だい さん わ ~人魚~
新学期に移り変わるにあたり、今年も新入生が大量に入荷された。
何せ一つの学年に最大で十三ものクラスが存在する上、俺の通う私立月波学園には小中学校に加え、高校や大学まで揃っているのだ。
無駄とも言える広大な敷地をフルに活用しているとも言える。
ほとんどの児童生徒が他校に進学することなく進級するため「別に新たに新入生募集しなくてもいーじゃん」と俺なんかは考えるのだが、学園を運営している理事会は何を考えているのやら、募集人数に制限をかけてないため、毎年毎年面白いように新入生が入ってくる。
倍率は常に1.00倍。
その上そこそこ頭がいいため、遠くの地域からでも普通に受験しに来る。
まあカラクリをバラせば、異常な生徒数を誇るのだから、成績優秀者はザルですくえるほど混ざっているというだけなのだが。
だがその集まってくる新入生のほぼ全員が、在学生である俺達も含め、例外なく普通じゃないというのは、なかなかどうして面白い現象ではないだろうか。
そう。
この学園、いや、この月波市という町そのものが普通じゃないのだ。
端的に言うと、魑魅魍魎の溜まり場である。
妖怪あり幽霊あり陰陽師あり、たまに神様あり。
まあそういった類が不自然なほど自然に集まってできたのがこの町である。
だからこの時期に、どんな変で異端な連中が集まってこようが、ガキの頃からこの町に住んでいる俺なんかは全く気にしないのだが。
この年ばかりは、少しばかり違うようだった。
「留学生を紹介する」
クラス替えがないため、すっかり顔馴染みとなったクラスメートに、一人新メンバーが追加された。
「ハル・セイレン・ラインだ。卒業まで日本にいるらしいので、仲良くするよーに」
担任の風間が実に投げやりに紹介したその少女は、どんなに過小評価しても「美しい」以下の言葉が見つからなかった。
長く真っ直ぐに伸びた金髪然り、厚いレンズのメガネの奥に光る碧眼然り、どこをどう取っても非の打ち所がなかった。
外見をさほど気にしないこの不精男がそこまで評価するのだから間違いない。
「なあ狛野、すっげー美人だな」
「……オレに話を振るな」
俺は、隣でいつも通りに「一体何が不満なんだ」と問いただしたくなるようなしかめっ面を浮かべている悪友に声を掛ける。だがその外見通りに不機嫌な声が返ってくるだけだ。
こいつ、別に不機嫌というわけではないのにいつもこんな顔をしているのだ。おまけに図体がでかい筋肉質な男であるから、町のチンピラどもに意味もなく目を付けられているとか。
いや、それはさておき。
「ご紹介与ったハル・セイレン・ラインだ。これからよろしく頼む」
全く訛りのない流暢な日本語がその口から洩れた時は、さすがの狛野も驚いたように目つきの悪い目を瞬かせた。
それは俺も、クラスの連中も同じ。
すげえ日本語上手い。
下手をしたら日本人の俺達よりも日本語が上手いかもしれない。
だが驚いたのはそれだけではない。
その声のまた綺麗なこと!
