だい よんじゅうはち わ ~妖刀~
傾斜がやけに急な階段を慎重に下って行く。
明かりは壁に取り付けられた楼台だけで、足元が暗く気を付けないと踏み外してしまいそう。
しかしあたしにしたら、もう通り慣れた階段。普段着慣れない袴と足袋を身に着けていてもバランスを崩すことはない。
階段を下りきると、さっきまでの細い通路が嘘だったかのように、大きな神楽場のような板張りの間を、さらに仄暗い堀と廊下で取り囲んだ広い空間に出る。
あたしが生まれる前までは、どことなく古代中国の練兵場に似た雰囲気の場所だったらしい。しかしその昔、迷い込んだ大妖怪・牛鬼を封殺した際に瘴気で満たされて使い物にならなくなったらしく、今のような空間に作り直したのだそうだ。
妖怪殺しの専門家・八百刀流陰陽師一派。
その中でも、占星術も呪詛も二の次とし、滅殺に特化してきた本家『瀧宮』において、殺し以外の有能な力は何かと聞かれたら、この空間制御の術式に長けると答えよう。
ここは普通の広間ではない。
あたしの生家である瀧宮屋敷の地下に存在する、儀式や修練、封印その他諸々の用途で利用される亜空間――あたしたちは、『魂蔵』と呼んでいる。
その魂蔵の中央に、あたしの親父――『瀧宮』二十三代目当主、瀧宮紅鉄が一人、腰を下ろしてあたしを待っていた。
「来たか、梓」
「遅れて申し訳ありません、父様。始業式の後片付けで下校時間が伸びまして」
「構わん」
鷹揚に頷く親父。
たったそれだけの動作に、あたしは身を斬りつけられるような空気を感じる。
齢五十を過ぎてなお、当代最強クラスの陰陽師の圧倒的なオーラは衰えていない。
この研ぎ澄まされた大太刀のような男を凌ぎえるとされる陰陽師は、絶対的な黒と畏怖されていた頃の兄貴と――最高の白と讃えられた、我が賢妹しかいない。
「では『継刃の儀』の続きを行う。座れ」
「はい」
広い魂蔵の中、あたしは親父と膝がぶつかる位置で膝を折る。
間近で向き合うと、その剃刀のような鋭い眼光に思わず目を逸らしたくなる。
しかし、この程度で怯んでしまうほど、あたしは弱くない。
「お願いします」
「うむ」
鷹揚に頷く親父。
そして親父が差し出す。あたしもそれを無言で握り返し、自身の体内――生まれながらにしてそこに存在する魂蔵から、言霊を以って太刀を一本残らず喚び出す。
「――抜刀、四百八十一本」
床一面に突き刺さる、柄も鍔も鞘も存在しない、文字通り剥き身の刃。
魂蔵が空っぽになり、何とも言えない虚無感に襲われる。
その開いた空間に、今度は親父の手の平を通して熱く、鋭い力が次々と流れ込んでくる。
「くっ……」
「拒絶するな。受け入れろ」
「分かって……ます、よっと……!」
力の奔流を魂蔵に受け入れ、その本質を見極める。
力の本質。
すなわち『瀧宮』の力そのものである、太刀の銘を。
「……【春愁】……十二代目当主の甥、瀧宮四之助の作品。封じているのは烏天狗」
「うむ、次」
「……【望楼】……八代目当主の姉、瀧宮ちせの作品。封じているのは屏風覗き」
「次」
「……【花冠】……九代目当主の弟、瀧宮悟助の作品。封じているのは大百足」
「次」
あたしの中に流れ込んでくる力の真名を見極め、魂蔵に収める。それをさらに言霊を紡ぎ、一振りの太刀として顕現させる。
少しずつではあるが確実に、辺りに突き刺さっている太刀の数が増えていく。
それをひたすらに繰り返す。
どんどん時間の感覚がなくなっていく。
一体どれほどこの儀式を繰り返したことか。
しかし本当なら、今この場でこうして儀式を行っているべきなのは、あたしではなかったはずだ。
何で今、あたしが――
「……………………」
「どうした、梓」
今あたし、何を考えていた?
