶えた。
穴を掘った。
柱を立たせた。
――大勢、死んだ。
娘に溺れた王の国は、数多の犠牲の末に滅ぼされた。
神罰は成った。
狐は意気揚々と女神の元へ戻った。
しかし女神は狐に対し、いい顔をしなかった。
やりすぎたのだ。
あまりにも死に過ぎたのだ。
人も妖も――神も、あまりにも死に過ぎた。
女神は狐を追い出した。
狐は西へと逃げた。
王は娘に――狐に溺れた。
そして狐もまた、王に溺れていた。
王の所業はどうあれ、王は娘にだけは確かに優しかった。
人のぬくもりを覚えた狐は西へ西へと逃げた。
そうして逃げた先で得たぬくもりで――再び国が滅んだ。
狐は逃げた。
人に恋した狐は、ぬくもりを求めて逃げ続けた。
* * *
「おおい、みくずや。そろそろ昼餉にしようか」
「はい、お父様」
己を呼ぶ声に私は手にしていた鎌を腰紐にさし、顔を上げた。
いつも一息つく松の木の下には、既に作業を終えた父と母が昼餉の準備をしながら待っていた。
「お待たせしました」
「おう、それじゃあ、いただこうか」
「みくずや、たんとお食べ」
松の木の木陰に腰かけ、母から受け取った竹の葉の包みをほどく。
中には丁寧に結ばれた握り飯が入っていた。
「いただきます」
手を合わせ、短く祈りを捧げる。そして小ぶりなその穀物の塊に齧り付く。
握り飯には粟や稗が多く混ぜられているが、それでも米の比率も高い。代々宮で食される米を作って来た家だからこそ可能な贅沢であることは理解している。仕事はきついし、米を受け取る役人は無駄に偉そうだし、嫌になる時はあるが――少しずつ増えていく米の比率に、私はにんまりと口角を上げる。
「しかし今年も豊作だな」
「ええ、本当に。これもみくずのおかげですね」
「そんな、私なんて。父様と母様の手入れが細やかなおかげですよ」
「謙遜するな。お前が土を休ませるために豆を植えさせなければ、この辺り一帯の農夫は一昨年の冷夏で飢え死にしていただろうよ」
握り飯を頬張りながら父は豪快に笑う。それに微笑みを返しながら塩漬けにされた大根の切れ端を齧る。
……何年も同じ地で同じ作物を作ると土が死ぬため、隔年で豆を植えるのはかの地では常識であったのだが、ここまで感謝されるとは思わなかった。
まあ私をここまで育ててくれたことに感謝はしているため、助言を惜しむつもりはないのだが。
「ん……?」
がさり、と。
近くの草むらが小さく揺れた。
熊のような大きな獣の気配ではないから心配はないだろうが、私はじっと草むらを見つめて様子を窺った。そうしていると草むらが再び揺れ、奥から小さな影が二つほど転がり出てきた。
「おや」
それは二匹の子狐だった。この辺りでは別に珍しくも何ともないが、まだ親元を離れて動き回るにはやや小さい。
しかしそれよりも目を見張るのは、二匹のうちの片割れ。
片方が夕暮れの芒の穂を思わせる見事な黄金色の毛並みをしているのに対し、その一匹はまるで雪原のような白い毛並みをしていた。まれに、白子と呼ばれる白い毛と赤い瞳を持つ体の弱い個体が生まれてくるが、この子狐の瞳は澄みきった青色。いずこの地から来たのかは知らないが、どうやらこの辺りの狐ではないらしい。
「あ、こいつら!」
と、父も二匹の子狐に気付いたらしい。やおら腰に差したままの鎌を抜き取ると、振り上げて二匹に迫った。
「最近畑に穴を掘っているのは貴様らだな!」
「なりませぬ、お父様!」
咄嗟に父を呼び止める。
考えがあってのことではない。
この人の体で生まれてきたが、それでもやはり同族が殺められるのは見たくはなかった。
「みくず?」
「あ、えっと……畑に穴をあけているのはこの者たちではないかと思われます。確かに多少は掘り返すかもしれませんが、今ここでこの者たちを殺めればさらに田畑は荒れましょう」
「む? どういうことだ」
「田畑に穴をあけているのは恐らく鼠。そして狐は鼠を食べます。彼らを生かすことは、結果として鼠を減らすことに繋がりましょう」