クラスのほとんどがその外見と声の美しさに溜息を吐いた。
「……………………」
まあ、横でむっつりと顔をしかめているこいつ以外は。
それにしても。
「何の妖怪だろうな」
ハルの美しさは明らかに人外のものだ。もちろんそんなことは気心の知れた間柄ではないと聞けないが。
まあ妖怪同士のマナーというやつである。一昔前の「正体を見破られたら立ち去らねばならぬ」とかいうしきたりの名残とか。
「……オレが知るか」
相変わらず、狛野はそう興味なさげに呟くだけだった。
俺達がボソボソと新入りについてアレコレ噂している間にも(俺が一方的に話しているだけか?)風間は着々とホームルームを進めていた。
見れば、ハルは俺の左斜め前に用意されていた席に着いている。
それにしても髪、長っ! 椅子に座るともう少しで先が床に付きそうだ。
周囲の女子もその綺麗な金髪にチラチラと視線を送っている。
やっぱり女子としては気になるのだろうか。よく分からんけど。
「――っつーわけで、今年度の委員会決めを行なう。基本的には去年と同じ感じにしていきたいと思うが、何か不都合なことがあるやつはいるかー?」
おっと話を聞き逃すところだった。
ふむ、委員会か。
俺は去年、やる奴がいなかったからと言うことでジャンケンに負け、風紀委員会に半ば無理やりに所属させられていた。だが意外と大した仕事もなく、先輩達もいいヒトばかりで居心地はよかった。別段やめる理由もない。
「狛野は今年も体育委員か?」
「……ああ。鍋島先生に残れと命じられた」
ああ、あのちっちゃい猫又先生か。
あのヒト、怒ると怖いんだよな。中等部の担任にくせに、普通に高等部の授業にまで出しゃばって来るし。
「そりゃまた、ご愁傷様」
「……余計な気遣いだ」
全くこいつは、可愛げのないと言うか。
まあこんな厳つい男に可愛げなど端から存在しないか。
「誰もいないかー? いないなら去年と同じ役職に……ん? どうした香川」
教室の端の方で、狛野以上に大柄な男子が恐る恐ると手を挙げていた。
「あのー、俺、保健委員会をやめたいんですけど」
「ん? 何で」
「その、部活に専念したくて。一応、保健委員会の白沢先生の許可は取ってあるんですけど」
そう言えば香川は去年、その体格から「誰かぶっ倒れても保健室まで運んでいけるだろ」という安易な発想から保健委員にさせられたんだっけ。見た目によらず優しくのんびりとした性格の香川は断れなかったのだ。
ちなみにそんな香川はレスリング部所属。初めて部活を聞いたときは「そんな性格で大丈夫なのかよ」と思ったが、そもそも香川クラスの体格が全国にもほぼいないらしく、出場するだけでほぼ自動的に全国大会にいけるそうだ。
上手いことできてるな。
「そーか。それじゃあ新しく保健委員会を決める。去年委員会に入らなかったやつー。手ぇ挙げろー」
ちらほらと何人かが手を挙げる。これで全部ではあるまいが、元からやる気のないやつに委員会を任せるほど風間も石頭じゃないため、そこら辺は放置だ。
「それじゃー教室の後ろで勝手に決めてろ。こっちはこっちで話を進めてるから」
……無責任すぎやしないか? 去年一年間で風間という男のキャラクターは分かっているつもりだったが、それにしてもノリが……。
ブツブツと文句を言いながらも教室の後ろに集まる面々。もちろん俺は風紀委員会であるため、今回の話には関係ない。
「すまない」
と、綺麗な声が耳に届いた。
「うん?」
声のする方、俺の左斜め前の席を見る。
ハルと彼女の分厚いメガネのレンズ越しに視線がぶつかった。
「どうした?」
「質問があるのだが」
「何で俺に?」
「私の両隣と前後のヒトが後ろに行ってしまったため聞きそびれてしまったのだ」
ああ、なるほど。
見ればハルの前後左右が面白いように空席になっている。
「で、何だ?」
「その、『保健委員会』とは、一体何をするのだ?」
「……………………」
しばらく言葉を失ったが、「あ、そっか」と納得した。
ハルの故郷の学校にはそもそも委員会というものがないのかもしれない。あまりに流暢な日本語で訊かれたため、彼女が留学生であることを失念していた。
「えーっと、平たく言えば保健室の先生の手伝い、か? あと、授業中に具合が悪くなったり怪我をしたやつに付き添って保健室まで行ってやるとか。そんな感じか?」
「……何でオレに振る」
思わず狛野に確認を取る。
何でと言われても、俺だって保健委員会の仕事なんてそんなに詳しいわけじゃないし。
だがハルにはこの説明で十分だったらしく、「なんだ」と頷いた。
「つまり怪我や病気の生徒の治療を手伝えばいいのだな。私の専門分野ではないか」
「いや、別にそこまで本格的な作業は要求されな……何? 専門分野?」
どう言うことだ?
そう訊こうとしたが、ハルはすでに挙手しながら立ち上がっていた。
「風間先生」
「んー? どーした?」
「私にその『保健委員会』とやらをやらせてはくれまいか?」
教室の後ろで最終手段で保健委員会を選抜しようとしていた面々が、あからさまにホッとしたような表情を浮かべていた。
* * *
ハルの綺麗な金髪と声にクラス全体が馴染んだ頃。
「今週の土曜日の学年親睦会は、クラス対抗『ビリのクラスは罰ゲーム! チーム全員同時到着しないと罰ゲーム! タイムアップでもやっぱり罰ゲーム! ドキドキっ!? みんな仲良くオリエンテーリング! イン月波学園の裏山!』を開催することが決定したー」
「……………………」
とまあ、いつもの気だるーいノリで風間がホームルームでそんなことをのたまった。
いやいや風間サン。クラスのみんなが絶句もしくはドン引きしてますよー?
