だい ごじゅうよん わ ~牛鬼~
瀧宮梓がこの一週間ほど、どのように過ごしてきたのか、僕は知らない。学園にも来ず、家にも帰らず、兼山道場だか風林家だかに通い詰めて修行していたらしいというのは風の噂で聞いていたが、具体的な修行内容まではさっぱりだ。
走り込みしてたのか素振りしてたのか試合してたのか、見当もつかない。僕自身、ちょっとばかり梓のことを気に掛ける余裕がなくなる事態に陥っていたということもあるが、基本あいつの特訓は秘匿されていた。
ただ一つ言えることは。
その一週間の特訓を経て行われた試し斬りの儀において。
梓と白羽ちゃん、そして羽黒さんを含む瀧宮三兄妹が、ようやく、本当の意味で、和解したということだ。
* * *
九月十三日……よりにもよって、金曜日。
その夜、僕は久しぶりに月波市に帰ってきた父さんに連れられて、瀧宮屋敷を訪れていた。
「お疲れ様です、穂波様。他の皆様もお揃いです」
「悪ィ悪ィ、遅れちまった」
「本当に遅いよ」
「うるせェ。こちとらさっきまで普通に仕事だったんだ、そう簡単に帰れねェんだよ」
力の使い過ぎにより、純正の日本人のくせに肌がやけに色黒に変色しまった父さんに非難の視線を送るが、当の本人はどこ吹く風でズンズンと我が物顔で瀧宮家の廊下を歩いていく。
いや、まあ、父さんの言っていることは分かる。
本家「瀧宮」や、分家最大勢力を誇る「大峰」などと違い、僕ら「穂波」は基本的に陰陽師としての任は解かれている。固有の術式そのものはちゃんと継承されているものの、陰陽師としての稼ぎは極端に少ない。そのため、普段父さんは街の外で普通に公務員として仕事をし、僕たちを養ってくれている。
「ンじゃ、行くか」
瀧宮家の使用人が一本の巨大な柱の前で待機している。父さんは使用人に軽く手を振って挨拶した後、柱に手を当てた。
「うわ……」
思わず声がこぼれる。
父さんの手が柱の中にヌルリと吸い込まれていった。
「行くぞ」
「う、うん」
前を進む父さんに続いて、僕も柱の中へと入っていった。
空間制御の術式に長けている瀧宮家――その技術を結集して作られた異空間・魂蔵。普段は本家筋など一部の人間にのみ解放された修練場となっているが、元々は八百刀流全体の行く末を決める会合や重要な儀式の場として利用するために作られたらしい。空間を形成・制御している術式の複雑さは、普段の粗野な瀧宮家からは想像もできないほど繊細なものだ。
もっとも、僕らが生まれた辺りの年に行われた儀式が失敗し、迷い込んだ大妖怪の瘴気によって古来より受け継がれてきた魂蔵そのものは使い物にならなくなり、今あるのはその代用として現当主の紅鉄さんによって作られた物らしいが。
「でもよゥ、柱に入って異空間に行くって言うとよ」
「何」
「どっかの魔法使――」
「おっとその話はそこまでだ」
父さんが緊張感の欠片も見せずに軽口を叩こうとしたので慌てて止める。
何でこのおっさんこんな余裕なんだ。
「逆になんでお前はそんなに緊張してンだ」
「だって……」
僕はどこまでも続くような下り階段を見る。
先は全然見えない――けれど、この先に待っているのは、僕もよく知る人物だ。
「なんだって、梓と白羽ちゃんが戦わないといけないんだ」
「本人たちが望ンだ結果だろう。それにあの二人のことは、俺よりお前の方がよく知ってンだろ。あの二人の気質なら、どのみち何らかの形で衝突してたろうよ」
まあ、そうなんだけど……。
あの二人が今回行う儀式は瀧宮家……否、八百刀流の暗部の一つ、試し斬りの儀。
人格や思想に何らかの問題がある当主候補を公然と排除するために設えられた儀式だと、父さんからはざっくりと説明されたが、この場合の「排除」が除籍とか絶縁とか、そういう生温い物ではないことが分からないほど、僕も鈍くない。