「う、うむ……言われてみればそうかもしれんなあ」
言うと、父は腰紐に鎌を戻した。
私はそれにほっと一息つくと、念のためにもう一言付け加えた。
「それにこちらの白い子狐をご覧ください。滅多に見ることのない毛並みでございましょう。古来より白き獣は神の御遣い――豊穣を司る宇迦之御魂神は白き狐を連れているとか。もしやこの者も……」
「おおう、そうであった。いやはや、危うく神の御遣いを殺めて神罰が下る所であったわ」
「流石はみくず。思慮深く優しい子だねえ」
仄かに青褪める父と対照的に、母は優しく微笑んで自身の握り飯の欠片を二匹の子狐に差し出した。最初二匹は警戒して鼻先をすんすんと鳴らしているだけだったが、白い方が一口齧りつくと黄金色の方も後に続いた。
「さて、一服着いたところで私はもうひと仕事してくるぞ。お前はどうする?」
「私は一度家に戻ります。草鞋がきれそうでしたからね」
「私はもう少しここで風に当たっております」
「うむ。気を付けるのだぞ」
父が立ち上がり、母も続いてその場を後にする。私はそれを見送り、握り飯を夢中で頬張る子狐を眺める。
「……さて」
父も母も遠ざかり、周囲に人けがなくなったことを確認し、私は目を細めた。
「御主ら、何者じゃ?」
普段の余所行きの声音を改め、舌に馴染んだ口調に戻して私は二匹の子狐を問いただす。
「「…………………………」」
二匹は一瞬顔を見合わせると、黄金色の方が近くの草場に生えていた葛の葉を白い方の頭に乗せてやり、二匹揃って宙返りをした。
ぽんっ
そんな軽い音とともに、二匹の姿が一瞬で変わった。
童服に身を包んだ小さな少女が二人――しかし、一方は元の毛色がそのまま残って輝くような金髪だし、もう一方も同様に白髪の上、耳と尻尾も残っている。
「お初にお目にかかります、みくず様。我々ははるか北の陸奥の地から参りました。私は姉の蒲斑。こちらは妹の――と申します」
「……ます」
蒲斑と名乗った黄金色の子狐が、自分の背中に隠れたがる――の背を押して前に出す。変化に用いた葛の葉が髪に刺さったままのため、何とも言えない微笑ましさがある。
「……申し訳ありませぬ。食い意地は張ってるくせに、恥ずかしがり屋なもので」
「蒲斑姉さま……言わなくていいじゃない……」
「かかっ。いや、構わぬ。可愛らしい妹御ではないか。……して、儂に何用じゃ?」
目を細め、二匹を見やる。
人として今日まで生きてきたが、妖の方から明確な意思を持って接触してきたのは初めてだった。
「我々は、父に蝦夷の地より神通力にて陸奥に渡った妖狐、母に宇迦之御魂神の御遣いを持つ狐にございます。先日、父から立派な妖狐となるよう旅に出されたのでございますが、まずは大変力の強い狐がこの地に転生してきたようであるため、享受を賜れとのことでございました」
「断る」
「「…………………………」」
ぽかんとした表情で見上げてくる二匹を尻目に、私はさっさと立ち上がって母が待っている家へと向かう。
「お、お待ちください、みくず様!」
しばらくして、蒲斑が人間姿のまま追いかけてきた。その後ろに人化が維持できなくなったらしい――が白い狐の姿で続く。
「どうか、どうか我々を弟子に! 立派な妖狐にしてください!」
「無理じゃ」
「何故でございますか!」
「儂に教えられることなど一つもないわ」
「そんなご謙遜を。事実、そのように完全に人間に化けておいでではないですか」
「これは……これは違うのじゃ」
この身について一から説明するのも面倒だ。
それに説明したところで何も変わらない。
すでに狐でなくなったこの体で、教えられうことなど本当にないのだから。
私は人間の歩幅を十二分に生かし、二匹の子狐を引き離してさっさと家路についた。
だがそこからが長かった。
「みくず様!」
「どうか我々を!」
「弟子に!」