そして一呼吸置いてから、クラス中からブーイングが上がった。
「クラス対抗って、そんな行事初耳だぞっ!?」
「学校側が生徒に罰ゲームとか強制していいの!?」
「イン月波学園の裏山って! あそこどれだけ広いと思ってんスか!」
ブーブーと不平不満が飛び交う中、風間だけが平然としている。
今回ばかりはさすがの俺も教師陣の企みを理解しかねていた。
そもそもクラス対抗とか、罰ゲームとか、オリエンテーリングとかはまあいい。どうせクラス内外問わず親睦を深めようという一種の教育方針の下に企画されたのだろう。
だがそのオリエンテーリングのフィールドが問題なのだ。
月波学園は広い。
無駄に広い。
今回のオリエンテーリングの舞台となる裏山も、学園の敷地内にある。ただ単に校舎諸々の建物の後方に位置しているために裏山と呼ばれているだけなのだ。
だが「じゃあちょっと足を伸ばせばお手軽登山ができるね」などと生温いものではない。
この裏山、ほぼ手入れが行き届いていない。
足場は悪いし下草はぼうぼう。ツル植物がはびこっているため転ぶし視界も悪い。規定の山道を反れれば普通に遭難する。下手をすればイノシシだって出てくる。
さすがにクマが出たという話は聞かないが、とにかく生半可な気持ちで足を踏み入れる場所ではないのだ。登山部の連中なんかは「小さな樹海」とか呼んで忌み嫌っているし。
ここの生徒が揃って普通じゃないとは言え、今回の企画には誰もが不満を持っているようだ。狛野はいつも以上に険しい目つきで風間を睨んでいる(ような表情を)し、普段は大人しい香川でさえ顔をしかめていた。
さて俺もそろそろブーイングに参加しようと思ったとき。
「すまない」
もう聞きなれた綺麗な声がした。
「ん? どーした」
ハルは不思議そうな顔でこちらを見ていた。
「みんな何に不満なのだ?」
「ああ、お前は来たばかりだからまだ知らないんだろうが、この学校には裏山があるんだ」
「ふむ。今回のオリエンテーリングのフィールドだな」
「で、その裏山だが、恐ろしく手入れがされていない荒山でな。歩きにくいし、みんな登るのが嫌なんだよ。下手したら怪我するし」
「なるほど、それで」
ふむ、と頷くハル。
「つまり怪我人が出たら保健委員会である私の出番だな」
「いや、意気込んでいるところ悪いんだが、さすがに山で怪我したら保健委員会じゃなくって救護班に連絡する」
「む、そうなのか」
なぜ残念がる?
というか、こいつはなぜここまで怪我の治療をしたがる?
「あーあー、うるせぇな……」
さすがにブーイングにうんざりしてきたのか、風間が面倒臭そうに手元の資料の配布を始めた。
「ここにオリエンテーリングの詳細が書いてるから各自で読むよーに。チーム分けはお前らでクジなりアミダなりで勝手に決めろ。決まったら班長決めて俺のところにメンバーを報告しに来ること。以上、連絡することもないから解散。とっとと帰って宿題でもやってな」
そう早口で言い残し、そそくさと教室を後にする風間。
相変わらずと言おうか、何と言おうか、分が悪くなった時の撤退の手際のよさは腹立たしいほど無駄がない。
そして教室に残された俺達は呆然と風間が出て行った扉を見つめていた。
「……チームでも決めるか」
狛野の不機嫌そうな呟きが、静まり返った教室に響いた。
「だな……」
俺は頷き、配られた資料に目を通しながら黒板の前まで進み出た。
「チームは四人一組。男女比は自由。ってことだからアミダで決めるぞ。異論は?」
誰も反論は示さず。
俺はチョークを手に、四十本の縦線を黒板に書いた。そして下に『1』から『10』までの数字を四つずつランダムに並べていく。
「みんなテキトーに上に名前を書いてって。書き終わったら一人二本まで線を足していくこと。じゃ、始め」
俺の掛け声と共に、何人かが前に出て自分の名前と線を書き足していった。途中で「アミダとは何だ」と聞きに来たハルに説明してやりつつ、俺もまた自分の名前と線を書く。