つまりは、姉妹間での殺し合い。
流石にこのご時世、本気で殺し合いをさせるとは思ってはいないが、それでも儀式で用いる得物を真剣以下に差し替えることはできなかったらしい。今回二人が使うのは、各々が持つ妖刀だ。
梓は当然、あの夜僕の目の前で完成させた太刀を使うのだろう。儀式の真意は不穏分子の排除だが、建前としては当主候補が新しく作った太刀の斬れ味を試すということになっているらしいから、それは間違いない。
瀧宮の守り神ミオ様の霊髪をバッサリ斬り落として作られた稀代の妖刀。それに対するは、瀧宮史上最強とも名高かったあの白羽ちゃんと、彼女自身の魂が封印されている妖刀【白羽】だ。
正直、こんな物騒な対戦カード、見たくもなかった。
「もっと穏便に……っていうのは、無理か」
父さんも言っていたけど、確かにザ・瀧宮みたいなあの姉妹が衝突するのは免れなかっただろう。片や戦闘狂、片や瀧宮の申し子。こんなもん予測可能回避不可能という奴だ。
「……?」
そこでふと気付く。
白羽ちゃんをあの形、このタイミングで復活させたのは、他でもない実兄・羽黒さんだ。
羽黒さんは妹二人が試し斬りの儀で殺し合うという最悪の事態に自暴自棄になって居酒屋「迷子」で飲んだくれていたわけだけど、あの二人を誰よりも知っているはずのあの人なら、こんなことになるってことは予測で来ていたはずだ。なのにあの体たらくを僕と朝倉に見せつけてしまったと言うことは、この事態、本当に予想外だったのか?
悪意も作為も何もなく、ただただ白羽ちゃんのためだけに尽くした結果がこれだとすれば、流石に、これは――報われない。
「ついたぞ」
前を行く父さんの声で思考を打ち切る。
先程までの急で細い階段が嘘のような広間に出た。大きな神楽場のような板張りの間を、さらに仄暗い堀と廊下で取り囲んだ広い空間。昔一度だけ、梓に連れられてこっそり入って二人揃って怒られたことがあるが、あの頃の微かな記憶と寸分違わない異空間がそこにあった。
「おゥ、もう皆揃ってんな」
神楽場を囲む廊下に置かれた長椅子の間を縫うように進み、既に腰かけていた瀧宮家の使用人や遠縁の人たちの挨拶を手で制しながら一番奥の席を目指す。
そこには錚々たる面子が揃っていた。
「兼山」現当主・「兼山道場」師範兼山美郷。
「大峰」現当主・旅籠「風林家」若旦那大峰昌太郎。
「隈武」現当主・料亭「隈武屋」社長隈武潤平――と、次期当主、隈武宇井。
そして彼らを脇に控え、中央に鎮座している「瀧宮」現当主にして八百刀流宗家、瀧宮紅鉄。
……僕、これからアレに混じるのか。
「おら、ビビってんじゃねェよ。それぞれ単体とならたまに会うだろ」
「それでも揃うととんでもない威圧感だよ……」
普段はニコニコ笑って大人しそうな宇井さんのお父さんまで、今だけは怖く見えるわ。
とは言え、僕も次期当主としてこんなところで足踏みしてらんない。意を決して、父さんの背中を追い、隈武家の隣の空いている席に腰かけた。
「どうも、丈さん」
「ユーユーやっほー」
「……………………」
僕の緊張をよそに、隈武父娘は暢気に僕らに声をかけてきた。隈武当主は兎も角、宇井さんはどんな心臓してんだ。
「ど、ども」
「よゥ、潤平。その後腰の具合はどうよ?」
「お陰様で……と言いたいところですけど、実はまだちょっと」
「もう、だからお祖母ちゃんに代わってもらえって言ったじゃない」
「いやぁ、流石に今日はそうはいかないよ」
言って、隈武当主は腰の辺りをさすりながら力なく笑った。
……まあ、そうだよね。
今回の事態、分家当主だけでなく、僕や宇井さんみたいな次期まで招集されるような重要な案件なわけだし。
「紅鉄の旦那、もうそろそろ始めてもいいんじゃないですか?」