「……いえ、何でもありません」
「そうか」
あの子が死に、あいつが出て行ってから六年。
あたしは二十四代目『瀧宮』当主を襲名するため、血の滲む努力をしてきたんだ。
名に色を背負っていなくても、そんな物は関係ない。
* * *
「妖刀」
自室のテーブルに突っ伏しながら、あたしは事情を知らない真奈ちゃんに説明する。
「文字通り、妖気を帯びた刀の事。抜けば人を斬りたくなるとか不思議な力を宿しているとか、創作の世界では色々あるけど、やっぱり、抜けば玉散る氷の刃でお馴染みの八犬伝の村雨とか、江戸時代の禁忌・村正が有名よね」
「え、じゃあ梓ちゃんが普段振り回してる刀って……」
「そ。妖刀だよーん」
あー……でもやっぱダッルいわ。
継刃の儀の後の倦怠感はどうしても慣れないわ。
「別に人を斬りたくなるとか刀自体に特殊な力があるってわけじゃないんだけどね。太刀を基点に術式発動させれるけど。ただ、『瀧宮』の太刀は妖怪から作ってるから、妖気帯てんのよ」
「え……?」
「まあざっくり説明すると、『瀧宮』の当主を襲名するのに必要な儀式……っていうか、試練がいくつかあるのよ。その中に『研磨の儀』と『太刀打ちの儀』、それに『魂抜きの儀』ってのがあってね。その儀式で作るのが、あたしら『瀧宮』の術者が持つ妖刀なのよ」
まず研磨の儀で、己の力を太刀の形に練り上げ、具現化させる。
これが最初の関門とも言える難易度で、研磨の儀を成功させることができてようやく一人前の『瀧宮』系の術者と呼ばれるほどで……実はあたしはまだだったりする。
ちなみにこの時点では、太刀には柄も鍔も存在する。
「んで、研磨の次が太刀打ちね。自分の力を練り上げて作った太刀に妖怪を封じ込める……って言えば聞こえはいいけど、要は妖怪ぶっ殺して刀に妖怪の力を吸わせるのね」
「物騒な話になって来たね……」
「あたしらは生まれてこの方、ずっと物騒よ」
とは言え、市民である妖怪に手をかけるわけではない。
あの世から無理やり顕現してきたような、ヒトとしての意志のない妖怪――魔物とか妖魔とか呼ばれる存在をあの世に送り返すついでに力を封印してしまおうという考えだ。
そして最後が魂抜きの儀なんだけど……。
「これに関しちゃ、あたしも必要なのかどうかさっぱり分かんないのよねー。妖怪を封じた太刀の柄と鍔を取り外すんだけど、歴代当主曰く、太刀に封じた妖怪の魂だけを解放する儀式らしいんだわ」
「魂だけ……?」
「うん。妖怪の力は刃の部分に残しておいて、抜け殻になった魂はあの世に還すって言う。まあ妖怪を太刀に封じ続けるのが難しいって言うのは理屈としては分かるから、魂だけお帰り頂くってのはいいのよ。だけどなーんで柄と鍔を外したら魂が抜けるのかが意味不明」
「でも、その儀式は開祖さんが始めたんだよね……? だったら、ちゃんとした意味があるんじゃないかな」
「そうかもしれないけど、子孫にちゃんと意味合いが伝わってないのよねー」
どうせ過去のどっかで伝言ゲーム失敗したんでしょうがね。
基本このテの伝承って全部口伝だから仕方がないと言えば仕方がないけど。
「まあそれはともかく、そういう諸々の儀式をこなして、ようやく当主として認められるわけよ」
「へー……すごいね」
「いやー、あたしなんてまだまだ。継刃の儀も途中だし」
「そうなの……?」
「うん。継刃の儀はさっきの三つの儀式で作り上げた太刀を当主が次期当主に、もしくは一介の術者が引退する時に当代に受け渡す儀式なんだけど、これが一番しんどくてねー」
「しんどい……?」
「そう。力の塊として体内に封印してある太刀を手の平を通して相手に受け渡して、受け手はその力の真価を見極めて自分の物にする必要があるのよ」
「見極めるって、具体的には……?」
「太刀の銘と、封じてある元になった妖怪の力を見抜いて自分の支配下に置くって感じ。つまり他人から貰った太刀は、次の持ち主を主人としてなかなか認めてくれないって言うか……あー……何て言えば分かりやすいかな」
