だい ごじゅうなな わ ~神酒~
――ここはどこ?
「月波市」
――今いるところは?
「行燈館」
――ここの主は?
「ミノリ」
――ここの友人は?
「たくさんできた」
――前からの友人は?
「知らない」
――私が今、憑いている人は?
「ユタカ」
――私は誰?
「妖怪白狐で、稲荷」
――私の名前は?
「ビャク」
――家族は?
「ホムラ姉様」
――愛する者は?
「穂波裕」
ああ、よかった。
今日も私は、何も思い出していない。
* * *
「ビャクちゃんが倒れた!?」
焔稲荷で梓と久々に再会し、「まだやることあるから」と去っていく姿を見送った後、そう言えば先程の姉さんからの電話は何だったんだろうとかけ直した。そしてその内容に僕は頭が真っ白になり、気付けば下宿先の行燈館へと駆け出していた。
夜も更けていることも忘れ、乱暴に玄関を開け廊下を走り抜ける。流石にビャクちゃんに割り当てられた部屋の前に辿り着いたころには少しばかり冷静さを取り戻し、ノックを思い出す程度には落ち着いていた。
「ノックしたって返事も待たずに大声上げて入って来たら意味ないだろう」
「はい……」
扉をこじ開けるようにして入室してきた僕を正座させ、ハルさんは眼鏡の奥の青い瞳を冷たく細め、小言を投げかける。
おかげで完全に冷静になりました。ありがとうございます。
「……………………」
ちらりと横目で布団に寝かされている白い少女に目をやる。
雪のような純白の髪に狐の耳を生やし、静かに寝息を立てる稲荷の遣いにして僕個人の守り神として取り憑いている白狐――ビャクちゃんは、意外にも顔色はすこぶるよさそうだった。呼吸も安定しているように見え、うなされている気様子はない。
「熱もないし脈も安定している。見ての通り血色もいいため一見眠っているだけに見えるが、逆に何をしても起きないんだ」
ひとしきり小言を吐き終え、ハルさんが状況を説明する。
「穂さんから聞いているとは思うが、夕食の片付けの最中に急に倒れたんだ。まるで電池が切れた玩具のようにパタッとな。幸い食器の類は持っていなかったし、使い終わったちゃぶ台の布巾掛けをしていたから、転んでの怪我もない」
「何時くらいですか?」
何となく、思い当たる節があり、僕はハルさんに尋ねた。
「八時前……だったかな」
「ちょっと、行ってきます」
「あ、こら!? こんな夜中にどこへ行く!」
ハルさんが呼び止めるのも聞かずに、僕はビャクちゃんの部屋を飛び出す。
玄関を再び乱暴にこじ開け、準備なしに駆け出す。こういう時ばかりは頑丈な体に生んでくれた両親と、幼い頃から取っ組み合いしている梓に感謝する。
「八時前って言うと、ホムラ様の力が急に弱まったあたり……!」
ホムラ様の加護下にいる僕。そして僕の庇護下にいるビャクちゃん。タイミング的に、ホムラ様の影響が僕を通じてビャクちゃんにまで及んだと考えるのが順当だ。
高校生が出歩くには幾分遅い時間帯。
陰り始めた月夜の道を走り、僕は焔稲荷神社まで戻って来た。
「ホムラ様!」
梓によって無残にもなぎ倒された元竹林の中に設えられた参道を通り、社まで一直線に駆け抜ける。相変わらず軋んで空けにくい扉を強引に引き、僕は中に足を踏み入れた。
「ホムラ様大変です! ビャクちゃ……ん、が……!?」
一瞬。
ほんの一瞬、僕の頭の中からビャクちゃんのことを含め、何もかもが消し飛んだ。
それほどまでに、社の中の光景が信じられなかった。
「ほ、ホムラ様……?」
『……………………』
決して広くはない社の中をいっぱいに埋め尽くすほどの金色の毛皮。
忙しなく上下していることからどうやら生き物であるらしいことは見て取れたが、これ、まさかホムラ様か?