そしてゴチャゴチャとしたアミダが完成し、俺は代表してその線を一本一本丁寧にたどっていく。
「へえ……」
俺は思わず呟いた。
『狛野 明良――四班
香川 相良――四班
藤原 経――四班
Hull――四班』
狛野と香川、そしてハルと同じ班になったようだ。
「……………………」
クラスの男子から妬ましい視線を感じた。が、気にしない。
ハル、人気だな。
* * *
で、土曜日。
登山用の動きやすい服に身を包んだ月波学園高等部二年生が体育館に全員集合した。
学年全体が集まることは稀であるため、俺はこのある種の圧巻な光景に圧倒されていた。
「すごい人数だな……」
隣で、明らかに着慣れていない新品のジャケットを着込んだハルが呟いた。今日は長い金髪が邪魔にならないように後ろでまとめている。
「俺たちの学年は全部で二十三クラス。一クラスあたり四十人くらいだから、全体で九百人以上はいるね」
香川がのんびりとそう伝える。
それにハルは驚いて目を見開いた。
「九百人! 私が通っていた中学校全体と同等の人数が一つの学年にいるのか!」
「まあ人数だけは無駄にいるしな。しかも小中高大と進学していくうちにさらに人数が増えるからな」
おかげで生徒会を始め、風紀委員会や図書委員会、保健委員会など全生徒のデータを管理するような委員会は苦労が絶えないのだ。
ビ~~~ガ~~~、と雑音が響いた。
見れば体育館前のステージに学年主任の市丸がマイク片手に登壇していた。
あいつ話長いんだよなー。
「えー、今日は天気にも恵まれー、絶好のー、オリエンテーリング日和とー、なりー」
風間以上に間延びした長々とした挨拶を聞きながら、俺はだんだん眠くなっていった。
あー、今なら立ったまま寝れるぜ。
「……であるからしてー……………………そしてー……」
あーマジ眠い……。
「……………………その上でー…………またー……………………でありー……」
まだ終わらねーのか……。
「……よってここにー…………さあー……………………っぱつしてくださいー」
長ぇ挨拶だな本当に……。
「…………わら」
まだ何か言ってる……。
「……ふじわら」
ん? 俺の名前?
「……藤原経!」
「んがっ!?」
ビックリした!
狛野が俺の耳元で馬鹿馬鹿しいほどの大声で叫んだ。
何だよ!?
「えっと、経―、みんな出発しちゃったよ?」
「え?」
香川ののんびりとした声にハッとし、辺りを見渡す。
おおっ! 広大な体育館に俺達四人しかいない!
「……早く行くぞ」
「お、おう」
まあでも、ゆっくり行っても別にいいんじゃね? むしろ遅れて行った方がゴチャゴチャとした人込みを掻き分けていく必要がなくて楽な気がする。
俺はゆっくりのんびりとオリエンテーリングを楽しむことにした。
別に遅れたって取って喰われるわけじゃあるまいし。
山に入り、俺は地図を開く。
ふむ……こっちの登山口からは第三ポイントを先に通過した方が早いか。
「じゃ、改めてしゅっぱーつ」
号令と共に、俺達はトットコトットコ歩き出す。
いやー、でもちゃんとした登山道を通れば結構気持ちいい登山だな。空気も美味いし新緑も綺麗だ。心浮かれるな。
だがこんな雄大な自然に囲まれながらも、なぜか他の三人は不審そうに俺を見ていた。
何だ?
「いいのか? そんなにのんびりとして」
「いいんじゃね?」
ハルが不思議そうにこっちを見ていた。
「いや……一番遅いクラスとタイムアップのチームには罰ゲームがあるのではないか?」
「……………………」
え?
あれ?
俺は慌てて地図の裏に書かれた注意事項を確認した。
そこにははっきりと……というか、そもそもの企画の名前が書かれていた。
『ビリのクラスは罰ゲーム! チーム全員同時到着しないと罰ゲーム! タイムアップでもやっぱり罰ゲーム! ドキドキっ!? みんな仲良くオリエンテーリング! イン月波学園の裏山!』
「……………………」
あ。
あああああぁぁぁぁぁっ!!