「えっと、上手く言えないけど……他所の家で飼っていた犬を引き取って、自分の家で飼いならす……みたいな感じかな」
「お、それ分かりやすい。でもその犬は相当獰猛で元の飼い主以外にはちょっとやそっとじゃ心開かない番犬なんだけどね。その番犬に首輪をつけるのが継刃の儀ね」
「それは……大変そうだね」
「そうなのよー。しかも歴代当主だけじゃなくって、瀧宮一族の陰陽師が作った太刀は全部で千本以上あるからね。それ一本残らず引き継がなきゃいけないから超だるい」
「そっかー。それでそんなに疲れてるんだね……」
「まーねー」
ぐでーっとテーブルに上半身を預けたまま苦笑する。
残暑厳しいこの季節、冷たい天板が気持ちいい……。
「でもゴメンね真奈ちゃん。せっかくどっか遊びに行こうって話だったのに」
「ううん、大丈夫。……梓ちゃんち、ミオ様の加護があるからか、外よりだいぶ涼しくて居心地がいいんだ」
「寮って冷房設備なかったっけ?」
「談話室ならクーラーがあるけど、ちょっと古くてパワーが足りなくて……それに、皆考えることは同じだから、全員集合しちゃってむしろ暑いというか……」
「クスクスっ……なるほど」
笑って、テーブルにくっつけた頬を別の位置に移す。
ああ、冷くて気持ちいいわー……。
「というか……本当にだるそうだね……? 大丈夫?」
「あー、まあ、なんというか……脂身たっぷりの豚肉をやけ食いした感じって言えば伝わるかな……」
「……うわー……」
「なんせ体の中に封印してる太刀がいきなり五十本以上増えたんだしね。クッソ重いわ」
「五十本……!?」
灰色の瞳を真ん丸にする真奈ちゃん。
そんなに驚くことかね。
「あれ……そう言えば今まで気にしてなかったけど……梓ちゃんって全部で何本持ってるの?」
「お! よくぞ聞いてくれました!」がばっと起き上がり、笑顔で答える「今回の継刃の儀を経まして、なんと五百三十七本となりました! これは八百刀流が保有する太刀の約三分の一の数となります!」
「えっと……つまり?」
「つまり! あとちょっとで当主襲名の条件の一つを達成となります!」
「え! そうなの……!?」
「そう! 当主襲名にもいくつかクリアしないといけない項目があるんだけど、まず研磨・太刀打ち・魂抜きの儀を成功させて自分の太刀を持つことね。これはまあ、そのうち何とかなるでしょ。んで残りが当主から全太刀の半数以上を継刃の儀を経て受け継ぐこと」
現存する『瀧宮』の太刀は全部で千六百三十八本。その半数というと八百十九本だから、当主襲名に必要な数は残り二百八十二本。ここ最近は月一で五十本前後の太刀の継承を成功させてるから、早ければあと半年後には目標達成だ。
最初の継刃の儀を受けた時は十歳の頃だけど、その時は三本の太刀を魂蔵に受け入れるだけで三時間を有し、さらに消耗しきって朝まで起き上がることもできなかった。
それすらも、今となっては懐かしい限りね。
「それじゃあ当主になったら、今みたいに遊べなくなっちゃうのかな……?」
「いやいやまさか!」
なんだかしょぼんと眉根を下げる真奈ちゃんに、あたしは慌てて否定する。
「例え在学中に当主襲名しても、少なくとも高等部卒業までは親父が引き続き当主代行として『瀧宮』の仕事はすると思うし、あたしが望めば大学卒業までは普通に暮らせると思うわ」
「あ……そうなんだ」
「それに、当主になったからってこれまでの人間関係がなくなるわけじゃないし! あたしらはずっと親友だぜ!」
「あ……ありがとう、梓ちゃん」
ほっこりと笑う真奈ちゃん。
その笑顔になんだかあたしも癒されて、ニッと歯を見せて笑い返した。
と、その時トントンと部屋の扉がなった。「はーい」と返事をして顔を扉の方へ向けるとガチャッと開き、割烹着を着た母様がお盆に飲み物を載せて部屋に入って来た。
「あ、ごめん母様。ありがとー」
「あ……お邪魔してます」
「……………………」