と、父さんが遅れてきた分際で馴れ馴れしく宗家に声をかける。それに対し、宗家は特に変わった様子もなく、「否」と首を横に振った。
「まだ一人、来ておらぬ」
「へ? 俺たちで最後じゃねェのか?」
と、ちょうどその時。
ゴツゴツと、乱暴に階段を下りてくる足音が魂蔵全体に響いた。
その場にいた全員が話すのを止め、入ってきた通路の方に視線を向ける。
「……………………」
全身黒ずくめの長身の男が入ってきた。
「……羽黒さん」
最後に姿を見たのはあの夜だが、もみじさんのケアのおかげか見た目だけは整えられている様子だった。しかし足取りは相変わらずおぼつかなく、周囲の反応からして酒臭さは取り切れなかったらしい。元々の嫌悪感もあるのだろうが、ザッと人がスペースを空けた。
「……………………」
羽黒さんは胡乱な目で辺りを見渡し、その場――最下座にどっかと乱暴に腰を下ろした。
「……アレが、あの羽黒か?」
「見る影もねぇな」
「……………………」
父さんが嘆き、昌太郎さんが鼻で笑った。美郷さんに至っては、その痛々しい姿を見てられなくなったのか無言で視線を逸らしてしまった。
宗家が立ち上がり、神楽場へと続く通路を進み、中央に立つ。
「これより、試し斬りの儀を行う」
宗家の静かな、しかし魂蔵全体に響く厳粛な声に、皆が一様に頭を垂れた。そして全員の姿勢が正されるのを待ち、再び声を張る。
「瀧宮梓、並びに瀧宮白羽。入れ」
視線が再び、通路へと集まる。
仄暗い通路から、見慣れた二人の姿が浮かび上がる。
「……………………」
思わず息を呑む。
向かって右側。袴に身を包み、短くなった亜麻色の髪を後ろで一括りにして真っ直ぐな姿勢で入ってくる梓。下座に座っていた羽黒さんを一瞥し、その後は睨みつけるように神楽場へと視線を送っていた。
対する左側には、今回の梓の対戦相手である白羽ちゃん。こちらは豪胆にもいつもの白いワンピース姿だった。緊張感無く辺りを見渡し、僕を見つけてヒラヒラと手を振ってきた。真面目にやれ。
「あの温度差……実姉を挑発してるのかね」
「うーん、これ以上キレさせて何になるんだろうね」
「いや、ただの素だと思う」
隈武父娘の的外れな見解に冷静に突っ込む。一度死ぬ前からあの子はあんなんだった。
「双方、前へ」
宗家の呼びかけに、二人は羽黒さんの横を通り過ぎて揃って神楽場の中央へと立つ。
梓の斬り裂くような殺気が離れたこちらにまで伝わってくる。
「瀧宮梓」
「はい」
宗家の呼びかけに、梓が答える。
「改めて、試し斬りの儀での対戦相手の指名を行う。名を挙げよ」
「はい」
梓が鋭い眼光で対する白羽ちゃんを睨む。それを白羽ちゃんは愉しそうに、愛くるしい笑みを浮かべたまま見つめ返している。
「私は」
梓が厳かに口を開く。
殺気と言霊のこもった声が魂蔵に響き渡る。
「太刀打ちの儀の対戦相手に――」
その時、視界の隅で昌太郎さんが「かはっ」と我慢できずに笑い出したのが見えた。不思議に思って視線をそちらに移すも、すぐに僕は神楽場の上を注視することとなった。
「――瀧宮羽黒を指名します」
「……は?」
白羽ちゃんの表情が崩れた。
* * *
「どういうつもりだ!」
初めに声を上げたのは、空気の読めない年寄り連中だった。
「前々より話を通していた対戦者が目前にいるというのに、とうの昔に絶縁された男を指名するとはどういう了見か!」
「いささか不敬が過ぎるぞ小娘! それとも実妹を目の前に、臆したか!」
「下がれ! その場から今すぐ下がれ!」
やいのやいのと爺共が吼え捲し立てる。
いや、確かに梓も何考えてんのか分からんけど、あんたらここがどういう場所か分かってんのか? あんたらの態度が酷すぎて梓への苦言が引っ込んだわ。
「見苦しいわねー。ショウちゃんどうす……ショウちゃん?」
「え?」
美郷さんの声が聞こえ、そちらを見る。