「しまった! みんな急げぇっ!」
「え、ちょっと! 経!?」
「……藤原、お前……」
いきなり駆け出した俺に、香川や狛野は何か言いたげだったが、無視してそのままダッシュした。
罰ゲーム! 忘れてた!
俺は慌てて走った。
「……おい待て!」
「経!」
狛野たちが必死で追いかけてくる。
「急がないと罰ゲームだぞ!?」
「そ、そうだけど! でも山道を走ったら危ないよ!」
「んなこと言ってる場合か!」
こうなったら悠長に正規の山道を歩いている場合じゃない!
「近道すっぞ!」
「え、近道っ!?」
「おう! 前に登山部の連中に聞いたことがあるんだ。イノシシしか通らないような獣道があるんだが、十分ヒトも通れるんだそうだ!」
「……素人が行くには危険じゃないか?」
「ばーか。香川がいるだろ。狛野という鼻が利くタイプの妖怪がいるんだぞ。そして何より俺がいる! 道になんか迷うかよ」
「……いや、オレが言いたいのはそういうことではなく――」
「おっ! 登山部の目印だ!」
狛野が何か言いかけたが、俺の目の前に登山部が目印に使っている蛍光色のリボンが巻かれた杭が現れた。
確かこの先に登山部や動物たちに踏みしめられた小道があるはずだ。
「よし行くぜ! レッツ・ショートカット!」
ここを通り抜ければ罰ゲームは免れる!
俺は意気揚々と整備のなされていない山道に足を踏み入れた。
* * *
「……で」
「……………………」
「……踏み入れて、いきなりこのザマか藤原」
「すみません……」
思わず俺は悪友に深々と頭を下げた。
いやもう、面白いくらいに道に迷った!
そりゃあ、ものの三分で!
はっはっは!
「笑えねえ……」
「……当たり前だ!」
バキンといい音を立てて狛野の拳が振り下ろされた。
「痛っ~……!」
ヤベエ……視界に星が散る……。
「ハルさん、地図、分かる?」
「いや……それどころかコンパスが無茶苦茶だな。一向に止まる気配がない」
「……この辺りはオレ達のような妖怪がはびこっているからな。異質な磁場を発する何かがあってもおかしくない」
「ではなぜコンパスが配布されたのだ?」
「ないよりはマシだからじゃない?」
「……ああ。どこかのバカのように近道なんて考える奴は想定していないしな」
「狛野……さっきから俺に厳しすぎないか……?」
「……もう一発いるか?」
「すみません、黙っときます……」
ただでさえ悪い目つきが、今日は五割増に凶悪化している。
心臓の悪い人なら一睨みで殺せそうだ……。
「でもとりあえず、歩いた方がよさそうだね。このままじゃ罰ゲームどころか本当に遭難しちゃう」
「遭難を防ぐのであればこのままじっとした方がいいのではないか?」
「……いや、まだそれほど深く道を外れてはいないだろう。戻ればすぐに登山道に出る」
「それもそうだな。幸い、足跡も残っているし」
「じゃ、戻ろうか」
「……………………」
すっかり主導権を三人に奪われてしまった。
いや、さすがの俺もこんな状況で出しゃばる気もないが。
それにしても、目印の先には近道の獣道があるんじゃなかったのか? 登山部め、さてはデタラメな情報を教えたな。
ったく、今度の服装頭髪検査の時は他の連中よりも厳しく検査してや――
「ぬぉっ!?」
ズルリと足元が滑る。
そしてそのまま、背中から地面に叩きつけられ――ヤブで隠れていた急勾配な坂を頭から転がり落ちていった。
「何っ!?」
「経!」
「……藤原!」
「ぬおおおおぉぉぉぉぉっーーーーー!?」
ずざああああああああああっ!
木々や石が背中をこすり付け、折れて鋭く尖っていた枝先が手や顔などむき出しになっていた肌を引っ掻いていく。
俺は痛みに耐えながらも指先と肘に力を入れ、何とかブレーキを掛けようとする。
だが落下速度はほとんど落ちず、さらに運の悪いことに目の前には坂に突き刺さるように生えている大木があった。
「ぅおっ!」
さすがに頭を打ったらまずい!
妖怪にだって限界はあるんだ!