真奈ちゃんがワタワタと頭を下げると、母様はにっこりと微笑んでテーブルにオレンジジュースの紙パックとコップを二つ置く。そして真奈ちゃんに向かって小さく頭を下げるとすぐに退室していった。
「はー……」
「どしたん」
「いや……何度見ても梓ちゃんのお母さんって美人さんだなーって」
「あー」
身内だともう見慣れちゃって特にそう思ったことはないけど、確かに歳相応の外見ではあるが美人に分類される方だろう。
「そう言えばうちの親父も一目惚れだったらしいって、ミオ様が言ってたっけ」
「へー……そうなんだ」
「まあただ見た目に惹かれたってわけじゃないんだろうけど」
若い頃は我流でありながらその道を究めた天才陰陽師として、業界で高名轟かせていたという噂だ。
親父と結婚する前に妖怪に声を奪われて陰陽師としては引退したらしいけれど、『瀧宮』に嫁入りするには十分な力量だったのだろう。旧家にしては珍しい恋愛結婚だったそうだが、年寄共の反対はなかったとか。
「……………………」
「ん?」
オレンジジュースを飲んでいると、ジッとこちらを見つめている真奈ちゃんに気付いた。そんな熱心に見つめちゃって……あらやだなんか照れる。
「ううん……何て言うか、こうして見ると梓ちゃんって鼻立ちとか口元はお母さん譲りなんだね」
「あー、そうかも。目元は親父に似てるってよく言われるけど」
でもあんなに目付き悪いかね、あたし。
「ってことは……羽黒さんもお母さんにだよね」
「……何であいつの名前が出てくんのよ」
唐突に毛嫌いするクソ兄貴の名前が出てきて、あたしは顔を顰める。それを見て苦笑しつつも、真奈ちゃんは話を続ける。
「こういうと梓ちゃんは嫌がるかもしれないけど……梓ちゃんと羽黒さん、本当にそっくりだもん」
「う゛……」
「男女の顔立ちの差は勿論あるから、全く同じじゃないけど……目鼻立ちとか口元の顔の造りの印象はそっくりだし……髪型も左右違うだけで同じだし」
「うぐぅ……」
「髪色が全然違うから、その辺の印象が正反対だけど……うん、客観的に見るとお顔そっくり」
「ぬぬぬぬぬ……」
小さい頃、親戚や使用人含む身の回りの人たちが口を揃えて「そっくり」「瓜二つ」と言われていただけに、否定できない。
「そんな悔しそうな顔しなくても……」
笑う真奈ちゃんが、ふと思い出したようにもう一つ訊ねる。
「そう言えば梓ちゃん、なんで羽黒さんと似たような髪型してるの……?」
「え?」
「いや……その、そんなに嫌がってるなら、髪型変えてもおかしくないんじゃないかなーって思って。前にユッくんから聞いたけど、梓ちゃん、小さいころからずっとその右目隠しの髪型続けてるって」
「あー……まあ、一応切っ掛けはあるんだけど……」
そう言えば、小さい頃からずっとこの髪型だったから、もう慣れちゃったけど。
もうあの子はいないんだ。
あの子の我儘に付き合って、この髪型を続ける必要はないのか……。
「この前の合宿でウッちゃんが髪切ってくれるって言ってたけど、どうせならバッサリ短くしちゃおうかな」
「えー……もったいないなー。結構長くなったのに」
「言っても、こう長いと動きにくくって。結ってもいいんだけど、短いと手入れの手間が省けて楽なのよね」
「とても年頃の女の子のセリフではないと思うな……」
「失敬な」
ぶーっと口を尖らせて抗議の意を示すと、何やらツボに入ったらしく、真奈ちゃんは細かく肩を震わせて静かに笑った。
* * *
夕刻。
そろそろ寮に帰るという真奈ちゃんを見送りがてら、この時間、学園の近くのパン屋が菓子パン全品半額セールをやっているのを思い出し、夕飯前だが急激にパン屋のドーナツが食べたくなって近くまで一緒に行くことになった。
「マスタードーナツのもちもちしっとりなドーナツも好きだけど、パン屋のパサパサな甘ったるいドーナツも好きなんだよねー。牛乳と一緒に食べると超美味い」
「梓ちゃん、結構ジャンクな食べ物好きだよね……」
「少ない量で大量のカロリーを摂取できるという点においては、案外スポーツマン向けだと思うんだけど、違うかな?」