「してください!」
二匹の子狐――とりわけ、姉の蒲斑の方がとにかくしつこかった。
家にいようが仕事で畑にいようがお構いなしに「弟子にしてくれ」と言い寄ってきたのだ。
狐の姿で駆け寄ってくるだけならばまだいいのだが、何を考えているのか人目も憚らずに中途半端に人化し、金髪の童姿でその辺をほっつき歩くため目立って仕方がない。
しかも妹の――も白狐姿でそのあとを追いかけるものだから、二匹の噂は瞬く間に広まった。
童姿の鬼子が、どういうわけか宇迦之御魂神の遣いを伴ってみくずにまとわりついている。
そう言えば先の冷害の際も、みくずの助言で助かった。
おお、やはりみくずはただの子ではなかったか。
妖も神も目をつける、巫の素質があるに違いない。
冗談ではない。
噂が村の外にまで広がる前に、かろうじて使える分の神通力を駆使して二匹の記憶を村人から消し去ったが、それを見て火が付いたのか蒲斑の懇願は激しさを増していった。
妖狐にとって執拗さは美徳ではあるが、自分が受ける側に立つとなんと鬱陶しいことか。
蒲斑の付きまといは三日三晩と続き、ついに私は折れた。
「…………………………」
私は沈黙し、二匹を眺める。
はるか陸奥の地より私の転生を察知したということはなかなかに力の強い狐であるらしい。しかも神仕えの血まで引いているとなると血筋は十分。先日のしつこさを見るに、素質もあり将来有望である。
だがしかし、どうしたものか。
かの地を放逐され、この国に渡り水子の亡骸に宿って幾年月。ようやく得た人としての生活の代償として、この身に有り余る神通力を繰る術の大半を失った。今の私にこの二匹の小さき妖狐に特別に伝えられるものなど、昔語りくらいしかない。
とは言うものの、その小さき躰ではるばる陸奥からやってきたというのに、これ以上無下に追い返すのも元同族として忍びなくなってきたのも事実。
私は悟られぬよう小さく溜息を吐く。
「……ふむ、仕方ない。儂にできることなぞほとんどないが、まあ昔話くらいであればしてやれるかのう」
「では……!」
ぱあっと蒲斑の表情が明るくなる。再び蒲斑に手伝ってもらい人化した――も、心なしか嬉しそうである。
「じゃが、ただで知識を得られると思うな。儂にもこの体での生活があるでな、いくつか条件を出そう。まず、周囲に人気がない時に限る」
「はい、分かりました」
「そして必ず人の姿に変化すること。……しばらくは儂が変化の手伝いをしてやるが、早く自力で変化できるようになれい。――は特にの」
「は、はい……」
――はしゅんと獣の耳を垂れた。今日も今日とて蒲斑に乗せてもらった葛の葉が神に刺さったままの――は、自身が変化が得意ではないことは重々に承知しているらしい。
「あとは……そうじゃのう。御主ら、鼠は狩れるか」
「大丈夫です!」
「……もう、――ったら……」
目を爛々と輝かせた――に蒲斑が額を抑える。先日母が差し出した握り飯に最初に口を付けたのも――が先であったし、食い意地が張っているというのは本当のようである。
「かかっ、その様子であればまことに大丈夫なのであろう。この辺りの田畑の鼠を狩りつくす気概で挑め」
「はい!」
「承知しました」
蒲斑は恭しく、――は元気に返事をした。姉妹のくせに真反対な性格の二匹を見て思わず苦笑がこぼれるが、ふと「――か……」と言葉をもらす。
「……?」
「あの、妹の名が如何されましたか」
「ああ、いや、けちをつけるつもりではないのじゃがの。この人の身では発しづらい音であるからどうしようかと思うてな」
と、私は――の髪の毛に刺さったままの葛の葉に手を伸ばす。
「……まあ、こういうのは深く思い悩んでも仕方なかろう。蒲と同様薬湯の材料となるし、音も悪くない。……よし」
「……?」
「――よ。御主は今日から『葛葉』と名乗るがよい」
* * *
「妲己」
一仕事終え、畑の脇の松の根元に腰掛けながら子狐に語る。