「くっ!」
何とか頭の位置を上方にずらし、足から滑り落ちる姿勢をとる。
そしてそのまま、大木に激突する。
「っ~~~~~…………!」
足の先から頭のてっぺんまで、まるで電気でも通ったかのような衝撃が走る。
上手いこと足から大木にぶつかり、ブレーキ代わりとしたが、一瞬遅れて激痛が来た。
「ってーーーーーっ!!」
折れてはいないようだが、こりゃしばらく松葉杖だな。酷い捻挫だ。
あ、そうか。
あの目印は「ここから近道」じゃなくて「この先崖注意」の意味だったのか……!
失敗した!
「おーい、経―! 大丈夫―!?」
頭の上から香川の声が降ってくる。
「おー、何とか生きてるよー……」
声を出してみて分かったが、ビビッているのか情けない擦れ声しか出ない。
「……怪我はあるか!?」
「おう……いたるところ切り傷だらけだ。あと左足を挫いた。ちょっと動けねえわ」
「……! 待ってろ!」
狛野はそう叫ぶと、慎重に地面に手を付きながらゆっくりと降りてきた。
近くまで来ると、狛野は器用に大木を足場代わりに俺を背負った。
「悪い……」
「……気にするな」
気にするな、か。
さっきまであれだけ怒っていたのに、今はもうすっかり忘れてしまったかのようだ。
さすが、持つべきものは悪友だ。
「……掴まってろ」
「おう」
言うが早いや、狛野はヒト一人背負っているとは思えない足取りで、一気に坂を駆け上った。
人間業ではない、妖怪ならではの荒業だ。
「経! 大丈夫!?」
坂を上がったところで、香川が今にも泣き出しそうな顔をして出迎えた。
「いや、別に死んだわけじゃないんだし、そんなツラしなくても……」
「そ、そうだけどさ! 友達の心配をするのは当たり前でしょ!?」
「あぁ……そうだな」
あーあ、俺はどうやら友人には恵まれているらしい。
そしてもう一人のチームメンバーは……。
「何してんの?」
ゴソゴソと自分のリュックを漁っていた。
「怪我をしているのだろう? 待っていろ。まずは傷口を洗い流してそれから消毒、絆創膏だ」
「いや、そこまで大げさな怪我はしてないんだが」
怪我らしい怪我と言えば、左足の捻挫くらいか。
「何を言う!」
「はいっ!?」
ハルが急に声を荒げた。
「擦り傷切り傷と侮ってはいけない。そこから雑菌が浸入し、化膿したらどうするのだ!」
「わ、分かった分かった! 好きにしてくれ……」
「うむっ」
その気迫に負け、俺は素直に従う。
ハルは満足そうに頷き、リュックから飲料水とは明らかに別物の水の入ったペットボトルと携帯用救急箱を取り出した。
「……………………」
そんなもん持ち歩いてたのかお前はっ!
「ほら、傷口を見せて」
「お、おう……」
俺はすっかりボロボロになったジャケットの袖をまくり、傷が見えやすいように腕を伸ばした。こうやって見ると、ジャケットを突き破ったらしい小枝による切り傷がいたるところにあった。
「とりあえず応急処置だけしておく。細かい傷も消毒するが、大きい傷は絆創膏を貼っておく。後で救護班の白沢先生に診てもらってくれ」
「ああ、そうさせてもら、うっ!?」
いきなり、ハルが遠慮無しに傷口に水をぶっかけた。土や汚れを落とすためだとは分かるが、コレは、し、沁みるぅっ!
そしてお次は消毒液。コットン生地に染み込ませ、傷口一つ一つに塗っていく。コレもまた予想通りに沁みる。
それにしても、やけに手馴れてるなあ。女子は血を見慣れているとはよく言うけれど、ここまで怪我の処理が上手いものなのだろうか?