先程まで美郷さんの横でふんぞり返って座っていたはずの昌太郎さんの姿がなくなっていた。
「よう、爺共」
ドン! と大きな音を立て、年寄り連中が騒いでいる神楽場の一角に着地した。え……今の一瞬の間に跳んでいったのか。
「お、大峰の……!」
「下がれ分家!」
「下がんのは手前らだ。今この場がどういう場か分かってんのか? いつまでも騒ぐようなら粛清対象にしてやってもいいんだぜ?」
昌太郎さんが半妖特有の人とは違う殺気を振り撒いて爺共を牽制する。一瞬だけ、昌太郎さんに追従する犬神の女性の姿が見えた気がしたけど、ひょっとして今憑けてるのか。
その状態で粛清対象に入れるとか、シャレにならんわ。
「こちとら手前らが酒の場で試し斬りについてうっかり口を滑らせたことは既に掴んでんだ。これ以上居心地を悪くしたくねぇなら大人しく見てろ」
「ぐ、ぬぬ……!」
プライドだけは一丁前な爺共が顔を真っ赤にし、渋々と言った風に席に戻る。それを見届けた後、昌太郎さんは宗家の頭上を飛び越えて元いた席に戻ってきた。
「どっちが不敬よ」
「さーな。少なくとも、宗家本人はそんなことでグチグチ言わねえよ」
昌太郎さんは笑いながら宗家に視線を送る。
見ると、宗家は先程と変わらず仁王立ちのまま梓と白羽ちゃんを見据えていた。流石宗家、と言うか、あのレベルの器量を持ち合わせていないとトップなんてやってられないのだろう。
「それで、梓よ」
騒ぎが落ち着いたと見て、宗家が梓に確認をとる。
「真意を述べよ。十日前の会談で、確かにお前は白羽と対すると言った。しかし何故このタイミングで羽黒を指名した」
「話すよりも、先に見て頂いた方が早いかと」
そう言うと、梓は静かに体内に力を巡らせ、言霊を紡いだ。
「――抜刀、【澪標】、【陽炎】」
梓の言霊に呼応するように、二振りの太刀が顕現し、神楽場に突き刺さった。
「ありゃァ……」
父さんが眉間にしわを寄せ、一方の太刀を睨む。
梓が具現化させた二振りの太刀のうち、一方は見覚えがある。切っ先から鍔、柄に至るまで文句の付けどころが一切ない美しい太刀――ミオ様の霊髪に宿る神気を取り込んで完成させた、妖刀【澪標】。それそのものは問題ない(瀧宮家的には史上類を見ない大問題だが)が、もう一方は、僕も無関係とはいかなかった。
「ありゃァ、どう見てもホムラ様の力が込められてンな……」
父さんが唸るようにそう声を上げた。
梓が太刀を二本用意していたとは初耳だったが、それよりももう一方の太刀から溢れ出る力の方が問題だった。
重厚で幅のある鉈のような直刀からは、収まり切らなかった金色の妖力が狐火のように溢れ出している。
「かはっ」
と、昌太郎さんが笑った。それを聞き逃さず、父さんが詰め寄る。
「おい昌太郎。テメェ、何か知ってンのか」
「まーな。お嬢に焔御前の髪斬って来いって言ったのはオレだし?」
「なっ……!」
悪びれもせず、昌太郎さんはそう宣った。
「そうおっかない顔すんなよ、オヤッさん。お嬢が修行つけてくれって頼み込んで来て何事かと思ったら、相手はあの白羽だっていうじゃねえか。あんな化物みたいな人間相手に戦うのにその辺の妖刀じゃ話にならんだろうと思って、ヒントをくれてやったんじゃねーか」
「いけしゃあしゃあと……人ンちの神様に何しやがる」
「けど結局、実際に髪斬るどころか力その物を毟り取った張本人はお嬢だし、何より焔御前も同意の上だったぞ。本人たちが納得してんのに、親がしゃしゃり出るのはおかしくねーか?」
「くそ、何考えてンだホムラ様は……」
悪態も吐くも、これ以上騒ぎ立てるのは得策ではないと見たのか父さんはしかめっ面のまま席に戻った。
対して、僕は合点がいった。
数日前、ホムラ様の力が目に見えて衰えたのはこういうことだったか。あの封印も――