『……………………』
ぐるりと巨大な金色毛玉の周囲を回って様子を見る。すると入り口とは反対側に、巨大な体躯に見合ったサイズの獣の頭部が床に顎をついていた。妖狐は苦しそうに呼吸を荒げ、うっすらと開いた瞼の隙間から炎を閉じ込めたような赤い瞳が覗いている。
「ホムラ様、どうしたんですか!?」
『……………………』
ホムラ様は何も答えず、ただ九つある尾のうち一本をゆっくりと持ち上げ、社内の戸棚を指した。
「……?」
そこに何かあるのかと近寄り戸棚を開け、僕は深い溜息を吐いた。
「ホムラ様?」
『……………………』
「ホムラ様、こんな時まで酒ですか?」
戸棚の中はホムラ様のコレクションと思しき酒瓶でぎっちりと埋め尽くされていた。
流石に小言でも言ってやろうかと振り返ると、ホムラ様の尾は今度は祭壇に捧げられたまま放置されていた朱塗りの盃を指していた。
「……ああ」
その時になって、ようやく僕はホムラ様が欲している物に気付いた。
* * *
「神酒」
ひと心地付き、人の姿に戻り胡坐をかいたホムラ様が盃に注がれた酒を舐めるように口にする。
「要するに祭事の際に神へ捧げる酒のことじゃな」
「意味合いとしては、神へ捧げたものを口にすることで神と同じものを食す、おめでたい物って感じだったと思うんですが?」
「それはあくまで人間側の視点じゃの。神からすれば百薬の長じゃ」
「……確かにホムラ様にはそっちの意味合いの方が強そうですけども」
それにしたって、獣状態のあのサイズで一口舐めてすぐ力を取り戻すって、どんだけ効果があるんだよ、お神酒。
「さて、それにしても助かったぞユー坊」
「いえ、それは別にいいんですけど……本当に何があったんですか。ビャクちゃんは倒れるし、ホムラ様も力を失ってるし……」
前に一度、羽黒さんが持ち込んだ仕事関係で衰弱したホムラ様を見たことはあるが、その時でさえここまで弱ってはいなかった。一体何がこの街に起きているんだ……?
「いやなに、ちょいと梓に加護を与えたらミオの阿呆がキレて暴れたでな。その制圧に思ったより力を使ってしもうただけじゃ」
「他神様の家の子に何してんですか!?」
しかもよりにもよって蛇神んちの子に!
「いいですかホムラ様。昨今は他所の家の子を帰る方向が同じだからと車で送り届けただけで難色を示される時代なんですよ。あなたは土地を守る神であると同時に我が家の守り神でもあるんです。もう少し考えてから行動をですね」
「世知辛い世になってしまったのお……」
ちびちびと杯を舐めるホムラ様。その盃を奪い取り祭壇に戻し、僕は改めてホムラ様に向き直った。
「ホムラ様の力が弱まっていた原因はもうそれでいいです。それで、それが原因かは分かりませんが――」
「我が妹分が倒れたのじゃろう?」
「……ご存知でしたか」
「彼奴のことは御主に一任しているとは言え、儂も守り神であると同時に土地神であるからな。街の異変は乳飲み子一人、小鬼の一匹に至るまで把握しておるわ」
赤い瞳を細めてふむと息を吐く。そして何を思ったか「御主、明日は学園を休め」と命じてきた。
「え、なんでですか」
「御主にちょいと手伝って欲しいことがある。祭事の一環だと思えばよい」
「でも、ビャクちゃんは」
「彼奴のことは今は置いておけ。心配せずとも、アレはただ眠っているだけじゃ……現実から目を背け続けているだけ、ともいうがのう」
「仰る意味が――」
「分からずともよい。物事には順序というものがある」
言うと、ホムラ様は説明を打ち切った。
「では明朝にここへ来い。ああ、出発前に湯浴みし、白い服で動きやすい格好で来るように。ワンポイント程度であれば問題ないが、柄物は避けよ」
「は、はあ……」
「では儂も明日に備えて眠ることにしよう。また、明日」
ふっとホムラ様の姿が消え、祭壇の鈴がちりんと小さく鳴った。どうやら本格的に寝入るつもりらしい。こうなると外界からの干渉はほぼできなくなる。
「……仕方ない。帰るか」
正直なところ、納得は出来ない。
人と神のどうしようもない差なのだろうが、基本的に神様というやつは悠長な性格をしていることが多い。ひとえに「助ける」「加護を授ける」と言っても、今目の前にある事情を直接解決するわけではなく、何らかの別の現象で結果的にプラスにさせるというか。
今僕は倒れちゃビャクちゃんを助けて欲しいのに、ホムラ様は僕に祭事を手伝って欲しいという。
別にホムラ様のことを信用していないわけではない。既にホムラ様の頭の中ではビャクちゃんを救うためのシナリオが描かれているのだろうし、そこに無駄があるとは思っていない。
それでも、やきもきしてしまうというのが人間の性という奴なのだ。
「……?」
あれ?
それなら、どうして僕とビャクちゃんは真っ当に会話が成立するのだろう?