「それは、摂取したカロリーをきっちり使い果たしてる梓ちゃんだけに言えることだと思うの……」
そう言うものだろうか。
まあ食べたら食べた分だけ筋肉に変わるあたしにとって、何を食べようが変わらないって言うのはあるかもしれない。
などと駄弁っていると、目的地であるパン屋に到着。
入店してすぐ――菓子パンのコーナーで品定めをする白い後ろ姿に、ちょっとだけドキッとした。
「……あれ、ビャクちゃん?」
「だね。ってことは……」
その隣にいる、なーんかパッとしない男は……。
「警告、警告。事案発生、事案発生。年端もいかない少女にミニスカ並みに丈の短い着物を着せ、狐少女のコスプレを強要し連れ回す男子高校生を発見。おまわりさんコイツです」
「登場いきなり物騒だな!?」
振り向きざまに鋭いツッコミを入れてきたのは、案の定、ユーちゃんだった。
「あ、アズサとマナー。やほー」
「やほー、ビャクちゃん」
「こんにちは……もうそろそろこんばんは、かな?」
「ねえ僕のツッコミはスルー? スルーすんの?」
「うっさいわね、知らない人が見たらマジの事案なんだからしゃーないでしょ」
「辛辣過ぎない!?」
見た目どんなに高く見積もっても中学生くらいにしか見えない白髪の美少女が、ケモミミケモシッポつけた状態でそこそこガッチリした体躯の野郎と一緒に歩いてたらそく通報モンだとおもうんだ。
ま、この街に他人を外見で判断する奴はほとんどいないんだけど。
実際、このケモミミ美少女は少なくとも千年の年月は生きている(はず)の老齢な妖狐なのだから。
「二人も菓子パン買いに来たの? ここのすっごい美味しいよねー!」
「うん、わたしも好きだなー……特にチョココロネが美味しい」
「あ、いいよねあれ! 私はアンパンかなー」
まあ、精神年齢は外見相応年端もいかない少女なのだが。真奈ちゃんと好きな菓子パンについて語り合ってるその光景は和むわー。
「この子がコレの恋人とは、世も末ね」
「おう、ビャクちゃんに文句があるなら僕が聞くぞ」
「あんたに文句があるんだからあんたが聞きなさい」
ビャクちゃんと真奈ちゃんがキャッキャウフフしてるのを眺めながら、ユーちゃんの脇腹を小突き続ける。くすぐったがりでもないユーちゃんは微動だにしない。
すぐに飽きて手を引っ込めると、ユーちゃんが不意にこっちに向き直った。
「何よ」
「いや……そう言えば思い出したんだけど」
「ん?」
「そろそろ……あの日だな」
「セクハラかな?」
「は?」
「いや、理解してないならいいんだけど」
はて、今日は九月三日。
そろそろということは、近々何かの日らしいが……何か失念してるのだろうか?
見つめ返すと、ユーちゃんは気まずそうに続ける。
「まあ六年も経つとさ……正確に何日だったか曖昧になっちゃうもんだけど、うん、確か、明日……だよね」
「……………………」
六年前。
明日……九月四日……。
ああ、そういうこと……。
「……曖昧になんか、なるわけないじゃん……」
「……………………」
俯き、吐き捨てる。
明日があの日だってことは、ちゃんと覚えてる。
ただ、無意識のうちに目を逸らしていたということは、否定できない節があるが。
ここ最近、妙にあの子の事を思い出すと思ったら、もうそんな時期か……。
チャララン♪
ポケットに突っ込んであったケータイが震え、同時に着信音が鳴った。
「ん……?」
着信画面を開いて、あたしは眉を顰める。
From:母様
件名:緊急
本文:今どこにいますか? 即急に帰宅されたし
「……どうした?」
「いや……なんか母様から緊急メール。早く帰って来いってさ」
我が家関連でメールを寄越すのはミオ様か母様くらい。もしこれがミオ様からだったら、話半分に「はいはいなんですか」って感じでゆっくり帰るところだけど、今回は母様からの緊急招集。
「何かあったのかな……」
「すぐに戻らないとまずいんじゃね?」
「そうね。真奈ちゃーん」
ビャクちゃんと菓子パン談議に花を咲かせながら品定めをしていた真奈ちゃんに呼びかける。