「私はこの通り、妖刀を二振り用意しました。『試し斬りの儀』とは、『太刀打ちの儀』にて鍛造した妖刀の斬れ味を試す儀式――対戦者を二人指名することは、何ら不思議ではないはずです」
梓の声に思考を打ち切る。
その理屈は通っている……のか? そもそもこの儀式の前例が少な過ぎて、何が正しのかよく分からんし、これは宗家の判断次第か。
未だ周囲が動揺する中、宗家は変わらず微動だにせず、静かに梓の意見に耳を傾けていた。
「ふむ。あい、分かった」
宗家が鷹揚に頷く。
「瀧宮梓の言を容認する」
ざわっと年寄り連中が騒がしくなったが、宗家がそれを抑え込むように続けて口を開く。
「それでは白羽よ」
「……はい」
「お前は一度下がっていろ。最初の儀が終了次第、改めて指名させよう」
「お父様がそう仰るのであれば」
白羽ちゃんは恭しく一礼し、僕たちが座っている席の方へと小走りで駆け寄ってきた。
「丈おじ様、潤平おじ様、昌太郎兄様、美郷姉様、宇井姉様、お久しゅうございますわ。ユー兄様も、またお会いできて光栄ですわ!」
先程までの梓相手に喧嘩を売るような態度などどこかに飛んでいったかのように、白羽ちゃんは愛らしく笑いながら父さんたちに再会の挨拶を述べ、さらにそこが定位置であるかのように僕の膝の上にちょこんと乗ってきた。
……あまりに自然な動作だったので拒否できなかった。
「ほれほれ白羽ちゃん、そこはダメだよん」
「やん、宇井姉様のイケずー」
横から宇井さんが腕を伸ばし、白羽ちゃん脇に手を通して持ち上げ、自分の膝の上に乗せた。
「……相変わらず軽いわねー、あんた」
「そうですの? これでもしっかりご飯は食べていますのよ? この体、一応成長するらしいので数年後に期待ですわね」
「うーん、まあ、それもあるけど……」
たぶん宇井さんが言いたかったのは態度の方だろう。
「瀧宮羽黒、前へ」
宗家の声が魂蔵に再び響く。
皆の視線が自然と、下座にいる羽黒さんの方へと集まった。
「……………………」
当の羽黒さんはと言えば――宗家の声に肩をびくっと震わせ、恐怖で表情を青褪めさせていた。
「……あんなクロちゃん、いつぶり?」
「お嬢が生まれる前の日ぶり」
美郷さんと昌太郎さんの会話だけが、耳に届いた。
「前へ」
震えるだけで動こうとしない羽黒さんに、宗家は無情にも再び宣告する。
しかし、羽黒さんは立ち上がろうともしない。
「《瀧宮羽黒、前へ出よ》」
三度の宣告。
言霊を込めたその命令に、羽黒さんはのろのろと立ち上がり、覚束ない足取りで神楽場の上へと昇って来た。
「改めて、試し斬りの儀を行う」
二人が対峙するのを確認し、宗家が声を張る。
「しかしその前にいくつか制限を課す。本来この儀はお互いの命を賭け、真剣での斬り合いを行うものである。しかし現代における風潮に反する内容であること、また儀そのものが過去二例しか存在しないことから、真剣を用いることは変わらぬが、勝敗は有効打を先に一撃加えた者の勝利とすることとした。他、立会人を務める私の判断により勝負ありと判断した場合は、即座に言霊により強制的に中断させる」
周囲を見渡して異論が出ないことを確認し、宗家は咳払いをする。
「それでは、各々のタイミングで立ち会え。……くれぐれも、この父の前で殺し合うなど見せてくれるなよ」
最後にそう呟き、宗家は苦い表情で一歩下がった。
……そりゃ、そうだよな。
一族の長としての立ち居振る舞いが板についてるから忘れてたけど、宗家も辛いんだよな。
「……梓」
羽黒さんはそう呟き、震える足が限界を迎えたかのように崩れ、その場にへたり込んだ。
「……俺は……」
「兄貴」
梓のよく通る声が響いた。
「兄貴さ、あたしに言いたいことがあるんなら、聞くよ?」
「……………………」
羽黒さんがビクリと体を震わせ、恐る恐ると言った風に梓を見上げた。