「大陸に存在した殷と呼ばれた王朝の最後の皇帝・紂王の愛した娘じゃ。大陸で人を創ったとされる女神・女媧に引けを取らぬ美しさをもって紂王を籠絡し、王朝を滅ぼした。しかしてその正体は、女媧の怒りを買った殷王に神罰を与えるために遣わされた強大な力を持つ白面金毛九尾の狐であったという」
子狐――とりわけ、蒲斑の方は熱心に耳を傾けている。残念ながらと言おうか、幸運ながらと言おうか、葛葉の方はあまり興味が無いらしくうつらうつらと船をこいでいるが、蒲斑はこの話が大好きだ。
人に化け、王を籠絡し、国を傾けた妲己の所行が、蒲斑にとってもっとも「妖狐らしい」物語譚であったためであろう。二匹の世話役を引き受けてから既に何度も話した内容であるが、未だに何度もせがまれて語らされる。
本音を言えば、あまり語るべき事では無いと私自身は考えているのだが。
結局の所、妲己自身も紂王に溺れ、正気を失っていたために女媧に制裁された。
その後も幾度となく人に化け、人に紛れ、人の温もりを忘れずに幾多の国を渡り歩いた寂しがり屋で――その全ての国が滅ぶ原因となった愚か者でしかないのだ。
「…………………………」
「みくず様? どうされました?」
と、蒲斑が顔を覗き込んできた。話の途中で不意に言葉が途切れ、虚ろな目で宙を眺め始めた私を不審に思ったらしい。
「いや……妲己は名を変え姿を変え、幾度も国を滅ぼした。蒲斑よ、その理由が御主には解るかえ?」
「……? 不思議なことを聞きますね」
それが妲己という妖だからではないのですか、と。
蒲斑はそう当然の事実を口にするように答えた。
「橋姫は橋を守護します。鎌鼬は風を起こします。うわんは『うわん』と鳴いて驚かします。それはそれぞれ『そういう妖だから』ではないのですか? 同じように、妲己は妲己であるから国を滅ぼしたのでしょう」
「……なるほどの。蒲斑は聡いのう」
言って、私は蒲斑の頭をなでる。それが嬉しいのかくすぐったいのか、蒲斑は仄かに頬を赤らめながら目を細めて笑った。
対して、私は胸の奥に靄がかかるのを感じた。
妲己は妲己であるが故に国を滅ぼした。
そこに妲己の意思はない。
最初の殷の国こそ、明確な意思を持って滅ぼしたが、その後は勝手に滅んだ。
否、妲己がいたから滅んだ。
それが妲己の存在理由であったから。
だとしたら――こんな妖になど、生まれたくなかった。
「やあ、こんにちは」
「……!」
突如声をかけられ、慌てて顔を上げる。
見れば、普段年貢を徴収しに来る顔馴染みの役人が、いつも通りの役人らしからぬ人好きしそうな笑みを浮かべて立っていた。その奥ではこの辺りの地主がにやにやと気味の悪い笑みを浮かべている。
「こ、これはこれはお役人様」
慌てて膝をつき、頭を垂れる。それと同時に周囲に支線を巡らせたが、子狐二匹の姿は見えない。どうやら言いつけを守り、人が近づいてきたために姿を消したらしい。
「いいのいいのそんなに畏まらずに。君らは毎年上質な米を献上しているのだから、顔を上げなさい」
「恐れ入ります」
言って、私は改めて顔を上げる。
「ふむ……」
「……?」
すると役人は笑みを崩さないまま、まるで値踏みをするかのようにじろじろと私の顔を覗き込んできた。後ろの地主の気色悪い笑みと合わさって非常に不快だ。
「あの、私めが何か……?」
「いやいや、これだけの上玉を農夫の女で終わらせるのはもったいないと思うてな」
「そうでございましょうそうでございましょう!」
地主が歓喜の声を上げる。
その時になって、私は「ああ」と納得した。
またか。
またこの展開なのか。
「今、宮では見目麗しい女中を集めているらしくてね。君を是非とも紹介したいのだよ」
ああ、やはり。
やはりそうなのか。
人の身に生まれ変わっても、所詮は妲己。
私が望もうと望むまいと宮に呼ばれ、王を拐かし――国を傾けるしか、存在意義が無いのか。