* * *
「おはようございます」
翌朝。
日が出るか出ないかという時間帯に焔稲荷神社を訪れ、社の戸を開ける。するとそこには既に、いつもの巫女服から白い修練者のような衣装に着替えたホムラ様が、錫杖と笠を傍らに置いて待っていた。
「うむ、おはよう」
「……白い服って、そういうやつでしたか」
白い動きやすい服っていうから、ジャージで来ちゃったよ。
「いや、構わぬ。下手に着慣れぬ和装で来られて怪我されても困るでな」
「……僕は一体どこに連れて行かれるんですか」
「すぐそこ……とは、言えぬな。流石に」
ホムラ様は立ち上がり、社の外へと歩を進める。僕もそれに続き、念のために用意した白いスニーカーを履き直す。
「念のために確認するが、我が妹分は眠ったままか?」
「はい。……寝言で『お腹すいた』って言ったんで口元に稲荷寿司を持っていったら嚙り付きましたけど」
「……我が妹分ながら、どんだけ食い意地はっとるんじゃ」
「人のこと言えるんですか?」
「何か言うたかの?」
「何か聞こえましたか?」
惚けつつ、歩みを進めるホムラ様の後を追う。
笠をかぶり、錫杖片手に進むホムラ様は、人間体での長身も相まって(驚くなかれ、目測百九十センチオーバー)非常に様になっている。
「それで、目的地はどこですか?」
「うむ。まあざっくりと言うと、辰帰川の原水部じゃ」
「……………………」
北
辰帰川上流
西 月波学園 焔稲荷神社 僕ら→ 住宅街方面 東
辰帰川下流
南
「……………………」
「何じゃい、その目は!」
「……いえ、そう言えばホムラ様って基本社に引き篭ってるから……」
「儂を社会不適合者のように言うでない戯け! 意味があって西方に進んでおるだけじゃ!」
「ホムラ様、そっち東です。朝日が昇る方」
「……………………」
山裾から徐々に顔を出す日の光を見て、クルリと何事もなかったかのように踵を返すホムラ様。
もしや拗ねて社に戻ろうとしているのではと一瞬不安になったが、鳥居の前を素通りしていったため、それはそれで本当にどこへ向かうつもりなのか不安になって来た。
しばらくその後を黙って追いかけていると、不意にホムラ様が足を止めた。
そこは住宅街にありがちな、細い路地が交わった小さな交差点。その中央に立ち、ホムラ様はじっと足元を見つめていた。
「ホムラ様。西に進むならそのまま真っすぐです」
「……御主、いい加減にせぇよ」
不機嫌まるだしの表情で睨まれた。
ではここが最初の目的地ということなのだろうか。
「ユー坊。儂の足元をよく目を凝らして見よ」
「ん……?」
言われた通り、ホムラ様の足元を凝視する。
質のいい草鞋と白い足袋以外、特に何かあるわけではない気が――いや。
ほんの僅かだが、黒い靄のようが噴き出している気がする。
目を凝らせって、そっちか。
「…………………………………………うわっ!?」
瞳に霊力を集中させ、普段は意識しない見鬼の力を強める。
そして思わず悲鳴を上げ、即座に集中力を意識的に乱してソレから目を背けた。
ソレは、あまりにも黒かった。
この街で生きていると、黒いモノは自然と見慣れてくる。
なにせ妖の本質は闇。
それに魅かれてか、黒い力を持つ人間も少なくはない。
身近なところでは羽黒さんやもみじさんがそれに当たるだろうし、広義的には僕の父さんもきっと近い。
けれど、ホムラ様の足元から溢れ出ていた奔流の黒さは、彼らとは全くの異質だった。
例えるなら、彼らはあくまで自然体で黒いのだ。
水底だったり、夜空だったり、日陰だったり、その黒さは千差万別だが、そこに何かしらの意図があるわけではない。
しかしコレは明らかに違う。
憎悪とか。
悪意とか。
嫉妬とか。
殺意とか。
悲哀とか。
そういう負の感情を全てドロドロに煮込んで凝縮させ、腐敗させたような、悍ましい黒さ。
「……そう毛嫌いしてやるな。これでも我が妹分の一部なんじゃ」
「え!?」
「ああ、彼奴のことではないぞ」
言いながら、ホムラ様は地面に手を伸ばす。
何をするのかと思い見ていると、指先からするりと水に手を突っ込むように地面に吸い込まれていった。そしてグッと腕に力を入れ、ずるりとソレを引っ張り出した。
「うっ……」
「ここは街にいくつかある力の奔流の噴き出る場所よ。いわゆる龍穴というやつじゃな。儂の力が――正確には、封印の力が一瞬機能停止してしまったが故に、こういうモノが混じってしまったんじゃよ」
そういうと、ホムラ様は鷲掴みしたその黒い奔流をゴクリと口に含んで溜飲した。
「ほ、ホムラ様!?」
「げっふ……気にするでないユー坊。普段から常にやっていることじゃ」
「常にって……」
「何故この地に妖が集まってくるのか、そして皆、能天気に人に混じって過ごせているか、御主は考えたことはあるか?」
「……………………」
答えられずに俯く。するとホムラ様は獣の牙を見せて苦笑し、僕の頭の上に大きな手の平を乗せた。
「なに、幸いにして時間はたっぷりある。昔語りでもしながら、彼の地を目指しことにしよう。さあ、次は大峰温泉街の入り口の龍穴じゃ」
ホムラ様は目深に笠を被りなおし、歩み始めた。
「……ホムラ様、温泉街はそっちじゃないです」
「……………………」
これが終わったら、姉さん辺りに頼んでホムラ様を外に連れ出させよう。