口を開き、何かを言いかけてまた俯く。それを何度か繰り返したが、顔を上げるたびに梓はひたすら自分の言葉を待ち続けるだけだと察し、深い溜息を吐いた。
「俺は……こんなことになるなんて、想像もしてなかった……」
「……………………」
「俺はただ、お前から白羽を奪ってしまった責任を、取ろうと……目の前に可能性があったから、全部、試して」
「……………………」
「それで、ようやく白羽が目を覚まして……俺も嬉しくなって、家に連れ帰ったら、あんなことに……」
「……………………」
「白羽は……前から想定の斜め上を行く奴だったけど……まさか、今更当主になるなんて言い出すなんて……俺は、お前が跡を継ぐもんだと思ってたから、そんなこと考えもしてなくて……」
「……………………」
「それで、だから……」
羽黒さんが力なく立ち上がる。
「すまなかった……お前の気が済むなら、今この場で俺を――」
「そういうこと聞きたいって言ってんじゃねーよ!」
梓の喝が響き渡った。
耳を劈くような大声に、羽黒さんが拍子抜けした表情を浮かべた。
「なに殊勝になってんだよ、いつものデカい態度はどうしたクソ兄貴! 似合わねーっつーの、あぁん!?」
「な……」
梓がずかずかと羽黒さんに詰め寄る。
「アンタのせいで死んだと思ってた白羽ちゃんを復活させたのはアンタ自身だろ! その責任とるために頑張ったんだろ、自分で言っただろ! だったらなんでそんなウジウジしてんだクソ兄貴! 自分の責任を誰にも言われずに自分で後始末したんだ、なんでそれで他所から文句言われる筋合いがある! もっと胸を張れよこのクズ!!」
「あ、梓?」
「あと白羽ちゃんの言動なんて誰が予想できるかボケ! アンタ何年あの子の兄貴やってんのよ、こんくらいで落ち込んでんじゃねーよ! むしろこっちとしては公然とあんたら兄妹と喧嘩できる絶好のチャンスをもらったと思って願ったり叶ったりだわ!」
「喧嘩って、お前」
「んなことより!」
梓が右腕を水平に延ばし、手元に力を込める。すると先程床に突き立てた二本の太刀のうち、鉈のような直刀【陽炎】が飛来し柄が手のひらに収まった。
「あたしが知らん間に月波市からいなくなって、六年間もどこほっつき歩いてたか知らんけど、それについて言うことはないかって聞いてんの!」
「は……?」
「『急にいなくなってごめんなさい』と『ただいま』だろうが! アンタが帰ってきてから一回も聞いてないわ、ふざけてんのかテメェ!」
「……………………」
がなるだけがなって、梓はじっと羽黒さんを見つめる。
しばしの沈黙が流れた後、羽黒さんが恐る恐る口を開いた。
「それだけ……か?」
「それだけよ」
鼻息を荒くし、梓が頷く。
「白羽を復活させたことで生じたこの騒動は……」
「こんなもん迷惑のうちに入るか」
「そもそも白羽を殺したのは――」
「厳密には死んでなかったんだし、ちゃんと復活させたんだから不問。むしろ誇れ」
「……………………」
羽黒さんが呆気にとられた顔をし、まじまじと梓を見つめる。
「梓」
「ん」
羽黒さんの表情が徐々に崩れ、泣いているのか笑っているのか、よく分からない顔になっていった。
「……急にいなくなって、悪かった」
「許す」
「それと――ただいま」
「お帰り」
「随分見ないうちに、立派になったな。見た目だけじゃなく、内面でも……」
「成長したのはそれだけじゃないかもよ」
「はは……違いない」
梓が【陽炎】を構え、臨戦態勢をとる。それを見て羽黒さんは静かに――そして軽薄に笑い、三歩下がって梓と距離を取った。
手元から力の奔流が目視できるほど溢れ出す。
「梓」
「何よ」
「俺はここ数日、酒浸りで碌に飯も食わず、ほとんど眠れず、吹けば倒れそうなくらい全身ボロボロのズタズタだ」