俺が疑問符を浮かべている間にも、ハルは流れ落ちてくる長い金髪をかき上げながら傷口の消毒を進めていった。
そして特に大きな傷に絆創膏を貼る段階になって、ハルは綺麗な顔に似合わないシワを眉間に寄せた。
「これは……どうしようか……」
ハルの視線の先には、ぱっくりと割れた手のひら。どうやら石か何かで切ってしまったらしく、洗って消毒しても血が止まる気配がなかった。
いたるところが傷だらけで、そんなに深い傷があるとは自分でも気付かなかった。
「まあ放っておいていいんじゃないか? 今すぐ救護班を呼んで処理してもらえば何とかなるだろ」
「それは、そうなのだが……」
ハルは困ったように俺を見つめた。
おお……本当に綺麗な碧眼だ……。
「痛い、だろう……?」
「ん、まあ……そりゃ……」
我慢できないほどじゃないが。
そう伝えると、ハルは首を横に振った。
「いや、そもそも痛みを我慢しなければならない理屈などないんだ」
「そういうもんかね……」
よく分からないが。
「待っててくれ」
そう断ると、ハルは再びリュックの中身を漁りだした。
そしてお目当てのものはすぐに見つかったらしく、ハルはすぐに顔を上げた。
「今回は特別だ」
言って彼女が取り出したのは、小さな安全ピンだった。
「それを、どうするんだ?」
「こうする」
安全ピンの針を取り出し、ハルはおもむろに――自分の指に突き刺した。
「っ……」
「お、おい! 何やってるんだ!?」
狛野も香川も、ハルの突然の行動に理解できず、ただ呆然と見つめていた。
あっという間に、色白でほっそりとしたハルの指先に、赤い小豆大のしずくが出来上がった。
「お前……」
「驚くなよ?」
ニッと、ハルはどこかイタズラっぽい笑みを浮かべた。
そしてそっと、その小さな血のしずくを俺の手のひらに落とした。
生暖かい液体が俺の手のひらを泳ぐ。
変化はすぐに起きた。
「あっ」
思わず間抜けな声を上げた。
だくだくと流れていた血が止まり、徐々に傷口が塞がっていったのだ。
そして一分も経たないうちに、手のひらには流れ出た血と真新しい傷跡だけが残った。
* * *
「人魚」
ゴールである山頂に急ごしらえで設置された休憩所で、白沢に捻挫した左足に湿布を貼ってもらいながらハルのことを話すと、そう何でもないかのようにそう口にした。
「人魚伝説は世界中にあるけどぉ、ハルちゃんの場合は西洋と東洋の双方の特徴を併せ持ってるのよねぇ。あの娘ぉ、美人だし声も綺麗でしょぉ? これは西洋の人魚の特徴だけどぉ、血肉に不老長寿の力があるのは日本の人魚の特徴よねぇ。まぁ、さすがにハルちゃんのお肉を食べたって長生きできるわけじゃないからねぇ。せいぜい傷の回復を促進するくらいかなぁ。だから経くぅん、ハルちゃん食べちゃダメよぉ?」
「いや、食わねえよ。クラスメートなんか……」
白沢のやけにのんびりとした色っぽい声に耳を傾けながら、内心納得していた。
そうか、人魚ね。
どうりでやけに声が綺麗だと思った。
「んもぅ」
「あ?」
なぜか白沢がつまらなそうに頬を膨らませていた。
「からかいがいがないなぁ。男の子が女の子を食べるって言ったらぁ……ねぇ?」
「ねぇ、じゃねえ! あんた本当に養護教諭かっ!?」
下ネタじゃねえか!
「うふふぅ。冗談よぅ。慌てちゃってぇ、かわいぃ」
「……………………」
なぜだ。なぜこのヒトと話すとこうも疲れるんだ。
一部男子の中には「幼さが残る顔つきと大人の色気漂う体つきのギャップ、そしてこの年下いびりの下ネタがいい!」なんて言うやつらもいるが、俺はとても共感できない。
「はい、出来たわよぅ」
俺が全く反応しなくなったからかちょっかいを出すのをやめ、白沢はさっさと傷の処置を終わらせた。
「ハルちゃんの応急処置が適切だったからぁ、私がやることは捻挫の手当てぐらいだったわぁ。後でもう一度お礼を言っておきなさいねぇ」
「ああ、そうするよ」
ここで無闇に抵抗するとさらにちょっかいが来るので、素直に頷いておく。
っと、そうだ。
「なあ、白沢」
「先生を付けなさいねぇ。なぁに?」
「ハルのやつ、なんだってこんなに怪我の治療とか上手いんだ? 保健委員会に入ったときもやけに張り切ってたし」
「あらぁ? あの娘ぉ、話してないのぉ?」
「何を?」