「どうしたの……?」
「ごめん、すぐ帰らないといけなくなったわ」
「あ、そうなの……?」
「うん、じゃあまた、学校で。ビャクちゃんもばいばーい」
「はーい、ばいばいアズサー」
ぶんぶんと手を振ってくるビャクちゃんに少しホッコリした後、パン屋を出てすぐに全力で走り出した。
* * *
屋敷に戻るとその張りつめた空気に、走ってジンワリとかいた汗が冷えるのを感じた。
なんというか、屋敷全体が殺気立ってる感じだった。
よほどの緊急事態なのだろう。いつもなら帰宅するとすぐ鬱陶しいくらいに使用人たちが駆け寄ってくるのに、今日は庭先に人影すらいない。
「……って、こんなこと、前にもあったな……」
あれは確か初夏の頃。
月波市を騒がせた黒炎事件の解決のきっかけとなった、我が実兄・瀧宮羽黒の帰宅。
あの日もクソ兄貴に対する猜疑心と、同行していたもみじ先輩への警戒心から、屋敷全体が一触即発の空気になっていた。
「またぞろあのクソ兄貴が問題持ち込んだんじゃないでしょうね……」
だとしたら今度こそぶっ飛ばす。
夏休みの時もそうだったけど、兄貴はあたしらを無償の戦力と考えている節がある。
自分のゴタゴタくらい自分で解決しろ、そうでなくとも巻き込むな。
何だかんだ、なあなあの感じでつるむことが増えて来たけれど、そろそろはっきりと言ってやらねばならん。
「ま、とりあえずは目下の問題を――」
廊下を通り、こういう時の集会に使っている広間の襖を開ける。
すると既に親戚一同使用人含めた瀧宮家の関係者が揃っており、上座には厳格な表情の親父と、何やら狼狽している母様が座っていた。
そしてその前に胡坐をかく人影に、あたしは頭痛がした。
「マジで兄貴関連かよ……」
まだまだ残暑も厳しいというのに、相変わらずの黒シャツに黒パンツという暑苦しい黒ずくめファッション。後ろ姿だけでも例の軽薄そうな笑みを浮かべた顔が想像できてしまって胃が痛む。
「おいこらクソ兄貴。あんたまた厄介事を持ち込んだんじゃないでしょうね!」
親戚と使用人の間を縫ってズカズカと兄貴に近付く。
「……ふん」
「あ?」
どこからともなく、鼻で笑う声が聞こえた。
個人は特定できなかったが、年寄連中が集まってる方だった気がする。
「……………………」
感じ悪いな。
ま、兄貴が反感勝ってるのは周知の事実だからどうでもいいけど、こういう場であからさまな侮蔑の態度をとるかね、いい歳してくだらない。
「おいクソ兄貴、今日は何の用よ」
「……梓」
兄貴がぎこちない動きでこちらに振り向く。
あたしは、その表情に息を呑んだ。
「……なに、どうしたのよ」
「……………………」
いつもの神経を逆撫でるよう軽薄な笑みでなく。
たまに見せる、全盛期を彷彿とさせる真剣な表情でもなく。
兄貴は。
ただただ、どうしたらいいか分からないという。
そんな感じの顔をしていた。
それが、不覚にも、狼狽している母様の表情と瓜二つだと思ってしまった。
「え……何?」
「梓。とりあえず座れ」
親父が低い声で、唸るようにあたしに促した。
事態を呑み込めないまま、あたしは親父の隣の座布団に膝をうった。
「……え……?」
その時になって、ようやく気付いた。
胡坐をかく兄貴の膝の上に腰を下ろし、傲岸不遜にも兄貴を座椅子代わりにして投げ出した足を組む一人の少女。
兄貴のでかい背中に隠れていて今まで気付かなかったが。
その少女は。
その――白い少女は。
「お久しゅうございます、ですわ――梓お姉さま」
純白の髪を指先で弄りながら、全てを見下すようなクソが付くほど生意気な表情で笑っていた。
でも。
でも、そんなはずはない。
だって、彼女は……!
「梓お姉さま。突然ですがお願いがありますわ」
彼女は笑う。
あたしを指さして笑う。
「その次期当主が座る座布団――この白羽に返していただけません?」
少女のクソ生意気な物言いが、あたしの思い出の中の彼女と被る。
その一挙一動が――彼女こそ我が賢妹・瀧宮白羽そのものだと、無暗矢鱈に主張していた。