「つまり?」
「つまり――お前と喧嘩するにはちょうどいい、ベストコンディションだ」
「はっ」
羽黒さんの見え透いた挑発を梓は鼻で笑った。
「――抜刀、【鬼誅】」
羽黒さんの手元に凄まじい妖気を発する抜き身の太刀が顕現する。
「来いよ梓。六年ぶりに俺が直々に稽古つけてやる」
「嘗めてっと怪我すんぞ、兄ちゃん!」
* * *
「牛鬼」
父さんが羽黒さんが手にする太刀を見据えながら呟いた。
「各地に伝承が残り、鬼の頭に大蜘蛛の体だったり、牛の頭に鬼の体だったり形状も様々で、それぞれ微妙に手段は異なるが、典型的な人を喰らい、災厄を振り撒くタイプの妖怪だ。ごく一部の例外を除いて、暴れ出したら手が付けられン大妖怪の一つだな」
そこで一度言葉を区切り、父さんは昔を思い出すように視線を上へ向けた。
「今から十六年前……お前や梓が生まれた年だ。羽黒もまだ十歳の頃だ。あいつは史上最年少で太刀打ちの儀に臨ンだ」
「十歳……」
十歳って言ったら、僕なんて泣き虫で梓にいじめられてた記憶しかないや。
「そン時に使われた魂蔵はこンな狭い空間じゃなく、瀧宮の先祖代々受け継がれてきていた巨大な異空間でな、羽黒はそこで儀式を行ったンだが――ちょっとしたミスで、魂蔵に牛鬼が解き放たれちまったんだ」
「え」
瀧宮家に伝わっていた古い魂蔵が大妖怪の瘴気で使い物にならなくなって放棄されたと言うことは聞いていたけれど、その原因になった儀式って……。
「魂蔵に解き放たれた牛鬼は暴れ出してな。その場に居合わせた卯月さんと、生まれたばかり梓に襲い掛かったンだ」
「……………………」
「まあ結論から言って、そこでピンピンしてるじゃじゃ馬娘を見りゃわかるだろうが、二人は助かった。……羽黒が儀式のために手にしていた【無銘】で牛鬼を封印したンだ。が、その後がまずかった」
「え? 封印が不完全だったとか?」
「いや、封印は完璧だった。牛鬼の魂は完全に刃に封印されていた。……羽黒は、その牛鬼の魂が込められた刃で、牛鬼の体を滅多斬りにしたンだ」
「それは……」
例え魂が封印されていても、さぞ牛鬼の恨みは深いだろう。
「結果、牛鬼の体から溢れ出た瘴気で魂蔵は侵され制御が効かなくなり、やむなく放棄された。そして魂蔵を放棄せざるを得なくなった引鉄である羽黒は、次期当主の座を剥奪されることとなった」
「え、ちょっと待って」
「丈おじ様、それ本当なの?」
僕と宇井さんが父さんに詰め寄る。昌太郎さんと美郷さん、それに潤平さんは知っていたのかむっつりと顔を顰め、宇井さんの膝の上の白羽ちゃんだけはニコニコと愛らしい笑みを浮かべたまま、興味なさげに神楽場の方を見ていた。
「それだけのことで、黒にーさんは当主になれなくなったの?」
「……当時の年寄り連中が騒いだンだよ。長く受け継いできた魂蔵を汚しおって、ってな。元々無理を押し切っての儀式の敢行だったし、あン時は家の中に敵が大勢湧いた。それにそン時見せた羽黒の残虐性も問題視された。『瀧宮』らしいっちゃァらしい動向なンだが、魂蔵を失ってヒステリックになってた爺共には気に食わなかったらしい」
「そんな……」
「まあその後、羽黒はあっさり次期当主の座から引き下がり、術者としてはそン時完成させたあの妖刀一本で歴代最強クラスにまでのし上がり、梓を次期当主候補として挙げるかどうかまた爺共が揉めてる間に生まれた白羽をせっせこせっせこ育て上げたのが、あいつのスゲー所というか、異常なところだ」
「そんなことより」
と、白羽ちゃんが口を開いた。
「そろそろ始まるみたいですわ。……梓お姉様がどれほど力をつけられたのか、じっくり、観察させていただきますわ。瀧宮史上類を見ない、壮絶な兄妹喧嘩……あは♪ 楽しみですわ♪」
白羽ちゃんは、あくまで愛らしくそう笑った。