「うぅん……別に秘密にしてるわけじゃなさそうだしぃ、聞けばちゃんと教えてくれると思うわぁ。むしろ『聞かれなかったから話さなかった』みたいな感じなのかなぁ?」
「……? とりあえず、聞けば答えてくれるってことか?」
「多分ねぇ」
じゃぁね、と手を振る白沢を休憩所に残し、俺はハルを探しに出た。
登山用の杖を松葉杖代わりにその辺を歩くと、チームの面子が雑談をしているのが見えた。
「あ、経!」
香川がこっちに駆け寄ってきた。
「歩き回って大丈夫なの?」
「おう。もともと擦り傷がほとんどだったしな。杖を使えば何とか歩けるし」
「……折れていなくてよかったな」
「まあな」
そして狛野の後ろに付いて来たハルを見やる。
「ありがとな。おかげで傷の具合も大分マシになった」
「大したことはしてない。やるべきことをやっただけさ」
「そう言うと思った」
苦笑いを浮かべると、ハルは不思議そうに俺を見ていた。
「一つ聞いていいか?」
「何なりと」
「お前、どうしてこんなに傷の手当が上手いんだ? お前が人魚だってことを除いて」
「ん? ああ、何だ、そんなことか」
そしてハルは実に何でもなさそうな軽い口調でこう言った。
「私は医者になりたいのだ」
「医者?」
「ああ。……私の故郷では戦争難民が国境に集まっていてな。医療を必要としている人たちがたくさんいるんだ。私のいた学校ではボランティアとして国境近くで無報酬医療を提供している人たちの手伝いをしていた。と言っても大したことはできない。包帯を洗ったり、薬の入った箱を運んだり、な。小さな傷の応急処置は現地で学んだ。そしてふと思ったんだ。私自身が医学を学び、彼らの助けになれないものか、と。そこで私はこの地で、本格的に医学を学ぼうと思って故郷を出たのだ。幸いにもこの学園には私のような人外の者が多く集まっていたしな。来日に不安はなかった」
「……………………」
生き生きと自身の夢を語るハルに、俺はただただ呆然としていた。
他人の役に立ちたい。
自分に出来ることをしたい。
そんな強い想いが、彼女からひしひしと伝わってきた。
「すごいねハルさん!」
「そ、そうか……?」
「……ああ。考えるだけでなく行動に移せる奴は、そうそういないからな」
「おう。ハル、お前は強いな」
「そ、そんなに褒められると……照れるな……」
どこか大人びた口調の多かったハルから、ようやく年相応の柔らかな声が洩れた。
その声もまた、とても綺麗だった。
「あれ? そう言えば」
ふと気付いたようにハルが手を打った。
「私が人魚であると言うことはさっきこの二人に話したが……君には話していないのではないか?」
「あれ? そう言えばそうだね」
「ああ、さっき白沢に聞いたんだ」
「そうなのか……」
ハルはなにやら不満そうにそう頷く。
そしてすぐに俺の方を真っ直ぐに見つめ返した。
「なあ、私からも一つ聞いてもいいか?」
「どうぞ?」
「君……いや、君たちは何の妖怪なのだ?」
あれ?
言ってなかったっけか。
「私だけ正体が知られているのに、私は君たちの正体を知らない。これは不公平ではないか? 私たちは友達なのだから、お互いのことを知っているべきだと思うのだ」
「……………………」
友達、か。
「まあ確かに、それもそうだな」
友達。
うん、いい響きだ。
「じゃあここで改めて自己紹介しようよ!」
「……そうだな」
「おう。いいな!」
香川も狛野も俺も、笑って頷く。
「俺は香川相良。手洗鬼だよ」
「……狛野明良。人狼だ」
「そして俺が鬼一口の藤原経」
「人魚のハル・セイレン・ラインだ」
これからもよろしく、と。
俺たちは誰からとも言わずに手を重ねた。
なかなかどうして、面白い一年になりそうだ。
余談だが、今回のオリエンテーリングで唯一、近道のズルをしようとした俺たちのチームが罰ゲームとなった。
結果としてオリエンテーリング後の夕食会の皿洗いをハルと狛野と香川が三人が手伝わされ、俺は怪我を理由に免除となったのだが、顔中に落書きをされた上にクラスの連中全員にくすぐられるという拷問を受けるはめになった。
さらに皿洗いから戻ってきた狛野に遠慮なく関節技をきめられ、同時に香川に足の裏をくすぐられた。しかし、ハルが痛がりながら悶絶する俺を見て楽しそうに笑っていたので、二人を怒るに怒れなかったのだが。
まあそれは別のお話ということで。